放課後、用事を済ませてバスの待機列に並ぶ。最寄り駅の黒田根駅は数本の路線が乗り入れていることもあり、それなりの人で賑わっている。

 友達とおしゃべりに興じる女子高生、仕事帰りなのに何故か浮かない顔のサラリーマン、今が一番幸せと顔に書いてあるカップル等々。
色々な人たちが同じ時間の中で生きている。

 俺もそれに漏れることはない。

 用を済ませていたら夕方になってしまった。もちろん用とは関山先生の件ではなく、俺にとって最も重要で優先すべきことだ。

 放課後に無理やり連れていかれるかもしれないと危惧はしたが、関山先生は特にそんなことをすることはなかった。

 嵐の前の静けさのようで恐ろしくもある。

 そんなことを考えていると、バスが到着したので乗り込む。
 駅前に植えられた銀杏は紅葉の季節にはまだ早いが、近いうちに葉の色を黄色に変えて駅前を銀杏の匂いで包むことだろう。

 バスは大通りを抜けて住宅地へと入って行く。

 天気予報は既に調べてあり、この後雨が降ることはない。今日も誰にも邪魔されることはないだろう。

 そんなことを考えていると本来なら降りるべきバス停がアナウンスされる。
 ここで降りれば自宅はすぐ目の前だ。
 
 中学時代の知り合いは乗っていないか。不審に思われていないか。
 
 俺は出来るだけ息をひそめてバス停を通り過ぎるのを待った。

 いつまでこんなことを続けるつもりなのか。こんなことして何の意味があるのか。

 気を紛らわすようにバスが二つ先の停留所に着くまで自問を繰り返す。

 バスを降りると鉛のようにのしかかっていた何かが抜けて足取りが軽くなる。少し歩いたところにある公園へと向かう。

 ジャングルジム以外は何もなく、忘れ去られたような公園は街道に植えられた銀杏に対抗するように、公園内では楓が植えられている。もう少し気温が下がってくれば燃え上がるような紅が公園を囲う季節がやってくる。

 そこが俺の目的地であり、雨の降っていない放課後は必ずここに寄っている。

 公園の奥まったところに設置してあるベンチに他校の制服を着た女子が座っているのが見えた。
 
 それまでの言いようのない不安が、圧倒的な力で擦り潰され跡形もなく消え去っていくのを感じる。

「お待たせ」

 ぼーっと茜色の空を眺める彼女に声を掛ける。

「全然、待ってないよ」

 切なそうに遠くを見つめていた彼女の表情が俺を見つけると花が咲いたような笑顔へと切り替わる。
 無邪気な笑顔から逃げるようにして視線を逸らすと彼女の隣へと腰を下ろす。

「今日は学校に行ったんだね」
「午後には雨が止んだから」

 そっと撫でるような心地よい声音を聞くと、それだけで鬱々とした毎日に光が差したように救われる。

「偉いね。聡くんはやればできる子だ」
「子供扱いは辞めてくれよ。同い年だし」
「え~。私は聡くんのお姉さんのつもりなんだけどな」
「どちらかというと妹だろう。落ち着きないし、危なっかしいし」
「その言い方は何かひどい」

 不満を示すように楓は口を尖らせる。

 ころころと変わる表情はいつも俺を翻弄する。

 紅葉楓(こうようかえで)は俺のもう一人の幼馴染である。
 幼稚園の時から一緒で常に隣には楓がいた。幼いときはお互いに、お嫁さんにする。お嫁さんになる。と周囲に話して、そこに仙都が割って入ってくるのがお決まりのパターンだった。
 
 手足はすらりと伸びてスタイルも良い。美少女と称しても差し支えない彼女は少し童顔だ。しかし、そこも魅力の一つでもある。
 
 肩くらいで揃えられた髪は夕日の色に僅かに染まり溌溂とした印象を相手に与える。俺はこの髪が特に好きだ。紅葉の季節になれば彼女の魅力がより一層引き出される。

「ねえ? じろじろ見てどうしたの?」
「いや、今日も可愛いと思っただけ」

 気持ちがついつい口から漏れてしまう。

「相変わらず聡くんは冗談が上手いね」

 しかし、俺の真意は楓には届かず、ぱっと明るい笑顔で流されてしまう。
 この状態で告白したとしても。冗談で返されることは火を見るよりも明らか。

「そう言えば今日は少し遅かったね」
「楓が前に行きたいって言ってたパンケーキのお店に行ってきたんだ」
「え! どうだった。どうだった。ちゃんと名物の二段重ねのフワフワもちもちのホットケーキ食べた? 味は? お店の雰囲気は? 写真撮った?」

