そのまま家に帰る気にはなれず、夜の駅近くを当てもなく彷徨っていた。
遠くの方でアスファルトが濡れる臭いがする。予報に反してもうすぐ雨が降るのだろう。それまでには家に帰らなくてはならない。だが、気持ちとは裏腹に足取りは家の方には向かない。
どうしてこんな気持ちにならなきゃならない。
思いを寄せる相手と公園で二人だけの時間を過ごしていたはず。
これもすべてあの女の所為だ。
あいつを見てから俺の中の歯車が確実に狂っている。
こんな気持ちになるのも久しぶりな気がする。
何か思い通りにならないこと、思い通りにならないことがあったとしても、今までは全て自分が至らない所為だと思うようにしていた。
それなのに今回は憤りを他人にぶつけてしまっている。
二度と会いたいとは思わない。だが、同じ学校に通っている以上、偶然なんてこともある。そうした時、あいつはまたあの視線を向けてくるのだろうか。そうされた時、俺はどういった反応を示すのだろう。
自分の事なのにまるで他人の事のようにわからない。
人ごみに紛れればそんな気持ちも晴れるのではと思ったが無意味だった。
電話をしながら歩いていたビジネスマンと思われる男性と肩がぶつかり舌打ちをされる。
俺は逃げるようにして路地へと入った。
今日の記憶だけ消せる装置があればいいのにと本気で思う。
そうすれば……駄目だ。またあの女の事を考えされられている。
「ねえ、お嬢さん俺たちと少し付き合ってくれよ」
考えを紛らわすために周囲に耳を傾けると、下卑た男の声が聞こえてくる。
「俺たちのことじっと見てただろう」
「食事だけで良いからさ」
声のする方向に視線を向けて思わず息を飲む。
男三人に囲まれている女性は記憶から消し去ってしまいたい相手であった。
あの女は俺を試すように視線を向けて男たちと一緒に路地の奥へと消えていく。
あんなのただのナンパだ。気にするようなことじゃない。見知らぬ男についていくことはあまりよくはないが、それでどうこうなるほどこの町の治安は悪くない。
それにどうなっても俺には関係のないことだ。俺に責任は……
――聡くんが優しい人だって知ってるから――
そのまま去ろうと足を踏み出そうとして楓の言葉が脳裏に突き刺すように響く。
ここであの女を見捨てたら、肯定してくれた楓を裏切ることになる。そうなったら俺は今日の事を引きずって二度と楓と向き合えない気がする。
すぐに身体を反転させてあの女が消えていった路地に向かう。
本当に今日は厄日だ。
角を曲がると彼女はまだそこにいた。
「いきなりいなくなったら心配するだろう」
明るく不自然にならない程度に声をかける。
「あん? なんだ?」
男達がこちらに気づいて一歩下がる。男の間から見えた女は変わらず俺を悲哀の色が深く刻まれた瞳で見つめている。
少しは驚いた表情でもするかと思っていたのに全く面白くない。
「その子、僕の彼女なんです。街を案内していたんですけど逸れてしまって、探していたんです」
口を衝いて出た嘘は身の毛がよだつほどであり、自分の舌を引き抜いてしまいたい。
「彼氏?」
「何だよ。だったら先に言えっての」
やはり男たちは彼女に危害を加える気などなかったようで、あっさりと引き下がりその場を去って行く。
大事にならずに安心したが、残されたのは気まずい雰囲気と話したこともない女。
「もう少し話に合わせてくれても良かったんじゃないか?」
何も言わない彼女に文句を言う。お礼くらい言われても良いはずなのに彼女はそんなそぶりも見せない。
「そうね。次は気を付けるわ」
「次があってほしくないんだけど」
こんな状況だというのにとても綺麗な声だと思ってしまう。
しかしその声に反して態度は不遜だった。
こちらに向けた視線の種類は変わらないし、漂う雰囲気は刺々しい。
お礼を言うつもりはさらさらないらしい。
いや、礼を言われても困るか。本心から助けようとしたわけではないのだし。
もしかしたら俺の心根など、この女には見透かされているのかもしれない。
「行かないのかしら?」
「え?」
「私たちデート中なんでしょ。彼氏さん」
蠱惑的な笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる。
