それは、まだ日差しの淡い初夏の日のことであった。咲子は小高い丘から眼下に広がる穏やかな湖を見つめていた。五つになったばかりの咲子はこの大きな湖を海だと思い込んでいたのである。水面に船を浮かべたら、遥か遠くにあるという大陸の国へでも行けるのだと信じていた。
空は高く、雲一つない青の上を一羽の鷹が駆けていく。
さわさわと風の鳴る音に混ざって、かすかな泣き声が聞こえて来た。見れば花を咲かせ始めた桐の木の下で自分よりも少し年嵩の男の子がしゃがみこんで泣いている。絹のような滑らかな衣の裾が土で汚れていた。
咲子は男の子の傍によると、優しい声で歌を紡いだ。亡き母が咲子をあやすためによく歌っていた子守歌である。
一度、二度、歌を繰り返すうちに男の子は泣き止んだ。
「その歌は?」
気配に気がついた男の子ははっと顔を上げて咲子を見た。子供の咲子から見ても、とても美しい顔をしている。涼やかな目元は涙に濡れて赤く染まっていた。
「私の母が歌ってくれました」
「そうか、あなたの母は息災か?」
「いえ、母は昨年亡くなりました」
咲子は凛とした声で答える。咲子には、この子も母を亡くしたのだとわかった。昨年、春を待たずに死んだ母を思って、咲子も散々泣いた後だった。
「顔を上げて、ほら、桐の花が咲いています。私の母は、桐の花が好きでした。私も好きです」
咲子が上を見上げると、つられてその子も顔を上げた。瞳に残っていた涙が一滴頬を伝い落ちる。咲子は自分の着物の袖で男の子の目元を拭いてやる。
「私も、母を思うときにここにくるのです。広がる海を見れば、母の住む黄泉にすらつながっている気がしますから」
「そうか――」
男の子は眼下に広がる湖を見た。なるほど、咲子の言う通り、母のいる黄泉にすらつながっているような気がした。
この先に母がいる――そう思うだけで自然と涙が引くのがわかった。
「私がずっと泣いていると、お母様も悲しむとお父様が言うのです。だから私はもう泣き止むことにしました。悲しい悲しいと思っていても、お母様が帰ってくるわけではありませんから。思い出すお母様はいつも笑っておられます。だから私は悲しい時はお母様の笑顔を思い出すのです」
咲子は木から落ちた一輪の花を拾い上げて男の子の手に乗せる。
「花だっていつまでも美しいままではいられません。いつかは朽ちて次に成る花の糧となるのです。あなたのお母様も、ここで生きていらっしゃる」
咲子は微笑んで男の子の胸に手を当てた。ドクンドクンと鼓動の音がする。
「そうか、ここにおられるのか――」
男の子は咲子の手に自分の手を重ねて微笑んだ。温かな手のぬくもりに、幼い咲子の心は小さく震える。今までに感じたことのない熱い波が咲子の心に流れ込んできた。
「姫様! どこにおいでですか!」
女の声がして咲子はすっと立ち上がった。触れ合っていた手が自然と離れる。
「いけない、内緒で来ていたの。もう帰らなくっちゃ、さようなら!」
咲子は男の子に大きく手を振って屋敷へと戻る。
「待って、あなたは!」
そう叫ぶ声は咲子の耳には届かなかった。
「ただいま戻りました!」
屋敷に戻ってきた咲子は父に抱き着いた。
「こらこらはしたない、おまえは姫様だろう?」
「だってお父様がお仕事から戻られているんですもの、嬉しくって! お父様、お歌を教えてくださいませ、あと一緒に蹴鞠も致しましょう」
父は咲子の頭を優しくなでた。咲子と父は庭を見ながら季節の歌を詠んだ。その様子を見て、使用人たちは目を細める。
「本当に仲の良い」
「姫様はどんどんお美しくなられて奥方様に似てこられましたわ、旦那様も可愛さ一入でしょう」
「幼いながら旦那様に似てお歌も本当にお上手で、字もお綺麗に書かれます。本当に、才色兼備の姫様ですわ」
この頃、咲子の父は国守として大国近江の国へと赴任していた。体の弱かった母は病勝ちで、咲子が四つになる年に儚くなったが、父は溢れんばかりの愛情を咲子に注ぎ、咲子はまっすぐで優しく、強い子に育っていた。
近江の気風も咲子には合っていた。思い返せば、この近江での生活は咲子にとって最も輝く思い出となったのである。淡い初恋とともに。
近江での生活が終わりを迎えたのは、国守であった父が流行り病にかかり、あっさりと亡くなってしまったからである。近江での仕事ぶりが買われ、春に都に戻れば正五位の職を得ていた。寒い冬のことだった。
