今日も僕らは傘をささない

 そのまま家に帰る気にはなれず、夜の駅近くを当てもなく彷徨っていた。

 遠くの方でアスファルトが濡れる臭いがする。予報に反してもうすぐ雨が降るのだろう。それまでには家に帰らなくてはならない。だが、気持ちとは裏腹に足取りは家の方には向かない。
 
 どうしてこんな気持ちにならなきゃならない。

 思いを寄せる相手と公園で二人だけの時間を過ごしていたはず。

 これもすべてあの女の所為だ。

 あいつを見てから俺の中の歯車が確実に狂っている。

 こんな気持ちになるのも久しぶりな気がする。

 何か思い通りにならないこと、思い通りにならないことがあったとしても、今までは全て自分が至らない所為だと思うようにしていた。

 それなのに今回は憤りを他人にぶつけてしまっている。

 二度と会いたいとは思わない。だが、同じ学校に通っている以上、偶然なんてこともある。そうした時、あいつはまたあの視線を向けてくるのだろうか。そうされた時、俺はどういった反応を示すのだろう。

 自分の事なのにまるで他人の事のようにわからない。

 人ごみに紛れればそんな気持ちも晴れるのではと思ったが無意味だった。

 電話をしながら歩いていたビジネスマンと思われる男性と肩がぶつかり舌打ちをされる。

 俺は逃げるようにして路地へと入った。

 今日の記憶だけ消せる装置があればいいのにと本気で思う。

 そうすれば……駄目だ。またあの女の事を考えされられている。

「ねえ、お嬢さん俺たちと少し付き合ってくれよ」

 考えを紛らわすために周囲に耳を傾けると、下卑た男の声が聞こえてくる。

「俺たちのことじっと見てただろう」
「食事だけで良いからさ」

 声のする方向に視線を向けて思わず息を飲む。

 男三人に囲まれている女性は記憶から消し去ってしまいたい相手であった。

 あの女は俺を試すように視線を向けて男たちと一緒に路地の奥へと消えていく。

 あんなのただのナンパだ。気にするようなことじゃない。見知らぬ男についていくことはあまりよくはないが、それでどうこうなるほどこの町の治安は悪くない。
 それにどうなっても俺には関係のないことだ。俺に責任は……


――聡くんが優しい人だって知ってるから――


 そのまま去ろうと足を踏み出そうとして楓の言葉が脳裏に突き刺すように響く。

 ここであの女を見捨てたら、肯定してくれた楓を裏切ることになる。そうなったら俺は今日の事を引きずって二度と楓と向き合えない気がする。

 すぐに身体を反転させてあの女が消えていった路地に向かう。

 本当に今日は厄日だ。

 角を曲がると彼女はまだそこにいた。

「いきなりいなくなったら心配するだろう」

 明るく不自然にならない程度に声をかける。

「あん? なんだ?」

 男達がこちらに気づいて一歩下がる。男の間から見えた女は変わらず俺を悲哀の色が深く刻まれた瞳で見つめている。

 少しは驚いた表情でもするかと思っていたのに全く面白くない。

「その子、僕の彼女なんです。街を案内していたんですけど逸れてしまって、探していたんです」

 口を衝いて出た嘘は身の毛がよだつほどであり、自分の舌を引き抜いてしまいたい。

「彼氏?」
「何だよ。だったら先に言えっての」

 やはり男たちは彼女に危害を加える気などなかったようで、あっさりと引き下がりその場を去って行く。

 大事にならずに安心したが、残されたのは気まずい雰囲気と話したこともない女。

「もう少し話に合わせてくれても良かったんじゃないか?」

 何も言わない彼女に文句を言う。お礼くらい言われても良いはずなのに彼女はそんなそぶりも見せない。

「そうね。次は気を付けるわ」
「次があってほしくないんだけど」

 こんな状況だというのにとても綺麗な声だと思ってしまう。

 しかしその声に反して態度は不遜だった。

 こちらに向けた視線の種類は変わらないし、漂う雰囲気は刺々しい。

 お礼を言うつもりはさらさらないらしい。

 いや、礼を言われても困るか。本心から助けようとしたわけではないのだし。
 もしかしたら俺の心根など、この女には見透かされているのかもしれない。

「行かないのかしら?」
「え?」
「私たちデート中なんでしょ。彼氏さん」

 蠱惑的な笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる。

 誰に監視されているわけでもないのだから恋人ごっこを続ける意味もない。ただこの場を立ち去れば、俺たちの関係は終わる。それでいいはずだ。
 この女が何を考えているのかさっぱりわからない。

「その場しのぎの嘘を本当にする意味はないよ」

 差し出された手を無視して会話を続ける。

「いいの? 美少女とデートが出来る唯一の機会なのに」
「自分で美少女っていうなよ。それに俺が金輪際デートが出来ないみたいな言い方も気に入らないな」
「そのままでは無理ね」
「なんでそう言える」
「死んだ魚を三日間放置したような目の人に誰も近づかないもの。あの人たちにも見る目がないと思われたでしょうね」
「なんだそれ。俺はどんな目の色をしてるんだ」

いや、指摘する点はそこではない。

「端的に言えば腐っているのよ」

 ここまで言わないとわからないのかと呆れた顔をする。
 やっぱりこの女は感謝なんて微塵もしていないし、寧ろ俺の事を嫌っている節がある。

 どうして初対面の相手にここまで言われなくてはならないのか。

 それにこの女が発する言葉、一挙手一投足、全て癪に障る。こんな人物と出会ったのは生れて初めてだ。

 言い返さなくては腹の虫がおさまらない。

「何はともあれ人助けが出来て良かったよ。君みたいな性悪女と食事なんて罰ゲームだろ。今頃あの人たちは有意義な時間を過ごしてるよ」
「へー、話したこともないのに性格がわかるの」

 こちらの反撃に汚物を見るように目を細める。

「その態度が性格の悪さを表してるよ」
「ま、否定はしないわ」
「俺はもう帰るから。次の被害者が出る前に君も帰りなよ」

 これでいい。この女に関わるのはこれで最後。もう二度と関わることはない。

 身を翻して人通りの多い道へと出ようとする。

 河のような人の流れに身を任せてしまえば、今起こった気分の悪い出来事も全て忘れられるような気がしていた。

 あと数歩で喧騒が全てをかき消してくれる。

「そうだ。言い忘れていたわ」

 彼女の言葉が俺の足を絡めてるようにして止める。振り向くことはしない。振り向いたら彼女の思う壺な気がした。

「まだ何か?」
「助けてくれてありがとう。本当にあなたは優しい人ね」

 地面の一点を見つめて思考が停止する。
 言葉の真意を確かめようと、言葉を選ぶが適切な言葉が見つからない。
 この女はどこまで知っている。何がしたい。どうして俺たちの前に姿を現した。

 問い詰めようと振り返った時にはあの女の姿はどこにもなかった。

「聡? こんなところで何してんだ?」

 不意に声を掛けられ振り返ると、そこには仙都が幽霊でも見たような表情で立っていた。

「ちょっと色々とあって」

 いい言い訳が思いつかず、あいまいな返事をしてしまう。

「へー。そうなのか」

 それでも仙都は興味なさそうに周りに視線を向けている。

「仙都はどうしてこんな時間に?」
「部活だよ。これでもうちの部は今年、県大会出てるんだぜ」

 言われて校舎の屋上からそんな垂れ幕が下がっていたことを思い出す。

「それよりも大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」

 心配する仙都を見てようやく自分が冷静ではなかったことに気が付く。
仙都は傘をさしていた。

「ああ……雨か……」

 いつの間にか降り始めていた雨は傘を差さなくてはならないほどに強くなっている。

「もう少しましなリアクション取れよ」
「今日はちょっと色々ありすぎて無理」
「みたいだな。気を付けて帰れよ」

 足取り軽く去って行く仙都をずぶ濡れのまま見送る。

「入れてはくれないんだな」

 これも仙都なりの気遣いなのかもしれない。今日はもう一人になりたい。
三年ぶりに肌で感じる雨は髪が肌に濡れて気持ち悪く思うけれど、ただそれだけであとは何も感じない。

「ほら。やっぱり治ってるじゃないか」

 雨を降らす真っ暗な空に吐き捨てると、その言葉はそのまま自分に返って来る。

 果たして俺は三年前の事をすっかり忘れてしまったのだろうか。答えは否だ。これっぽっちも忘れられてなんていない。

 そういえばあいつも傘を持っていなかったな。

 まるで幻だったかのように消えた女が俺と同じように空を見上げているような気がした。
 あの後ずぶ濡れのまま家に帰ったが、風邪を引くなどというありふれた展開はなく、雨は俺の健康に対して何ら影響を与えなかった。