 恐ろしい程の食いつきである。女子は甘いものが絡むと豹変する。その辺は楓も例外ではない。

「今日もちゃんと記録してきたから」
 
 腕に絡みついて目を輝かせている楓をそっと引き離す。

 こんな状態ではこちらが落ち着いて話せない。それに胸の高鳴りが楓にも聞こえてしまう気がして恥ずかしかった。

 俺は誤魔化すようにして鞄からB5サイズのノートを差し出す。

「ではでは今日も拝見いたします」

 いつものようにノートを食い入るようにして見る。以前に言葉で説明しようとして失敗してからこの方式になった。
 女子が喜びそうなスイーツやSNS映えしそうな場所を記録したこのノートはこれで三冊目になる。

「このノートちゃんとまとめて出版でもしてみたら?」
「それこそ冗談だろ」

 現役男子高校生編集、オススメ絶景&カフェ。そんな字面が思い浮かんだが、あまり魅力的ではない。

 俺は諸事情で遠出が出来ない楓の代わりに話題の店や、場所なんかに出かけてそれらの感想を伝えている。

 外出は疲れるし甘いものはあまり好きではないが、楓の喜んだ姿を見るためならば俺は何だってする。

「ねえ、聡くん無理してない?」

 感想を綴ったノートから不意に顔を上げと、大きな瞳に不安の色を漂わせてそんな事を聞いて来る。

「無理? どの辺が?」

 楓の急な変化に俺は戸惑いを隠せない。

「聡くんは甘い物は好きじゃないし、遠出も疲れるからあまりしたがらない。私は聡くんの事はそれなりに知ってるよ」
「確かにその通りだけど、俺は楓の喜ぶ顔が見たいから」

 いつまで続くかわからないけれど、心地よい時間が一秒でも長く続くことを俺は心から願っている。

「でもね、こんなこと」
「本当に嫌じゃないから」

 まるで天使が通ったようにまわりの音が吸い込まれるように消えていく。

「楓を喜ばせることが俺のしたい事なんだ」

 遮るものが何もない俺の言葉は周囲によく響いた。
 まるで告白をしてしまったようで、恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じる。