誰に監視されているわけでもないのだから恋人ごっこを続ける意味もない。ただこの場を立ち去れば、俺たちの関係は終わる。それでいいはずだ。
この女が何を考えているのかさっぱりわからない。
「その場しのぎの嘘を本当にする意味はないよ」
差し出された手を無視して会話を続ける。
「いいの? 美少女とデートが出来る唯一の機会なのに」
「自分で美少女っていうなよ。それに俺が金輪際デートが出来ないみたいな言い方も気に入らないな」
「そのままでは無理ね」
「なんでそう言える」
「死んだ魚を三日間放置したような目の人に誰も近づかないもの。あの人たちにも見る目がないと思われたでしょうね」
「なんだそれ。俺はどんな目の色をしてるんだ」
いや、指摘する点はそこではない。
「端的に言えば腐っているのよ」
ここまで言わないとわからないのかと呆れた顔をする。
やっぱりこの女は感謝なんて微塵もしていないし、寧ろ俺の事を嫌っている節がある。
どうして初対面の相手にここまで言われなくてはならないのか。
それにこの女が発する言葉、一挙手一投足、全て癪に障る。こんな人物と出会ったのは生れて初めてだ。
言い返さなくては腹の虫がおさまらない。
「何はともあれ人助けが出来て良かったよ。君みたいな性悪女と食事なんて罰ゲームだろ。今頃あの人たちは有意義な時間を過ごしてるよ」
「へー、話したこともないのに性格がわかるの」
こちらの反撃に汚物を見るように目を細める。
「その態度が性格の悪さを表してるよ」
「ま、否定はしないわ」
「俺はもう帰るから。次の被害者が出る前に君も帰りなよ」
これでいい。この女に関わるのはこれで最後。もう二度と関わることはない。
身を翻して人通りの多い道へと出ようとする。
河のような人の流れに身を任せてしまえば、今起こった気分の悪い出来事も全て忘れられるような気がしていた。
あと数歩で喧騒が全てをかき消してくれる。
「そうだ。言い忘れていたわ」
彼女の言葉が俺の足を絡めてるようにして止める。振り向くことはしない。振り向いたら彼女の思う壺な気がした。
「まだ何か?」
「助けてくれてありがとう。本当にあなたは優しい人ね」
地面の一点を見つめて思考が停止する。
言葉の真意を確かめようと、言葉を選ぶが適切な言葉が見つからない。
この女はどこまで知っている。何がしたい。どうして俺たちの前に姿を現した。
問い詰めようと振り返った時にはあの女の姿はどこにもなかった。
「聡? こんなところで何してんだ?」
不意に声を掛けられ振り返ると、そこには仙都が幽霊でも見たような表情で立っていた。
「ちょっと色々とあって」
いい言い訳が思いつかず、あいまいな返事をしてしまう。
「へー。そうなのか」
それでも仙都は興味なさそうに周りに視線を向けている。
「仙都はどうしてこんな時間に?」
「部活だよ。これでもうちの部は今年、県大会出てるんだぜ」
言われて校舎の屋上からそんな垂れ幕が下がっていたことを思い出す。
「それよりも大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」
心配する仙都を見てようやく自分が冷静ではなかったことに気が付く。
仙都は傘をさしていた。
「ああ……雨か……」
いつの間にか降り始めていた雨は傘を差さなくてはならないほどに強くなっている。
「もう少しましなリアクション取れよ」
「今日はちょっと色々ありすぎて無理」
「みたいだな。気を付けて帰れよ」
足取り軽く去って行く仙都をずぶ濡れのまま見送る。
「入れてはくれないんだな」
これも仙都なりの気遣いなのかもしれない。今日はもう一人になりたい。
三年ぶりに肌で感じる雨は髪が肌に濡れて気持ち悪く思うけれど、ただそれだけであとは何も感じない。
「ほら。やっぱり治ってるじゃないか」
雨を降らす真っ暗な空に吐き捨てると、その言葉はそのまま自分に返って来る。
果たして俺は三年前の事をすっかり忘れてしまったのだろうか。答えは否だ。これっぽっちも忘れられてなんていない。
そういえばあいつも傘を持っていなかったな。
まるで幻だったかのように消えた女が俺と同じように空を見上げているような気がした。
