「あんた、ちゃんとした恋愛してるの」
ぼんやりとテレビを見ながら夕飯を食べていると、向かい側に座っていた母が言った。『ちゃんとした』と『恋愛』の言葉の意味が繋がらずに訊き返す。
「ちゃんとした恋愛って?」
「もう二十九歳なんだから、そろそろ結婚に繋がるようなちゃんとした恋愛してるのかって訊いてるのよ。仕事ばっかりで男の影も無さそうだし」
母は一気にまくし立てて、雑誌を開く。トイプードルを抱きながら笑う木田慎哉が目に飛び込んできた。
「あ、木田慎哉」
「最近よくテレビに出てる子よね。可愛いし、こんな子と結婚してくれたら、お母さんのこれまでの苦労も全部報われるわ」
どうして私が木田慎哉と結婚したら、苦労が報われるのか意味が分からなかったが、黙って母の捲るページを見つめていた。人懐っこい笑顔がいくつも並んでいる。副長の顔が浮かぶ。比べるまでもなく、副長の方がかっこいいと思った。
私が欲しいものは、誰かのいらないもので、私がいらないものは、誰かの欲しいものなのだろう。恋愛の需要と供給が合う可能性は限りなく低い。
母の言う『ちゃんとした恋愛』は、その需要と供給がぴたりと合って、結婚に至るものなのだろうか。そうであるなら、私は、世界で一番『ちゃんとした恋愛』から遠い。ページを見つめる私の視線に気づいたのか、母が大きなため息をつく。
「なに、あんた、木田慎哉が好きなの? その歳でアイドルにハマるなんてみっともないからやめなさいよ。現実を見なさい。現実を」
ちゃんとした、みっともない、現実という言葉は、昔から母が好んで使う言葉だった。
今の私は、その三つの言葉が一つも当てはまらない。
アイドルに夢中になって妻が出て行ったという噂は、銀行内にあっという間に広がった。気が狂っているとか、頭がおかしいという奥さんの批判がほとんどだったが、私は、一ケ月経った今でも離婚届を出していない副長に狂気を感じた。夫としての意地なのか、男としての執着なのか。
銀行の近くの蕎麦屋に入ると、副長が一人でざるそばを食べていた。二、三本取った蕎麦をつゆにつけて、のろのろと口に運んでいた。以前よりも尖った顎に疲れが滲んでいた。
目の前に座ると、驚いた顔をした後に、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。仕事以外で話すのは、寺川さんと三人で飲んだ日以来だった。酔っぱらって思わず不倫してくれと口走ったあの夜。なんとなく気まずい気分でいたが、今となってはそんなことはどうでもよかった。
「坂口さんもここよく来るの?」
店員にかけそばとかつ丼のセットを頼む。
「がっつり食べたい時に来るんです。ストレスが溜まった時とか」
ははっと乾いた笑い声の後に、また蕎麦を二、三本掴んでつゆにつけると、ゆっくりと啜った。いつから食べているのか、蕎麦はすっかりくっついて大きな塊になっている。
「奥さん、出て行ったんですね」
「情報が早いな。いや、先月の話だから遅いのかな」
かけそばとかつ丼のセットが運ばれてくる。副長はそばの塊を箸でいじっていた。その様子を横目に、かつ丼を勢いよくかき込む。口の中いっぱいに、じゅわりと油が染み出す。
「どうするんですか」
そばの塊をいじるのに飽きた副長は、ゆっくりとした動作でお茶を飲んだ。
「どうしていいか分からなくて。紙きれ一枚だけでも繋がっていられると思うと、簡単にハンコが押せなくてさ」
かけそばを思いっきり啜る。
「奥さんを自由にさせてあげないんですね」
「自由?」
「自由です」
副長は少しだけ目を細めた。
「自由にしたらゆかりは幸せになれるんだろうか」
出て行った妻の幸せを案じる夫。傍から見れば優しく思えるこの言葉に、粘っこくどす黒い何かが透けて見えた。
「間違えました」
「え?」
「奥さんは自由でした。不自由なのは副長の方です」
「どういう意味かな」