 それでも雨が嫌いなことに変わりはなく、昨夜から降り続く雨を教室の窓から忌まわしく眺める。

 雨の日に学校を休むことはやめた。

 雨の日に俺が登校したら少し騒ぎになるだろうかと思ったが、思いのほか教
室の雰囲気は変わりなくいつもの日常が流れている。

 透明人間を演じてきたのだから当然の扱いか。居ても居なくても変わりない。

 窓に吹き付ける雨は未練がましく、ゆっくりと波線を描きながら落ちていく。

 そう言えばあの女もこの学校に居るのか。

 名前も名乗らず消えた女を俺は忘れることが出来なかった。あの目が今も脳裏に張り付いている。

「おーい。無視すんなよ」

 ふいに顔の前に手を出されて我に返る。

「悪いぼーっとしてた」
「体調でも悪いのか?」

 俺は無言で首を横に振る。
 本当にもう何ともないのだから心配されても困る。

「何か俺に用か?」
「用というか、何というか」

 言いづらそうな表情を浮かべて言葉を濁す。

「はっきり言えよ」
「どうして学校に来てんの?」

 この会話だけを切り取ったら仙都はかなり酷いことを言っているように聞こえるだろうが、普段の俺は雨の日に登校していなかったのだから当然だろう。

「あ、いや別に、来たら悪いとかじゃなくてさ」

 慌てる仙都に落ち着くように手を前に出す。

「意外と平気だったんだよ。知らないうちに治ってた」

 仙都は瞼をしばたたせて困惑の表情を浮かべる。

「一念発起したとか、吹っ切れたとかそんなことはないってことだよ。何も変わってない」

 そこまで言えば仙都もわかってくれるはずだ。

「なんだ。女でも出来たのかと思ったのによ」

 真意は伝わったようで、欧米の人のリアクションを真似しながら冗談を言って話題を打ち切る。

「そうだ。女といえばなんだけどさ。この学校で黒髪が綺麗で目が死んでる生徒っていない?」
「何それ?」

 自分で言っていても何を言っているのかわからなかった。
 たったそれだけの特徴でわかるはずがない。

「ごめん。忘れてくれ」
「無理だな」

 仙都は机に体重を預けて詰め寄ってくる。

「聡が女の事を聞くなんてただ事ではない。これは面白そうな匂いがするぜ」
「面白がるな。忘れろ」
「嫌だね。何があった。吐いて楽になっちまいな」

 刑事ドラマのセリフを真似をする仙都は机の筆箱を俺に向けてくる。マイクのつもりだろうか。
 刑事なの記者なのか突っ込もうとすると関山先生が意気揚々と教室へ入ってくる。

「今日からこのクラスに仲間が一人増える」

 突然の転校生に教室が異様な騒めきに包まれる。

「転校生って可愛いのかな?」

 クラスの誰かがそんな言葉を発すると、そこら中がざわめき立つ。

「転校生が女子って決めつけるなよ。男だったら可哀想だろう」

 仙都も例に漏れず、先ほどの話を忘れて興奮していた。

「入ってくれ」

 関山先生が入り口に向けて声かけるとゆったりとした足取りでその転校生は教室へと入ってくる。
 
 夜に染まったような黒髪、月の光を吸い込んだような白い肌、すらりと伸びた手足、そのどれもが既視感で埋め尽くされている。

「糸杉梓(いとすぎあずさ)です。中途半端な時期での転校ですが、これからよろしくお願いします」

 細波のように何かを洗い流すような声にも聞き覚えがあった。しかし、一部だけ違うところがある。

「超可愛い」

 仙都の呟きを合図にしてクラスにいた生徒が糸杉に詰め寄っていく。

 糸杉梓と名乗った女は日向のような笑みを浮かべて、次々に浴びせられる質問に答えていく。その瞳は戸惑いを見せ、如何にも転校生といった表情である。

 クラスの男子共は既に魅了されていた。

 関わりたくないと思っていた。二度と会いたくないと思っていた。それなのにまた出会ってしまい、クラスメイトとして関わりを持ってしまっている。

 何か見えざる手が俺を罠に嵌めようとしているとしか思えない。

「そんなに睨み付けるな。これから仲良くやっていく仲間だぞ」

 クラスメイトに囲まれる糸杉を恨めしく睨んでいると、関山先生が隣で呆れた様子で佇んでいた。

「向こうはそんなこと思ってないですよ」
「ん? 知り合いなのか?」
「別に」
「ま、そんな事よりも。音霧は放課後に指導室な」

 こちらが断りの台詞を言う前に関山先生は転校生に群がる生徒たちを鎮圧しに行く。
 どうにかして回避する方法を考えなくては。

「音霧。帰る気じゃないだろうな」

 ホームルームを一目散に下駄箱まで行くと、先程まで教壇に立っていた関山先生が壁に寄りかかって待っていた。瞬間移動でも使えるのだろうか。

「用なら昼休みにしてほしいんですが」
「昼休みは何かと忙しいし時間制限があるからな。放課後の方が拘束しやすい。今日こそは逃がさん」

 さらっと拘束とか物騒な言葉が聞こえたような。

『セッキー先生さようなら』
「さようなら。気を付けて帰るんだぞ」

 俺に向けるまなざしは厳しいのに、他の生徒へ向けるまなざしは菩薩のように穏やかである。その隙に逃げえるとしよう。ここで逃げたら明日が怖いが、明日の事は明日の俺に任せればいい。

「こら、用があると言っているだろう」

 流れに乗って帰ろうと試みるが襟を掴まれ首が締まる。
 この熱血教師は俺にとって天敵だ。

「おいおい、教師は敵ではないぞ」

 ナチュラルに思考を読まれた。教師になれば思考を読み取ることができるのだろうか。

「俺の為に時間を割いても先生の給料は変わりませんよ」
「私は金が欲しくて教師をしているわけじゃない。若人の可能性ある未来を私は守りたいと思っている。だから君のように未来を担保に毎日を浪費している子を放っておけないんだ」

 放課後の騒がしい廊下で人目も憚らずに熱弁を振るう。

 これ酔ったら『私仕事と結婚してるから』とか言っているパターンのやつだな。先生くらいの年齢なら周りも結婚しているだろうし。現実を見せてあげた方が良いかもしれない。

「先生。知ってましたか。仕事とは結婚出来ないんですよ」
「私に喧嘩を売ったのか? 受けて立つぞ」

 笑顔をこんなに怖いと思ったことはない。
 思いきり地雷を踏みぬいてしまった。

「とにかく生徒指導室までこい」
「断ったらどうなりますか?」
「来年も同じ教室で授業を受けることになる」

 この人なら本気でやりかねない。目の奥に熱血の炎が見えてしまった。更生するまで卒業させない気だ。

 目下の逃げ場だけでなく将来的な逃げ場も塞がれていた。


 放課後の廊下を並んで歩きながらこの後に起こり得ることを想像する。

 どうあっても生徒指導室に入るのは避けた方が良い。あそこは敵のテリトリーであり、逃げ場のない戦場だ。前回は無理やり脱出したが、今回は放課後ということもあり時間的な制約がない。

「俺はどうして呼び出されたんですか?」
「話を進めて早く帰宅しようという算段か」
「その通りです。早く帰らせてください」

 この教師相手に小細工はいらない。正直に答えてさっさと終わらせる。それが正解。

「音霧はどれだけ学校が嫌いなんだ。まったく、本当にどうしようもない。まあいい。質問に答えよう。私は君の助けになりたいんだ。君はもっと普通の高校生になるべきだと私は思っている」

 助けたい。普通の高校生。そういった言葉を聞くと鳥肌が立つ。

 どうして俺が困っていると思っているのか。何をもって普通であるのか。議論の種はいくつも転がっているが一つだって拾いたくはない。

「だからこの前、慈善活動がどうとか訳の分からない事を」
「私は諦めたわけじゃないぞ」
「俺は断りましたよ。ではさようなら」

 頭を下げて来た道を引き返す。しかし、再び襟を掴まれ制止させられる。

「音霧はせっかちだな。話があるのは私だけじゃないんだよ」
「その言い方だと他に誰かいることになりますけど」
「そう言ったんだ。いいから来い」

 引きずられるようにして生徒指導室へ連行される。

 嫌な予感しかしない。

 俺に用がある人間なんて限られている。というか一人を除いて思いつかない。

 昨日と何も変わらない生徒指導室の風景。しかし、そこにいる一人の女子がこの空間を異質にしていた。

 斜陽の中で窓の外を眺める糸杉梓は、この世の終わりを見ているようで儚げである。

 またこいつだ。俺の人生を妨害することがこいつの生きがいなのだろうか。

 俺に向ける負のエネルギーは今のところ感じられない。

「待たせた。かなり抵抗されてね」
「連れて来ただけ凄いと思いますよ」

 ここまで来て話を聞かずに帰ることは出来ない。促されるままソファーに座る。向かいに関山先生、はす向かいに糸杉。なんだか面談されている気持ちになる。

「で、用件は何ですか?」

 こうなったら流れに身を任すしかない。譲れないところは譲らなければいい。

 俺を見る糸杉の瞳は悲哀の色を深く刻んでいた。

 ようやくようやく発揮される負のエネルギー。教室で見る糸杉は偽物でありこっちが本物だ。更生させるべき人間はすぐ隣にいると教えてやりたい。

「音霧聡くん。私と慈善活動をしましょう」

 夕方の生徒指導室で漆黒の黒髪を靡かせながら糸杉は俺にそんな事を言った。

 何が『話があるのは私だけじゃない』だ。内容は何も変わってないじゃないか。

 というか、勧誘するのであればまずはその目をやめろと言いたい。
 
 俺に向けられているその目は歓迎には程遠いものがあった。

「慈善活動……」

 言葉にしてみたら予想通り鳥肌が立った。他人と関わることを避けて来たのに、そんな活動に参加したら今までの生き方を否定することになる。

「何を躊躇う必要があるんだ。昨日の君は人助けをしたそうじゃないか」
「なんのことです?」
「糸杉から聞いたぞ。男に襲われそうになったところ助けたのだろ」
「人違いではないですか?」