このとき咲子は七歳であった。後ろ盾を失った咲子は一人、母方の伯父のもとに身を寄せることになったのである。
近江を離れ、咲子が住むことになったのは都の南に位置する屋敷だった。春になれば見事な八重桜の咲くその屋敷は人々から八重邸と呼ばれ、屋敷の主である咲子の伯父は八重殿、そこに住む娘、つまりは咲子の従姉となる姫は、慶子といったが、皆からは八重姫と呼ばれていた。
「大荷物だな」
八重殿は咲子の荷物を見て眉をひそめた。母の形見の装飾品や父がそろえてくれた着物を見て、伯父は眉をひそめ、北の方は「おまえには必要ないものばかりです」といって咲子からすべてを取り上げてしまった。
「おまえを食わせるのには金がかかるのだから、少しでも足しにさせてもらいますよ」
代わりに咲子に与えられたものは下女が着る粗末な着物だった。咲子の着物や装飾品は、そのまま八重姫に与えられた。
「おまえは八重姫の身の回りの世話をしろ、年が近い方が八重姫も使いやすいだろう」
父が存命ならば、伯父の役職よりも上の職についていたはずである。八重姫の気性の荒らさを知っていた使用人たちは、姪であるはずの咲子の扱いを憐れむばかりだった。
「咲、早く菓子の用意をなさい! 本当におまえは鈍くさいのだから。今日は天気がいいから庭園に運びなさいね」
咲子に散らかった部屋の片づけを言づけた直後のことである。咲子は手を止めて八重の菓子を用意しに行くと、今度は花を摘んで来いと言い、花を摘んでくれば違う菓子が食べたいと言って騒ぎ立て、部屋に戻ると部屋の片づけが終わっていないと、罰として咲子の食事を抜く始末であった。
北の方は咲子の母の異母姉であったが、都一の美女と謳われた妹に大きな劣等感を抱いていた。ことあるごとに妹を目の敵にしていたのだ、病に倒れたと聞いたときはほくそ笑んだ。その忘れ形見である咲子を可愛く思うはずなどない。咲子は母譲りの美貌の持ち主であったので殊更である。
八重姫も、初めから咲子のことが気に入らなかった。咲子の父は都での評判も明るく、母は都一の美女と謳われた叔母である。咲子に至っては幼いながらに母似の美しい容姿と父譲りの聡明さを褒めたたえられるような姫であった。
気位の高い八重姫にしてみれば少しも面白くない。従姉妹というだけで色々と比べられるのだ、いつも自分の方が下なのである、面白いわけがなかった。
その咲子が天からの賜りもののように自分たちの手に落ちて来た。これ幸いと苛め抜いたのである。
夏になれば炎天下の中一日中虫を追いかけさせ、冬になれば雪を集めて来いと外に放り出し、咲子が泥だらけで戻ってくると不潔だと言って頭から水を浴びせるのである。
風邪を引けば怠惰だと馬屋に押し込めた。八重邸の皆は北の方と八重姫を怖がり、誰も咲子に手を差し伸べようとはしない。
咲子はやつれ、かつての美しさもすっかり鳴りを潜めていたが、意志の強い瞳だけは苦境にあっても光を失わず、それがまた北の方にも八重姫にも面白くなかった。
「少し媚びるような素振りでも見せれば可愛いものを、あの生意気な目は何でしょうね! 可愛げのないところは母親にそっくりなこと!」
北の方は咲子を罵り、八重姫はことあるごとに咲子に当たり散らした。そんな日々が六年余り続いた。
そんなある日のことである。八重姫十五、咲子十三の時であった。八重姫は得意な歌の勉強に咲子を連れていた。いかに自分の歌が優れているのかを咲子に知らしめるためである。
七つからろくに学ぶ機会のなかった咲子には歌など詠めるはずもないと高を括っていたのである。実際の咲子は幼いころに歌の名手であった父に学んでいだが、知識や歌をひけらかすことはしなかった。
「おまえには歌など詠めないでしょう? 殿方からの文が来ても、歌の詠めないおまえでは返事のしようがないでしょうね、だから少し教えてあげましょう。もっとも、おまえに文を贈る殿方なんていないでしょうけれど――」
八重姫は庭に咲く美しい桜の花を歌に詠んだ。指導にあたる歌人も八重姫を褒めそやした。
咲子も「素晴らしい」と褒めたたえるほかない。すると八重姫はにっこりと得意げな笑みを浮かべるのだ。
「教養のないおまえに歌の良し悪しがわかるのかしら」
「私に歌の良し悪しは分かりませんが、姫様の歌の素晴らしさは分かります」
この頃になると、咲子も自身の聡明さを隠すようになり、八重姫の機嫌を取ることにも慣れてきていた。