かつ丼の最後の一口をかき込む。かつ丼もかけそばも平らげたのに、まだ物足りなかった。
「執着でがんじがらめになってるから。思い通りに動けなくて不自由な人です」
一拍置いた後に、うん、そうかもしれないなと副長は小さな声で呟く。
「でもそういう意味なら、きっとゆかりも同じだよ」
「そうでしょうね。そんなこと言ってるあたしだって同じです」
思い通りにいかなくて不自由なことなんてこの世にたくさんある。大半のことは諦められるのに、どうしても一つだけ諦められないものを手にしてしまう。そして、その一つだけ諦められないものに全てを支配されてしまう。
思い通りにいかないのが恋だと、どっかの誰かが言っていたような気がする。叶わないのが恋だとも言っていたのは同じ誰かだろうか。
思い通りにいかなくても、叶わなくても、それでも手に入れたいと思うのが恋だ。私はそう思う。
アイドルに恋しても、既婚者に恋しても、叶わない恋なら全て同じだ。私と副長の奥さんは同じ地獄の住人だった。
「副長。今日、仕事が終わったら飲みに行きましょう」
いや、僕はそんな気分じゃなくて、勘違いされても困るしと、もごもごと喋る副長を無視し、伝票を取って立ち上がる。
「ここは私が奢るんで。夜は副長が奢ってください」
いつか寺川さんと三人で来た焼き鳥屋の個室を予約した。副長は珍しそうに部屋の中を見回した。
「何回も来てるけど、個室に入るのは初めてだな。意外とおしゃれで驚いた」
上着を脱いだシャツに皺が寄っていた。くたびれたシャツにくるまれた、くたびれた副長。どうしようもなくダサいのに、どうしようもなく愛おしくて、思わず涙が出そうになるのを堪える。
部署の誰と誰の仲が悪いという噂話や、新しく立ち上がったプロジェクトの話をした。アルコールのせいか、昼間より元気な受け答えにほっとする。
焼き鳥を串から外し、一口ずつじっくりと時間をかけて食べる副長を眺める。視線に気づいたのか、顔を上げてふっと微笑む。
疲れの滲んだ目元にはっきりとした皺が浮かんでいた。
「副長、一生のお願いです」
座布団に座り直して正座をする。
「なに? 深刻そうな顔して」
一瞬で目の前に畳が広がった。むせ返るようない草の匂い。
坂口さん、ちょっと、という副長の困った声が頭の先から降ってくる。折り畳んだ身体の奥底から声と言葉が吐き出される。
「一度でいいから抱いてください」
自分でも驚くほど低く、切羽詰まった声だった。裸になる以上に全てが剥き出しだった。頭と心と行動が全て一致した奇妙な達成感があった。永遠に感じるような沈黙。
「坂口さん」
副長に腕を掴まれて顔を上げた時、初めて自分が土下座をしていることに気づいた。
「そんなこと、君みたいな可愛くて、未来ある子がするもんじゃない。しかも、僕みたいな男にしちゃいけない」
眉間に皺が寄っていて、怒った顔だった。副長と出会ってから、一番距離が近かった。私の熱が副長の手のひらを通じて流れ込んで、飲み込もうとしている。
掴まれていた腕を掴み返す。
「土下座なんて、なんともないと思えるぐらい好きです。好きになって欲しいとか、付き合うとか、結婚するとか、そんなのどうでもいいです。ただ、私は副長に触れたいんです。触れられたいんです。ただ、それだけです。一度だけでいいんです」
惨めなのか、苦しいのか、嬉しいのか、はっきりとした感情がないのに、涙が流れていた。しばらく黙っていた副長が大きく息を吸う。
「分かった」
そう言った副長は、難しい案件を押し付けられた時と同じように眉を下げて途方に暮れたような顔をした。
ベッドに並んで腰を下ろす。横に倒れたビジネスバッグひとつ分の距離が、私の覚悟を試していた。部屋全体にプリントされたモノクロのマリリン・モンローの視線が痛いぐらいに刺さった。
「最近のラブホテルは、おしゃれなんだね」