「それを言われたら私はもう何も言えないね……」

 楓は視線を泳がせてぽつりと呟く。

 羞恥心は楓にも伝播し微妙な空気が生まれる。

 冗談でもいって茶化してくれた方が幾分かましだった。

 窒息するほどに長い沈黙。それを破ったのは楓の方であった。

「ねえ、あの子。聡くんの学校の子じゃない?」

 楓が指さした先には、夜を纏ったような長い黒髪を靡かせた少女だった。後姿であるが、髪から受ける印象は陰湿で根暗、いかにも近づきたくない。

「確かにうちの高校だけど」
「知ってる人?」
「たぶん。知らない」

 俺は首を横に振って答える。

「高校は人数多いもんね」

 たまたま家が近所で帰宅の途中でこの公園の前を通った。初めはそう思っていた。しかしそれが思い違いだったことをすぐに知ることになる。

 彼女は公園の前を通り過ぎるでもなく、公園に入って来るでもなく、ただこちらに背を向けて道路を眺めていた。

 横断歩道の信号が青に変わっても渡る気配はない。

 やがて信号は赤になり、そして青になる。
 それを何度も繰り返す。まるで何かを待っているように彼女はそこに佇んでいる。
 
 奇妙な時間が俺たちの間に流れていた。

 気づいてしまったが為に俺たちは彼女から目が離せなくなっていた。
 
 会話など続けられるはずもない。彼女からはまるで幽霊のような不吉な雰囲気が漂っている。
 
 俺の中の何かがあれは危険だと告げる。
 
 ささっと消えてくれればいいのに。

 こちらの心の声が聞こえてしまったのか彼女はゆっくりとした動作でこちらを振り返った。
 
 冷たげで儚さを纏った顔立ち。
 それなのに見た者を魅了し虜にする危うさがあった。

 その顔には見覚えがあった。確か昼休みに指導室に呼ばれていた女子。

 けれども問題はそこではない。

 彼女は俺から目を逸らすことなくこちらに向かって来ていたのだ。

 ゆったりとした足取りは獲物を見つけた死神のようにで気味が悪い。

 口角を上げて薄っすらと笑みを浮かべているはずなのに、黒曜石のような黒い瞳には悲哀の色が深く刻まれており全く笑っているようには感じられない。

「すみません。少しお尋ねしたいのですが」
 
 それはとても綺麗な声だった。
 
 楓の声が風のように包み込むような心地よさなら、この女の声は細波のように何かを洗い流すような声だ。

「なんでしょうか?」
「この辺りにバス停はありますか?」

 どうということはない質問のはずなのに俺の警戒心は解かれることはない。
 油断したすきに魂を吸い取られてしまうそうな、そんな危うい空気を彼女から感じる。

「バス停ですと、ここから右に曲がって……」
 
 手短に道順を教える。
 その間、彼女は黙って俺の説明を聞いていた。
 
「ありがとうございます」

 彼女は頭を下げると一瞬だけ楓の方へと視線を送る。

「お邪魔してすみませんでした」

 そういうと彼女は今度は小走りでこの場を去っていった。
 
 その背中を俺は見えなくなるまで睨みつけていた。
 他人に興味を持たない俺がどうしてこんなにも彼女を敵視するのか。自分でも不思議でならなかった。

「ねえ聡くん。お願いして良い?」

 あの女の去って行った方向を見つめる楓の表情は悲痛の色が現れている。

「なに?」
「あの子を助けてあげて」

 あの子とは間違いなく先ほどの女の事だろう。

「あの子、すごく寂しそうだった。きっと一人ぼっちなんだよ」

 楓の表情はいたって真面目で冗談を言っているようには見えない。

「そう言われても名前とか知らないし」

 楓の直感は正しいのかもしれない。あの女からは確かに普通ではない何かを感じた。しかし極力関わらないほうが身のためだろう。
 関山先生に目をつけられているほどだ。関われば面倒ごとに巻き込まれるのは目に見えている。

「同じ高校ならすぐに会えるでしょ」
「そうとは限らないよ。学年が違えば接点はないし」

 実際、あの高校に通って一年半が経つけれど、今日まで一度も見たことがなかった。違う学年ということは十分にあり得ることだ。

「でもあの子、凄く可愛かったし、聡くんが知らないだけで有名人なんじゃない?」
「それなら俺がわざわざ助けなくても、誰かが助けてくれるよ」

 目立つ相手と一緒にいたらせっかく確立させた透明人の立ち位置が壊れてしまう。

「他の子じゃダメ。聡くんじゃないと」
「どうして俺なんだ?」

 俺の代わりなんて幾らでもいる。態々関わる必要はない。

「もう! なんでそんなに頑なの!」
「楓だって頑なだろ。今会ったばっかりの人に何でそこまで深入りするんだ」

 楓のお願いならば、どんなことでも快く受ける自信はあった。だけどこれだけは例外だ。あいつは俺らの関係を壊してしまいかねない。

「……わかった」

 言葉だけの了承をして楓は足元に視線を落とす。

 すっかり曇ってしまった表情に心が痛まなかったわけではない。だがやけどをするとわかっていて火中の栗を拾う者がいないのと同じで、あれに関われば俺の生活は一変してしまう。

 直感でそう感じていた。これは説明のしようがない。だから余計に拗れてしまう。

「じゃあこれだけは約束して」

 諦めない楓は思いついたというように手を叩いて提案する。

「あの子にまた偶然に出会えて、もしも助けを求めてたなら助けてあげて」
「助けられる状況なら……そうする」

 ここら辺が落としどころだ。これ以上お互いに意地を張ってもしょうがない。

「私は聡くんが優しい人だって知ってるから。その時になったら絶対に助けてくれるよね」

 無邪気な笑顔が眩しくて思わず目を逸らしてしまう。
 
 残念だが的外れだ。俺は優しくなんてない。

 優しい人間というのは仙都の事をいうのだ。楓の言う通り本当に優しい人間ならば俺は三年前にあんなことをしていない。

 俺は姑息で卑怯で憶病な人間だ。

 数秒だけ向けられた、あの悲哀の色が深く刻まれた瞳が脳裏に焼き付いてしまっている。

 あの女は俺を一方的に知っている。そんな気がした。

「じゃあ俺はそろそろ帰るから」

 視線を逸らしたまま一度も振り返ることなく公園を後にする。

 逃げるように去って行く俺の背中に、楓がどんな視線を送っているのか。振り返って確かめる勇気は俺にはない。

 俺は楓の期待には応えられていない。

 あの日からずっと。