遠くの方でアスファルトが濡れる臭いがする。予報に反してもうすぐ雨が降るのだろう。それまでには家に帰らなくてはならない。だが、気持ちとは裏腹に足取りは家の方には向かない。
どうしてこんな気持ちにならなきゃならない。
思いを寄せる相手と公園で二人だけの時間を過ごしていたはず。
これもすべてあの女の所為だ。
あいつを見てから俺の中の歯車が確実に狂っている。
こんな気持ちになるのも久しぶりな気がする。
何か思い通りにならないこと、思い通りにならないことがあったとしても、今までは全て自分が至らない所為だと思うようにしていた。
それなのに今回は憤りを他人にぶつけてしまっている。
二度と会いたいとは思わない。だが、同じ学校に通っている以上、偶然なんてこともある。そうした時、あいつはまたあの視線を向けてくるのだろうか。そうされた時、俺はどういった反応を示すのだろう。
自分の事なのにまるで他人の事のようにわからない。
人ごみに紛れればそんな気持ちも晴れるのではと思ったが無意味だった。
電話をしながら歩いていたビジネスマンと思われる男性と肩がぶつかり舌打ちをされる。
俺は逃げるようにして路地へと入った。
今日の記憶だけ消せる装置があればいいのにと本気で思う。
そうすれば……駄目だ。またあの女の事を考えされられている。
「ねえ、お嬢さん俺たちと少し付き合ってくれよ」
考えを紛らわすために周囲に耳を傾けると、下卑た男の声が聞こえてくる。
「俺たちのことじっと見てただろう」
「食事だけで良いからさ」
声のする方向に視線を向けて思わず息を飲む。
男三人に囲まれている女性は記憶から消し去ってしまいたい相手であった。
あの女は俺を試すように視線を向けて男たちと一緒に路地の奥へと消えていく。
あんなのただのナンパだ。気にするようなことじゃない。見知らぬ男についていくことはあまりよくはないが、それでどうこうなるほどこの町の治安は悪くない。
それにどうなっても俺には関係のないことだ。俺に責任は……
――聡くんが優しい人だって知ってるから――
そのまま去ろうと足を踏み出そうとして楓の言葉が脳裏に突き刺すように響く。
ここであの女を見捨てたら、肯定してくれた楓を裏切ることになる。そうなったら俺は今日の事を引きずって二度と楓と向き合えない気がする。
すぐに身体を反転させてあの女が消えていった路地に向かう。
本当に今日は厄日だ。
角を曲がると彼女はまだそこにいた。
「いきなりいなくなったら心配するだろう」
明るく不自然にならない程度に声をかける。
「あん? なんだ?」
男達がこちらに気づいて一歩下がる。男の間から見えた女は変わらず俺を悲哀の色が深く刻まれた瞳で見つめている。
少しは驚いた表情でもするかと思っていたのに全く面白くない。
「その子、僕の彼女なんです。街を案内していたんですけど逸れてしまって、探していたんです」
口を衝いて出た嘘は身の毛がよだつほどであり、自分の舌を引き抜いてしまいたい。
「彼氏?」
「何だよ。だったら先に言えっての」
やはり男たちは彼女に危害を加える気などなかったようで、あっさりと引き下がりその場を去って行く。
大事にならずに安心したが、残されたのは気まずい雰囲気と話したこともない女。
「もう少し話に合わせてくれても良かったんじゃないか?」
何も言わない彼女に文句を言う。お礼くらい言われても良いはずなのに彼女はそんなそぶりも見せない。
「そうね。次は気を付けるわ」
「次があってほしくないんだけど」
こんな状況だというのにとても綺麗な声だと思ってしまう。
しかしその声に反して態度は不遜だった。
こちらに向けた視線の種類は変わらないし、漂う雰囲気は刺々しい。
お礼を言うつもりはさらさらないらしい。
いや、礼を言われても困るか。本心から助けようとしたわけではないのだし。
もしかしたら俺の心根など、この女には見透かされているのかもしれない。
「行かないのかしら?」
「え?」
「私たちデート中なんでしょ。彼氏さん」
蠱惑的な笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる。