 さらっと否定しながら糸杉の様子を伺う。変わらずこちらをあの目で睨んでいる。

「音霧ほど目が腐っている人間はいない。目の腐っている生徒に助けられたと糸杉が言っているのだから間違いないだろ」

 特定の仕方がひどい。

「余計な事をしてくれたな」
「糸杉を責めるのは違うぞ。彼女は音霧を称賛しているんだ。私も君の行いを全校集会で盛大に称賛したい気持ちだよ。そうしよう。それが良い。そうすれば君は」
「絶対にやめてくださいね。不登校になりますから」

 熱血をこじらせて熱暴走をしている先生を何とかなだめる。その間も糸杉はあの目を俺に向けている。

「そうか……不登校になるのは良くないな。まあ、昨日の件からもわかるように君なら慈善活動を正しく行えると私は確信している」

 関山先生のギラギラした瞳は性根が腐った俺には毒だ。

 昨日の事がここまで尾を引くとは思いもしなかった。こうなるのなら一時の罪悪感を受け入れるべきだった。

 俺みたいな奴が慈善活動なんてなんの冗談か。

「君はもっと人との関わりを大切にするべきだ。そうして友を増やせ。友は良いぞ。悲しい時には語らい、嬉しい時には分かち合える」
「そうですか。では先生はそうした友の結婚式に参加して本気で喜べていますか?」
「成績をすべて1にされていのか?」
「すみませんでした。言いすぎでした」

 熱血の熱を冷まそうとして怒りの炎を着火してしまった。

 三十路を過ぎてはや数年。婚期を逃していることに薄々気づいている彼女に結婚の話は酷であったか。それより全ての成績に影響を及ぼせるほどの影響力を持っているこの教師はいったい何者なのだろう。

「音霧。私だって結婚を諦めたわけじゃない」
「ということは婚活をしていると」
「そうだぞ。最近は飲み屋で出会った彼と良好な関係を築いている」
「先生、話が逸れています」

 良い具合に逸らした話題を糸杉が修正する。

 結婚に悩む女教師の話を聞いて有耶無耶にしようとしていたのに。糸杉は常に俺の邪魔をしないと気が済まないのだろうか。

「それで、返事は?」

 糸杉は相変わらずゴミを見るような目を向けて聞いてくるが、聞くまでもないだろう。嫌に決まっている。密室で断りづらい空気を作ったつもりだろうが、俺には全く効果を発揮しない。

「ことわ」
「断っても良いけど。あなたが放課後、何処で、何をしているのか説明をする義務があるのよ」
「……」

背筋に嫌な予感が走る。

「あなたは学校活動には消極的で部活動にも参加していない。だったら放課後は時間が空いているはずでしょ。それにあなたは特別な事情で出席日数を優遇されている。課題をこなしているといっても他人より少し多いだけ。その課題の作成にしたって先生が時間を割いている。少しは他人に貢献しても良いんじゃないかしら」

 嵌められた。初めから俺に断る選択肢なんて存在していなかった。

 どうして二人きりではなく関山先生を交えたのか深く考えるべきだった。

 放課後何をしているかなんて言えるわけがない。それを言ってしまえばこの熱血教師の事だ。俺の世界を壊しに来ることは容易に想像できる。

 責める視線を送るが、企みが成功した糸杉にはそれすら心地良いのだろう。珍しく笑みをこちらに向けていた。もちろん悪い笑みだ。

「じゃあ、一カ月。それから正式に返事をします」

 これでどうだ。別に参加しないわけではない。しかし、一カ月すれば俺はさっさとこの部を辞める。自分に合わない活動に無理やり参加させるほど、関山先生は鬼ではないだろう。

 糸杉にはそんなことは見通されているが、基本的に人を疑わない関山先生は別だ。

「仮入部という事か……」
「はい。いきなりなので心の準備をする時間が欲しくて」
「そういう事なら良いだろう」

 ちょろい。思わず口から出そうになる。

「では話は纏まったということで」

 意気揚々と立ち上がった関山先生はロッカーから『慈善活動部』と書かれた立派な表札を取り出す。相撲部屋でも開く気なのだろうか。

「ここに慈善活動部の設立を宣言する」
「用意が良いですね」

 俺が断固としてやらないと言ったらどうしたのだろう。

「何を言っている。音霧がやらないという未来は存在しないぞ。私は君がやると言うまで勧誘する気でいたからな」

 さも当然と言うように、俺の意志は無視されていた。

「これからここは慈善活動部の部室になる。好きに使ってくれ。私は必要書類を纏めるから、あとは二人きりで交流を深めると良い。戸締りはしなくていいぞ」

 上機嫌の関山先生は鼻歌混じりに生徒指導室もとい慈善活動部室を出て行った。

 教室に美少女と二人きり。ラブコメ? 青春? 俺はそんなの望んじゃいない。

 だったら一人で放置された方が良かった。

「何が目的なんだ?」

 まさか本当に慈善活動をしたいというわけではないだろう。だったらここまで回りくどいやり方をする必要はない。俺を誘う必要なんてないんだ。

「音霧くん、私はあなたに興味があるの」

 告白ともいえる返答だが、相手が糸杉であることを考えればそれが告白ではないことは明らか。

 それにその目。悲哀の色を深く刻んだ目が気に入らない。

 この世に未練がなくて諦めてしまっているのならば勝手にそうしていれば良い。俺を巻き込もうという魂胆がその目から見え透いている。

「お前はいったい何をしたんだ」
「これからわかることよ」

 糸杉は冷然と答えると、荷物を纏めて立ち上がる。そして俺の方をちらり見ることもなく出て行った。

「さようなら」も「また明日」もない。言われたところで返す気はないが、それを見透かされたようでまた気に食わない。

 今日は完全に俺の負けだ。守ってきた放課後の時間を見事に奪われてしまった。この調子だと一カ月後に辞めるのも手こずるだろう。

 日常に戻る為に俺が何をすべきなのか、じっくりと考える必要がある。

 あの女の思い通りにさせて堪るか。

 どうにかして一カ月後に辞めてやる。それまで精々笑っているがいいさ。
 バスに揺られながら昨日の出来事を思い出して溜息が漏れる。今日は特にすべき活動は無いようで昨日のように連行されることはなかった。

 見ず知らずの他人の為に割く時間なんて俺にはない。

 いつもの公園に向かうと、今日も楓は公園のベンチで空を見上げていた。まるで空から何かが降って来るのを待っているように。

「上に何かあるのか?」

 隣に腰かけて空を見上げるが曇天が広がるだけで特に変わったことはない。

「もうすぐ雨が降るなって思ってさ」
「予報でもそんなこと言ってたな」

 雨が降ればここには居られない。この曇天もあの女の仕業な気がしてしまい意味もなく苛立ってしまう。

「どうかしたの? 顔が怖いよ」

 楓は自分の顔を指さしながら笑顔を作るように促してくる。

「何かあった感じだね」

 こんな風に慈善活動の事を話す気は無かったのだが、こうなってしまっては仕方ないので俺は昨日あったことを楓に話す。もちろん一緒に活動する糸杉が先日の女子であることは隠した。

「慈善活動ってなんだか漠然としてるね」
「そうなんだよな。俺にはあの先生の自己満足に付き合わされているとしか思えない」
「聡くんの為に頑張ってるんだから悪く言うのはダメだよ」

 果たして、この慈善活動とやらは何の目的で行われるのだろうか。関山先生は俺の為だとか言っていたが、それならば糸杉はどうしてこの活動に参加しているのだろう。

 とてもではないが糸杉が他人の為に活動するなんて想像が出来ない。
 ましてや俺の為になど絶対に動いたりしない。寧ろ俺の邪魔をする為に動いているように思える。

「それより、この前の女の子には出会えた?」
「俺の狭い交友関係じゃ見つけられなかったよ」

 嘘がばれないように視線を逸らして何でもないことのように言う。
 楓に嘘を付いているのにもかかわらず、罪悪感を抱かないのは糸杉に関することだからだろう。

 あいつになら何をしても構わない。出会って間もないというのに俺は糸杉に対して嫌悪ににた感情を抱いている。

「本当に?」
「本当だよ。どうしてそこまで拘るんだ?」
「あの子、似ている気がしたの」
「誰に?」

「……聡くんに」

 言葉を選ぶようにゆっくりと話す。
 
 一瞬むっとした感情を隠すために迫るような曇天に視線を逸らす。

 楓の直感は馬鹿にできないけれど、今回ばかりは見当違いだ。俺はあんな奴とは似ていない。

 教室での糸杉梓を思い出して呆れた笑みがこぼれる。

 あいつは典型的な転校生を演じていた。

 投げかけられる質問には朗らかに答え、物珍しさに近寄って来るクラスメイトには当たり障りのない対応をしていた。

 転校生という属性を除いてしまえば、糸杉は何処にでもいる普通の女子高生だ。時間が経てばクラスの輪の仲間入りだろう。しかしそれは偽りの姿であり、俺に向けるあの視線こそ、本当の糸杉梓だ。

