「糸杉!」

 名前を叫んでも雨にかき消されてしまう。

 来るタイミングがわかっていたように、ふと、糸杉がこちらを見る。

 雨に濡れた糸杉は灯が消える寸前に見せる一瞬の美しさを伴って俺に微笑む。完璧だった。こんなものを見せられた後に、儚く砕け散ってしまえば誰でもその姿を刻まずにはいられない。

 横断歩道の信号が青から赤に変わっていく。

 先日の支倉と同じだ。相手は向かい側に立っている。何をするのかわかっていながらあの時の俺は一歩を踏み出せなかった。

 信号は赤のまま。車道には車が容赦なく行き交っている。

 糸杉は躊躇なく足を前へ踏み出してこちら側に渡って来ようとする。このままでは間に合わない。

 ふと糸杉の足が止まった。

 俺は全力で走った勢いのまま、車道へ飛び出し糸杉に向かって突進する。勢いを押し殺すことが出来ない俺はそのまま糸杉と一緒に地面に転がった。

 間一髪、僅か後ろを車が通るのがわかった。

 突き飛ばされた糸杉は地面に叩きつけられ、鈍い声を上げる。

 足の感覚が麻痺した俺はしばらく立ち上がることが出来なかった。上から打ち付ける雨に何かを塗られているような感覚で気持ち悪い。

 痛みを堪えた表情の糸杉は地面に座り込んだまま俺を睨み付ける。

「お前を、轢いた側がどうなるのか、考えなかったのか? それとも自分は死ぬから関係ない、そう言いたいのか」
「…………」

 息も絶え絶えながらも怒気を込めた訴えに糸杉はなにも言わない。この際だから全て言わせてもらう。

「人を殺せば例え事故だとしても世間が人殺しのレッテルを張る。それに関係した人間の歯車を狂わせる。それはお前もわかってることだろ」
「偉そうに。説教なんてしないで。それにあなたは部外者でしょ」
「それはお前にも言えるだろ。事故を起こしたのはお前の父親だ」
「あなたもそう言うのね……私には背負わなければならない理由があるの」

 立ち上がった糸杉の目は悲哀の色を深く刻んで道路を見つめる。

「あの日、私はあの車に乗っていたの」
「それだけで」
「違う」

 俺の言葉を遮った糸杉声には抑揚はなかったけれど、そこには確かに悲痛な叫びが籠っていた。

「すべての原因は私にある。腹痛なんて仮病を使わなければこんなことにはならなかった。土砂降り雨の中、腹痛を訴える娘を隣に乗せた父に、正常な判断が出来るわけがない。だから信号を無視して事故を起こした」

 懺悔するように糸杉は続ける。

「私が居なければあの事故は起きなかったの。それなのに責められるのはいつも父。母は世間のバッシングに耐えられずに出ていった。父くらいは私を責めたって良いのにそんなことは決してしなかった。寧ろ父は自分と一緒にいると迷惑が掛かると私を親戚の家に預けて今は一人で暮らしてる。誰も私を責めない。出て行った母も私を責めることはしないで、寧ろ逃げ出した自分を責めてる」

 糸杉も自分の所為で事故が起こったと感じ、誰かに糾弾されることを望んでいる。

「逃げるために死のうとしたのか?」
「違うわ。復讐のためよ」

 糸杉は矛盾したことを口にする。糾弾されたいのなら、復讐をするのではなくされなければならない。

「黒田根市で起こっている事故。私には事故だとは思えなくて、色々と調べた。それが雨の日、女生徒、車道への飛び出し、三年前と酷似しているとわかって、それが三年前と関係していること確信したわ。父が轢きそうになったあの男子生徒が事故を誘発させている。あの事故に関わった人間は彼しか残されていない。だったらそいつに一生忘れられないように私を刻み込んでやる。あなたが壊した人間は一人じゃない。そう伝えるために」

 相手に対する復讐。自分に対する糾弾。窒息するような罪悪感の中で見出した糸杉なりの救いだったのだろうか。

 だが、それでは同じ人間を生み出すだけだ。やり方が間違っている。

「そして父が轢いたあの女の子と楽しそうに話している音霧くんを公園で見つけた。あの子がどうなったのか知っていたから、その光景が異常なことは直ぐにわかったわ」
「やっぱり見えてたんだな」
「ええ、今でもはっきり」

 糸杉は俺たちの傍で今にも泣きだしそうな表情をしている楓に視線を向ける。

 どういうわけか、糸杉にも楓の姿は見えているようであった。しかし、今更驚くようなことじゃない。初めて出会ったあの日、確かに糸杉は俺の隣にいるはずのない楓に視線を向けていたのだから。

「それで勘違いして、俺を慈善活動部なんかに引きずり込んだのか」
「そうよ……けれど音霧くんは、部外者、だった」

 さっきの仕返しのつもりなのだろう。部外者の部分をゆっくり、はっきりと述べる。

「だったら糸杉が死ぬ意味はもうない」
「どういう意味?」
「俺も部外者じゃない。事故が起こった要因は俺にもある」

 俺は自分のしたことを包み隠さず糸杉に話す。自然と滞ることなく言葉が出て来る。誰にも話さなかった自分の罪を恥を曝け出しているというのに。

「俺が卑怯な手を使わなければ、あの日に二人が一緒に帰ることはなかったし、仙都が道路に飛び出すこともなかった」
「そう……」

 全てを曝け出したからと言って罪がなくなるわけではない。

 罪は決して分配されず、同じ質量で俺たちにのしかかっている。

 この事故に関わった楓以外の人間に事故を引き起こす要因があった。

 自分が存在していなければ事故は起こらなかった。それは罪を認識するための呪詛であり、罪から逃れるための慰めでもある。しかし、これからはそうした言い訳は許されない。

 他人の落ち度を知ってしまったことで、俺たちはそれを責めずにはいられない。

「自分さえいなければ……そう思っていたのに」

 糸杉は溜息と共に気持ちを吐露する。その背中は弱々しくて、小さくて、これが本当の糸杉の姿なのだと感じる。普段見せている冷淡で氷のような性格は、他人を近づかせない為の虚構に過ぎない。

