最近、仙都の様子がおかしい。
それの噂を聞いたのはクラスでいつも通り一人で時間を潰している時だった。
いつも教室の前で騒いでいるグループが、何という事もなくそんな話題を口にしていた。もちろんそこに仙都の姿はない。
内容としては、付き合いが悪い、ノリが良くない、などどうでも良い事だったが、部活に顔を出していないという部分だけは妙に気になった。
仙都があの事故以降も頑なに続けたサッカーを簡単に辞めるわけがない。
仙都の様子が変わったことには俺も気づいていた。人と話していても上の空で聞いていない時があるし、こうして昼休みは席を外すことが多くなっている。
支倉の件が関係していることは明らかだった。
その後も本人が居ない事を良い事に、クラスメイトの信憑性のない世間話は続く。それに嫌気がさした俺は飲み物を買いに行くふりをして席を立った。
別に喉が渇いているわけではなかったし、その辺をぶらぶらして時間を潰そう。
そう思い、一階まで降りると遠くの廊下に仙都を見かけて思わず隠れてしまう。
そっと角から様子を伺うと、仙都は周りを警戒しながら校舎の奥へと進んでいく。やましい事がないのなら堂々としていればいいはず。
様子のおかしい理由が見つかるかもしれない。
好奇心に駆られた俺は一定の距離を保ちながら仙都を尾行する。
仙都は誰も近寄ることのない校舎裏で女子と待ち合わせをしていた。
清楚で大人しめな彼女は仙都の姿を見つけると、そっと微笑んで頭を下げる。
仙都はもちろん女子からの人気は高い。それ故に告白をされる回数も両手では数えきれない程とか。しかし、仙都が女子と付き合った話は一度も聞いたことがなかった。
その事は周知の事実であり『越水仙都は女に興味がないのでは』という噂があったりもするほど。
そんな噂が出鱈目であることは俺が一番よく知っている。あいつは今でも楓の事が。
「告白ね。つまらない。興ざめだわ」
「は!? 糸杉!」
心臓が口から飛び出しそうになり思わず口を塞ぐ。
「あまり大きな声を出さないで、ばれたらどうするのよ」
平然と俺の背後にいた糸杉は険しい視線をこちらに向けて文句を言う。
「いきなり背後にいる糸杉が悪いんだろうが」
「私の存在が薄いって言いたいの?」
むっとした表情にはわかりやすいくらいに憤りが浮かんでいる。怒らせてもこちらにメリットはないので適当に謝って済ますことにする。
「そうじゃないよ。悪かった」
「何に対する謝罪なのかしら」
「あーもう、面倒くさいな。今はそれどころじゃ……」
先ほどまであった二人の姿はどこにも見当たらなかった。俺たちに気づいて場所を変えてしまったのだろうか。
「見失ったわね」
嫌味の一つくらい言われるのかと思ったけれど、糸杉は何も言わず淡々とした足取りで教室へ戻っていった。
支倉の件以降、糸杉の様子もおかしかった。
以前は簡単に引き受けていた依頼も現在はほとんど受け付けていない。
その為俺たちの関係は以前よりも淡白なものになっている。部室に行っても会話らしい会話をした覚えがない。
間違いなくあの事件は俺たちを変えてしまった。
仙都もそうなのだろうか。
仙都がサッカーよりも優先させる何かがあることに違和感を覚えたが、俺も仙都の全てを知っているわけじゃない。
放課後、眠そうに大きな欠伸をする仙都に声を掛ける。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「それって急ぎか?」
口には出さないけれど微笑みながら拒否を示してくる。
支倉の事故から俺たちの関係もどこかぎくしゃくしていた。
「今日じゃないと駄目だな」
「わかった。場所を変えよう」
俺の返答が予想外だったのだろう。一瞬微笑みがひきつるのがわかった。
俺たちは教室から出てトイレに入る。これなら糸杉も付いてこられない。あいつの悔しがる顔を想像すると気分が晴々する。
「で、話ってなんだ?」
「サッカー辞めるのか?」
「誰からそんなこと」
仙都は鼻で笑いながら鏡に映った自分の顔を見つめる。
「クラスの連中はその話で盛り上がっているよ」
ここで仙都が辞めると言ったところで俺は止める気はない。そんな権利はないだろうし、仙都は衝動的にそういう事をする奴じゃないと思っている。
仙都なりの考えがあっての行動なのだろう。
「辞める気はない。今はそれよりも優先したことがあるだけだ」
「優先したいことってなんだ?」
「あ……まあ、色々だ。色々」
仙都は適当に笑って誤魔化す。
本当は先日の件が尾を引いているんじゃないのか。糸杉のように他人の気持ちを考えずに聞けたら良いのにと思ってしまう。
「やっぱり聡は変わったな」
「え?」
こちらの心情を見透かすように仙都は冷たい視線を向けていた。
「今までだったら絶対に他人に気を遣うことなんてしなかっただろ」
言われてみればそうかもしれない。少しずつではあるけれども俺は他人に興味を示すようになっている。
「あいつが原因なのか?」
あいつ、それが糸杉をさしていることはすぐにわかった。仙都が他人の事をそんな風に呼ぶのは糸杉の他にはいない。