「ふん、馬鹿は馬鹿なりに少しは賢いことが言えるようになったのね」
八重姫はそう言って鼻で笑った。
それから一年が経ち、八重姫にも文が届くようになった。伯父は朝廷内で順調に周囲を蹴落とし地盤を固め、今にも中納言かなどと噂されるようになっている。八重姫の母は咲子の母ほどではないが、美しい女である。自然と八重姫への関心も高まっているようだった。
「咲、毎日毎日文が届いて返すのが面倒だわ、この文にはおまえが返事を書いておいて」
ある日、八重姫はそう言って咲子に文を放ってよこした。家柄の悪い男からの文である。聞こえの良い殿方には香を焚き閉めた上等な紙に、渾身の返事したためる八重姫であったが、つまらない男にはろくな文を返していなかった。
「私などが書いてもよろしいのでしょうか?」
「どうせ風情のわからぬ田舎者よ、田舎臭いおまえが書いた文の方がお似合いなのよ」
咲子は八重姫がよこした粗末な紙に歌を書く。ろくに文字の練習もさせていないのだ、大したものが書けるはずはないと八重姫は高を括っていた。だが、咲子の文を受け取った男は八重姫に熱を上げた。八重姫は文字も歌も素晴らしい、粗末な紙すら逆に趣を感じると評判になったものだから八重姫は眉を吊り上げた。
「咲、おまえは本当に使えない、あんな男の歓心を買ってしまうなんて。やっぱり田舎者には田舎者がお似合いなのよ。咲、あんな男はおまえにくれてやるわ」
「今夜は私の部屋を使いなさい」という八重姫の命令で、咲子は八重姫の部屋で休むことになった。八重姫は北の方の部屋で眠るようである。いつも粗末な茣蓙などの上で眠っている咲子は、幾年ぶりかに眠る柔らかな布団になれずになかなか寝付けなかった。
深夜、月が空を渡っていくのをぼんやりと眺めて時間を過ごしていると、人影が忍び込んできた。
「きゃぁ」と小さな悲鳴を上げようとすると、大きな手で口を塞がれる。
「八重姫、先日は素晴らしい歌をありがとうございました。お慕いしております」
文の男が夜這いに来たのだと気がつき、咲子は必死に抵抗した。
「人違いです、私は八重姫ではござません、お許しください」
手足を押さえつけてくる男から必死に逃げだすと、咲子は馬屋に逃げ込んで夜を明かした。もう少しで危ないところだったと思うと思い出したように体が震える。咲子は両の腕で己を抱き締めた。男に捕まれたところから恐れが染み込んでくるようであった。初めて知った恐怖だった。
男の気配が消えてから、咲子は庭に出て空を見上げた。月がぼんやりと輝いている。
気がつけば歌を口ずさんでいた。幼い日に母が歌ってくれた歌――
「もうすぐ夏が来るわ、桐の花は咲いているかしら――」
咲子は遠く離れた近江の地を思った。同時にあの日泣いていた童男のことも思い出す。そのときに覚えた胸の高鳴りも。
どうか、あの子の涙が止まっていますように――
あれから何年も経ったのだ、かの美しい童男はすっかり元服して立派な大人になっているのだろう。咲子はあの日の美しい空を思った。
庭の桜が三度散り、咲子は十七歳になっていた。相変わらずやつれていたが、持ち前の美しさは日に日に増すばかり、加えて八重姫の傍に侍り、学ぶ姿を見てはその類まれなる才能を己自身も気がつかないうちに育てていたのである。
着飾りでもすればどこの美姫だろうかと噂されるであろう咲子の容姿を、八重姫は憎んでいた。自然と咲子への当たりも厳しくなる。
咲子は八重姫や北の方からの苛めに耐える日々であった。
どうしようもなく辛くなると庭に出て東の空を見る。遥か遠く、近江の国に繋がる空を見上げては母の子守唄を歌うのだった。
桜の木で蝉が鳴き始めた初夏のころ、伯父の八重殿は慌てた様子で八重邸に戻ってきた。
「慶子、帝がおまえを入内させたいとおっしゃられた。すぐにでも支度をせい」
「本当ですかお父様!」
八重姫は十九歳になり、都でも五本の指に数えられると噂されるほどの美しい姫に成長していた。帝の声がかかるのも自然なことである。寧ろ遅すぎるくらいだと、八重殿も八重姫自身も大層喜んだ。
「早まっておまえを中納言などの嫁にやらなくて本当に良かった。幸いなことに瑛仁帝は帝になられて日も浅く、まだ子がおらぬ。女に酷く真面目な方でなかなか妃を迎えないことで有名だが、おまえの美しさを耳にして手にしたくなったのだろう。これは好機だ、おまえは世継ぎを産み、わしは帝の外戚となる」
