目の前を何人かの陸上部員が駆け抜けていく。

 休憩前の百メートル五本だ。もうすぐここに岡本君がやって来る。

 しっかりしないと。

 私は制服のスカートをぎゅっと握りしめる。

 しばらくして、いつもの軽やかな足取りが近づいて来た。

「お、今日も来てたのか」

「うん」

 小さく相槌を打った。彼のお日様みたいな声を聞くのも、こうやってベンチに隣同士で座るのも今日で最後だ。

 やっぱり少し寂しい。

「あのね、お話しがあるんだけど」

 彼の顔は見なかった。

 見るときっと躊躇してしまう。

 心のダムが決壊して、抑えないといけないものが溢れ出てしまう。

「ああ、その前にさ。俺もお前に聞きたいことがあるんだけど」

「え、うん。何?」

「立川ってさ、中学のころ結木と同じ部活だった?」

 なんだ、また琴乃のことか。そんなに気になるなら本人に聞けばいいのに。

「琴乃はなんでもできるんだよね。陸上だってすごかったんだよ。高三のとき怪我しちゃって、今はもう昔みたいに走れないけど」

「……」

「それでも今でも、私より断然足早いし、美人さんだから運動場の遠くからでも琴乃が走ってると分かるんだよね」

 言葉を切った。それ以上自分で自分を貶めるのは辛かった。

「確かに結木はすごいよ。才色兼備で俺だって尊敬してる。でもさ、俺は別にお前に結木みたいになってほしいだなんて思ってないよ。お前にはお前だけの良さがあるって、俺、知ってるから」

 岡本君の言葉が私の中でじんわりと広がっていって、全身が熱くなる。

 そんなのずるい。そんなこと言われたら……。

 手紙の角が手に刺さって痛い。

「あ、もうそろそろ休憩終わりだ。そう言えばお前話があるって」

 運動場に戻ろうと立ち上がった岡本君が振り向き様に言った。

「ううん、何でもない。練習戻って」

 なんだよ、変なやつ、と言って岡本君は首をひねると持ち前の俊足で練習場所に戻って行ってしまった。

 あんなに優しくされたら、手紙渡せないよ。

 右手の中で、小さな封筒が握りつぶされた。

 ぐしゃぐしゃになった手紙を持って校舎の中を彷徨った。放課後、一人で廊下を歩ていると足音の反響音が鮮明すぎて気味が悪い。

 無意識に自分の教室までたどり着いていた。

 薄暗い教室。

 休み時間にみんながはしゃいでるのを見ては狭い、狭いと思っていたが、こうやって一人でぽつんと突っ立っているには残酷すぎるほど広かった。

 もはや原型をとどめていない元手紙を目の高さまで持ってきた。

 私が百貨店を三日這いずり回ったって見つけ出せないようなかわいい封筒。
 
 書道の教科書に載りそうなくらい綺麗な字。

 これさえなければ……、これさえなければ……私は自分という人間の汚さを知らなくて済んだ。

 いつの間にか出来上がってしまっていた琴乃との隔たりに気づかないで済んだんだ。

 薄桃色。ほんと綺麗な色をしてるよな。

 まるで世の中の美しいものを全部かき集めて混ぜましたって感じ。

 考えれば考えるほどこの手紙が憎らしくなってくる。

 何で、何で私ばっかり我慢しなきゃいけないの。

 抑えていた気持ちが溢れ出す。

 私は嫌悪感に任せて手紙を真っ二つに引き裂いた。

 さらに半分。さらにその半分。さらにまたその半分。

 ビリビリビリビリ……。

 一人の少女の愛が引き裂かれる苦い音が、私の中で増幅を繰り返す。

 掌に載ったそれが不格好な紙屑になったのに満足すると、私は勢いよく天井に放り上げた。

 紙吹雪が私の頭上を舞った。

 表面積が大きすぎたのか、目の前を横切っていく結晶――いや、哀れな紙の断片は迷子のように教室を彷徨った。私は教室の真ん中でただそれを見ていた。

 私の目に行儀よく陳列した文字が映る。

 ――好きです。

 私はその断片を捕まえるとさらに二つに引き裂いた。

 これで、永遠にこの思いは届かない。

 空っぽの教室に日の光が乱れ入っていた。運動場から聞こえてくる掛け声はどこか空虚で、傾いた教室は重力なんてものを無視していた。

 時間を忘れて手紙を破り続けた。空っぽの心で狂ったように破り続けるのは気持ち良かった。


 

 ガタン!

 廊下から物音が聞こえて私は我に返った。自分のいる教室の惨状を確認する。

 瞬時に教室の片隅にある箒と塵取りをひっつかみ、床に散らばった紙屑を拾い集める。ばれないようにごみ箱の真ん中らへんに詰め込む。

 掃除を終えると、私は逃げるようにして教室を後にした。