「一因ではあるかも」
「そうか……じゃ、俺は先に」
「あともう一つ。支倉の事故があったあの時、仙都はどこにいたんだ?」
「もちろん探してたよ。それじゃ」
溌溂とした笑顔を浮かべて去って行く背中をぼんやりと見つめる。やはりいつもと変わらず、沈んだ様子なんて欠片ほどもない。
「どうしてもっと突っ込んで聞かなかったの?」
入口で聞き耳を立てていた糸杉が堂々と中へ入ってくる。
「どうして堂々と入って来るんだ」
というより会話を聞かれていたことにこいつの執念深さが伺える。
「音霧くんはなにをしたかったの? てっきり昼間の女子の事を問いただすのかと期待していたのだけれど」
「確かめたかったんだよ」
「何を?」
「仙都が変わったのかどうか」
それで俺は何をしたかったのだろう。力になろうとでもしたのだろうか。そんな権利は俺にないはずなのに。
「そう。それで」
「そもそも俺は今までの仙都を知らなかった」
それは俺がちゃんと向き合ってこなかったことの代償だ。
「期待外れね」
「だけど仙都が嘘をついたことはわかった」
「どんな?」
仙都は事故の瞬間あの場所にいた。それは間違いない。嘘をつくことの意味が俺にはわからない。
そのことを説明すると糸杉は腕を組んで表情を変える。
「音霧くんもなかなかやるわね。期待外れなんて言ってごめんなさい」
それだけ言うと糸杉は男子トイレから出て行く。
どうするつもりなんだ? その簡単な問いを聞くことが出来なかった。
だってあいつのあの表情は間違いなく笑っていたから。
すべてを悟ったような気味の悪い笑みが頭から離れなかった。
部室に向かうと部室の前で小紫が困った様子で立っているのが見えた。
「あ、音霧先輩」
「こんなところで何をしているんだ?」
「いえ、鍵が開いていなくて入れないんです」
「鍵?」
ドアに手を伸ばして引くけれど確かに鍵がかかっている。
いままで考えもしなかった。ここに来ればいつも鍵は開いて、そこには糸杉がいた。
あいつはあの後部室に向かったわけではなかったのか。
「借りてくるから少し待ってて」
鍵を借りて中に入ると、何も変わってないはずなのに何かが足りないようなもの悲しさが漂っていた。
「糸杉先輩どうしたんでしょうね」
「さあな。そのうち来るだろ」
それから下校時刻になるまで糸杉がここに来ることはなかった。
自宅へ帰ると、自室にこもり換気の為に窓を開ける。金木犀の匂いが風に乗って入り込んでくる。思いの他風が冷たく、すぐに窓を閉めた。
秋特有の乾いた虚しさが部屋に残る。
冷たく湿った風は暑さのピークをとっくに過ぎて、冬の訪れを示唆している。
最近の季節の変わり方は極端でこちらの感覚が追い付かずに戸惑うことがある。俺の環境も同じだ。
いままでは一人で過ごして、一人で終わっていた。教室には特に居場所はなくて勉強をしに来ているだけ。仙都が話しかけてきたりもしたがそれは仲が良いというよりも昔からの付き合いといった感じだった。
それで良いと思っていた。友人を作る必要もその資格もないと思っていた。
しかし、今はどうだろうか。教室では相変わらず一人だが、慈善活動部という居場所が出来ていた。友人と呼んでいいのか、そのままの自分で話せる相手が居る。手がかかるが後輩も出来た。
世間一般で言う普通の高校生活を俺は送っている。
こうした劇的な変化に俺は戸惑っていた。
これで良いのだろうか。そうした迷いは今も消えることはない。
考えを切り替えるために、制服から部屋着に着替えてベッドに横になる。
今は自分の事よりも考えることがある。
多発している交通事故。偶然と言い切ってしまう事も可能である。偶然、偶々、それは現状を説明する際には都合の良い言葉であるが、事実を覆い隠すこともしてしまう。
他がどうなのかわからないが、支倉は間違いなく誰かから連絡を受けていた。
糸杉の考えは間違っていなかった。
誰が何のためにしているのか。
糸杉は一足先に答えにたどり着いているのではないか。
俺を慈善活動部に引きずり込んだ理由も、率先して慈善活動をしていた理由も、自分を犠牲にして無茶をする理由も、全てがこの事につながっているとしたら。
俺に自分を刻み込むなんて言うのは方便に過ぎなかったという事だろうか。はたまた、それらが刻み込むことに関係しているのだろうか。
「あら? 帰ってたの?」
ベッドに横になり天井を眺めながら考えていると、ノックもせずに母が部屋に入って来る。
「部屋に入る時はノックくらいしてくれ」
「だって、いつもこの時間は居ないから」
そう言われて時計を見る。確かにこんな時間に家にいるのは久しぶりだった。
高校に入ってからは時間さえあればあの公園に出向いていた。これも環境の変化の影響なのだろうか。
「友達でも出来た?」
「何で?」
「誰かの事を考えてる顔してたから」
どんな顔だよ。と思いながらもそれを否定することは出来なかった。
俺の中で楓の影よりも糸杉の影の方が濃くなりつつある。
いよいよ決断する時なのかもしれない。
初めから目の前にあり、はっきりと見えていた現実。それを受け入れる時期はとっくに過ぎている。