 世の中を諦めてしまったように、悲哀の色が深く刻まれた瞳。それなのに俺に向けられる視線にはしっかりと憎悪を混ぜてぶつけてくる。

 俺は糸杉とは教室でコミュニケーションを取ることを避けるようにした。

 彼女の存在自体が全てを破壊しかねない爆弾のように思えて、下手に触れてしまうと取り返しのつかないことになりそうな気がしていた。

「あの子の話は辞めよう。もう二度と会うことはないんだし」
「……うん。わかった」

 本当は教室に行けば嫌でも視界に入ってしまうが、楓と会っている間だけは忘れたい。
 この時間までもあいつに邪魔されるのは御免だ。

「それでこれからなんだけど、その活動の所為でここに来る回数が減ると思う。ごめんな。寂しい思いさせて」
「大丈夫だよ。慈善活動頑張ってね」

 大きく首を振る楓の言葉に嘘はない。表情にも寂しさはなく、むしろ俺の生活の変化を喜んでいるように見えた。

 そんなことはないのだろうけれど、まるで俺と会えなくても平気だと言われているようで、心に空洞ができたような気持になる。

 あいつと出会ってから俺は泥沼に嵌ったようにずるずると沈んで行っているように感じる。どんなに足掻いたところで沼からの脱出はかなわず、糸杉の思惑通りに事が進んでいく。

 糸杉梓、あいつが大人しく慈善活動なんかするわけがない。
 何か意図があって俺を巻き込んだにきまっている。

「あ」

 楓は短く声を上げて空を見上げる。
 公園の白砂に雨の一滴が弱々しく落ちて一点のシミを作る。

「そろそろ帰らなきゃだな」

 俺たちを引き裂くような雨に世界までも俺の邪魔をしてくるようで苛立ちが募った。

 自分ではどうしようもない理不尽なことに憤るなんて久しぶりだ。

 それから数日間、慈善活動とやらは行われることはなかった。

 俺はあの日から部室に顔を出すことをせず、いつもと変わらない日常を過ごせていた。

 嵐の前の静けさのようであったが、後に来る嵐はたとえどんな備えをしたところで役に立たないだろう。

 出来るだけ素早く穏便にことを済ませ、一カ月という期間を耐え抜く。それしかここから逃れる方法はない。

 特に何もすることがない昼休みはぼーっと窓の外を眺めて過ごす。

 また雨が降り出しそうな予感がする。先日から雨が降ったり止んだりを繰り返し天気が安定しない。

 そんな天気の所為で楓に会うことが出来ていなかった。

「ねえ、聞こえていないのかしら?」

 楓の事を考えて完全に油断していた。肩に触れられた瞬間、電流を流されたように身体が跳ね上がり硬直する。
 首だけ隣に向けると糸杉がクラスメイト用の笑顔を向けて立っていた。

「校内を案内してくれないかしら」

 向けられた笑顔を見ながら器用だなと感心してしまう。

「どうして俺に?」

 教室に居る生徒皆が同じ疑問を抱いている事だろう。

 昼休みの教室には時間を持て余している生徒は幾らでもいる。先ほどまで愉快に会話をしていた女子にでも頼めばいい。

「私はクラスの皆と仲良くなりたいの」

 朗らかな表情を浮かべるけれど、向けられている目は相変わらず悲哀の色を刻んでいる。

 天使だ。糸杉さん優しい。どこからかそんな声が聞こえた。
 この目を見ればそんな考えも一瞬で吹き飛ぶ。

「わかった」

 無愛想に答えると席を立ち教室を出る。

「あれ? どこ行くんだ?」

 教室を出たところで仙都と出くわす。

「ちょっと校内案内」

 後ろに目配せをする。すぐ後ろには糸杉が笑顔を浮かべて立っている事だろう。

「あっそ」

 何か言われるかと思ったが、思いのほか興味を示さず仙都は教室へと入って行った。

 廊下を歩いていても他の生徒たちの視線が気になり居心地が悪い。

 先ほどの糸杉の言葉を思い出して寒気がする。本当は誰とも仲良くなる気なんてないくせによくあんな言葉が言えるものだ。

 人気のない階段まで来て後ろを振り返る。糸杉は何も言わずについて来ていた。

「これで満足だろう」
「思いの外、音霧くんに対する悪意が少なかったのが不満だわ。もっと嫉妬されると思っていたのに」

 もう隠す気はないらしい。張り付けていた笑顔は剥がされ、不遜な態度で不満を漏らす。

「音霧くんって意外と嫌われていないのね」

 考えを巡らせるように顎に手を当てながら話す。

「当たり前だろう。嫌われるようなことしてないし」
「そうね。存在してないみたいな扱いだものね」

 言い方に棘があったが、いちいち反応しても疲れるだけだ。

「それで俺に何の用? 校内の案内なんてとっくにしてもらってるだろう」

 校内の案内が口実であることは直ぐにわかった。だからこうして人気のない場所に来ている。

 糸杉の予想通りに事が運んでいるのか、冷たく凍ったその表情を一切変えない。

「クラスメイトから聞いたのよ。以前の音霧くんは雨の日には登校していなかったって」

 試すようにこちらを下から覗き込んで、僅かに口角を上げる。

「何か理由でもあるの?」

 奇妙に浮かべた笑顔とこの状況は相性が最悪であり、こちらの警戒心を否応なく引き上げる。

「言う必要なんてないだろ」
「そう。雨の日にはいったい何をしていたのかしらね」
「何が言いたいんだ?」

 それを知って糸杉に何の意味がある。

「交通事故」

 糸杉は俺の質問には答えず、毒針のような言葉で思考を留まらせる。

 動揺して視線を泳がせてしまいそれが過ちであると気づいた時には遅かった。
 悲哀の色が深く刻まれた瞳はそれを見逃すことは決してしない。

「この付近で増えているのだけれど知ってる?」

 何か探りを入れようとしていることは明らかであるけれど、糸杉の目からはその真意を窺い知ることは出来ない。

「知ってるわけないだろ」

 どこからともなく車の急ブレーキの音が聞こえてくる。
 気を落ち着かせるために窓の外に視線を移し外の景色を見る。

「最近になって増えているらしいの」

 俺の意志を無視して糸杉は言葉を続ける。

「それも全員女子高生」

 雨に打たれて道路に倒れる少女の光景が脳裏をよぎり頭痛がする。 

「横断歩道から飛び出しているみたいなの。どうしてかしら?」

「だから、俺が知るわけがないだろ」

 糸杉は俺の様子など気にする素振りも見せずに容赦なく続ける。その質問にどんな意味が含まれているのか。そんな事を考える余裕はない。

「そんなことより。どうして俺に関わる」

 頭痛を誤魔化しながら、毅然と糸杉に問いかける。俺が考えるべきはこいつと関係を絶つ方法だ。

 初めから俺が狙いだったのか、それともたまたまだったのか。それはわからない。だが俺をターゲットにしている事は間違いない。

 糸杉は逡巡しているのか、窓の外を見てすぐに答えなかった。

 焦らすようにたっぷりと間を取ってからこちらに振り返り、これまで見たことのない冷淡な表情で言い放つ。

「あなたに私を刻みたいの」

 意味が分からない。ただ俺は彼女が苦手だということは再認識できた。きっと水と油のように交わることはないのだろう。

「本当に訳が分からないな。お前」
「わかってもらう必要はないわ」

 理解されようとしないでどうやって相手に自分を刻む気なのだ。それこそ、強烈な印象を与えでもしない限り無理だ。

 用が済んだのか糸杉はさっさと教室へ帰ろうとして、俺がついて来ていない事に気づき蔑みの視線を送って来る。

「一人で帰ると不自然なのだけれど」
「わかってるよ」

 頭痛を誤魔化して気丈に答えて後に続く。

「そういえば」

 不意に足を止めて振り返った糸杉の表情は雨で流されてしまったように何も浮かんでいなかった。

「その交通事故は雨の日に起こるそうよ」

 嫌な記憶が脳裏にフラッシュバックする。

 女の子が宙を舞い地面に叩きつけられる映像。雨が降っているように縦に幾つもノイズが走る。

 次第に身体は平衡感覚を失い、いつの間にか俺は地面に顔を打ち付けていた。立ち上がろうとしても身体が痺れて言う事をきかない。次第に強烈な吐き気に襲われ、耐えることに気力を割かれてしまう。

 ああ、そうか。またこれか。

 俺は知らない内に発作を起こしていたようだ。治ったと思って油断していた。気づけば外はあの日と同じように強い雨が降っている。

 薄れゆく意識の中から見えた窓には大粒の雨が叩きつけていた。


 わたし――聡くんが好きなんだ。

 激しく落ちる雨音の中でも彼女の声はよく通った。

 とくに前触れがあったわけじゃない。そういった話をしていたわけじゃない。

 聞き間違いだったのだろうか。聞き直したいけれど、それをすることは男として駄目な気がする。

 すぐ隣でオレを見上げる彼女は自身の髪の色と同じように僅かに頬を赤く染めて震えている。
 
 いつもは元気で強気な彼女が今だけは小動物のようだった。

「わたし、聡くんが好きなの」

 反応を見せないオレにもう一度同じ言葉を、今度は溌溂とした声で言った。
真剣な目で見つめる彼女の瞳に嘘や冗談を感じない。目の前で起こっていることが信じられなくて、素直になれなくて、