伯父はいつになく上機嫌であった。
「咲、おまえも一緒にいらっしゃいな。私の世話をするのに、おまえほど使い勝手の良い下女はいませんからね。おまえには私が帝に寵愛されるさまを見届けてもらいましょう。帝の後宮はおまえなどとは縁遠い世界、大いに感謝してちょうだい」
悪い噂を立てぬためにも朝廷から賜った女官に今のような我がままを言うわけにはいかない。その点子飼いの咲子は八重姫にとって都合が良かった。咲子はどんなにぞんざいに扱われても泣きつく相手がいないのである。八重姫は後宮でも咲子をこき使う腹づもりであった。
八重姫こと慶子は後宮、七殿五舎のうち東の昭陽舎、通称梨壺に住まうことになった。
「弘徽殿も承香殿も空いているというのに、どうして私がこのような場所に住まなければならないの」
入内そうそうから慶子は機嫌が悪かった。自分の住まいが帝の寝所から遠いということもある。行事などで顔を合わせる公達たちが慶子ではなく咲子の容姿に目を止めるのがなにより面白くなかった。
その上帝の声がなかなかかからないことにも腹を立て、咲子に当たり散らしたのである。
慶子が入内して初めての宴が開かれることになった。帝のお目通りのない慶子はここぞとばかりに飾り立てたのである。咲子はその準備で駆け回らされた。
美しく着飾った慶子の傍に咲子も小綺麗にして侍っていた。
慶子は自慢の歌を披露し、上機嫌であった。
「梨壺様は歌もお上手なのですね」
女官たちから誉められ、満足げな笑みを浮かべた慶子は、傍にひっそりと侍っていた咲子に視線を向けた。咲子に恥をかかせることを思い付いたのである。
「ほら、おまえも歌を詠んでごらんなさいよ」
「いいえ、私は歌など──」
「あら、謙遜なんかしないでちょうだい、私の付き人なら歌くらい詠めないと恥ずかしいわ」
慶子がそう促してくるものだから、咲子は仕方なく一句歌う。咲子の凛とした声が響く、初夏を歌った歌は慶子が詠んだものよりもずっと優れていた。
それを聞いた女官たちは咲子を褒め、その主である慶子のことも褒めた。
「梨壺様のもとにはこんなにも歌の上手な女官がおられたとは、容姿も大変お美しいですし、今まで隠しておられたのは奥ゆかしさの現れですね。素晴らしいですわ」
「え、えぇ――歌は私が教えました」
「まぁ、さすが梨壺様ですね」
歌など一つも教えていないというのに、慶子はどうにか咲子の歌を自分の手柄にすると、作り笑いを浮かべた。その日の宴で、梨壺に歌の上手な美貌の女官がいるらしいと、咲子は一躍時の人になったのである。大勢の人の前で咲子に恥をかかせてやる腹づもりであった慶子としては一つも面白くなかった。
慶子はこの噂に焦りを感じた。この噂が帝の耳に入り、自分よりも早くお手つきになったりでもしたら、たまらない。
「帝が私に声をかけないのはどういうことかしら! きっとおまえのせいよ、おまえみたいな見窄らしい下女をつれているせいだわ。後宮ではこの布を被いて過ごしなさい、その見苦しい顔も少しはすっきりするでしょう!」
慶子は咲子の顔に尼のような布を被せてしまった。不思議そうな顔で咲子を見る周りの者たちには「この子は鈍くさいから火鉢で火傷をしてしまったの」と説明をした。
すっかり顔が隠れてしまったことで、咲子の容姿を褒めそやしていた公達たちは咲子のことなど目にも止めなくなった。あんなにしっかりと顔を隠さなけでないけないほどの火傷ならば、見られた顔ではないだろうと皆憶測した。
一緒に働く女官たちは咲子の奇妙な白い布を見ては陰で笑うのである。慶子は気味が良かった。
帝から声がかからぬ憂さを、今まで以上に咲子を苛め抜くことで晴らしていたのである。
咲子にとっては当然苦痛の日々であった。八重邸では慶子と北の方を除けば使用人たちは咲子に無害であった。だが後宮では他の女官たちも咲子に害をなしてくるのである。慶子に苛められている咲子は格好の苛めの的であった。
慶子からの指示を邪魔されることや、わざと衣服を汚されることなど日曜茶飯事のこと、そうなると今度は慶子に嫌がらせをされた。後宮は針の筵であった。
だが、咲子は悲嘆にくれることなく、ただひたすら仕事をこなす日々であった。
ある夜のことである、咲子は梨壺の庭に出て小さな月を見上げた。
「あの月は、きっと幼い日に見た月と一緒――」