副長は居心地悪そうにテレビを点けると、カラフルなセットの中で芸人が立ったり座ったりと忙しそうにはしゃいでいた。
チャンネルを変えると、木田慎哉が現れた。音楽番組のライトアップされたステージの中心にいた。新曲だろうか。ゴリゴリのロックサウンドに合わせて、長い脚を巧みに操りながらステップを踏む。
カメラが近づき、木田慎哉の顔がアップになる。シミひとつない肌。全ての光を吸収し、輝く大きな瞳。整った形の唇が動く。
『俺のものになれよ』
副長は瞬きもせずに、画面を見つめていた。木田慎哉から放たれた強烈な閃光が副長の顔を照らしていた。
そのまま副長の身体が光の粒になってさらさらと消えていくような気がした。手を振り、木田慎哉が去ってもじっと画面を見つめている。
次の瞬間、私はビジネスバッグを踏んづけて抱き締めていた。
「副長、好きです」
木田慎哉でも、誰かの夫でも、副長でもない、沢渡俊という男が純粋に好きだった。
身体を離すと、一瞬はっとした顔をした後に、眉毛を下げて困り果てたように笑う。目が少しだけ潤んでいるように見えた。
「ありがとう」
急に険しい顔に変わる。
「でも、やっぱり坂口さんの想いに応えることはできない。こんなところにまでのこのこ来たくせに、本当に申し訳ない」
ごくりと唾を飲み込んで、身体の奥から吐き出すように言った。
「僕は、まだゆかりのことが好きなんだ」
その言葉と一緒に、自分の身体から空気が抜けていくのを感じた。風船のようにどんどんしぼんでいく。
ぶーんという空調の音を聞きながら、ベッドに仰向けに倒れる。天井のモノクロのマリリン・モンローが私に向かって微笑んでいた。完璧な笑顔。憧れの人をアイドルというのであれば、マリリン・モンローも同じだった。世間の憧れ。手の届かない人。
しゃらくせえなと思った。しゃらくせえの意味すら分からなかったけど、しゃらくせえという言葉を世界で初めて使った人はこんな気持ちだったはずだと確信した。
「どうして私が副長を好きになったか知りたいですか」
ベッドの端に腰掛けていた副長が私を見る。
「同じ部署になった時の歓迎会で、僕の副長って役職おかしいよなって言ったんです。副なのに長って歪だし、おかしいよなって言いながら笑ったんです」
「それがどうして」
「変な人だなって思ったら、いつの間にか好きになってました」
ふはっと副長が吹き出す。背後ではオレンジ色の照明がゆらゆらと揺れていた。この照明が突然炎に変わって、この部屋を、私たちを、世界を焼き尽くしてくれればいいのにと願った。
「副長になって、初めて良かったって思ったよ」
やっぱりしゃらくせえなと思ったら一気に眠気が襲ってきた。目を閉じる。カサカサという音がして、薄い布団が身体の上に掛けられた。ポンポンと優しく肩を叩かれる。鼻の奥がつんとしたけど、思いっきり啜り上げた。
目を覚ますと、副長の姿はなかった。人がいた名残すらなく、酔っぱらって寝て起きた自分の部屋と変わらない静けさだった。起き上がって周りを見渡す。テーブルの上に置かれた一万円札だけが、確かに副長がいたことを証明していた。
ベッドサイドに埋め込まれたデジタル時計の表示は、八時半。仰向けになり、天井を見つめたまま銀行に電話を掛け、体調不良だと告げた。からからに乾燥した部屋のおかげで、いい具合に声が掠れていた。電話に出た後輩が、沢渡副長もインフルエンザにかかって休むそうなので、先輩もちゃんと検査してゆっくり休んでくださいねと言った。ありがとうと返して電話を切る。
私と会うのが気まずいとかそんな単純な理由じゃないことは分かっていた。
奥さんを探しに行ったのか、それとも離婚を決めたのか。
やっぱり私たちの需要と供給は一致しなかった。
私は副長を求め、副長は奥さんを求め、奥さんは木田慎哉を求めた。
交じりあうことのない想いだけが、ぐるぐるぐると暗く深い渦を巻いていた。そこから生きて帰ってきた人はいないというバミューダトライアングルのようだった。