完全に狂ってしまう前にそれに気づいたのは幸運なのだろうか。
翌日、仙都が学校を休んだ。最近は様子がおかしかったこともあって、教室は空気は浮足立っているように感じる。
別に学校を休むことは珍しい事ではない。季節の変わり目でもあるし風邪をひいた可能性だってある。
それよりも俺は放課後の天気の方が気がかりだった。今朝のニュースでは午後からは所によって雨の予報になっている。
それは昼休みの現在でも変わっていない。
窓から空を見上げれば曇天が今にも雨粒を落としてきそうに広がっている。
俺は心のどこかで雨が降ることを望んでいる。雨が降れば昨日決めた覚悟も先延ばしにできる。
この期に及んでまだ逃げようとしている。
「音霧くん」
曇天が広がり始めた空を眺めていると、少し疲れを残した表情の糸杉が隣に立っていた。
「何かあったのか?」
教室ではめったに話しかけてこない。緊急の用事であることは直ぐにわかった。
「ここでは話せないわ。放課後、部室に必ず来て」
「放課後は予定が、おい、聞けよ」
聞こえていないわけではないだろうに、こちらを完全に無視して糸杉は自分の席へと戻って行く。
まるで俺が今日は部室に行く気がない事を悟っていたような強引な態度だった。
クラスの女子数名と他愛無い会話をする糸杉ははっきり言って気持ち悪い。
まるで綺麗な旋律の中に混ざってしまった一つの不況音のように俺には見える。
いつまでこんなことを続けていくつもりなのだろう。あんなに生きづらそうに生活している姿を見せられているこちらの身にもなってほしい。
「放課後か……」
呟きと同時に窓に一粒の雨がぶつかる音がする。
これではどちらにせよ公園には行けそうにない。
心のどこかでほっとしている自分が心底嫌だった。
放課後に部室に向かうと糸杉は既に待っていた。
「単刀直入に聞くわ。越水仙都はどこ」
「俺が知っているわけないだろ」
「そう。知らないなら用はないわ」
椅子に置いた荷物をひったくるようにとるとそのまま出ていこうとする。
「待て。仙都を見つけてどうする」
「音霧くんには関係ないわ」
その言い方が何故か気に障る。
「関係ってどういう意味だよ」
「もう一度聞くけれど、本当に今場所を知らないのね」
こちらの質問を無視して糸杉は最終確認をする。
「知らない。仙都に何を聞くつもりだ」
「わかっていて聞いているの? それとも受け入れられないだけ?」
「何が言いたいんだ」
「……」
糸杉は何も言わない。代わりに俺に考える時間を与える。
沈黙の部室に雨音が響く。
俺だってわかっている。糸杉が考えているその可能性が現実的であることを。
多発する事故の裏にいるのは仙都だ。
昨日の質問に嘘をついたことでその疑いは濃くなっている。
仙都は支倉に助かってもらっては困る立場だった。だから傍にいながら処置もせず、そこにはいなかったと嘘をついた。
でもどうして仙都がそんなことをしなくてはならない。
あいつはあんな事があっても前向きに生きていたはずだ。
「お前は仙都の何を知ってる」
「何も知らないわ。でもそれは音霧くんもそうでしょ。今まで他人に興味を示さなかったのだから」
いつものように相手を挑発する態度を取ってくる。その態度からはある種の敵対心が見える。
「それに何も知らない方が余計な感情を挟むことなく客観的に見られるわ」
それはそうだろうが、糸杉は何も知らなすぎる。
俺たちの過去に何があったかなんて糸杉は知らない。
仙都は三年前の事故で十分に苦しんだ。そんな奴がこんなことに関わろうとするのだろうか。
ましてやあの時の事を想起させるようなことをするはずがない。
「もし、糸杉の思っていることが事実だったとしたら。今度こそ、警察に任せるべきなんじゃないか?」
「こんな曖昧な事では警察は動かないわ」
「証拠を集めて動かせばいいだろ」
「そこまでして他人に手柄を渡すような真似をする必要がある?」
「手柄なんて関係ないだろう。これは人の命に」
「綺麗事なんて言わないで!」
感情的になった糸杉は期待を裏切られたような悲しい目をしていた。その瞳に怒気なんて全く含まれていない。期待外れの哀れみ。
それを見た途端、俺はこいつに見放されたのだと悟った。
「音霧くんは今回の件から降りて」
「そういうわけにはいかない」
「今の音霧くんは邪魔なだけよ。何の役にも立っていない」
「俺はお前の従僕になった覚えはないぞ」
「そうね。だったら余計に一緒にいる意味なんてないでしょ」
またしても他人を遠ざける言葉を投げつけてくる。
もしかしたら俺を焚きつけるための挑発ではない。明らかな拒絶だった。
無理やりこちらに引きずり込んでおいて、使えなくなったら切り離す。糸杉は最初から何も変わっていない。
「このままでは非効率だわ。別行動にしましょう」
「そうだな。その方が良い」
「それとさっき越水仙都の事を何も知らないと言ったけれど」
わざと言葉を切って俺をまっすぐに見つめる。
「あの事故の当事者だということは知ってるわ」
「は?」
どうしてそれをお前が知ってる?