そう思うとずっとこらえていた涙が零れ落ちた。涙ながらに歌を口ずさむ。母の歌ってくれた歌だ。
二度、三度、心が落ち着くように何度も繰り返し歌っていると草を踏む音が聞こえた。細い月夜は薄暗く、人の気配はあっても姿は見えない。咲子は涙をぐっとのみ込んで暗闇を睨んだ。
「夏の日の――」
と声が響いた。男の声である、後宮にいるなど、帝と血縁関係のある殿上人だろうか――もしも危険を顧みず慶子のもとに通おうとするものであれば追い返さなければならない。
咲子は声を殺して問いかけた。
「どなた様でしょうか」
答える声はない。答えるはずはないと咲子は小さくため息を吐いた。だが、男は答える代わりに歌を詠んだ。
「夏の日の桐の下陰風過ぎて水面に響く幼子の歌」
咲子の脳裏に近江の夏の日が蘇る。美しく晴れ渡る空、花の咲き誇る桐の木影、眼下に広がる湖――
夏の日、花の咲く桐の下で子守唄を歌ったこと。そんなことを知っている人は、一人しかいない。
「あなたは――!」
駆け寄ろうとした時には、もうそこには誰の気配もなかった。霧のように消えてしまったのである。夢であったのかもしれない――咲子は夢を見たのだと思った。辛い日々にあって、生きる希望は幼い日の記憶だけであった。咲子にとって最も輝かしい記憶――それは、近江での日々だ。そこで出会った童男へ抱いた淡い憧れは、咲子の心の中で小さな星のように光を放ち、苦境にある咲子を支えていた。
あくる夜、慶子は飛び上がるほど喜んでいた。ついに帝から声がかかったのである。
「さぁ、しっかり香を焚きしめなさい! 髪もしっかりととかすのよ!」
咲子は慶子の支度で目が回るほどに忙しかった。鼻が曲がりそうなほど麝香の香りが焚きしめられた衣をまとって、慶子は意気揚々と梨壺を出て行ったのである。
これで帝の寵愛を得ることができれば、慶子の機嫌も良くなるだろう。咲子はそう胸を撫でおろすと同時に、昨夜庭で聞いた声の主のことを考えると心が落ち着かなかった。
夢だと、そう思えば思うほど、その声を鮮明に思い出すことが出来た。記憶にあるものではない、初めて聞く声であった。
翌朝、夜が明ける前に梨壺に戻ってきた慶子の機嫌は今までにないくらい悪かった。どうやら昨夜は何もなかったようなのだ。
「噂通りお美しい人でしたとも! ですが殿方としてはどうでしょうね。寝間着姿の私を前に、「少し話を聞きたい」といって少し身の上話をしたら「もう良い」と言って帰してしまわれたのよ!」
慶子は檜扇を投げ、香炉を蹴とばし、仕舞には咲子をひどく叩いた。
「慶子様、あまりに暴れてはお体に障ります。怪我でもなされたら――」
「えぇいやかましい! 本当におまえは可愛げがない! それで私の心配をしているつもりか! 腹の中では私をあざ笑っているのでしょう! えぇい本当に忌々しい! 可愛げのない顔だわ!」
「おやめください!」
慶子は投げた扇を手に取ると激しく咲子を叩いた。おかげで咲子の手や顔にはあざが出来た。
「これで少しは見られる顔になったでしょう! あぁ、本当に腹が立つ。咲、水が飲みたい、早く汲んできなさい!」
水を汲みに部屋を出た咲子は瓶の中に写る自分の顔を見てため息を吐いた。美しかった母に似てはいるが、随分と見窄らしい姿である。今の自分を見たら、母は嘆くかもしれないと思うと悲しかった。
手拭いを濡らして、顔を冷やす。母からもらった容姿である。母のように美しくありたかった。
咲子は胸に手を当てる。
「ここにいる。お母様も、お父様も、そして、あの日出会ったあの人も――」
水を汲み終えた咲子は大きく深呼吸をして瞳に強い光を宿すと梨壺へと戻ったのである。
清涼殿に坐した帝は頭を抱えていた。
「おうい、いつになく難しい顔をしてどうした。昨夜は珍しくお楽しみだったんじゃないのか?」
現れたのは若くして近衛中将に上り詰めた男である。母は帝の乳母であり、幼いころより帝と兄弟のように親しく育ち、帝は彼を龍と呼んでいた。巷では龍の中将と呼ばれている。
「違ったのだ」
「違ったって? 梨壺の女かい?」
昨夜帝が慶子を寝所に呼んだことを知っている龍の中将は首を傾げた。
「あぁ、彼女ではなかった」
慶子の入内には、帝が中将から八重邸に美しい歌声で子守唄を歌う女がいると聞いて、迎え入れた経緯がある。
早く確かめたい気持ちが強かったが、違うとなると膨らんだ期待の分、落胆することは目に見えていた。