そこに落ちた人間は、生きて帰ってこれないのか、生きて帰ってきたくないのかは分からない。
きっと落ちた人間にしか分からない世界がある。
這いあがれないんじゃない、這いあがりたくないのだ。今の私がそうであるように。
思いっきり泣きたいのに、涙は一滴も流れなかった。それならと大きな声で笑う。あはははと声に出すと、天井のマリリン・モンローと目が合った。
ホテルをチェックアウトし、駅までの道をのろのろと歩く。低い日差しと冷たい空気が全身を包む。
駅前のカフェに入り、サンドイッチとコーヒーを頼む。渡された番号札を手に奥のソファ席に座る。
年配の女性二人組がいるだけで、店内は閑散としていた。平日の午前十時にカフェにいるなんて大学生以来だと思った。
あの頃の私は、好きな男に抱いてくれと土下座をして、抱いてもらえない未来が待っているなんて想像もしていなかった。昔の自分にごめんと心の中で謝りながら、でも何度生まれ変わっても、結局このカフェでぼんやりと座っている未来に辿り着くような気がした。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ時だった。真正面の入口から、黒のロングコートを着たマスク姿の長身の男性が入ってきた。サングラスをしていて顔は分からない。レジで注文を終え、きょろきょろと辺りを見回し、私の斜め前の席に座った。
男性がサングラスを外した瞬間、カップを落としそうになり、慌てて持ち手を握り直す。
木田慎哉だった。
昨日の夜、テレビで見たのと同じ、真っ白な肌とサイボーグのように整った顔のパーツ。店員が運んできたカップを受け取り、目を細めながらゆっくりと飲む姿は、ファッション雑誌の一ページそのものだった。長い脚を組んで、スマートフォンをいじり始める。
副長に教えなければとバッグの中からスマートフォンを取り出す。
今、木田慎哉が目の前にいます! カフェの住所送るんで、すぐに来てください!
木田慎哉がいます! 急いで奥さんに連絡してください!
生木田慎哉に遭遇したんですけど、本当にイケメンでした!
私はいったい何を副長に教えればいいのだろうか。思い浮かんだ文面のどこにも正解はなかった。
木田慎哉が、天井に向かって思いっきり腕を伸ばし、あくびをした瞬間、女の人の歓声が遠くから聞こえたような気がした。
ため息をついて、バッグの中にスマートフォンを戻す。今の私にできることは、目の前の同じ人間とは思えない、均整の取れたスタイルの木田慎哉をただ眺めることだった。
副長のためだったら、これから先の幸せ全て捨ててもいいと思っていた。それなのに。何を考えているのか、何を求めているのかすら知ることができない現実を今すぐ捨ててしまいたいと思った。
たった一人の男のために、何もかも捨てた副長の奥さんの気持ちが痛いほど分かった。副長の気持ちはひとつも分からないのに。なんて皮肉なんだろうと思いながら、サンドイッチに齧りつく。
木田慎哉がゆっくりと立ち上がって店を出て行く。
去っていく木田慎哉の背中に願った。
あなたが副長の奥さんと出会ってさえくれれば、いつか私の恋は叶う。
だから、どうか、出会ってくれ。生きているなら、この世界に存在しているなら、天文学的に不可能といわれるような数値だったとしても、出会う可能性はあるはずだ。アイドルは偶像だが、木田慎哉という人間は実体として存在していることが、今日私の目の前で証明された。
だから、きっと、私の恋も叶わないはずはない。
何もかも終わったと思った瞬間からの大逆転がある。そんな夢みたいなことでも信じなければ、私は今この場所に、自分の形を保って座っていることすらできない。
不毛な希望を、冷めたコーヒーと一緒に流し込む。このコーヒーが身体の中に永遠に留まってくれればいいと願った。