悲哀の色を浮かべる瞳は俺の身体を縛り上げて疑問は言葉にならなかった。
「以前も言ったでしょ。私は刻みたいの。あの事故を起こした人間に」
「それなら……」
「だからあなたには関係ない」
ふといままで見せたことのない表情を浮かべると、視線を外して部室を出ていく。
俺は糸杉が出ていった方向をただ見ている事しか出来なかった。
埋まることない決定的な溝が俺たちの間に出来た瞬間であり、糸杉は誰にも心を開くことはないと確信した瞬間でもあった。
どこで間違えたのだろう。こんな結末を望んでいたわけではない。心のどこかでもしかしたらわかり合えるのではないか。そんな風に思っていた。
糸杉が居なくなった部室で俺はいつも糸杉が座っているデスクに向かって考える。
小粒の雨が窓に当たり景色をぼかす。糸杉は雨の中を帰ったのだろうか。あいつも雨が苦手だと言っていた。それなら止むまでここで時間を潰していたかったのではないのか。予報が正しければこの雨は日が暮れる頃には止んでしまう。
思えば、俺は糸杉の事を何も知らない。
どうしてこの部を作ったのか。
どうして雨が苦手なのか。
どうして教室では自分を偽るのか。
どうして俺たちの過去を知っているのか。
どうしてすべてを諦めてしまっているのか。
悲哀の色が深く刻まれたあの目が頭から離れない。
窓から見える向かい側の廊下に、小紫がスキップしながらこちらに向かって来るのが見えた。
「友達の掃除を手伝っていたら、遅れてしました!」
「ご苦労様。今日も元気だな」
「はい! 天気は雨でも私は毎日晴れです。糸杉先輩はどうしました?」
「今日は帰ったよ」
「そうなんですか……」
俺の様子から何かを悟ったのかもしれない。無駄に高かったテンションが少し抑えられる。
「私に出来ることがあったら言ってくださいね。私もこの部の一員なんですから」
「いつから部員になったんだ?」
「昨日です。関山先生から許可を貰いました」
「そうか」
驚くような事実だったのだが、特に反応できなかった。
部室を出て行く直前に見せた糸杉の表情が忘れられない。
安堵と落胆の混ざった表情。
あれはどっちなんだ?
お前はどっちを望んでいる?
慈善活動部は俺の知らないところで話が進み、関山先生の鶴の一声で全てが決まって創られた部だ。俺はその流れに成す術がなくここまで流されてきた。
だからその流れが止まってしまうことにも俺は成す術がない。
「今日も来ませんね。糸杉先輩」
「そうだな」
俺は適当な本を流し読みしながら小紫の質問を受け流す。
「忙しいんでしょうか?」
「そうだな」
「……学校もお休みしてるんですよね?」
「そうだな」
何かを考えているわけではないのに本の内容が全く頭に入ってこない。
「……音霧先輩ってゴミですね」
「そうだな」
糸杉がここに来なくなってから二日が経っていた。
あれから糸杉は体調不良で学校を休んでいる。
仙都も同じだった。連絡を入れても返事がない。
担任の関山先生も二人は体調不良でしばらく休む。そう言ったきり、言及することはなかった。
「ゴミクズ先輩」
どうして俺はいまもここに来ているのだろうか。それはきっと糸杉が何食わぬ顔でここに来ることを期待しているからではないのか。
自分でも自分の行動の意味がわからない。
色のない日常が再び訪れようとしている。あれだけ望んだあの日々が来るのだ。これは良い事だろう。糸杉の事なんて放っておけばいい。
いままでの日々が戻ってくるのだから、こんなところにいないで早く楓に会いに行けばいいじゃないか。
先日したはずの決意すらも揺らいでしまった俺は何も行動に移せずにこんなところで時間を潰してしまっている。
「あ、糸杉先輩」
「え?」
本に落とした視線をあげて入り口側を見るが、そこには誰もおらず、扉が開いた痕跡もなかった。
小紫は難しい顔をしてこちらを見据えている。
「やっぱり糸杉先輩と何かあったんですね」
「別に何もない」
小紫には何があったのか詳しく話していない。俺も糸杉も小紫をこの件に巻き込むことを望んではいない。
再び本に目を落とそうとすると、小紫に本を奪われる。
「逆さですし、音霧先輩が哲学書とか気持ち悪いですし」
「知らないのか? 今は哲学書を逆さにして読むのが流行ってるんだぞ」
「聞いたことないです。そんなわかりやすい嘘で私を騙そうとしないでください。これは没収です」
哲学書を読んでいて没収されるなんて聞いたことがないな。
することのなくなった俺はソファーに横になり窓から見える青空を横目で見る。雨は降りそうにない。
「何があったのか知りませんが、糸杉先輩をこのまま放っておいて良いんですか?」
「良いのも何も、あいつが決めたことだ」
「音霧先輩はどうなんですか? 納得してるんですか? このまま糸杉先輩がいなくなっても良いんですか? 取り返しのつかない事になっても後悔しないんですか? いつまで自分に言い訳するんですか?」
矢継ぎ早に問うてくる小紫はやはりただならぬ何かを察している様子だった。
「私は……嫌です……こんなの」
小紫は下唇を噛んで必至で耐えながらも泣いていた。悔しさを滲ませる瞳からは雨の降り始めのように大粒の涙が零れる。
ここで泣くのはずるい。そう思いながらもそれをさせた自分を嫌悪した。
「すみません……泣くつもりはなかったんですけど……なんか悔しくて」
「小紫はいつも自分の気持ちに正直だな」