慶子をすぐに閨に呼ばなかったのは、怖かったからだ。
一昨日の夜、梨壺で出会った女が長年の想い人であると確信を得てからの昨夜のことであった。慶子がその女ではないとわかって、帝は失望していた。
「ふぅん、おまえも困ったやつだね。妻なんか誰でも良いだろう? おまえみたいにこだわっていると本当に世継ぎが生まれなくなるぞ。女たちも一向におまえから声がかからないものだから気を揉んでいることだろうよ」
「そうなればおまえの子を養子に貰い受ける」
無茶なことをはっきりと言い切る帝に、中将は声を上げて笑った。
「それは母が喜ぶな。そうなら俺も早く嫁を迎えるか。そうだ、梨壺に歌の上手い下女がいるらしい」
「下女?」
「そうさ、面白いだろう? おまえが昨夜呼んだ梨壺慶子様の下女さ。下女風情が歌が詠めるなんて面白い。聞けば容姿の美しい女だというじゃないか、いつからか火傷を理由に尼のような格好をしているが、あれを妻に貰っても悪くないかもしれない」
「おまえは物好きだ」
「思い出の幼女に恋をしているようなおまえに言われたくないね」
中将の言葉に帝は不機嫌そうな顔になった。
「あれから十年以上もの時が過ぎた、彼女ももう成人している」
「ふぅん、まあなんでもいいさ。でも世継ぎは産ませろよ、皇子がいないとなるとジジイどもは荒れるからな」
「皇子がいたって荒れるのだろう。母は私を産んだせいで死んだ」
「なにもおまえのせいじゃないさ」
先の帝には十二人の妻がいた。瑛仁帝の母、高子は父親の身分はそれなりに高かったが、母の身分が低かった。後宮においても位は低く、皇子を産んだ後は中宮から執拗な苛めを受けていたのである。帝自身も長く肩身の狭い思いをしてきた。
高子は心を病み、別荘のある近江の地にて療養をしている間に病で亡くなった。痩せ細り、次第に美しさを失っていく母が哀れであった。
帝は病勝ちの母に代わり、中将とともに乳母に育てられた。瑛仁帝の帝位継承権は低く、中将とは兄弟のように育った。
流行り病で帝位継承権の高い皇子たちが次々に亡くなったので、瑛仁帝にお鉢が回ってきたのである。当然他の皇子たちに取り入っていた大臣たちは面白くなかった。あの手この手で帝を帝位から引きずり降ろそうとするものばかりである。
日々運ばれてくる死への恐怖と戦い、望まずして手にした帝の地位である。周りに信じられるものといえば乳兄弟の中将のみ。あの手この手で自分にすり寄り、騙そうとしてくる大臣たちに手を焼いた。
孤独であった。その孤独を紛らわせるように、思い出すのは幼い日に出会った美しい少女のこと。自分を皇子と知らぬ彼女はなんの含みもなく、真っ直ぐな心で自分を癒してくれた。その優しさが帝を支えていた。
「弘徽殿を空けているのは、その思い出の女を迎え入れるためだろう? その女の身分だってわからないじゃないか? どこぞに馬の骨ともわからぬ女では弘徽殿に迎え入れるわけにはいかないぞ」
「身なりの良い格好をしていた」
「身なりだけじゃぁなぁ。地方には金だけは山ほど持っている商人だっているだろう?」
「姫様と呼ばれていた」
「じゃああれだ、当時近江を治めていた国守の姫だな。近江は大国、父親は誰だか知らんが今では正三位くらいにはついているんじゃないだろうか? その姫なら弘徽殿に迎え入れてもさほど問題ないだろう?」
中将の言葉に帝は表情を暗くした。
「そんな姫はいなかった」
帝はすでに調べをつけていたのである。近江の国守は流行り病に倒れ、都に戻る前に亡くなっている。その一人娘は血筋を頼ってどこかに身を寄せているはずであるが、それらしい姫はどこにもいないというのである。
「なるほどな。でもおまえ、昨夜は少し興奮した様子で慶子様を待っていたじゃないか、それはどうしてだ?」
「それは――」
帝は一昨日出会った女の話を始めた。
月は細く、星の美しい夜であった。帝は眠れずに後宮を散歩していたのだという。梨壺の近くを訪れたときに女の歌う歌が聞こえて来たそうだ。その歌は、幼い日に聞いた少女の歌と同じだったというのだ。
「その歌なら俺も知っている子守歌だ。歌える女も多いだろう?」
「夏の日の桐のことを知っているようだった。あの童女と出会ったのは夏の日、花咲く桐の木の下だ」
「ふぅん、それが梨壺でのことだったからって慶子様だと勘違いしたのか? おまえらしくもない」
