ボオオオオオオーーーーーーーーオオ……
 漁船のエンジンの音は私に故郷へ帰ってきたことを何よりも雄弁に語っていた。
 村を出たときより遙かに少なくなった、一日二便しかないバスを降り、息を大きく吸い込む。都会では、得られない自然のあまりにも濃厚で、暴力的とも言える生の匂いが肺を満たす。
 私はバス停から歩いて実家へ行き、玄関のチャイムを鳴らす。中から「はーい」と声がする。人が出てくるまでの間、鮎川と書かれた表紙を眺めていた。この時間、父と祖父は漁に出ているはずで、母は尼漁か、市場だろう。私の予想通り、玄関に出たのは祖母であった。
「新三か。ひさしぶりやねえ。まあ随分男前になって」
「うん。あのウイルスのせいで久しく帰れなかったからね。ばあちゃんだけか?」
「ええ。ささ、突っ立てないで早く入り。長旅で疲れたやろ」
「うん。三日ほどいるつもりだから、今日はゆっくりしていくよ」
「そうかいそうかい。部屋の掃除はしてあるから。昼はもう食べたのかい?」
「うん。大丈夫」

 夕食時には、残る家族も帰ってきていた。私には久々に誰かと卓を囲んでの食事だった。
 私の久々の帰郷という事で、酒が出され、家族全員が大いに飲んだ。その最中のことである。
「それで、調子はどうだ」
 父がそう近況を尋ねてきた。
「うん。やっぱり厳しいね。政府も金を出し渋ってるし、何人か首を切られるのは確実だ。まあ、それで済むのだから、まだ損害は少ない方だよ」
 私は首をひねりつつ答える。すると父はわらって、
「まあ、いざとなったら家を継げば良い」
 と言った。しかし私は首を振る。
「今更継げるものじゃないだろう。それに大学を出た分は稼がないと」
「子供がそんなに気負うものじゃねえ」
 私の大人びた言動は父には滑稽に映ったのだろう。しばらく笑い、次にはこんなことを言い出した。
「そうだ、お前、いい話はあるのか?」
「いい話?」
 言葉の意図がつかめず、そう聞き返す。
「そりゃお前、これだよ」
 そう言って、父は小指を立てた。つまりは結婚の予定はどうだと聞いているのだ。
「生憎さまだ。せめてもう少し顔が良ければな……」
「てめえ、俺とシズの血に文句でも?」
「無いです」
 私の言葉に、父は笑いながらため息を吐いた。
「まったく……ちゃんとしてくれよ。三軒隣りの風原の、武蔵の子だって、この間式を挙げたんだから」
 その言葉は私にとって、驚きだった。中学自分までの記憶しかないが、うだつの上がらない奴だった。
「へえ……義男が……そりゃめでたい。はなたれのあいつでも貰ってくれる子がいたんだね。で、どこの誰とだい?」
「それが、ほれ、水嶋の所の……」
「水嶋……雪か?」
「おお、それだ。良く覚えていたな」
「まあ、一個下だったけど、そもそも上も下も合わせて二、三〇人くらいしかいなかったしな」
 私は、この時はそう説明したが、この言葉は嘘である。いや、まるっきりの嘘であったわけではない。しかし、口に出したことが全てではなかった。
 私が水嶋雪のことを覚えていたのは、年齢が近かったからだけではない。私と彼女が、昔恋仲だったからという事も手伝っていた。

初めてキスをしたのは中学二年の時であった。校舎裏で、他人から隠れるように、二人きりで。前後の会話はさっぱり覚えていない。ただ、あの唇の感触が強烈に、今でも思い出せるほど、思い出に染みついている。
 結局、その一年後、高校への進学を機に、私はこの村を離れる。それまで、私達は、キス以上のことはしなかった。性行為が間近に迫った瞬間は、何回かあった。しかし、私は、ついぞ最後の一歩が踏み出せなかったのである。
 私は、彼女と恋仲になった時にはもう進学を考えていた。そして、そのためには、確実に村を出なければならないことも。幸い両親の反対はなかった。私の家は代々漁師であり、裕福とは決して言えない。彼らは当然長男の自分を跡取りにと考えていただろう。それを考えれば、いくら恩を感じても足りないほどである。
 そのために、私は進学をするのに障害というものは殆ど無かった。むしろ、ここまで後押しされれば、進学しなければならない程である。しかし、その私を唯一ためらわせたのが雪であった。私は彼女との交際中に、彼女を放っておいて一人でこの村を出て行くことに後ろめたさすら感じていた。それが、私を彼女との行為に及ばせることをためらわせていたのである。今にしてみれば、何を馬鹿なことをと考えてしまうが、この時の私は実に真面目にこの問題に悩んでいたのである。
 結局、この問題に悩ませられたまま、中学三年の夏になり、私はこの村を出て行くことを彼女に伝えた。彼女には、それ以上何も言わなかった。彼女の父親が一人娘を村の外に出すことに賛成する人物だとはとても思えなかったことも、この問題に暗い影を落としていた。事実、彼女はこの後、村を出たいという意向を、それとなく父親に伝えたのだが、あえなく却下された。
 それから、私は村を出て、高校生となった。彼女は進学せずに、村の中に止まり、尼漁をやっていた。
 高校の頃は長期休暇のたびに村に帰り、彼女と短いながらも逢瀬を続けていたのだが、大学になり、研究室に入り、社会人になり、仕事に忙殺されているうちに、村に帰る頻度も村に滞在できる時間も減っていき、いつの間にか彼女との関係は消滅していた。