「その方が後悔しても後に活かせるってお母さんが言っていたので」
こんなところをあの人に見られたら本気で殺されそうだ。
「その通りだな」
糸杉から離れたい、関わりたくない、そう思っていた気持ちが、いつの間にか反転している。俺は心のどこかで糸杉と関わることを望んでいる。
この世界で俺を非難の目で見て来るのはあいつしかいなかった。
糸杉が居なくなったら俺はまた逆戻りだ。後悔はしたくない。言い訳をするのはもう辞めよう。
「ごめん。小紫。しばらくこの部を任せて良いか?」
「もちろんです!」
小紫は直ぐに涙の気配を消して破顔する。
この先にどんな現実が待っていようと受け入れる以外に先に進む方法はない。
つい先日もそう決めたばかりではないか。
その場に留まり続けた俺はいつしか先に進むことを考えるようになっている。
スマホで連絡を取ろうにも電源が入っていないのかコールもしないし既読もつかなかった。
直接糸杉に会いに行くことに決めた俺は、住所を知るために職員室へと出向いた。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
「ラスボスみたいな台詞ですね」
「だろう。まあ、実際はそろそろ私が出向くべきかと悩んでいたところだ」
心境を吐露しながら関山先生は裏紙に筆を走らせる。達筆なその字は先生の性格をそのまま表している。
「糸杉の住所だ」
「あっさり教えますね」
「これ以上、生徒が傷つくのは看過できないからな」
ありがたく頂戴する。住所が書かれた紙を受け取ろうとするが、強く握られた紙は先生の手から離れない。
「渡す気はないんですか?」
「少し話をしよう」
「急いでいるので」
素早く腕を引いてメモを先生の手から引き抜く。
「待て。私にも格好を付けさせてくれ」
出ていこうとすると縋るように腕をつかまれてしまった。
生徒に縋る時点で格好良いところなどないように思えたが、とりあえず先生の話を聞いておくことにする。
俺たち以外に誰も居ない職員室はその広さと相まって、静けさが重く感じられる。
「済まなかった」
開口一番、先生は頭を下げる。
「謝らなくちゃいけないことしたんですか?」
俺みたいな高校生にまで頭を下げなくてはならないのだから先生という職業はつらいものだ。絶対に選択しないようにしなくては。
「私は君たちの事情を全て知っていた。だがそれを話さなかった」
「そうですか」
事情の全て。言葉通り受け取るのであれば楓のことも知っているのだろう。
やはり、謝るようなことではない。寧ろ全てを話されてしまったら俺はこの人を拒絶していたことだろう。
「君たちは君たちの世界で完結していた。それを広げるために私はあの部を創設したんだ」
つまり俺と糸杉が出会ったのは偶然ではなかった。
そしてその企みは或る程度は成功していた。と言える。
「だが私は生徒が抱えている闇を甘く見ていた」
コーヒーの黒い表面に映る自分の疲れた顔を見ながら先生は溜息を吐く。
生徒とは誰のことをいうのか。俺か、糸杉か、はたまた……
「糸杉はまた日の当たらない薄暗い洞穴の中に戻ろうとしている」
抽象的な言い方だが、何が言いたのか俺にはわかる。
「そこで私から慈善活動部である音霧に相談だ。糸杉に前を向かせてやってほしい」
「難しい依頼ですね」
だが悩む必要はない。元よりそのつもりだった。
「音霧がここに来なかったら、いまの台詞で焚きつけようと思ったのだがな」
「残念でしたね。良い後輩が出来たので」
「私の采配もなかなかだろ」
「自画自賛ですか」
これで大義名分は頂いた。俺がしたことで糸杉に文句を言われたらすべてこの人に押し付けてしまおう。
「ところで、どうして慈善活動部だったんですか?」
「それは人の為に何かをすることは心地よい事だからに決まっているだろ」
闇をも焼き尽くす眼光。この人は相変わらず、熱血で暑苦しい教師だった。
教えてもらった住所を辿って付いた場所は閑静な住宅街だった。糸杉の家は同じような家が並ぶ一角にあった。
木製の和式住宅は経年劣化から逃げることは出来ず、全体的にくすんだ色をしている。庭の手入れが行き届いているところを見るに、予想よりも年月が経っているのかもしれない。
くすんだ色に家族の歴史を感じさせる。どこかから漂ってくる夕食の匂いがそう感じさせた。
インターホンを押そうとしてその家の表札が糸杉でないことに気づく。
もう一度、教えてもらった住所を確認するがこの家で間違いない。
「うちに何か用?」
どうするべきか逡巡していると突然後ろから声を掛けられた。
気だるげな声の主は二十代前半と思わしき女性で、ウェーブの掛かった髪を茶色に染めて、ナチュラルメイクで清楚を演じている。全体的な顔立ちは綺麗だった。
糸杉の姉、だろうか。それにしてはあまり似ていない。
「糸杉梓さんを訪ねてきました」
糸杉梓、その名前を口にした途端。彼女の様子が一変した。柔和な笑みを湛えていた瞳は鋭く光り、こちらをまじまじと観察する。つま先から頭頂部までゆっくりと舐めまわすようにしてから今度はいたずらを思いついた子供のように笑った。
「君……あの子の彼氏?」
「いいえ」
はっきりと否定する。
「じゃあ、ストーカー?」
「友人です」
「ふーん。死んだ魚を三日間放置したような目をしているから勘違いしちゃったよ」
「そうですか」
久しぶりに言われた気がする。俺はまだそんな目をしているか。変わったと言われてもそこだけは変わらないらしい。