「早計だった、自分でも驚くほどに興奮していたのだ」
「梨壺の他の女を探してみてもいいんじゃないか? そうだ、ちょうど俺の気になっている頭巾の女も梨壺だ。今度宴会でも開いたらいいんじゃないのか? 後宮の女たちを集めて桐花姫を探すと良い」
「なるほど……それはよい考えかもしれない」
中将の言葉に頷いた帝はすぐに中将に指示を出し、宴の準備に取りかからせた。
後宮で宴が催されるという噂はあっという間に広まった。帝の声のかからない女ばかりなのである、皆目の色を変えたように躍起になって自らを着飾った。慶子も例外ではない。
「咲! 早く私の髪をとかしなさい! 香も焚いて! あぁ、麝香は駄目よ、以前帝にお目通りした際にあまり好印象ではないようだったわ、今日は白壇を焚いて!」
一度慶子に帝から声がかかったことで、しばらく他の女御たちからの嫌がらせがあったが、慶子はその嫌がらせすら気分が良いようであった。実際に男女の営みは何もなかったのだが、帝に呼ばれたという事実だけで、優越感に浸れたのである。
だが、それも一度きりのこととなると今度は他の女御はおろか、女官たちも慶子のことを鼻で笑い始めるのだ、「帝のお眼鏡にかなわなかったのだ」と。こう噂されると慶子は面白くなかった。持ち前の気の短さを発揮して、咲子に当たり散らすのであった。
「今回の宴で必ず帝の気を引いて見せるわ! 咲! いつものように私の足を引っ張るようなことをしたら絶対に許さないから!」
咲子はただただ慶子の𠮟責に耐え、慶子の支度を整えるのだった。
「やっぱりおまえは出なくていいわ。おまえのように醜い女を連れているなんて帝に知れたら私の格が下がるのよ。奇妙な頭巾のおまえは宴には出ずにここで大人しくしていなさい」
すっかり支度を終えた慶子は侍る咲子にそう告げた。咲子に異論はなかった。以前の宴のように、下手なことをすれば慶子の怒りを買ってしまう。表に出なくて良いのならば、それに越したことはなかった。
父が存命であったならば、類まれなる咲子の歌の才能は大いに発揮され、咲子の美しさをより際立たせるものになっただろう。
だが、自分よりも優れた者を憎む慶子の下では余計なものでしかなかった。
遠くから聞こえてくる楽しそうな笑い声や、優雅な楽器の音などは、今の咲子にはあまりに場違いなものに感じられた。
「近江に帰りたい――」
一人梨壺に残った咲子は東の空を見上げた。本当に近江に帰りたいわけではない。今の近江に戻ったところで、咲子を迎える者は何もないのだ。
あの夏の日の美しい思い出を胸に、咲子は東の空を見上げるのだった。
内裏の西側では後宮の女たちの集まる盛大な宴が催されていた。宴にはその家族や帝に近しい殿上人なども呼ばれ、賑わいを見せている。宮廷楽師たちの奏でる心地よい音色が宴をより一層盛り上げていた。
「帝はどちらにおられるのかしら」
帝の目に留まろうと、女たちは血眼になって辺りを見回していた。だが、帝らしい人物の姿はどこにもない。
「まだ来ていらっしゃらないのかもしれないわ! まったく、帝がいらっしゃらないならこんな宴など時間の無駄よ!」
慶子もまた苛立ちを隠そうともせず、悪態をついていた。しばらくして、上座に帝らしき人物が姿を現した時には、ほっとしたように胸をなでおろし、今度は目に留まろうと必死で近くに寄ろうとするが、周りに侍る護衛が多くて近寄ることもままならない。
日差しを遮るための扇のせいで、姿すらろくに見えないものだから慶子は余計に腹を立てた。
「帝からこちらの姿は見えているのでしょうね! あぁ、せめてもう少し近くに寄ることが出来たら――!」
護衛たちを忌々しく思いながらも、何もできない現状に苛立つばかりであった。
宴の始まる前に、帝は秘密裏に龍の中将と衣を取り換えていた。
「これでおまえは俺として自由に女たちを見て回ることが出来るだろう? 感謝しろよ」
「あぁ、感謝しているさ龍。おまえを取り立ててやらないといけないね」
「いやぁ、これ以上上に行くとジジイどものやっかみが酷くなる。ジジイどもが死んだら俺を持ち上げてくれたらいいさ」
「お安い御用だ」
護衛には代理を立てることを説明している。ろくに通いのない妃たちは、万が一顔を見たところで帝か龍の中将であるかの違いなど判らないだろう。
帝は龍の変装に満足すると、宴の中に紛れて行った。