「な、なんだよ。いきなり」

 気持ちとは裏腹なことをオレは口走っていた。

「えへへ。そうだよね。どうしてこんなこと言ったんだろう」

 彼女はいつも以上に照れくさそうに笑う。痛々しい笑顔をオレは見ていられなくて逃げるように傘から飛び出る。

「まって車」

 耳を劈くブレーキ音が彼女の声を切り裂いていく。

 まっすぐな言葉にちゃんと向き合わなかった自分を今でも恥じている。



「それじゃ教室に戻るから」
「ええ。運んでくれてありがとう」

 誰かが話している声が聞こえるが、靄がかかったようにはっきりとしない。

 奇妙な模様の天井を覚醒しきっていない頭でぼんやりと眺める。
 
 虫に食われたような模様の天井は模様の一つが動き出しそうな気がして、直視するのが嫌になり身体ごと視線を横にずらした。

「目が覚めたのね」

 スツールから少しだけ腰を浮かせて糸杉はこちらを覗き込む。垂らした髪からは淡い香りが漂ってくる。
 
 自然と目が合ってしまう。いつもと変わらない悲哀の色が深く刻まれた瞳がこちらを見据えている。

 心配なんてこれっぽっちもしていない目だ。

 周りはカーテンで仕切られて外の様子を伺うことは出来ない。しかし、ほのかに漂う消毒液の臭いで状況を察する。

「保健室か」
「そうよ。先生は休みで居ないみたいだけれど」

 室内は照明が落とされて薄暗かった。

「わざわざ運んでくれたのか」

 こいつならそのまま放置もありえそうだが、僅かながらに良心が残っていたらしい。

「お礼は越水くんにして。実際にここまで運んだのは彼だから」
「仙都が?」
「ええ。偶然通りかかったそうよ」
「そうか……あとで言っておくよ」

 わざわざ人気のない場所を選んだのだ。偶然通りかかることなんてことはあり得ない。仙都の事だから気になって尾行したのだろう。気にしていない素振りをしていたくせに。

「私も音霧くんにはお礼を言わなくてはいけないわ」
「どういう意味だ?」
「音霧くんのような社会不適合者にも優しく手を差し伸べたのよ。周囲からの評価は上がったに違いないわ」
「そうかよ」

 良心なんて露ほども残っていなかった。

「なんで周りの目とか気にするんだ? お前みたいな奴は絶対に気にしないタイプだろう」
「何を言っているの? 周囲の評判の良し悪しは慈善活動に大きく影響するのよ」

 自分への信頼が慈善活動への信頼に直結する。糸杉は本気で慈善活動をする気でいるらしい。正気の沙汰とは思えない。

「その活動でお前に何の」
「お前はやめてくれるかしら」

 お願いというよりも命令に近かった。

 自分の口から糸杉の名前が出ることに抵抗していたが、こちらを見下す人形のような大きな瞳は、それすらも見通しているように見えた。

「……糸杉にとってメリットはあるのか?」
「色々あるわよ。将来的にね」

 満足そうに微笑むと、糸杉は将来なんてまったく見据えていない曇った瞳でそんな事を口走る。どこまでが嘘で、何処までが本当なのか。それとも全てが嘘なのか。

 遠くの方でチャイムが聞こえる。糸杉はその場から離れようとはしなかった。

「授業は良いのか?」
「ええ。受けても意味ないもの」

 それは既に頭に入っていると暗に自慢しているのだろうか。どこまでいってもいけ好かない奴だ。
 糸杉は腹の前で組んだ腕を僅かに締める。

「それに……雨は、嫌いだから」

 それは俺に伝えるというよりも、水を溜め込んだ雨雲から雫がぽとりと落ちるような呟きだった。

 どんな表情でその言葉を言ったのか。

 気になりはしたけれど直視してはいけないような気がして寝返りを打つ。

「俺もだ」

 親近感なんて程遠い。けれどもそれに似たような感情が確かに芽吹いていた。

「ほんと……嫌い」

 糸杉はもう一度、自分に言い聞かせるように今度ははっきりと言い放った。

「授業サボったら周囲の評価が下がるんじゃないか?」
「お腹が痛いって越水くんには言ってあるわ」
「用意周到だな」
「ええ。私完璧だから」

 自分でそれを言ってしまうのか。しかし完璧なのは外見だけで中身は真黒だ。

「でも、いきなりお腹が痛くなるのは不自然ね。音霧くんと話すとお腹が痛くなるってことにするわ」
「そっち方が不自然だろうが。俺は何かのウイルスを口から飛ばしてるのか?」
「唾を飛ばさないで。うつるでしょ」

 糸杉の設定は確定なようで、異論は認めないというふうに鞄から取り出していた文庫本を口元に持ってくる。

「なんか楽しそうだな」
「そう見える? だったらそうなのかもしれないわね」

 否定しないということはそうなのだろう。人に毒を吐いて楽しむとは悪趣味な奴だ。

 俺と話している時の糸杉は水を得た魚のようだった。いつもは借りて来た猫のように大人しく周囲の動向を伺っている。それも監視に近いような形で。

 こいつの内面は完全に狂っている。

 そんな糸杉の様子を見ていると妙な気持ちになる。

 俺と糸杉はどこか似ている。雨が嫌いなところ、周囲と打ち解けようとしないところ。

 今さら気づいたことだが、楓と仙都を除いてこんな風に会話する相手はいない。

 それはやはり、お互いが似た者同士だからなのだろうか。

 しかし、警戒を怠ってはいけない。

 こうして本を読んでいる時でさえも彼女は俺をどのようにして追い詰めようかと考えているのだろう。

 どうしたらこの状況から抜け出せるか。

 考えに集中したいのに、窓を叩く雨音がそれをさせてくれない。

 雨なんて降らなければいいのに。

 雨音から逃れるように布団を被る。知らない内に俺は眠っていた。


 放課後の保健室は鍵が閉められ、俺は追い出される形になった。
 
 目が覚めた時には糸杉はいなかった。おそらく教室に戻ったのだろう。

 雨は放課後になっても止むことはなく、しとしと降り続けている。

 傘を持っていない俺はこのまま濡れて帰る気になれず、時間を潰すために図書室へと向かう。

 しかし扉には『暫く休館させていただきます』という立札がかけられていた。

 思い通りにはいかない。その事を最近は痛感させられる。

 とりあえず、教室に自分の荷物を取りに戻る。教室は吹奏楽部のパート練習に使われており、部外者がそのまま居座れる状況ではなかった。

 あてもなく校内をゾンビのように徘徊する。

 とにかく人気のない方へと進み、本校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下を歩く。
その先にあるのは一番近寄りたくないあの教室がある。

『慈善活動部』

 相撲部屋のように大仰な看板を下げたそこは、誰も寄せ付けないオーラを漂わせている。

 不本意ではあるが、今の俺にはここしか居場所がない。

 室内の明かりが付いてないところを見るに、誰も居ないのだろう。もしも糸杉が居たのなら濡れてでも帰ろうと思っていたが、不幸中の幸いというやつだ。

 ソファーでもう一眠りしていこう。その頃には雨も止んでいるだろう。

 大海原で木片を見つけたように俺は部室の扉を開く。

 思わず出そうになった声を無理矢理飲み込んだ。

 部室には先客がいた。

 二人掛けのソファーに糸杉は胎児のように膝を丸めて眠っている。

 捲れたスカートからは白磁のように抜けた白い肌が露になっている。

 ブレザーを脱ぐと、露になっている足へと掛ける。糸杉の為ではない。こち
らの視線のやり場がなかったからだ。

 誰にでもなく言い訳をしてから向かいのソファーに腰かける。

 普段の表情からは想像できない穏やかな寝顔に同情のような感情を抱く。

 この数日間、糸杉を見ていて印象に残ったことはない。こいつは印象に残らないように普通の生徒を演じている。あと一カ月もすれば転校生という枠組みから解放され、彼女は何処にでもいる普通の生徒になるだろう。

 誰の記憶にも残らないように、自分が居なくなっても困らないように、俺には糸杉が率先してそれらを演じているように見える。

 人を欺き、自分を欺き、世界を諦めて過ごしている。彼女が突然この世界から消えてしまっても、誰も気づきはしない。

 俺と接している時のようにもっと自由に、奔放に振る舞っていたなら、違った糸杉梓の人生があったのだろう。

 どうしてこうなってしまったのか。

 糸杉梓はこの世界に馴染めずにいる。

 普通の枠組みから外れて、それでもこの世界からは外れることは叶わず。

「ごめん……なさい」

 それまで穏やかな寝顔を見せていた糸杉はうなされているように悲痛に顔を歪ませる。目尻から薄っすらと雫が流れた。

「わたしが……」

 呟かれる寝言は雨音にかき消されて聞こえづらい。

 身を乗り出して聞き取ろうとする。

 悪夢から目覚めた糸杉が息を飲む音が聞こえる。

 合ってしまった目を離すことが出来ず、俺たちは世界から時間の概念が失われたように暫くそのままでいた。

 糸杉の透き通った瞳に驚いた表情を見せる自分が映っている。普段からは想像も出来ないくらいに綺麗な瞳だった。

「音霧くんの瞳ってどうしてこんなに汚いのかしら」

 至近距離から躊躇なく毒舌を浴びせられる。透き通るほどに綺麗な瞳は幻のように消えてなくなってしまい、いつもの悲哀の色を帯びる。

「人間は生きていれば汚れていくものだろう」
「そうね。汚れが移りそうだから半径十メートルくらい離れてもらえる?」
「それじゃあ、ここに居られないだろう」
「そう言ったのだけれど。汚れが頭まで侵食して理解できなかった?」