ぼんやりとテレビを見ながら夕飯を食べていると、向かい側に座っていた母が言った。『ちゃんとした』と『恋愛』の言葉の意味が繋がらずに訊き返す。
「ちゃんとした恋愛って?」
「もう二十九歳なんだから、そろそろ結婚に繋がるようなちゃんとした恋愛してるのかって訊いてるのよ。仕事ばっかりで男の影も無さそうだし」
母は一気にまくし立てて、雑誌を開く。トイプードルを抱きながら笑う木田慎哉が目に飛び込んできた。
「あ、木田慎哉」
「最近よくテレビに出てる子よね。可愛いし、こんな子と結婚してくれたら、お母さんのこれまでの苦労も全部報われるわ」
どうして私が木田慎哉と結婚したら、苦労が報われるのか意味が分からなかったが、黙って母の捲るページを見つめていた。人懐っこい笑顔がいくつも並んでいる。副長の顔が浮かぶ。比べるまでもなく、副長の方がかっこいいと思った。
私が欲しいものは、誰かのいらないもので、私がいらないものは、誰かの欲しいものなのだろう。恋愛の需要と供給が合う可能性は限りなく低い。
母の言う『ちゃんとした恋愛』は、その需要と供給がぴたりと合って、結婚に至るものなのだろうか。そうであるなら、私は、世界で一番『ちゃんとした恋愛』から遠い。ページを見つめる私の視線に気づいたのか、母が大きなため息をつく。
「なに、あんた、木田慎哉が好きなの? その歳でアイドルにハマるなんてみっともないからやめなさいよ。現実を見なさい。現実を」
ちゃんとした、みっともない、現実という言葉は、昔から母が好んで使う言葉だった。
今の私は、その三つの言葉が一つも当てはまらない。
アイドルに夢中になって妻が出て行ったという噂は、銀行内にあっという間に広がった。気が狂っているとか、頭がおかしいという奥さんの批判がほとんどだったが、私は、一ケ月経った今でも離婚届を出していない副長に狂気を感じた。夫としての意地なのか、男としての執着なのか。
銀行の近くの蕎麦屋に入ると、副長が一人でざるそばを食べていた。二、三本取った蕎麦をつゆにつけて、のろのろと口に運んでいた。以前よりも尖った顎に疲れが滲んでいた。
目の前に座ると、驚いた顔をした後に、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた。仕事以外で話すのは、寺川さんと三人で飲んだ日以来だった。酔っぱらって思わず不倫してくれと口走ったあの夜。なんとなく気まずい気分でいたが、今となってはそんなことはどうでもよかった。
「坂口さんもここよく来るの?」
店員にかけそばとかつ丼のセットを頼む。
「がっつり食べたい時に来るんです。ストレスが溜まった時とか」
ははっと乾いた笑い声の後に、また蕎麦を二、三本掴んでつゆにつけると、ゆっくりと啜った。いつから食べているのか、蕎麦はすっかりくっついて大きな塊になっている。
「奥さん、出て行ったんですね」
「情報が早いな。いや、先月の話だから遅いのかな」
かけそばとかつ丼のセットが運ばれてくる。副長はそばの塊を箸でいじっていた。その様子を横目に、かつ丼を勢いよくかき込む。口の中いっぱいに、じゅわりと油が染み出す。
「どうするんですか」
そばの塊をいじるのに飽きた副長は、ゆっくりとした動作でお茶を飲んだ。
「どうしていいか分からなくて。紙きれ一枚だけでも繋がっていられると思うと、簡単にハンコが押せなくてさ」
かけそばを思いっきり啜る。
「奥さんを自由にさせてあげないんですね」
「自由?」
「自由です」
副長は少しだけ目を細めた。
「自由にしたらゆかりは幸せになれるんだろうか」
出て行った妻の幸せを案じる夫。傍から見れば優しく思えるこの言葉に、粘っこくどす黒い何かが透けて見えた。
「間違えました」
「え?」
「奥さんは自由でした。不自由なのは副長の方です」
「どういう意味かな」
