安全運転を心がけるバスはこちらの気持ちを急かせる。

 走った方が早いと降車ボタンを押しそうになるが、雨が降っていることを思い出してボタンに掛けた指を引っ込める。

 冷静になろう。この距離ならばバスの方がどう考えても早い。

 窓から見える街の景色は一カ月前から一変して、銀杏の黄色に染まっている。それと同じように俺の環境も一カ月前からは一変していた。

 それをしたのは糸杉だ。その糸杉はあの事故の関係者だった。そして俺に非難の視線を向けて来る。これはきっと偶然ではない。


 あの事故を引き起こしたのは俺だ。


 仙都があの日、雨の中わざわざ楓と一緒に帰ったのは俺に楓が好きだと言われたからだ。思惑通り、仙都は俺よりも先に告白する気でいた。

 周りに囃し立てられても曖昧な言葉で濁して照れ笑いを浮かべる仙都を見ていて、仙都も楓が好きだということはわかっていた。

 だから俺は仙都が楓に告白するように仕向けた。

 自分で告白しなかったのは怖かったからだ。告白して断られた時、幼馴染の関係が崩れてしまう。だから卑劣な手を使った。

 例え、仙都の告白が上手くいって二人が付き合うことになっても俺は幼馴染としての関係を保つことが出来る。一切傷つかずに相手の気持ちを知ろうとするからこうなった。あれは俺が引き起こした事故だ。
 
 自分の気持ちを相手に伝える勇気があの時の俺に僅かでもあれば、多くの人間の歯車は狂わなかっただろう。

 この話は誰にも言えなかった。だから事故後も俺を責める人は誰もいなかった。当時はそれでほっとしていた。しかし、月日が経つにつれて罪悪感が際限なく溜まって行くことに気づいた。

 それと同時に俺の中に楓が深く刻み込まれている事にも気づいた。

 それに気づいたからと言って誰も俺を責めてはくれない。責めてほしい相手は病院で眠り続けてこちらの声には応えてくれない。

 楓の両親からも『君の応急処置で一命を取り留めた』『命の恩人だ』など感謝の言葉ばかりで憎しみの言葉なんて出るはずがなかった。その内に『君はここに来なくて良い』『君の人生を歩んでほしい』なんて、こちらの心配までする始末。

 そうした言葉を投げかけられる度に罪悪感は積もって行く。

 このまま罪悪感に蝕まれて俺は死んでいくのだろう。それでもいい。それが償いになるのなら。そんな時だった。いつものように病院帰りに事故現場にむかい、ベンチに座る楓を見つけたのは。
 
 あの時と変わらない姿で俺に手を振っている。

 俺が生んだ幻であることはわかっていた。俺はここまで狂ってしまったのだと実感もしていた。それでも俺には救いだった。俺を唯一責めてくれる相手が現れた。楓に糾弾され破滅させられるのならば納得がいく。このまま奈落の底に突き落としてほしい。

 その日から放課後は病院ではなく、あの公園に行くようになった。

 けれどそれもやめる時が来た。

 俺を糾弾する人間が現れた。俺はそいつと逃げずに向き合わなければならない。

『あなたに私を刻みたいの』

 糸杉は自分の目的をそう言っていた。悲哀を深く刻んだ、全てを諦めてしまった瞳で。

 早くに気づくべきだった。それまでの行動を考えれば糸杉が何をしようとしているのかはわかったはず。

 三年前の加害者側の人間が三年前と同じ場所で同じ事故にあって最期を迎える。それを目の当たりにするのは三年前の事故を模倣している人間。糸杉の死後にすべてが明るみになってその人間は全てに気が付くのだろう。

 あいつは最初からそのつもりだった。

 公園近くの停留所を告げるアナウンスが流れ、僅かに残った迷いを押しつぶすように降車ボタンを押す。

 バスはゆったりとスピードを緩め停車する。

 料金を払いバスを降りるのと同時に地面を蹴って走り出す。顔に当たる雨粒はじっとりとかいた汗のように不快だった。思えばあの日もこんな雨が降っていた。

 やがて銀杏の黄色い街道に対抗するように深紅の紅葉に染まった公園が見えて来る。

 その公園の前にある横断歩道で黒い髪を雨に濡らした糸杉が空を見上げて立っていた。