校舎のどこにいても人の目に触れる。

 人目を避けて走った末、たどり着いたのは屋上だった。

 誰もいない。誰のひそひそ話も聞こえない。

 ただ、風の音と、遠くでサッカーをしている男子の掛け声がこえてくるだけだ。

 冷たい視線の代わりに、暖かい日差しが私の身体を包み込む。

 なんとなく運動場を見下ろした。運動場の隅の方には等間隔で木が植えられている。

 木陰に入って何組かのカップルたちがいちゃいちゃしていた。スマホの画面一つに身を寄せ合ったり、ハグしたり、キスしたりしている子たちもいた。

 見ているこっちが恥ずかしくなる。きっと運動場からは陰になっているから、誰にも見られていないと思っているんだろう。残念ながら屋上からは丸見えだけど。

 みんな呑気だな。私は今大変なことになっているのに。

 こうやって無数の幸せを眼前にすると、自分が世界で一番惨めな存在なんじゃないかと思えてくる。

 気落ちしながら、ベンチのある方に移動しようと体を六十度くらいひねったとき、渡り廊下を仲良く歩いている岡本君と琴乃の姿を見つけた。

 もう、チーム分けは終わったのだろうか。

 二人は私が見ていることに気づいていない。琴乃が甘えるように岡本君の腕に手をかける。

 岡本君も嫌がる様子なく自然なしぐさで受け入れていた。収まり欠けていた涙が、また頬を伝う。

 最近泣きすぎだ。涙を拭うだけで目がひりひりする。

 他の人には幸福を分かち合う相手がいるのに、私は独りぼっち。

 こういうとき神様を責めれば心が楽になるのかもしれないけど、残念ながら私にはそうすることが許されない。

 全部自分が悪い。私が素直に琴乃の手紙を渡しておけばよかった。

 そうすれば愛情は得られなくても友情は失わずに済んだ。手紙を渡そうが渡すまいが、琴乃と岡本君はくっつく運命にあったんだ。

 しっかり者で優れた容姿を持つ学校のプリンスと、誰もが憧れる才色兼備の美少女。誰が見たってお似合いだ。

 少なくとも私なんかに割って入る余地はない。

 座ったベンチが冷たい。
 
 表面のざらざらが肌に刺さる。

 雨風にさらされているうちに滑らかだった塗装が剥ぎ取られてしまったようだ。

「君も大変だね」

 ベンチに話しかけた。

 ざらざらした表面を撫でていると、急に親近感がわいてきて話しかけずにはいられなかった。

 それから、放心状態で座っていた。

 何も考えたくなかった。

 とりとめのない静かな時間が私には必要だった。

 もう昼休みが終わるだろうか。教室に戻る気はない。

 五時間目なんてどうでもいい。何もかもがどうでもいい。ずっとここに居たい。

 弁当箱を開けた。

 ごみ箱から救出されたおかずは黒ずんでいて食欲が失せてしまう。

 細かい塵や埃がついていて、おまけに髪の毛まで絡みついている。

「これは食べられないな」

 諦めて弁当箱を膝に置いたとき、卵焼きが目に入った。

 これだけはちゃんと黄色だし、表面がつるつるしてるからゴミを丁寧に取れば食べられるんじゃないか。

 そうまでしなければいけないほどお腹はすいてなかったが、どうしても卵焼きだけは食べたいと思った。

 箸で埃をつまんでは捨てる。細かい塵はふーふーと息で吹き飛ばす。

 だいぶきれいになった。まだ少し汚れてるけど、少しの汚れくらい私にお似合いだ。

「……いただきます」

 口元に持っていく。

 その時……。

「食べんなっ!」

 割り込んできた手が、私の口に入ろうとする卵焼きを正確に箸からはじき出す。私はあっけにとられた。

「岡本君……⁉さっきまで琴乃と一緒にいたんじゃ」

「ああ……、あんな大勢の前で言われたんじゃ……断れないからな」

 岡本君の息切れはなかなか治らない。相当急いできてくれたんだろう。

「そうじゃなくて、ついさっきそこで琴乃と歩いてるの見たよ」

「見てたのか。くじ引きが終わったから……一緒に……教室戻ってた。教室戻ったらお前が見当たらなくて……周りの奴らに大変なことがあったって聞いたから……来た」

 岡本君は床にへたりこむと、無造作に右手を投げ出した。

 手には購買で売っていると思われるパンが握られていた。

 購買まで寄っておいてあの速さでここまで来れるのはかなり早いんじゃないだろうか。

 岡本君はやっぱり陸上の才能に長けてるんだな。

「俺、すごい頑張ったんだからな。……タイム計ってなかったのが残念だ。……最高記録出せてたかも」

「岡本君、前に人を思いやるの苦手って言ってたけど、そんなことないよ。優しい人だよ」

 岡本君の優しさが身に染みて嬉しかった。でも、私にはこのパンを受取る権利があるんだろうか。

「気持ちは嬉しいけど私にはグシャグシャの弁当の方がお似合いだよ」

 私は苦笑した。

「はぁ?何言ってんだよ。お前は何も悪いことしてないだろ。勝手に犯人だって決めつけて意地悪してる方がどうかしてる」

「……私のこと信じてくれるの?」

「当たり前だ」

 即答だった。

「だから食えよ」

 嬉しい気持ちと不安な気持ちが入り混じる。

 岡本君は私のことを潔白だと思ってる。

 根拠もなしに手紙を書いた犯人だと疑われてしまっている可哀想な子だと思ってるから、こうやって気にかけてくれているんだ。

 もし、私が本当に琴乃の手紙を破ったって知ったら、どう思うのかな。

 みんなと同じように私をゴミみたいな人間だって思うんだろうな。当の本人だって救いようのないクズだって思うもん。

「なんだよ、そんなにその変わったトッピングが気に入ってるのか?じゃあ、俺味見してみようかなー」

「え?」

「俺のパンと交換」

「ちょっと、まって。やめてよ」

 おかしなことを言い出す彼を必死に邪魔する。

 でも、圧倒的な体格さを前に、私の手からあっけなく弁当箱は取られてしまった。

 足りない身長で小さくジャンプして彼の手から弁当を取り返そうとする。

 私の言葉を無視して弁当の中身を口に持っていく岡本君。

 私は観念した。

「わかった。そのパンもらうから。だから、やめて。岡本君に体調崩されると、私困っちゃうから」

 それを聞くと岡本君はやっとおかずを漁る手を止めた。

 ペッとその場に食べかけたものを吐き出すと、

「この調味料最高にミスマッチしてるぞ。もう挑戦するなよ」

と言って私に弁当箱を返した。

 私はもらったパンをほおばりながら頷いた。

 岡本君は本当に優しい人だ。優しすぎて残酷なほど。

「そのパンおいしいか?」

「うん。すっごくおいしい」

 なんの味付けもないロールパンだけど、とびっきり甘い味がした。

 ああ、この人には敵わない。

 私の返事を聞いて微笑む彼を見てそう思った。