そんな事より、彼女は糸杉について否定しなかったということは、糸杉はこの家に住んでいるという事だ。
「それよりもあの子に友人がいるなんてね」
どういった事情であるのか知らないが、彼女が糸杉を良く思っていないことは態度からすぐにわかる。
「せっかく来てくれて悪いけど、あの子ならいないよ。最近は夜遅くに返って来けど、何処で何してるんだか」
小馬鹿にするように言うと、横を通り過ぎて玄関の鍵を開ける。
「そうですか。ありがとうございます」
お礼を言って帰ろうとすると、肩を軽く叩かれる。
「入りなよ。あの子の事が知りたいんでしょ。聞かせてあげる。それに、私もあの子がどんな学校生活を送っているのか興味があるし」
目を細めて笑う仕草は嗜虐的で、新しいおもちゃを見つけたような子供っぽさを感じさせた。悉く糸杉とは似ていない。
罠のような危うさを感じずにはいられなかったが、先生に頼まれたことを遂行するには、まず糸杉を知らなくてはならない。
その為にはこの人から話を聞く必要がありそうだ。
「その辺適当に座って」
言われた通り、適当にソファーに腰かける。
家の中は綺麗に掃除されていて清潔感があった。埃一つ落ちていないのではないだろうか。性格からしてあの人ではない。糸杉が掃除を担当しているのだろう。
一般的な家庭。それが部屋を見渡しての第一印象だった。
しかし、テレビの隣に置かれた家族の写真に糸杉の写真は一枚もない。あの女性とその両親、この家は三人家族であるかのように見える。
「お待たせ」
インスタントコーヒーの安い香りを漂わせて彼女がキッチンから戻ってくる。詮索していたことがばれないように居住まいをただす。
「先にさ、学校でのあの子を聞かせてよ」
この人は俺に何かを吹き込もうとしている。
俺はそれに乗るふりをしてクラスでのことだけを話した。慈善活動部に関する話は一切しない。自分は糸杉に好印象を持っている。そう思わせることにした。
「そうなんだ。あの子、本当はそんな人間じゃないのよ」
「本当は、とは?」
罠にかかった得物にじっくりと毒を回すように重厚で濃密な間を取る。
「あの子ね……」
彼女の目は真剣なのだが、口元が笑いを隠せていない。
「殺人犯の娘なのよ」
「……っ!」
「あ、まだ死んでいないから殺人犯ではないわね。でも相手は三年間も眠ったままなのだから死んでいるのと変わりないわよ。あの子の親は一人の女の子の人生を滅茶苦茶にしたの。不注意による交通事故で」
「三年前……交通事故」
今の俺の表情は彼女が求めていたもの以上のものだっただろう。それ程俺は動揺している。しかし、それは彼女の意図したものではなかった。
三年前、眠ったまま、女の子、交通事故。そのキーワードが俺をここまで動揺させていた。
「それをあの子は頑なに隠しているみたいね。それもそうよね。前の学校ではそれが知られて相当ひどい目にあったみたいだし」
ひどい目というのが何であるのか聞くまでもない。
「それに当時は世間からのバッシングがすごかったのよ。苗字が違うのは気づいているでしょ。あの子の家族はあの事故以降ばらばらになったの。私はあの子の親戚。だからあの子が本当はどんな性格か知ってるの。それなのに今のあの子はいつ居なくなっても気づかれないように空気みたいに存在を薄くして、親の罪を肩代わりするように過ごしてる」
いつの間にか愚痴になっていたことに気づいたのか、彼女は失敗した時のような苦い表情をしてコーヒーを啜る。
「その事故の被害者の名前、知っていますか?」
どうしてそんな事を知りたいのか。彼女は怪訝な視線を向けるが特に問いただすことはしない。
「知ってるよ。確か紅葉楓っていう子だったと思う。当時中学二年生。あの事故がなければ君たちと同い年の高校二年生だね」
いままでの事、全てがここに辿り着くための布石だったのだと気付かされる。糸杉は初めから三年前のけじめを付ける気でいた。
「ありがとうございました」
「普通でいたいのなら、あの子に近づきすぎない事ね」
「そういう訳にはいきません。俺は糸杉を連れ戻さなくてはいけませんから」
適当に返事をして席を立てばこの場は治まったのにそれが出来なかった。
「どうして?」
「似たもの同士だからですかね」
糸杉がどういうつもりで三年前とけじめをつけるのかわからないが、そこに俺がいないのは許されない。
糸杉は俺が部外者だと勘違いしている。それは間違いだ。俺がいなければあの悲劇は起こらなかった。
玄関を出ると先ほどまで秋特有のイワシ雲を見せていた空は曇天に包まれていた。予報は外れやがて雨が降るだろう。
このまま糸杉が返って来るのを隠れて待っている手もあった。しかし、言いようのない焦燥感に駆られて俺は『家の人から全て聞いた』とメッセージを送りあの場所に向かう。
あいつが最期に選ぶとしたら場所は一つしかない。
『俺にしか見えない楓』のいる公園前。
俺たちの三年前にようやく終わりが迎えられようとしていた。
「楓、しっかりしろ! おい!」
素早く駆け付けた彼は手早い判断で楓を仰向けに寝かせ救命処置を施していく。
まるで映画のワンシーンを見ているようで、現実感は皆無だった。
すぐに騒ぎを聞きつけた野次馬たちがオレたちを取り囲む。その中には一緒に救護をする者もいた。
これだけ人が居れば、誰かが救急に連絡している。AEDも取りに行っただろう。後はなにがある。もう、十分ではないのか。