 私は、今でも彼女のことを好きなのだろうか……私は今まで新たな恋人を作ってこなかった。水嶋雪が最初で最後の恋人である。勿論私としても、彼女に執着しているつもりはない。出会いがなかったと言えばそうでもあるし、大人になったと言えば、そうでもあるのだろう。
 少なくとも、彼女を、水嶋雪をもう一度、一目でも良い。見ることが、彼女と出会うことができれば、その答えが見つかるような気がした。自分の気持ちが、分かるような気がした。

 帰郷二日目、私は昨日父達と飲みすぎてしまったため、昼辺りまで動けず、昼過ぎに漸くのそのそと寝所を這いだした。
 朝食だか昼食だか分からない食事を食べながら祖母から聞いた所によると、父と祖父は今日も早朝から漁に繰り出しているらしい。いや、昨日私より酒を飲んでいたのだが……常日頃から飲んでいるため、耐性がついてしまっているのだろう。
 しかし、起きたからと言って、何かすることがあるわけでもない。私は、暇をもてあまし、付近をぶらぶらと散策する事にした。
 昼のことなので、太陽がカンカンに照っており、眩しすぎるくらいである。そんなに白くしないでも良いでは無いかと言いたくなる。
 そのかんかん照りの中である。私は、ぶらりと雪が嫁いだという、風原義男の家の前まで足を運んでいた。いや、自分でも相当未練がましいことをしているのは分かっている。しかし、足が勝手に向かっていったんだ。私は悪くない。
「…………」
 私は、少しの間、門を眺めていたが、引き返そうと足を後ろにやった。その時である。
「新三さん?」
 私の後ろから、懐かしい声が聞こえた。
 おそるおそる振り向く。そこには、水嶋……いや、風原雪がいた。胸に桶のようなものを抱えている。日差しから顔を守るためか、サンバイザーを頭に着けていて、その所為で顔が影になり、表情はうかがえない。
「ああ……久しぶりだな、雪」
「ええ……今日帰ってきたの?」
「いや、昨日だが、ずっと家にこもってたからな」
「そう……その、私のこと、聞いた」
「ああ。ここに入ったんだろう。おめでとう」
 自分でも、酷く心のこもっていないおめでとうだと思った。
「うん。ありがと。新三さんはどう?」
「だめだね。さっぱりだ」
「そうなんだ……」
 さっきから、雪の顔が分からなくて、いらいらする。この日差しがだんだん恨めしくなった。
「雪は……いま幸せか?」
 その言葉は不意に口から出た。自分でも何を言っているのか分からなかった。いや、昔の恋人に対して言う言葉じゃない。
「うん? ……まあ、それなりに、ね」
「そう……か」
 私は、その言葉に俄に失望した。彼女のそれが非常に他人行儀のものだったからだ。しかも、その言葉が嘘をついている風ではなかった。彼女は今の生活に、風原の嫁としての生活に、満足しているのだ。かつての自分が原因とではあるが、村を出たいと言っていた彼女はもうそこにはいないのだ。少女は大人になって、現実と折り合いを見つけ、そこに僅かばかりの幸せを見つけているのだ。
 私は彼女が途端に自分とはかけ離れた場所にいるように思えた。
 貴方は誰だ?私の知っている水嶋雪なのか?
 私は危うくそのような言葉を口に出すところであった。
 彼女は知らぬ間に大人になっている。もう少女であった頃の彼女はいない。
 その残酷な事実に、私の心は大いに暴れた。私の心が?いや、私の心の内にいる少年の私が暴れているのだ。過ぎ去りし年月のあまりの膨大さに、私の青春の死に、あの輝かしい日々が既に思い出になりはててしまっていることに。それをまざまざと目の前に見せつけられてどうして平穏が保てるであろうか。覚悟はしていた。しかし、こうもむざむざと……あからさまに……。
「大丈夫?顔色悪いようだけど」
「ああ。問題ないよ。少し太陽に当てられたかな……」
 まさか、彼女が原因だと言えはしない。しかし、その言葉が、自分も大人に変容していると言う事実を否応なしに突きつけてくる。他人の顔色をうかがい、おどおどとしている。年下の彼女にさえも。大人の、処世術だ。途端に自分が醜いもののように思えた。僕は、永遠にあの箱庭で暮らしたかった。
「……そう、なら少し涼んでいく? 麦茶ぐらいは出せるよ」
 彼女は昔を思い出させる笑顔で、言った。しかし、その顔ですら、私にはノスタルジーでは無く、むしろ、今までの変容した姿も彼女なのだ。という事実を否応なく指し示すものでしかなかった。
「……いや、せっかくだけど、家は直ぐそこだし。片付けなきゃならん用事もある。ほんの散歩のつもりだったんだよ」
「あ、それは引き留めちゃって悪いことしたかな」
「いや、昔を思い出して良かった。……さよなら」
「うん。何時でも尋ねてきてね。今度は向こうの話も聞かせて」
「ああ。約束しよう」
 私はそう言って、彼女に背を向け、帰宅の途へついた。