それは、まだ日差しの淡い初夏の日のことであった。咲子(さきこ)は小高い丘から眼下に広がる穏やかな湖を見つめていた。五つになったばかりの咲子はこの大きな湖を海だと思い込んでいたのである。水面に船を浮かべたら、遥か遠くにあるという大陸の国へでも行けるのだと信じていた。

 空は高く、雲一つない青の上を一羽の鷹が駆けていく。

 さわさわと風の鳴る音に混ざって、かすかな泣き声が聞こえて来た。見れば花を咲かせ始めた桐の木の下で自分よりも少し年嵩の男の子がしゃがみこんで泣いている。絹のような滑らかな衣の裾が土で汚れていた。

 咲子は男の子の傍によると、優しい声で歌を紡いだ。亡き母が咲子をあやすためによく歌っていた子守歌である。
 一度、二度、歌を繰り返すうちに男の子は泣き止んだ。

「その歌は?」

 気配に気がついた男の子ははっと顔を上げて咲子を見た。子供の咲子から見ても、とても美しい顔をしている。涼やかな目元は涙に濡れて赤く染まっていた。

「私の母が歌ってくれました」
「そうか、あなたの母は息災か?」
「いえ、母は昨年亡くなりました」

 咲子は凛とした声で答える。咲子には、この子も母を亡くしたのだとわかった。昨年、春を待たずに死んだ母を思って、咲子も散々泣いた後だった。

「顔を上げて、ほら、桐の花が咲いています。私の母は、桐の花が好きでした。私も好きです」

 咲子が上を見上げると、つられてその子も顔を上げた。瞳に残っていた涙が一滴頬を伝い落ちる。咲子は自分の着物の袖で男の子の目元を拭いてやる。

「私も、母を思うときにここにくるのです。広がる海を見れば、母の住む黄泉にすらつながっている気がしますから」
「そうか――」

 男の子は眼下に広がる湖を見た。なるほど、咲子の言う通り、母のいる黄泉にすらつながっているような気がした。
 この先に母がいる――そう思うだけで自然と涙が引くのがわかった。

「私がずっと泣いていると、お母様も悲しむとお父様が言うのです。だから私はもう泣き止むことにしました。悲しい悲しいと思っていても、お母様が帰ってくるわけではありませんから。思い出すお母様はいつも笑っておられます。だから私は悲しい時はお母様の笑顔を思い出すのです」

 咲子は木から落ちた一輪の花を拾い上げて男の子の手に乗せる。

「花だっていつまでも美しいままではいられません。いつかは朽ちて次に成る花の糧となるのです。あなたのお母様も、ここで生きていらっしゃる」

 咲子は微笑んで男の子の胸に手を当てた。ドクンドクンと鼓動の音がする。

「そうか、ここにおられるのか――」

 男の子は咲子の手に自分の手を重ねて微笑んだ。温かな手のぬくもりに、幼い咲子の心は小さく震える。今までに感じたことのない熱い波が咲子の心に流れ込んできた。

「姫様! どこにおいでですか!」

 女の声がして咲子はすっと立ち上がった。触れ合っていた手が自然と離れる。

「いけない、内緒で来ていたの。もう帰らなくっちゃ、さようなら!」

 咲子は男の子に大きく手を振って屋敷へと戻る。

「待って、あなたは!」

 そう叫ぶ声は咲子の耳には届かなかった。

「ただいま戻りました!」

 屋敷に戻ってきた咲子は父に抱き着いた。

「こらこらはしたない、おまえは姫様だろう?」
「だってお父様がお仕事から戻られているんですもの、嬉しくって! お父様、お歌を教えてくださいませ、あと一緒に蹴鞠も致しましょう」

 父は咲子の頭を優しくなでた。咲子と父は庭を見ながら季節の歌を詠んだ。その様子を見て、使用人たちは目を細める。

「本当に仲の良い」
「姫様はどんどんお美しくなられて奥方様に似てこられましたわ、旦那様も可愛さ一入でしょう」
「幼いながら旦那様に似てお歌も本当にお上手で、字もお綺麗に書かれます。本当に、才色兼備の姫様ですわ」

 この頃、咲子の父は国守として大国近江の国へと赴任していた。体の弱かった母は病勝ちで、咲子が四つになる年に儚くなったが、父は溢れんばかりの愛情を咲子に注ぎ、咲子はまっすぐで優しく、強い子に育っていた。

 近江の気風も咲子には合っていた。思い返せば、この近江での生活は咲子にとって最も輝く思い出となったのである。淡い初恋とともに。