言い訳ばかりが頭に浮かんでは消えて、オレはまだその場に立ち尽くしたままでいる。
どうすれば良いんだ。オレに出来ることは。
「仙都! 仙都っ!」
誰かの呼ぶ声でオレは現実に戻る。
そこで楓に駆け寄ったのが聡だったことに気づいた。
「ここを押さえてくれ」
「え……?」
押さえろと言われた箇所、それは楓の右大腿部なのだがそれは正常な状態とは程遠いものだった。
「はやく!」
「わ、わかった」
言われた通り、楓の大腿部をハンカチで抑えるものの、手が震えてうまく抑えられない。隙間から真っ赤な血が流れ、見る見るうちに自分の手を穢していく。
激しい雨の合間を縫って生暖かく鉄のような臭いが鼻を刺激する。
それははっきりと死を連想させた。
意識が保てたのはそこまでだった。オレの精神は限界を迎え気を失ってしまう。
目が覚めた時は病室で、家族が心配そうにオレを覗き込んできたのを見た時
夢で良かったと勝手に決めつけて安堵したのを覚えている。
その後、両親から歩道に乗り上げた車に楓が轢かれ意識不明の重体であることを知らされても、オレは気を失う前に嗅いだ鉄臭い臭いとは裏腹に、ここは清潔感のある消毒液の匂いがすると現実から目を背け続けた。
オレは周りから被害者のような扱いをされたが、事故原因を作ったのは間違いなくオレだ。
お前が道路に飛び出しさえしなければ楓はこんなになることはなかった。
誰もそう言ってオレを責めることはしない。責められるのはオレを避けようとした運転手ばかり。
状況をすべて見ていただろう聡でさえもオレを責めることはなかった。
オレが轢かれていれば良かったのに。
そう思っていたのは最初の内だけだった。
年月が流れるにつれて古くなった角質が剥がれていくように、罪悪感が少しずつ薄れていった。
それは記憶も同じで最後に見た楓の顔をはっきりと思い出すことが困難になった。
まるでなんでも飲み込んでしまう穴が徐々に広がっていくような感覚だった。
病室に行ってもチューブに繋がれた楓の姿は当時の事を思い出させてはくれない。
楓よりも強く残るものがオレにあれば、この穴を埋められる何かがあれば、そう思って唯一の取柄だったサッカーを我武者羅に続けた。
だけどブラックホールのようなその穴は決して埋まることはなく、寧ろ日増しに広がって行く。
絶望しかなかった。忘れたくないものが記憶から消えようとしている。このまま楓が完全に消えた時、この穴は内側からオレを飲み込んでしまうのだろう。
だから病院の帰りに何かに縋るように事故現場に行き、そこで公園で一人まるでそこに誰かがいるように楽しそうに話をする聡を見た瞬間、言いようのない黒い感情がオレを支配していくのがわかった。
聡には楓が見えている。
だったらオレもそれを見られるようにすれば救われる。
だが方法がわからない。そうこうしているうちに記憶から楓が消えていく。
焦燥にかられるは偶然女子高生が交通事故に遭う瞬間を目撃してしまう。オレの中で何かが変わったとすればあの時だった。
三年前を再現すればいい。そうすればオレはまた楓の事を思い出せる。
それからオレは死にたがりの女子を探しては、確実に死ねる方法と偽り、車道に飛び出すように仕向けた。
しかし、どれも失敗だった。車に跳ね飛ばされる少女たちはどれもチープな映画のワンシーンの様で、楓を想起させてはくれなかった。
何がいけないのか。それをあいつから指摘されてようやく気付いた。
あいつは何故か三年前の事故を知っている。だからあの場所で同じことを行なうと言われた時は正直驚いたが、あいつもそれで同意している。
思わぬ相手と利害が一致した。
これで最後になるだろう。ちょうど良い事に雨も降り始めた。
安全運転を心がけるバスはこちらの気持ちを急かせる。
走った方が早いと降車ボタンを押しそうになるが、雨が降っていることを思い出してボタンに掛けた指を引っ込める。
冷静になろう。この距離ならばバスの方がどう考えても早い。
窓から見える街の景色は一カ月前から一変して、銀杏の黄色に染まっている。それと同じように俺の環境も一カ月前からは一変していた。
それをしたのは糸杉だ。その糸杉はあの事故の関係者だった。そして俺に非難の視線を向けて来る。これはきっと偶然ではない。
あの事故を引き起こしたのは俺だ。
仙都があの日、雨の中わざわざ楓と一緒に帰ったのは俺に楓が好きだと言われたからだ。思惑通り、仙都は俺よりも先に告白する気でいた。
周りに囃し立てられても曖昧な言葉で濁して照れ笑いを浮かべる仙都を見ていて、仙都も楓が好きだということはわかっていた。
だから俺は仙都が楓に告白するように仕向けた。
自分で告白しなかったのは怖かったからだ。告白して断られた時、幼馴染の関係が崩れてしまう。だから卑劣な手を使った。
例え、仙都の告白が上手くいって二人が付き合うことになっても俺は幼馴染としての関係を保つことが出来る。一切傷つかずに相手の気持ちを知ろうとするからこうなった。あれは俺が引き起こした事故だ。
自分の気持ちを相手に伝える勇気があの時の俺に僅かでもあれば、多くの人間の歯車は狂わなかっただろう。
この話は誰にも言えなかった。だから事故後も俺を責める人は誰もいなかった。当時はそれでほっとしていた。しかし、月日が経つにつれて罪悪感が際限なく溜まって行くことに気づいた。
それと同時に俺の中に楓が深く刻み込まれている事にも気づいた。
