「音霧。帰る気じゃないだろうな」

 ホームルームを一目散に下駄箱まで行くと、先程まで教壇に立っていた関山先生が壁に寄りかかって待っていた。瞬間移動でも使えるのだろうか。

「用なら昼休みにしてほしいんですが」
「昼休みは何かと忙しいし時間制限があるからな。放課後の方が拘束しやすい。今日こそは逃がさん」

 さらっと拘束とか物騒な言葉が聞こえたような。

『セッキー先生さようなら』
「さようなら。気を付けて帰るんだぞ」

 俺に向けるまなざしは厳しいのに、他の生徒へ向けるまなざしは菩薩のように穏やかである。その隙に逃げえるとしよう。ここで逃げたら明日が怖いが、明日の事は明日の俺に任せればいい。

「こら、用があると言っているだろう」

 流れに乗って帰ろうと試みるが襟を掴まれ首が締まる。
 この熱血教師は俺にとって天敵だ。

「おいおい、教師は敵ではないぞ」

 ナチュラルに思考を読まれた。教師になれば思考を読み取ることができるのだろうか。

「俺の為に時間を割いても先生の給料は変わりませんよ」
「私は金が欲しくて教師をしているわけじゃない。若人の可能性ある未来を私は守りたいと思っている。だから君のように未来を担保に毎日を浪費している子を放っておけないんだ」

 放課後の騒がしい廊下で人目も憚らずに熱弁を振るう。

 これ酔ったら『私仕事と結婚してるから』とか言っているパターンのやつだな。先生くらいの年齢なら周りも結婚しているだろうし。現実を見せてあげた方が良いかもしれない。

「先生。知ってましたか。仕事とは結婚出来ないんですよ」
「私に喧嘩を売ったのか? 受けて立つぞ」

 笑顔をこんなに怖いと思ったことはない。
 思いきり地雷を踏みぬいてしまった。

「とにかく生徒指導室までこい」
「断ったらどうなりますか?」
「来年も同じ教室で授業を受けることになる」

 この人なら本気でやりかねない。目の奥に熱血の炎が見えてしまった。更生するまで卒業させない気だ。

 目下の逃げ場だけでなく将来的な逃げ場も塞がれていた。


 放課後の廊下を並んで歩きながらこの後に起こり得ることを想像する。

 どうあっても生徒指導室に入るのは避けた方が良い。あそこは敵のテリトリーであり、逃げ場のない戦場だ。前回は無理やり脱出したが、今回は放課後ということもあり時間的な制約がない。

「俺はどうして呼び出されたんですか?」
「話を進めて早く帰宅しようという算段か」
「その通りです。早く帰らせてください」

 この教師相手に小細工はいらない。正直に答えてさっさと終わらせる。それが正解。

「音霧はどれだけ学校が嫌いなんだ。まったく、本当にどうしようもない。まあいい。質問に答えよう。私は君の助けになりたいんだ。君はもっと普通の高校生になるべきだと私は思っている」