宴の席に集まった妃たちは皆ピリピリと苛立っているのがわかった。なるほど、帝の姿が見えないので苛立っているのだろう。だが、こうも苛立ちを表に出されては、せっかくの美貌も教養も台無しだと帝は失笑した。
帝としての私の前では取り繕うのであろうな、だが、なんの地位も持たぬ『私』の前では本性が出るということか。これは悪くないかもしれない。
帝は桐花姫を探す傍ら、女たちをよく観察していった。清涼殿で会う姿とはずいぶんと異なる姿に驚きを通り越して呆れてしまう。
梨壺の慶子などは苛立ちを隠そうともしていない。閨に呼んだ日のしおらしさはどこへいったのかと呆れるばかりだ。
「やはり、彼女が桐花姫であるはずがない」
そう結論付けるとともに、中将の言う頭巾の女の姿が見当たらないことに首を傾げた。
身分の垣根なく後宮の女を皆呼び寄せたはずである。頭巾を外しているのだろか――だが、火傷の痕のある女など見当たらなかった。
あまりに梨壺の女たちを見て回っていたからだろうか、ついに慶子に腹を立てられた。
「帝の妃である私をジロジロと見るなどと、なんと無礼な男でしょうか! 私は梨壺の女御ですよ、おまえのような男に見初められるような下賤の女ではない! 早く立ち去れ!」
青筋を立てた慶子にピシャリと言い放たれ、帝は宴の席を離れることにした。
「慶子殿はかなり気性が荒いようだな」
宴の席を離れ、後宮に戻ってきた帝は苦笑いした。閨と今では人が違うようではないか――女というのは実に恐ろしいと呆れるばかりだった。
足は自然と東へと向かい、梨壺へと来ていた。月のか細い夜に出会った女が、もしかしたら残っているのではないか――そんな予感がしたのだ。
だが、梨壺にその姿はなかった。帝は自分の思い違いに苦笑いして、諦めて戻ろうとしたその時だ。
「あれは――」
聞き覚えのある歌が聞こえた。幼い日に聞いた子守歌である。歌声は北側の桐壺から聞こえてくる。今の後宮において、桐壺は空席であった。
足音を殺して近づいてみると、東の空を見上げながら歌を歌っている女がいた。
見窄らしい格好をした女である。だが、艶やかな黒髪に、強い光を宿した瞳の、それはそれは美しい女だった。
「あなたは――」
数秒見とれてから思わずそう声をかけると、女は慌てた様子でひれ伏した。
「申し訳ございません、勝手に別の庭に来てしまって」
「咎めたわけではないのです。あなたはどこに仕えているのですか?」
女を怯えさせないよう、努めて優しい声を出した。すると、女はゆっくりと顔を上げた。横顔も美しかったが、正面から見ると尚一層美しい。着飾ればどの妃も及ばないだろう美貌の持ち主だと思った。
何より面影がある。自然と拍動が早くなった。
「私は梨壺の慶子様に仕えております」
「もしや、以前近江の国におられませんでしたか?」
耐え切れずに尋ねると、女は目を見開いた。
「どうしてそれを――」
やはり。やっと見つけた――! 帝は女を今すぐにかき抱きたくなる衝動を必死に抑えた。
「幼い日に、桐の花の下であなたの歌声を耳にしたものです。ずっと、お会いしたいと思っていた。名前を教えていただけませんか?」
「……咲子と申します」
「咲子殿、やっとお名前を伺うことが出来ました。どうか今一度あなたの歌を聞かせてください」
請われるままに歌を歌い始めた女は、仕舞には涙を流し始めた。その涙につられるように、帝も涙を流す。
歌い終わると、女は帝の背に手を当て、ゆっくりとさすり始めた。温かな手であった。
「あなたも、お辛いお立場におられますか? どうか今はそのしがらみを取り払い、心穏やかにお過ごしください」
女の言葉は、その歌声と同じように温かなものであった。帝は涙に濡れたその頬に手を当てる。こんなに美しい女は見たことがなかった。容姿だけではない、その心根も美しかった。思惑の渦巻く後宮で、初めて裏も表もない優しさに触れた。
「あなたを妻に迎えたい」
一度強く抱きしめて思わずそう口にすると、女は首を横に振った。
「どのように高貴な方か存じませんが、後ろ盾のない卑しい身分の私などがあなた様の妻になることなど、望めることではありません。今一度、お会いできただけで、私は十分幸せでございます。ずっと、お会いしたかった――さようなら」
女はそのまま帝の手をすり抜けて、霧のように消えて行った。背を撫でる温かな手のぬくもりだけが残る。空蝉のように消えた女は帝の心に一層強く残った。