かつ丼の最後の一口をかき込む。かつ丼もかけそばも平らげたのに、まだ物足りなかった。
「執着でがんじがらめになってるから。思い通りに動けなくて不自由な人です」
一拍置いた後に、うん、そうかもしれないなと副長は小さな声で呟く。
「でもそういう意味なら、きっとゆかりも同じだよ」
「そうでしょうね。そんなこと言ってるあたしだって同じです」
思い通りにいかなくて不自由なことなんてこの世にたくさんある。大半のことは諦められるのに、どうしても一つだけ諦められないものを手にしてしまう。そして、その一つだけ諦められないものに全てを支配されてしまう。
思い通りにいかないのが恋だと、どっかの誰かが言っていたような気がする。叶わないのが恋だとも言っていたのは同じ誰かだろうか。
思い通りにいかなくても、叶わなくても、それでも手に入れたいと思うのが恋だ。私はそう思う。
アイドルに恋しても、既婚者に恋しても、叶わない恋なら全て同じだ。私と副長の奥さんは同じ地獄の住人だった。
「副長。今日、仕事が終わったら飲みに行きましょう」
いや、僕はそんな気分じゃなくて、勘違いされても困るしと、もごもごと喋る副長を無視し、伝票を取って立ち上がる。
「ここは私が奢るんで。夜は副長が奢ってください」
いつか寺川さんと三人で来た焼き鳥屋の個室を予約した。副長は珍しそうに部屋の中を見回した。
「何回も来てるけど、個室に入るのは初めてだな。意外とおしゃれで驚いた」
上着を脱いだシャツに皺が寄っていた。くたびれたシャツにくるまれた、くたびれた副長。どうしようもなくダサいのに、どうしようもなく愛おしくて、思わず涙が出そうになるのを堪える。
部署の誰と誰の仲が悪いという噂話や、新しく立ち上がったプロジェクトの話をした。アルコールのせいか、昼間より元気な受け答えにほっとする。
焼き鳥を串から外し、一口ずつじっくりと時間をかけて食べる副長を眺める。視線に気づいたのか、顔を上げてふっと微笑む。
疲れの滲んだ目元にはっきりとした皺が浮かんでいた。
「副長、一生のお願いです」
座布団に座り直して正座をする。
「なに? 深刻そうな顔して」
一瞬で目の前に畳が広がった。むせ返るようない草の匂い。
坂口さん、ちょっと、という副長の困った声が頭の先から降ってくる。折り畳んだ身体の奥底から声と言葉が吐き出される。
「一度でいいから抱いてください」
自分でも驚くほど低く、切羽詰まった声だった。裸になる以上に全てが剥き出しだった。頭と心と行動が全て一致した奇妙な達成感があった。永遠に感じるような沈黙。
「坂口さん」
副長に腕を掴まれて顔を上げた時、初めて自分が土下座をしていることに気づいた。
「そんなこと、君みたいな可愛くて、未来ある子がするもんじゃない。しかも、僕みたいな男にしちゃいけない」
眉間に皺が寄っていて、怒った顔だった。副長と出会ってから、一番距離が近かった。私の熱が副長の手のひらを通じて流れ込んで、飲み込もうとしている。
掴まれていた腕を掴み返す。
「土下座なんて、なんともないと思えるぐらい好きです。好きになって欲しいとか、付き合うとか、結婚するとか、そんなのどうでもいいです。ただ、私は副長に触れたいんです。触れられたいんです。ただ、それだけです。一度だけでいいんです」
惨めなのか、苦しいのか、嬉しいのか、はっきりとした感情がないのに、涙が流れていた。しばらく黙っていた副長が大きく息を吸う。
「分かった」
そう言った副長は、難しい案件を押し付けられた時と同じように眉を下げて途方に暮れたような顔をした。
ベッドに並んで腰を下ろす。横に倒れたビジネスバッグひとつ分の距離が、私の覚悟を試していた。部屋全体にプリントされたモノクロのマリリン・モンローの視線が痛いぐらいに刺さった。
「最近のラブホテルは、おしゃれなんだね」