 助けたい。普通の高校生。そういった言葉を聞くと鳥肌が立つ。

 どうして俺が困っていると思っているのか。何をもって普通であるのか。議論の種はいくつも転がっているが一つだって拾いたくはない。

「だからこの前、慈善活動がどうとか訳の分からない事を」
「私は諦めたわけじゃないぞ」
「俺は断りましたよ。ではさようなら」

 頭を下げて来た道を引き返す。しかし、再び襟を掴まれ制止させられる。

「音霧はせっかちだな。話があるのは私だけじゃないんだよ」
「その言い方だと他に誰かいることになりますけど」
「そう言ったんだ。いいから来い」

 引きずられるようにして生徒指導室へ連行される。

 嫌な予感しかしない。

 俺に用がある人間なんて限られている。というか一人を除いて思いつかない。

 昨日と何も変わらない生徒指導室の風景。しかし、そこにいる一人の女子がこの空間を異質にしていた。

 斜陽の中で窓の外を眺める糸杉梓は、この世の終わりを見ているようで儚げである。

 またこいつだ。俺の人生を妨害することがこいつの生きがいなのだろうか。

 俺に向ける負のエネルギーは今のところ感じられない。

「待たせた。かなり抵抗されてね」
「連れて来ただけ凄いと思いますよ」

 ここまで来て話を聞かずに帰ることは出来ない。促されるままソファーに座る。向かいに関山先生、はす向かいに糸杉。なんだか面談されている気持ちになる。

「で、用件は何ですか?」

 こうなったら流れに身を任すしかない。譲れないところは譲らなければいい。

 俺を見る糸杉の瞳は悲哀の色を深く刻んでいた。

 ようやくようやく発揮される負のエネルギー。教室で見る糸杉は偽物でありこっちが本物だ。更生させるべき人間はすぐ隣にいると教えてやりたい。

「音霧聡くん。私と慈善活動をしましょう」

 夕方の生徒指導室で漆黒の黒髪を靡かせながら糸杉は俺にそんな事を言った。

 何が『話があるのは私だけじゃない』だ。内容は何も変わってないじゃないか。

 というか、勧誘するのであればまずはその目をやめろと言いたい。
 
 俺に向けられているその目は歓迎には程遠いものがあった。

「慈善活動……」

 言葉にしてみたら予想通り鳥肌が立った。他人と関わることを避けて来たのに、そんな活動に参加したら今までの生き方を否定することになる。

「何を躊躇う必要があるんだ。昨日の君は人助けをしたそうじゃないか」
「なんのことです?」
「糸杉から聞いたぞ。男に襲われそうになったところ助けたのだろ」
「人違いではないですか?」

 さらっと否定しながら糸杉の様子を伺う。変わらずこちらをあの目で睨んでいる。

「音霧ほど目が腐っている人間はいない。目の腐っている生徒に助けられたと糸杉が言っているのだから間違いないだろ」

 特定の仕方がひどい。

「余計な事をしてくれたな」
「糸杉を責めるのは違うぞ。彼女は音霧を称賛しているんだ。私も君の行いを全校集会で盛大に称賛したい気持ちだよ。そうしよう。それが良い。そうすれば君は」
「絶対にやめてくださいね。不登校になりますから」

 熱血をこじらせて熱暴走をしている先生を何とかなだめる。その間も糸杉はあの目を俺に向けている。

「そうか……不登校になるのは良くないな。まあ、昨日の件からもわかるように君なら慈善活動を正しく行えると私は確信している」

 関山先生のギラギラした瞳は性根が腐った俺には毒だ。

 昨日の事がここまで尾を引くとは思いもしなかった。こうなるのなら一時の罪悪感を受け入れるべきだった。

 俺みたいな奴が慈善活動なんてなんの冗談か。

「君はもっと人との関わりを大切にするべきだ。そうして友を増やせ。友は良いぞ。悲しい時には語らい、嬉しい時には分かち合える」
「そうですか。では先生はそうした友の結婚式に参加して本気で喜べていますか?」
「成績をすべて1にされていのか?」
「すみませんでした。言いすぎでした」

 熱血の熱を冷まそうとして怒りの炎を着火してしまった。

 三十路を過ぎてはや数年。婚期を逃していることに薄々気づいている彼女に結婚の話は酷であったか。それより全ての成績に影響を及ぼせるほどの影響力を持っているこの教師はいったい何者なのだろう。

「音霧。私だって結婚を諦めたわけじゃない」
「ということは婚活をしていると」
「そうだぞ。最近は飲み屋で出会った彼と良好な関係を築いている」
「先生、話が逸れています」

 良い具合に逸らした話題を糸杉が修正する。

 結婚に悩む女教師の話を聞いて有耶無耶にしようとしていたのに。糸杉は常に俺の邪魔をしないと気が済まないのだろうか。

「それで、返事は?」

 糸杉は相変わらずゴミを見るような目を向けて聞いてくるが、聞くまでもないだろう。嫌に決まっている。密室で断りづらい空気を作ったつもりだろうが、俺には全く効果を発揮しない。