 世界から自分を切り離してしまった糸杉に俺が出来ることは一つしかない。

「俺はお前を許さないよ。だからお前も俺を許さないでほしい」

 驚いたように見開かれた糸杉の瞳は変わらず悲哀の色に染まっていた。

「俺がお前を恨んでやるよ」
「上から目線は気に入らないわね。それからお前って言うのやめて」

 ふと見せた和らいだ表情が何を意味するのか俺にはわからないけれどこれで糸杉が死のうとすることはないだろう。

 再び糸杉は車道側に視線を向ける。

「その提案には乗ってあげる」
「思いきり上から目線なんだな。自分がされて嫌な事を相手にするなよ」
「別に憎んでる相手なら問題ないでしょ」
「そうか……それなら俺も問題ないな」

 お互いに憎み合っているのに清々しい気持ちになる。

 俺たちはお互いに憎み合い、世界と繋がりを持つことで生きていくことを決めた。

 結末としては最悪かもしれない。物語にあるように全て水に流して仲直りなんて展開にはならない。なれるはずがない。俺たちは狂ってしまっている。一度狂った人間が清い関係を築くことは不可能だ。それならば狂っているなりにどこまでも転がって行くしかないだろう。お互いを道ずれにしながら。それも悪くないと今は思える。

 倒れた時に痛めたのか、腕をさすりながら糸杉は汚物を見るような視線を向ける。

「俺の所為じゃないぞ」
「まだ何も言っていないのだけれど」
「目が言ってる」

 糸杉の目はいつものように悲哀が深く刻まれている。その目は一生治ることなんてないのだろう。俺の目が腐っているのと同じだ。しかし、空虚な世界を映すその目ではっきりと見たはずだ。道路に飛び出さないように前を塞ぐ楓の姿を。だからあの時足が止まった。

「楓に感謝しないとな」
「……ええ。気が付いたら彼女が目の前にいたわ」

 糸杉は直視することを拒むように横目で俺の傍の楓を見る。
 楓はこちらに優しく微笑んで立っていた。

「ありがとう。楓」

 足が遅い、もっと運動しろ、女の子は大切に扱いなさい、そんな事を言ってくるのかと思っていたが、楓は微笑んだまま何も言ってこない。まるで向こうとこちらでは世界のチャンネルが違う様に思えた。

 それが別れだと感づくのに時間はかからなかった。

「ごめんなさい」

 思わず口を衝いて出た糸杉の言葉に楓は表情を曇らせて首を横に振る。

「言うべき言葉が違うらしいぞ」
「そうね……ありがとう」

 糸杉の感謝の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた楓は雨が作り出す靄の中へと消えて行った。

「ありがとう……」

 結局、俺たちは一番憎んでほしい相手には初めから許されていた。そんな気持ちを無視して俺たちは、自分を自分で傷つけ僅かな不幸で背負っている気になっていた。

「どうしてお前らには見るんだろうな」

 楓を見送ってすぐ、傘を差した仙都が公園の影から現れる。

「もう俺には楓がどんな風に笑ったのか思い出すことが出来なんだ。だからせめてあの時の顔だけでも思いだそうと……」

 何かを言おうと一歩踏み出そうとした糸杉を制止させて仙都に近寄る。

「まだこんなこと続けるのか?」
「ああ、俺は楓が消えたら生きていけない」
「こんなことをしている間は無理だと思うぞ」
「偉そうなことを言うんだな」
「仙都は楓が轢かれる瞬間を見てないだろう。仙都が思い出すべき楓はそこにはいない」

 あの時一つの傘を分け合う二人をこっそりと隠れて見ていた俺にしか楓が轢かれる瞬間を見ていない。車道で立ち尽くしていた仙都なら尚更見られるはずがない。

「……なるほどな。どうりで何も思い出せないわけだ」

 酔いから醒めたように仙都は切迫した表情を緩ませる。その瞬間を狙ったように仙都のスマホが着信を知らせる。ふとポケットに自分のスマホがない事に気づき、辺りを見回す。

「うわ……」

 俺のスマホはさっきの衝撃で無残な姿となって地面に転がっていた。画面は蜘蛛の巣が張ったように割れている。

「自業自得ね」
「それをお前が言うのは間違ってるぞ」
「またお前って言った。あなた鳥よりも脳みそ小さいの?」
「憎い相手の嫌がることをしてるだけだ」

 俺たちの不毛な会話の間に仙都は要件を済ませる。

「はい……はい……ご愁傷さまです」

 消え入るような声で通話を切ると仙都はスマホをポケットにしまい一度大きく息を吐く。毅然とした表情が強がりであることは明らかだった。

「たった今、楓が息を引き取った」

 三年前と同じような土砂降りの雨はいつの間にかあがり、雲の合間から太陽が顔を覗かせていた。