私は深いため息をついて教室のドアを開けた。

「おはよ、桜。あの事なんだけどさ、渡してくれた?」

 朝早めに来て、私を待ち伏せしていたんだろう。琴乃は私が席につくとすぐ、ソワソワした様子で尋ねてきた。

 琴乃の顔はこわばっていたけど、私はもっとひどい顔をしていたに違いない。

「う、うん」

 正直に言えなくて嘘を吐いてしまった。

 琴乃に意図的な噓を吐くのは初めてかもしれない。

「そっか」

「……」

「今ね、LINEニュースで見たんだけど、俳優の○○とモデルの××結婚するんだって!」

 気まずいのか琴乃は無理やり話を逸らした。

「え、うそ!その二人が~。意外!」

 私もその話に便乗する。

「なんか最近、芸能界結婚ラッシュじゃない? 先月も元サッカー選手の△△と競泳の□□結婚してたし」

 私はここぞとばかりに言葉を続けた。

「確かに。でも、今回はショックを受けてるファンも多いみたいだね。私はこういうの全然おっけー。むしろお祝いしちゃうタイプなんだけどな」

 琴乃が髪先をいじりながら言った。

「私も気にしなかも」

 全く色のない声。

 言葉の表面だけが私たちの間を滑っていく。

 私の頭の中ではまだ、手紙のことが渦巻いていた。

 たいして面白くもない話を続けていると、琴乃の頭に紙ボールが飛んできた。

「痛った!ちょっと、なんかぶつかって来たんだけど」

 琴乃が頭に直撃した紙ボールを拾って文句を言う。

「悪りぃ。こっちだ」

 教室の中央で机に座った男子が、パス!というように手を構えていた。

「もう、気をつけてよね」

 琴乃は一言添えて男子にボールを投げ返す。

 どうやら、いつも騒いでいる男子集団が、要らなくなったプリントを丸めて作ったボールで遊んでいたようだ。

「全く朝から騒がしいんだから」

 琴乃は呆れたようにため息をついて、ボールを投げ返す。

 優しく放たれたボールは緩やかな円を描きながら男子たちのもとへ戻っていった。

 それを見ていた私もため息をつく。

「今日からテスト週間かー。テスト範囲狭いといいなあ」

 宙を舞うとき、紙ボールが一瞬ほどけて前回のテストの日程表が見えたので、私は今日テスト範囲が発表されることを思い出した。

「そんなに広くはないと思うけど。古典なんて一作しか授業進んでないし」

「でも、去年の学年末みたいに自習で何とかしろって無茶ぶりしてくるかもしれないよ」

「あの時は三年に持ち越すわけにはいかなかったし。苦肉の策だったんでしょ。今回は期末に持ち越せばいいだけだから、そんなに心配する必要ないんじゃない?」

 優秀な琴乃は余裕ありげに分析する。

 その間、何度か頭上を紙ボールが飛んでいった。懲りない人達だ。

「そうだといいけどなー」

「そうすると、今度は期末の範囲が大変なことになりそうだけど」

「そんな先のことまで考えられないよ。でも、期末までにはコツコツと勉強しようと思ってる!」

 私は何度実行できなかったか分からない誓いを心に立てた。


「おい、もうちょっと高く出来ないか」

「無理だよ。お前自分が何キロあると思ってんだよ」

 何だかさっきから騒がしい。

 教室の後ろに視線を向けてみると、二人の男子が肩車をしていた。

 その周りにはさっき琴乃にボールをぶつけてきた男子と、一緒になってキャッチボールをしていた男子が群がっている。
 
 おそらく、肩車している二人もキャッチボール仲間だろう。

「あー、もう交代だ。お前重すぎんだよ」

「いや、お前が非力なだけだろ」

「椅子にのったら届かねぇかな」

 どうやら投げていたボールが、教室の後方に伸びているエアコンの配管に引っかかってしまったようだ。

「無理だろ」

「机は?」

 キャッチボール仲間の一人が近くの机を配管の下にずらして、机の上に立つ。

「ギリ届かない」

 一旦机の上に立って手を伸ばしてから、諦めて腕を下げる。

「どけ、俺がやるよ。チビ」

「チビじゃねぇし」

 文句を言いながらも最初に机に立っていた男子は机から降りた。入れ替わるようにした別の男子が机に上る。

「ほら届かねぇじゃねぇか、チビ」

 次に上った男子もギリギリのところで紙ボールまで届かない。先ほどの男子が仕返しと言わんばかりに罵声を浴びせる。

「はぁ?絶ってー取ってやるし」

 むきになった彼は机の上でジャンプした。手がボールを掠める。着地する度に揺れる机。男子はバランスを崩してよろめいた。

「危ないじゃない。やめてよ」

 女子たちが悲鳴をあげる。いつの間にか教室中のみんながボールとりに注目していた。

「へーきだって。よっ」

 また男子がジャンプする。今度はさっきよりも高く。机は激しく音を立てて揺れる。男子の手がボールを捉えた。

「ほらな」

 満足げな声をあげたまではよかったが、着地に失敗して机ごとひっくり返る。

「キャー!」

 群がっていたクラスメイトが一斉に散った。凄まじい音に、隣のクラスの生徒までもが覗きに来る。


「何これ……」

 教室の片隅に避難した者。

 音を聞きつけて廊下からやってきた者。

 さっきまで騒いでいた男子たち。

 誰もが教室の惨状を見て絶句した。

 ひっくり返った時に巻き込まれてなぎ倒された、ロッカーの上の花瓶が割れていたからではない。

 頭を打ちつけて丸まっている男子だってどうでもよかった。

 私たちの制服に薄桃色の紙屑が舞い落ちる。

 あまりにも美しい色と上質な手触りから、これをただのごみ屑だと思う人などいなかった。

 しかも、不幸なことに、じっくり読めばそこに書いてある内容が読みとれてしまうほど、紙は大雑把にしか切られていない。

 視界の片隅で、ごみ箱が机になぎ倒されているのが見える。

 巻き込まれたのは花瓶だけではなかった。

「これって手紙……?」

 そう、それは紛れもなく私が引き裂いた琴乃のラブレターだった。

「どうして……。何で、これが……」

 琴乃は震える声で、何かに憑りつかれたようにそう繰り返した。

「……ひどい」

「……サイテー」

 暗い息が洩れる。教室はしんとしていた。