 憐れむように溜息まで付かれる。

「ところでどうしてここにいるのかしら?」
「いたら悪いのかよ」
「別に。あなたも一応部員なのだから悪いことはないわ。ただ不快ではあるわね」

 容赦ない毒舌に言葉が出てこない。

 不思議と糸杉は俺が何をしようとしていたのか聞いてこなかった。

 だから俺も話題にしない。あの寝言は聞かなかったことにする。そうすることが俺たちにとって一番な気がした。

「糸杉って普段からそうやっていれば良いのに」

 仕返しとばかりに皮肉を込める。

「無理よ。こんな性格がばれたら誰も友達になろうなんて思わないでしょ」
「自覚あるんだな」
「音霧くんこそ、どうして」

 糸杉の言葉を遮るように扉が開く音がする。

 ここに来る人と言えばあと一人しかいない。

「おお……これは夢か?」

 俺を見つけた関山先生は死んだ人間が生き返ったかのような表情を浮かべる。

「残念ながら現実ですよ。先生」

 さっきから何なんだこいつ。

「糸杉は俺がいると残念らしいので帰りますね」

 関山先生は横を抜けて帰ろうとする俺の肘関節を極める。その手際の良さに恐怖を覚える。

「せっかく来たんだ。活動に参加していけ」
「いててっ、これって体罰になるんじゃ」
「体罰? なにそれ美味いのか?」

 外国人に道を聞かれて全く日本語が通じない時と同じくらいの絶望感だった。

 結局ここに来た時点で俺はこうなる運命だったのだろう。諦めるしかない。

「しかし先生。俺はこの部の具体的な活動内容を知らないのですが」
「心配するな音霧。今日は私が依頼者だ」

 俺を糸杉の隣にきっちりと座らせてから関山先生はゆっくりと腰を下ろす。

 どうせ活動といっても学校の雑用をさせられるに違いない。良くてトイレ掃除かゴミ捨て場の清掃。最悪で体育倉庫の整理か。幸い今日はよく眠ったので体力は余っている。

 しかしそれが果たしてそれは慈善活動といえるのだろうか。

「少し長くなるが黙って聞いてくれ」

 これから起こる面倒なあれやこれやを想像していると、前置きを置いて咳払いをした先生は頬を僅かに赤く染めて語り始めた。

「婚約者の事なんだが……」

 え? いまなんて言った?
 驚愕して言葉が出ないこちらをよそに話を続ける。

「一緒にいても上の空というか……もしかすると他に」

「ちょっと待ってください。気持ちの整理を」

「音霧くん黙ってて」

 叱責された上に、蔑むような視線を向けられる。

「お二人の出会いを教えていただけますか?」

「出会いはとあるバーで、私と彼はそこの常連で――」

 馴れ初めを語る関山先生は嬉々として恋バナをする乙女のようである。十数年前に戻ったような彼女の話は無駄に長く、相手どうでもいい情報を永遠と聞かされる。

「それでその彼なのだが、最近は私に会うことも少なくなったんだ。もしも私に対する気持ちが冷めてしまったのなら……それだけではなく他に相手が……」

「つまり彼の気持ちを確かめたいということですね」

 糸杉が簡潔にまとめる。

 そんなもの探偵でも雇えよ。というより聞いた話だけでも浮気の可能性はたかい。関山先生の思いの重さに辟易したとかそんなところか。先生は気持ちが熱すぎる部分があるからな。

 電話をしても忙しいからと切られ、遊びに誘ってもあまり楽しそうではない。奢ってくれる回数が明らかに減った。

 状況証拠は揃っている。

 ちなみに真剣に話しているが先生とお相手の彼とのお付き合いはたったの二カ月である。

 まさかとは思うが妄想の類ではないよな。だとしたら案内する場所が探偵事務所からメンタルクリニックに変更になる。

「音霧、少しは考えていることを表情から隠せ。彼はしっかり存在しているぞ。幻覚ではない」
「すみませんでした」

 先生は人を殺したことがありそうな鋭い視線を向ける。

 読心術が可能であることを忘れていた。この人の前では心を無にする必要がある。

 糸杉が邪魔をするなと言わんばかりにこちらを睨んでくる。この場に俺の味方はいない。

「この悩みを解決することで先生の生活は改善されますか?」
「そうだな……悩みがなくなれば全力で教育に力を注げるだろうな」

 どうして俺の方を向いて答えるのだろう。悪寒がする。

 それよりも糸杉の意図が図れない。

「待て。先生の婚約者がいたことは百歩譲って疑問に思わない事にするとして」

「百歩? 精々五十歩くらいにしてくれ。さすがに傷つく」

 五十歩百歩って故事知ってますか? とは言えない。言ったら殺される。

「とにかく先生の相談と慈善活動と何の関係があるんですか?」

「音霧、君は慈善活動というものを勘違いしている」

 関山先生は立ち上がると黒板に『慈善活動』と書いていく。これから授業でも始めるような雰囲気だ。ちなみに先生の専攻は数学であり、国語とは無縁だ。

「慈善活動とは人類への愛にもとづいて、人々の生活『well being』を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指している」

 慈善活動の文字から枝分かれするように様々な活動が書き足されていく。どれも反吐が出そうなものばかりだ。

「自己の損失を顧みずに他者の利益を図る行動、それ自体が慈善活動ということになる」
「つまり他人の為に自己を犠牲にしろと言うことですか?」
「言い方に難ありだが、まあそんなところだ」

 友人や家族ならともかく、何が楽しくて自分を犠牲にして赤の他人を助けなくてはならない。

 道徳の授業を受けるつもりはない。

「おい。糸杉はこんな茶番に賛成なのか?」

 味方を求めて糸杉に話を振る。この世は民主主義。つまり多数決である。糸杉が反対に回ればこの場はこちらが正しいことになる。そしてこいつは人の為に動くような人間ではない。

「もちろん。先生のお考えは素晴らしいです。感服しました」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。感服しましたとか日常会話で使用している場面に初めて遭遇した。
 こいつがこんなことの為に労力を費やすとは到底思えない。絶対に裏があるはず。

「そうか、そうか。糸杉は理解が早くて助かる」

 そんなことは読心術の使い手である先生にだって承知のはず。それなのに何も言わないということは先生にも考えがあってのことなのだろうか。

「では話を続けよう。慈善活動部は先ほどの理念に基づいて設立された部であり、相談もしくは願いを完遂することが活動内容にないっている」

 つまり俺はこの活動を通じて他人に尽くせと言う事なのだろう。

 先生がどうして俺を選んだのかなんとなく理解できた。

「つまりここは矯正施設と言う事なんですね」
「音霧ならそう言うと思ったよ。まあ、今はそういう事にしておくか」

 関山先生は徒労に終わった熱弁に溜息を吐いてソファーへと座る。

 慈善活動部、その正体は利他的行為を目的とした生徒指導活動の一環であった。

 無理にでも逃げ出すことは出来た。それをしないのは関山先生の諦めの悪さと、糸杉に弱みのような物を握られているからだ。

「それでここまでの話を聞いて君たちはどう思う」
「その前に一つ申し上げたいのですが」

 糸杉は人差し指を立てて先生をじっと見つめる。

「結婚とは今後の人生をその人と共に歩んでいくということ。それをたった二カ月で決断してしまうのはどうかと思います。いままで出会いがなかったので、この機会を逃したくない気持ちもわからなくないです。しかし、焦っている事が露呈してしまっては相手も引いてしまいます。今の先生は結婚というニンジンを目の前に出された馬と同様です。そうして一直線に突っ走っていつの間にかそのニンジンがなくなっている。そんな事態に陥った場合、次にまた走りだすことは容易ではありませんよ。もし仮にうまく結婚までたどり着けたとしてやっぱり違う。などとなったらもっと悲惨です。今度は×が付いてしまいます。×の付いた女をいったい誰が拾って」

「糸杉、そこまでにしておけ」

 関山先生は一点を見つめて動かなくなっている。糸杉の正論という名の凶器に脳の処理が追い付いていない。

「大丈夫よ。先生はそこまで弱い人間ではないわ。実際に彼の浮気を疑っているからこそ、こうして相談しているのだもの。結婚という餌に群がるハエであったなら既に入籍しているはずよ」

 それは過大評価だと思う。むしろこの人なら婚姻届けをもう用意しているまである。

「はやり……浮気なのか」
「状況証拠だけですので確実ではありませんが、彼の気持ちは既に離れているとみていいと思います」

 俺と話す時とは違った意味で容赦がない。そんなにはっきり言う必要があったのだろうか。

「ははは……糸杉の言う通りだな……私は結婚を焦るあまり目を曇らせて……私は馬鹿だな。馬だけに……」

 そういってポケットから取り出した婚姻届けを破っていく。

 致命傷だった。先生も先生という肩書を脱いでしまえば恋する乙女なのだ。恋愛に年齢は関係ない。

「次がありますよ。きっと」
「音霧くん。どうして終わったつもりでいるのかしら?」
「まさか浮気じゃないと思ってるのか?」
「浮気の可能性は高い。けれど確定はしてないわ。物事を確定させなくては先生も前には進めません。ここは探偵を雇って調べるべきと思います」