誰に監視されているわけでもないのだから恋人ごっこを続ける意味もない。ただこの場を立ち去れば、俺たちの関係は終わる。それでいいはずだ。
この女が何を考えているのかさっぱりわからない。
「その場しのぎの嘘を本当にする意味はないよ」
差し出された手を無視して会話を続ける。
「いいの? 美少女とデートが出来る唯一の機会なのに」
「自分で美少女っていうなよ。それに俺が金輪際デートが出来ないみたいな言い方も気に入らないな」
「そのままでは無理ね」
「なんでそう言える」
「死んだ魚を三日間放置したような目の人に誰も近づかないもの。あの人たちにも見る目がないと思われたでしょうね」
「なんだそれ。俺はどんな目の色をしてるんだ」
いや、指摘する点はそこではない。
「端的に言えば腐っているのよ」
ここまで言わないとわからないのかと呆れた顔をする。
やっぱりこの女は感謝なんて微塵もしていないし、寧ろ俺の事を嫌っている節がある。
どうして初対面の相手にここまで言われなくてはならないのか。
それにこの女が発する言葉、一挙手一投足、全て癪に障る。こんな人物と出会ったのは生れて初めてだ。
言い返さなくては腹の虫がおさまらない。
「何はともあれ人助けが出来て良かったよ。君みたいな性悪女と食事なんて罰ゲームだろ。今頃あの人たちは有意義な時間を過ごしてるよ」
「へー、話したこともないのに性格がわかるの」
こちらの反撃に汚物を見るように目を細める。
「その態度が性格の悪さを表してるよ」
「ま、否定はしないわ」
「俺はもう帰るから。次の被害者が出る前に君も帰りなよ」
これでいい。この女に関わるのはこれで最後。もう二度と関わることはない。
身を翻して人通りの多い道へと出ようとする。
河のような人の流れに身を任せてしまえば、今起こった気分の悪い出来事も全て忘れられるような気がしていた。
あと数歩で喧騒が全てをかき消してくれる。
「そうだ。言い忘れていたわ」
彼女の言葉が俺の足を絡めてるようにして止める。振り向くことはしない。振り向いたら彼女の思う壺な気がした。
「まだ何か?」
「助けてくれてありがとう。本当にあなたは優しい人ね」
地面の一点を見つめて思考が停止する。
言葉の真意を確かめようと、言葉を選ぶが適切な言葉が見つからない。
この女はどこまで知っている。何がしたい。どうして俺たちの前に姿を現した。
問い詰めようと振り返った時にはあの女の姿はどこにもなかった。
「聡? こんなところで何してんだ?」
不意に声を掛けられ振り返ると、そこには仙都が幽霊でも見たような表情で立っていた。
「ちょっと色々とあって」
いい言い訳が思いつかず、あいまいな返事をしてしまう。
「へー。そうなのか」
それでも仙都は興味なさそうに周りに視線を向けている。
「仙都はどうしてこんな時間に?」
「部活だよ。これでもうちの部は今年、県大会出てるんだぜ」
言われて校舎の屋上からそんな垂れ幕が下がっていたことを思い出す。
「それよりも大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」
心配する仙都を見てようやく自分が冷静ではなかったことに気が付く。
仙都は傘をさしていた。
「ああ……雨か……」
いつの間にか降り始めていた雨は傘を差さなくてはならないほどに強くなっている。
「もう少しましなリアクション取れよ」
「今日はちょっと色々ありすぎて無理」
「みたいだな。気を付けて帰れよ」
足取り軽く去って行く仙都をずぶ濡れのまま見送る。
「入れてはくれないんだな」
これも仙都なりの気遣いなのかもしれない。今日はもう一人になりたい。
三年ぶりに肌で感じる雨は髪が肌に濡れて気持ち悪く思うけれど、ただそれだけであとは何も感じない。
「ほら。やっぱり治ってるじゃないか」
雨を降らす真っ暗な空に吐き捨てると、その言葉はそのまま自分に返って来る。
果たして俺は三年前の事をすっかり忘れてしまったのだろうか。答えは否だ。これっぽっちも忘れられてなんていない。
そういえばあいつも傘を持っていなかったな。
まるで幻だったかのように消えた女が俺と同じように空を見上げているような気がした。