「ことわ」
「断っても良いけど。あなたが放課後、何処で、何をしているのか説明をする義務があるのよ」
「……」

背筋に嫌な予感が走る。

「あなたは学校活動には消極的で部活動にも参加していない。だったら放課後は時間が空いているはずでしょ。それにあなたは特別な事情で出席日数を優遇されている。課題をこなしているといっても他人より少し多いだけ。その課題の作成にしたって先生が時間を割いている。少しは他人に貢献しても良いんじゃないかしら」

 嵌められた。初めから俺に断る選択肢なんて存在していなかった。

 どうして二人きりではなく関山先生を交えたのか深く考えるべきだった。

 放課後何をしているかなんて言えるわけがない。それを言ってしまえばこの熱血教師の事だ。俺の世界を壊しに来ることは容易に想像できる。

 責める視線を送るが、企みが成功した糸杉にはそれすら心地良いのだろう。珍しく笑みをこちらに向けていた。もちろん悪い笑みだ。

「じゃあ、一カ月。それから正式に返事をします」

 これでどうだ。別に参加しないわけではない。しかし、一カ月すれば俺はさっさとこの部を辞める。自分に合わない活動に無理やり参加させるほど、関山先生は鬼ではないだろう。

 糸杉にはそんなことは見通されているが、基本的に人を疑わない関山先生は別だ。

「仮入部という事か……」
「はい。いきなりなので心の準備をする時間が欲しくて」
「そういう事なら良いだろう」

 ちょろい。思わず口から出そうになる。

「では話は纏まったということで」

 意気揚々と立ち上がった関山先生はロッカーから『慈善活動部』と書かれた立派な表札を取り出す。相撲部屋でも開く気なのだろうか。

「ここに慈善活動部の設立を宣言する」
「用意が良いですね」

 俺が断固としてやらないと言ったらどうしたのだろう。

「何を言っている。音霧がやらないという未来は存在しないぞ。私は君がやると言うまで勧誘する気でいたからな」

 さも当然と言うように、俺の意志は無視されていた。

「これからここは慈善活動部の部室になる。好きに使ってくれ。私は必要書類を纏めるから、あとは二人きりで交流を深めると良い。戸締りはしなくていいぞ」

 上機嫌の関山先生は鼻歌混じりに生徒指導室もとい慈善活動部室を出て行った。

 教室に美少女と二人きり。ラブコメ? 青春? 俺はそんなの望んじゃいない。

 だったら一人で放置された方が良かった。

「何が目的なんだ?」

 まさか本当に慈善活動をしたいというわけではないだろう。だったらここまで回りくどいやり方をする必要はない。俺を誘う必要なんてないんだ。

「音霧くん、私はあなたに興味があるの」

 告白ともいえる返答だが、相手が糸杉であることを考えればそれが告白ではないことは明らか。

 それにその目。悲哀の色を深く刻んだ目が気に入らない。

 この世に未練がなくて諦めてしまっているのならば勝手にそうしていれば良い。俺を巻き込もうという魂胆がその目から見え透いている。

「お前はいったい何をしたんだ」
「これからわかることよ」

 糸杉は冷然と答えると、荷物を纏めて立ち上がる。そして俺の方をちらり見ることもなく出て行った。

「さようなら」も「また明日」もない。言われたところで返す気はないが、それを見透かされたようでまた気に食わない。

 今日は完全に俺の負けだ。守ってきた放課後の時間を見事に奪われてしまった。この調子だと一カ月後に辞めるのも手こずるだろう。

 日常に戻る為に俺が何をすべきなのか、じっくりと考える必要がある。

 あの女の思い通りにさせて堪るか。

 どうにかして一カ月後に辞めてやる。それまで精々笑っているがいいさ。