 最終的な結論は俺と一緒であった。無駄に傷をつけた分だけ糸杉の方がたちが悪い。

 すっと立ち上がった糸杉は女神のような微笑みを携えて、項垂れる関山先生に救いの言葉を告げる。

「先生のwell beingが改善することを祈っています」
「ああ。相談に来て良かったよ。さっそく知り合いの探偵に依頼し来る」

 先生の曇った眼に生気が戻り、意気揚々と教室を後にする。

 想像とは異なっていたが、面倒な事態にならなかったことに安堵する。

「浮気調査をするとか言い出すのかと思ったよ」
「まさか」

 思わずこぼれた俺の本音にすかさず反応を示しつつ、黒板に書かれた文字を跡形もなく消していく。

「そんなことをしている暇なんてないもの」

 まるで先ほどまでの時間は無駄だったといわんばかりに黒板消しを置いた糸杉は窓際に置かれたデスクに向かう。

「じゃあ何の為に」
「音霧くん」

 言葉を遮って振り向いた糸杉は俺にいつもの視線をぶつけてくる。

「雨。止んだわよ」

 それだけ言うと再びデスクに向かう糸杉に、わざと聞こえるように舌打ちをしてから部室を後にした。

 あいつは俺が何を聞いても素直に話すようなことはしない。それなのに常に俺の邪魔をしてくる。

『あなたに私を刻みたいの』

 昼に言われた意味の分からない言葉に振り回されている自分を自覚して、廊下の窓に薄っすらと映った自分の顔を睨みつけた。


 今日も本来降りるべきバス停を通り過ぎて俺はあの公園へ向かう。

 遊具がほとんどなくなり寂しさだけが残った公園で楓は待っていた。

 俺の姿を見つけて大きく手を振る楓はあの頃と何も変わっていない。

 ここに来るまでに今日は何を話そうか考えて、糸杉の姿がちらつき不快な気分になる。その繰り返しをして何も決まらないままここまで来てしまった。

「お待たせ」
「全然、待っていないよ」

 いつものあいさつを済ませると隣に腰を掛ける。

 話を切り出すタイミングがつかめず無言の時間がしばらく流れた。

「何かあったでしょ」

 俺の様子から察した楓はこちらを覗き込むようにして聞いてくる。

「まあ、ちょっと」
「聞かせて。聡くんがどんな学校生活を送ってるのか興味あるな」

 俺の抵抗を全く無視して詰めてくる楓には糸杉の時のような不快な気持ちは感じない。それはきっと信頼関係というやつなのだろう。

「慈善活動部のことでなんだけど」

 俺は先ほどあったことをそのまま話す。

「謎な部活だね」

 楓は顎に指をあてて思案する。

「でも、聡くんにはぴったりの部活かも」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけあるよ。それに……」

 風に揺れる楓の葉に視線を逸らして独り言のように呟く。

「聡くんの優しさを独り占めするのはよくないから」

 久しぶりに楓の浮かない表情をみて、話さなければよかったと後悔する。

 こんな表情をさせるために俺はここにきているわけではない。

 あの時のように笑ってほしいだけなのに、俺はあの日から楓の本当の笑顔を見られていない。

「それで一緒に活動している子ってどんなの子なの?」

 暗かった表情をぱっと明るくした楓は身体をぴったりとくっつけて詰め寄ってくる。

「普通だよ。普通の女、の子」
「普通ってどんな感じに?」
「普通は普通だよ」

 どんなに俺が話を終わらせようとしても、興味津々の楓はその話題を終わらせようとしなかった。

 結局、この時間にまであいつが侵食してきている。

 そのうちどこからともなくあいつが現れて楓も連れ去ってしまうのではないか。そんな恐怖を覚えながら何も対策をとれない自分が情けなく思えた。



 後日、関山先生から婚約者は浮気ではなく事業の失敗で憔悴しているだけであったと聞かされた。

 俺たちの見立ては大外れだったということだ。

 相手に自分が立ち直るまで結婚は待ってほしいと言われてしまったようだが、等の本人は落ち込むどころか何も嵌められていない薬指を眺めてうっとりとしていた。おそらくいつまでも待つ気なのだろう。
 
 先生の幸せ自慢を聞いている間の糸杉は全く興味なさそうに虚空を見上げていた。
 
 やはり単純な人助けがこいつの目的ではないようだ。
 関山先生が慈善活動部について何かしらを流布したのだろう。

 あの日以降、部に依頼が来るようになった。しかし舞い込む依頼といえば倉庫の整理、用具の片づけ、荷物の搬入、落ち葉掃き、慈善活動どころか雑務ばかり。

 これでは良いように使われているだけだ。

 糸杉に異議を唱えるも『今後の為の種まきよ。地道な活動が大きな成果を生むの』なんてあの熱血教師が聞いたら泣いて喜びそうなことを言っていた。

 もちろん糸杉の本心は違うところにある。あいつが人の為世の為に働くなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。

「音霧、何処へ行く」

 ホームルームを終えた直後で賑わう教室で関山先生の呼び止める声が聞こえた気がしたが無視して廊下へ出る。

 最近は雑務の所為で楓に会えていない。こんな日が続いてしまうと俺はいつか楓の事を忘れてしまうのではないか。そんな脅迫めいた感情が渦巻いている。

「何処に行くのかしら。音霧くん」

 透き通った心地よい声が俺の足を縛り付けるように引き留める。目の前には糸杉が微笑みを湛えて立っていた。

 放課後あなたが何をしているのか私は知っているのだと悲哀の色を深く刻んだ目がそう語っている。

 楓との関係を吹聴されると楓に迷惑が掛かる。

 それは俺にとって一番避けたい未来だ。

「部室に行こうかなって」
「そうなの。では一緒に行きましょう」

 颯爽と部室に向かっていくその背中を思いきり蹴り飛ばしてやりたい。しかし、そんなことが出来るはずもなく、俺は犬のようにその後についていくしかなかった。

「その笑い方気持ち悪いから辞めたらどうだ」
「そう。上手く出来ていると思うのだけれど」

 今は確認できないけれど、おそらく糸杉は今も気味の悪い微笑みを湛えているのだろう。

 糸杉の笑みは他人が見れば慈愛に満ちた聖女のように映るのかもしれないが、俺には人形が浮かべた笑顔のように見える。

 そんな風に自分を偽ってまで人に良く思わる意味がどこにあるのだろうか。

「嘘はいつかばれるぞ」
「そんなこと言われなくてもわかっているわ」

 渡り廊下を渡り終えると声のトーンが一段下げられる。
 周りから人気がなくなったからだろう。本当に徹底している。

「もしかして私を脅してどうにかしようとか思っているの?」
「するわけないだろ。メリットがない」

 俺の即答に先を歩いていた糸杉は足を止めて振り返る。ぶつかる直前で止まった俺に刃物を突き立てるような視線を向けている。

「私で性的欲求や加虐心を満たそうという気はないみたいね」
「自意識過剰すぎるな」

 そもそもお前を異性として見たことなんて微塵もないと言ってやりたかったが、そんなことを言えば倍返しどころではない。
 放った矢がミサイルなって飛んでくる。

「どうして俺を連れて来たんだ」
「雨が降るからよ」

 まるで糸杉の言葉を合図に雨が降り始める。

 ぽつぽつと地面に斑点模様を作り出した雨は間もなく土砂降りになった。

 傘を持ち歩かない俺はこの雨の中を帰る術を持っていない。濡れて帰っても構わないが、そこまでしてける理由も意味もない。

 最近は何かと雨が多い。まるで目の前の女が降らせているのではないかと錯覚する。

「そんな目で見ないでくれる。私だって雨は嫌いなの」

 お互いに責任を押し付けるように睨み合う。

「私が引き留めていなかったらびしょ濡れで無様に倒れていたかもしれないわね」

 それはそれで面白そうだけど、と僅かに上がった口角が語っている。

「はいはい、ありがとうございました。それでこの雨、いつ止むんだ?」
「知らないわ。そんなこと。もうどうでも良い事でしょ」

 雨が降ってしまっては例えこの後止んだとしても公園に行くことはない。そんなことは当然糸杉もわかっている。

 最近は思い通りにならない事が増えた気がする。

 何も抵抗できぬまま牢獄のような部室へと到着する。

 温かみのない半分倉庫のその部屋は俺たちにはお似合いな気がしないでもない。

「そういえばあの公園。幽霊が出るそうよ」

 世間話でも始めるように語りだす。

 あの公園とは楓と会っているあの公園を指すのだろう。

「近所の子供が言っていたわ。誰も近寄らないって」
「……どおりで誰も居ないわけだ」

 糸杉は俺の反応を逃さないようにじっと見据えていたが、暫くすると飽きたのか視線を外して荷物を降ろす。

「私は音霧くんを居ないものとして扱うから。ここに居てもいいわよ」
「ここにいることに糸杉の許可が必要だなんて初めて知ったな」
「…………」

 無視された。

 仕方なしに俺はソファーに腰かけて本を取り出す。糸杉は向かいにある事務用の机に向かって何かを書いていた。その背中を憎々しく睨んだが、すぐに取り出した本に視線を降ろす。