副長は居心地悪そうにテレビを点けると、カラフルなセットの中で芸人が立ったり座ったりと忙しそうにはしゃいでいた。
チャンネルを変えると、木田慎哉が現れた。音楽番組のライトアップされたステージの中心にいた。新曲だろうか。ゴリゴリのロックサウンドに合わせて、長い脚を巧みに操りながらステップを踏む。
カメラが近づき、木田慎哉の顔がアップになる。シミひとつない肌。全ての光を吸収し、輝く大きな瞳。整った形の唇が動く。
『俺のものになれよ』
副長は瞬きもせずに、画面を見つめていた。木田慎哉から放たれた強烈な閃光が副長の顔を照らしていた。
そのまま副長の身体が光の粒になってさらさらと消えていくような気がした。手を振り、木田慎哉が去ってもじっと画面を見つめている。
次の瞬間、私はビジネスバッグを踏んづけて抱き締めていた。
「副長、好きです」
木田慎哉でも、誰かの夫でも、副長でもない、沢渡俊という男が純粋に好きだった。
身体を離すと、一瞬はっとした顔をした後に、眉毛を下げて困り果てたように笑う。目が少しだけ潤んでいるように見えた。
「ありがとう」
急に険しい顔に変わる。
「でも、やっぱり坂口さんの想いに応えることはできない。こんなところにまでのこのこ来たくせに、本当に申し訳ない」
ごくりと唾を飲み込んで、身体の奥から吐き出すように言った。
「僕は、まだゆかりのことが好きなんだ」
その言葉と一緒に、自分の身体から空気が抜けていくのを感じた。風船のようにどんどんしぼんでいく。
ぶーんという空調の音を聞きながら、ベッドに仰向けに倒れる。天井のモノクロのマリリン・モンローが私に向かって微笑んでいた。完璧な笑顔。憧れの人をアイドルというのであれば、マリリン・モンローも同じだった。世間の憧れ。手の届かない人。
しゃらくせえなと思った。しゃらくせえの意味すら分からなかったけど、しゃらくせえという言葉を世界で初めて使った人はこんな気持ちだったはずだと確信した。
「どうして私が副長を好きになったか知りたいですか」
ベッドの端に腰掛けていた副長が私を見る。
「同じ部署になった時の歓迎会で、僕の副長って役職おかしいよなって言ったんです。副なのに長って歪だし、おかしいよなって言いながら笑ったんです」
「それがどうして」
「変な人だなって思ったら、いつの間にか好きになってました」
ふはっと副長が吹き出す。背後ではオレンジ色の照明がゆらゆらと揺れていた。この照明が突然炎に変わって、この部屋を、私たちを、世界を焼き尽くしてくれればいいのにと願った。
「副長になって、初めて良かったって思ったよ」
やっぱりしゃらくせえなと思ったら一気に眠気が襲ってきた。目を閉じる。カサカサという音がして、薄い布団が身体の上に掛けられた。ポンポンと優しく肩を叩かれる。鼻の奥がつんとしたけど、思いっきり啜り上げた。
目を覚ますと、副長の姿はなかった。人がいた名残すらなく、酔っぱらって寝て起きた自分の部屋と変わらない静けさだった。起き上がって周りを見渡す。テーブルの上に置かれた一万円札だけが、確かに副長がいたことを証明していた。
ベッドサイドに埋め込まれたデジタル時計の表示は、八時半。仰向けになり、天井を見つめたまま銀行に電話を掛け、体調不良だと告げた。からからに乾燥した部屋のおかげで、いい具合に声が掠れていた。電話に出た後輩が、沢渡副長もインフルエンザにかかって休むそうなので、先輩もちゃんと検査してゆっくり休んでくださいねと言った。ありがとうと返して電話を切る。
私と会うのが気まずいとかそんな単純な理由じゃないことは分かっていた。
奥さんを探しに行ったのか、それとも離婚を決めたのか。
やっぱり私たちの需要と供給は一致しなかった。
私は副長を求め、副長は奥さんを求め、奥さんは木田慎哉を求めた。
交じりあうことのない想いだけが、ぐるぐるぐると暗く深い渦を巻いていた。そこから生きて帰ってきた人はいないというバミューダトライアングルのようだった。