 読書を始めるとすぐに眠気が襲ってきてうとうとしてしまう。
 
 それでも眠気に抗い数ページを読み上げたころで、

「来たわね」

 糸杉が訳のわからないことを呟いた。

「何が?」

 その問いの答えは直ぐにわかることになる。

 訪問者を知らせる弱々しいノックが部室に響く。

「どうぞ」

 糸杉は机に広げていたノート類を丁寧な手つきで鞄にしまうと、扉に向かって声を掛けた。

「し、失礼しまうっ!」

 余程、緊張しているのか、上ずった声の主は語尾を噛んでしまう。

 そっと扉を開けて顔だけを覗かせたのは高校生にしては幼さを残した女子だった。

 ウェーブの掛かった長い髪が彼女をより幼く見せている。人形のような外見は相手の保護欲を引き出す。

 外見的にはあまり人のいない文化部、もしくは運動部のマネージャーだろうか。

 どちらにしても雑務の可能性が高い。これ以上は勘弁してほしい。これではボラティアと何が違うのかわからなくなる。

 彼女は俺たちを見つけると目を見開いて怯えだす。

「ご、ごめんなさい。お邪魔しました」

 糸杉はすかさず扉を閉めて帰ろうとする彼女の腕をつかんで引きずり込む。こういった時には異常な素早さを発揮する。

「どうして謝るのかしら」
「え、だって、その、お取込み中ですよね?」

 彼女は頬を赤く染めて俺たちを交互に見る。

 壮大な勘違いをされている。

 それは糸杉も同じであるのか不愉快な表情をしていた。

「あなたにはここにもう一人いるように見えるのかしら」

 俺の存在を消されている。確かにさっき居ないものと扱うとか言っていたが。

「へ? だってそこに」
「ねえ、怖い事を言わないで貰えるかしら」

 ばっちりと彼女と目が合うが、彼女は曖昧な笑みを浮かべると軽く会釈して視線を逸らす。

「一人でしたね」

 この空気に合わせることを決意したらしい。

「糸杉、後輩を虐めるはそこまでにしてやれ」
「私は音霧くんを虐めていたはずなのだけれど」

 そっちだったか。そんなことよりも、その底意地の悪さを隠さなくていいのだろうか。

「良かった。幽霊じゃないんですね」

 心の底から安堵したように胸を押さえて溜息を零す。なんだか悪いことをした気分になる。悪いのは糸杉だけど。

「ごめんなさい。音霧くんの所為で不快な思いをさせてしまって」
「100パーセント糸杉の所為だけどな」
「音霧くんが存在しているからいけないのよ」
「存在を否定するな。本当に虐めに発展するだろうが」
「虐めとは嫉妬や優越といった何かしらの感情がその相手になければ起こらないものよ。その点、音霧くんは誰からも相手にされていないから平気じゃないからしら」

 これ以上責めてもこちらの傷口が広がるだけだ。もう辞めよう。

「話が進まないからやめよう」
「同感ね。じゃあ目の前から消えて貰える」
「俺の話聞いてたか?」
「お二人とも仲が良いですね」
「あなたにはそう見えたのかしら」
「はい!」
「……そう」

 少女の微笑みに糸杉の毒も浄化されてしまい、何も言えずにいた。

 どんな言葉も毒に変えてしまう糸杉も無垢な笑顔の前には無力であった。

 糸杉に弱点を見つけはしたが、俺には到底使えそうにない。俺はこの子と違い性根が腐っている。自分で言うと言われるよりも悲しくなるな。

「とにかく座って。話があるのでしょ」
「はい。失礼します」

 彼女は勧められるままにソファーに座る。彼女の正面に糸杉も座りようやく話が聞ける態勢になった。

「えっと。まずは自己紹介ですよね。一年の小紫陽花(こむらさきはるか)です。ここへは関山先生の紹介で来ました」
「糸杉梓よ。よろしく小紫さん」

 今さらのように他人様用の笑顔で対応する。

「音霧聡です。よろしく」
「糸杉先輩に、音霧先輩ですね。よろしくお願いします」

 純粋で無垢な眩しい笑顔。そこには1パーセントも偽りがない。どこかの誰かさんとは大違いだった。

 糸杉の偽物の笑顔を見せられて、微塵も警戒しない純粋さが逆に恐ろしい。

 どんな育て方をされたらこんな純粋な子に育つのだろうか。

「じゃあ話を聞かせて貰えるかしら」
「はい……」

 それまで陽だまりのように暖かな笑顔が深刻な表情へと急変する。

「実は最近、後を付けられているみたいなんです」

 話しながら小紫はどんどん萎れていく。

「その根拠は?」

 糸杉の視線が鋭くなる。

「視線を感じるんです」

 根拠と言うには曖昧だ。

「それだけ?」
「はい……ただ後ろを付いてきているだけでして」
「そう……」

 糸杉は目を閉じて考えに耽る。

 ストーカーと決めつけるには根拠があまりにも薄い。これでは警察に相談したところで気のせいで片づけられてしまう。ただ用心に越したことはない。問題があるとすれば警察以外の大人、例えば探偵を雇うにしても金がかかるという事。高校生が頼れる大人は限られている。親に相談しないということは何か特別な事情があると予想できる。

「やっぱり気のせいですよね。それに視線を感じるのは雨の日だけですし、雨音が足音に聞こえているだけかもしれません」

 雨の日。その一言を聞いて糸杉は閉じていた目を開いてあの瞳を小紫に向ける。

「典型的なストーカーね」

 はっきりと室内の空気が変わったのを感じる。

「決めつけるのはどうかと思うぞ」
「被害がないのは度胸がないだけよ。近いうちに行動に移す可能性だってある」

 俺の意見なんて聞く耳を持たず、糸杉の中ではすでに答えは出ていた。

「その悩み私たちが解決するわ」

 俺の言葉を無視して糸杉は高々と宣言するように告げる。

「良いんですか? 相談しに来ておいてこんなこと言うのは変だと思いますが、まさか快く受けてくれると思っていなくて」

「相談者の生活に支障が出ているのなら、どんなことでも引き受けるわ。それにストーカーは放っておいたら必ずエスカレートするもの」

 糸杉の中ではストーカーは決定事項らしい。流れはこの以前と似ている。ただ違うとすれば今回は自分たちが動くという事。

「ストーカーと決めけるには早くないか?」
「か弱い女の子を付け回してストーカーではない理由がどこにあるのかしら」
「それは……片思いしている男子とか」
「いかにも音霧くんが考えそうなことね。もしかして経験者?」

 気持ち悪い、と言葉に出さなくても目が語っている。

「そんな経験ない。だけどその可能性もあるってことを言いたいだけだ」

 蓋を開けてみるまで何が出て来るのかわからない。それに蓋を開けてみて本当のストーカーであった場合、俺たちにどんな対処方法あるというのか。

「告白する勇気がないから陰ながら見つめるのって、されている方は気持ち悪いだけなのよ。ずっと好きでしたって言えば純情みたいに聞こえるけれど、行動力や決断力の欠如を自分で曝け出しているだけ。それに告白するまでの間、発散することの出来ないその感情はどうやって抑え込んでいたのかしら。自分で慰めていたのだとしたら」

「もういい。そこまでにしてやれ」

 どうやら糸杉の方は経験があるらしい。主に被害者側で。

「どちらにしても視線の正体を突き止める必要があるでしょ。そうでなくては小紫さんの生活に支障がでるわ」

 糸杉の言っていることはもっともであり、正体不明の視線に困っているのは事実だ。

「すみません。こんなことお願いしてしまい」
「気にする必要はないわ。これがこの部の存在意義なのだから」

 糸杉は立ち上がるとすっと小紫に手を差し伸べる。

「あなたのwell beingを改善しましょう」

「はい!」

 出された手を握り、目を輝かせる小紫には糸杉が女神のように映っているのだろう。

 まるで宗教の布教活動に参加させられている気分だ。

 こうして視線の正体を暴く活動が開始されるのだが、やはりこういう事は学生のすることではないように思えてならない。

 この部の方向性が未だに掴めていない。最終的にはどこへ行きたいのだろうか。

「じゃあ、本格的な活動は明日からにしましょう」

 糸杉は有無を言わさずそのまま部室を出て行った。

 不敵に浮かべた糸杉の笑みが嫌な予感をさせる。どうせ碌な事を考えていない。

「糸杉先輩って格好いいですね」
「小紫にはそう見えるんだな。俺には性悪女にしか見えない」
「それはきっと音霧先輩に気を許しているという事ですよ」

 糸杉が俺に気を許すなんてこと絶対にあり得ない。糸杉はどうにかして俺を陥れようとしている。

「それではわたしも今日は失礼します」
「送っていこうか?」
「今日は親が迎えに来るので大丈夫です」
「そうか。それじゃまた明日」
「はい。また明日です」

 ソファーへ寝転がるとたった今自分の口から出た言葉を反芻する。

 また明日。つまり俺は明日楓に会いに行かないという事。明日だけではなくこの件が解決するまではこの別れの挨拶は繰り返される。

 楓に事情を説明したくても窓を打ち付ける雨は止みそうにない。

 急に襲ってきた睡魔に俺はそのまま身を預けることにした。目が覚めた時に雨がやんでいることを願って。