そこに落ちた人間は、生きて帰ってこれないのか、生きて帰ってきたくないのかは分からない。
きっと落ちた人間にしか分からない世界がある。
這いあがれないんじゃない、這いあがりたくないのだ。今の私がそうであるように。
思いっきり泣きたいのに、涙は一滴も流れなかった。それならと大きな声で笑う。あはははと声に出すと、天井のマリリン・モンローと目が合った。
ホテルをチェックアウトし、駅までの道をのろのろと歩く。低い日差しと冷たい空気が全身を包む。
駅前のカフェに入り、サンドイッチとコーヒーを頼む。渡された番号札を手に奥のソファ席に座る。
年配の女性二人組がいるだけで、店内は閑散としていた。平日の午前十時にカフェにいるなんて大学生以来だと思った。
あの頃の私は、好きな男に抱いてくれと土下座をして、抱いてもらえない未来が待っているなんて想像もしていなかった。昔の自分にごめんと心の中で謝りながら、でも何度生まれ変わっても、結局このカフェでぼんやりと座っている未来に辿り着くような気がした。
運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ時だった。真正面の入口から、黒のロングコートを着たマスク姿の長身の男性が入ってきた。サングラスをしていて顔は分からない。レジで注文を終え、きょろきょろと辺りを見回し、私の斜め前の席に座った。
男性がサングラスを外した瞬間、カップを落としそうになり、慌てて持ち手を握り直す。
木田慎哉だった。
昨日の夜、テレビで見たのと同じ、真っ白な肌とサイボーグのように整った顔のパーツ。店員が運んできたカップを受け取り、目を細めながらゆっくりと飲む姿は、ファッション雑誌の一ページそのものだった。長い脚を組んで、スマートフォンをいじり始める。
副長に教えなければとバッグの中からスマートフォンを取り出す。
今、木田慎哉が目の前にいます! カフェの住所送るんで、すぐに来てください!
木田慎哉がいます! 急いで奥さんに連絡してください!
生木田慎哉に遭遇したんですけど、本当にイケメンでした!
私はいったい何を副長に教えればいいのだろうか。思い浮かんだ文面のどこにも正解はなかった。
木田慎哉が、天井に向かって思いっきり腕を伸ばし、あくびをした瞬間、女の人の歓声が遠くから聞こえたような気がした。
ため息をついて、バッグの中にスマートフォンを戻す。今の私にできることは、目の前の同じ人間とは思えない、均整の取れたスタイルの木田慎哉をただ眺めることだった。
副長のためだったら、これから先の幸せ全て捨ててもいいと思っていた。それなのに。何を考えているのか、何を求めているのかすら知ることができない現実を今すぐ捨ててしまいたいと思った。
たった一人の男のために、何もかも捨てた副長の奥さんの気持ちが痛いほど分かった。副長の気持ちはひとつも分からないのに。なんて皮肉なんだろうと思いながら、サンドイッチに齧りつく。
木田慎哉がゆっくりと立ち上がって店を出て行く。
去っていく木田慎哉の背中に願った。
あなたが副長の奥さんと出会ってさえくれれば、いつか私の恋は叶う。
だから、どうか、出会ってくれ。生きているなら、この世界に存在しているなら、天文学的に不可能といわれるような数値だったとしても、出会う可能性はあるはずだ。アイドルは偶像だが、木田慎哉という人間は実体として存在していることが、今日私の目の前で証明された。
だから、きっと、私の恋も叶わないはずはない。
何もかも終わったと思った瞬間からの大逆転がある。そんな夢みたいなことでも信じなければ、私は今この場所に、自分の形を保って座っていることすらできない。
不毛な希望を、冷めたコーヒーと一緒に流し込む。このコーヒーが身体の中に永遠に留まってくれればいいと願った。