それに気づいたからと言って誰も俺を責めてはくれない。責めてほしい相手は病院で眠り続けてこちらの声には応えてくれない。
楓の両親からも『君の応急処置で一命を取り留めた』『命の恩人だ』など感謝の言葉ばかりで憎しみの言葉なんて出るはずがなかった。その内に『君はここに来なくて良い』『君の人生を歩んでほしい』なんて、こちらの心配までする始末。
そうした言葉を投げかけられる度に罪悪感は積もって行く。
このまま罪悪感に蝕まれて俺は死んでいくのだろう。それでもいい。それが償いになるのなら。そんな時だった。いつものように病院帰りに事故現場にむかい、ベンチに座る楓を見つけたのは。
あの時と変わらない姿で俺に手を振っている。
俺が生んだ幻であることはわかっていた。俺はここまで狂ってしまったのだと実感もしていた。それでも俺には救いだった。俺を唯一責めてくれる相手が現れた。楓に糾弾され破滅させられるのならば納得がいく。このまま奈落の底に突き落としてほしい。
その日から放課後は病院ではなく、あの公園に行くようになった。
けれどそれもやめる時が来た。
俺を糾弾する人間が現れた。俺はそいつと逃げずに向き合わなければならない。
『あなたに私を刻みたいの』
糸杉は自分の目的をそう言っていた。悲哀を深く刻んだ、全てを諦めてしまった瞳で。
早くに気づくべきだった。それまでの行動を考えれば糸杉が何をしようとしているのかはわかったはず。
三年前の加害者側の人間が三年前と同じ場所で同じ事故にあって最期を迎える。それを目の当たりにするのは三年前の事故を模倣している人間。糸杉の死後にすべてが明るみになってその人間は全てに気が付くのだろう。
あいつは最初からそのつもりだった。
公園近くの停留所を告げるアナウンスが流れ、僅かに残った迷いを押しつぶすように降車ボタンを押す。
バスはゆったりとスピードを緩め停車する。
料金を払いバスを降りるのと同時に地面を蹴って走り出す。顔に当たる雨粒はじっとりとかいた汗のように不快だった。思えばあの日もこんな雨が降っていた。
やがて銀杏の黄色い街道に対抗するように深紅の紅葉に染まった公園が見えて来る。
その公園の前にある横断歩道で黒い髪を雨に濡らした糸杉が空を見上げて立っていた。
「糸杉!」
名前を叫んでも雨にかき消されてしまう。
来るタイミングがわかっていたように、ふと、糸杉がこちらを見る。
雨に濡れた糸杉は灯が消える寸前に見せる一瞬の美しさを伴って俺に微笑む。完璧だった。こんなものを見せられた後に、儚く砕け散ってしまえば誰でもその姿を刻まずにはいられない。
横断歩道の信号が青から赤に変わっていく。
先日の支倉と同じだ。相手は向かい側に立っている。何をするのかわかっていながらあの時の俺は一歩を踏み出せなかった。
信号は赤のまま。車道には車が容赦なく行き交っている。
糸杉は躊躇なく足を前へ踏み出してこちら側に渡って来ようとする。このままでは間に合わない。
ふと糸杉の足が止まった。
俺は全力で走った勢いのまま、車道へ飛び出し糸杉に向かって突進する。勢いを押し殺すことが出来ない俺はそのまま糸杉と一緒に地面に転がった。
間一髪、僅か後ろを車が通るのがわかった。
突き飛ばされた糸杉は地面に叩きつけられ、鈍い声を上げる。
足の感覚が麻痺した俺はしばらく立ち上がることが出来なかった。上から打ち付ける雨に何かを塗られているような感覚で気持ち悪い。
痛みを堪えた表情の糸杉は地面に座り込んだまま俺を睨み付ける。
「お前を、轢いた側がどうなるのか、考えなかったのか? それとも自分は死ぬから関係ない、そう言いたいのか」
「…………」
息も絶え絶えながらも怒気を込めた訴えに糸杉はなにも言わない。この際だから全て言わせてもらう。
「人を殺せば例え事故だとしても世間が人殺しのレッテルを張る。それに関係した人間の歯車を狂わせる。それはお前もわかってることだろ」
「偉そうに。説教なんてしないで。それにあなたは部外者でしょ」
「それはお前にも言えるだろ。事故を起こしたのはお前の父親だ」
「あなたもそう言うのね……私には背負わなければならない理由があるの」
立ち上がった糸杉の目は悲哀の色を深く刻んで道路を見つめる。
「あの日、私はあの車に乗っていたの」
「それだけで」
「違う」
俺の言葉を遮った糸杉声には抑揚はなかったけれど、そこには確かに悲痛な叫びが籠っていた。
「すべての原因は私にある。腹痛なんて仮病を使わなければこんなことにはならなかった。土砂降り雨の中、腹痛を訴える娘を隣に乗せた父に、正常な判断が出来るわけがない。だから信号を無視して事故を起こした」
懺悔するように糸杉は続ける。
「私が居なければあの事故は起きなかったの。それなのに責められるのはいつも父。母は世間のバッシングに耐えられずに出ていった。父くらいは私を責めたって良いのにそんなことは決してしなかった。寧ろ父は自分と一緒にいると迷惑が掛かると私を親戚の家に預けて今は一人で暮らしてる。誰も私を責めない。出て行った母も私を責めることはしないで、寧ろ逃げ出した自分を責めてる」
糸杉も自分の所為で事故が起こったと感じ、誰かに糾弾されることを望んでいる。
「逃げるために死のうとしたのか?」
「違うわ。復讐のためよ」
糸杉は矛盾したことを口にする。糾弾されたいのなら、復讐をするのではなくされなければならない。
「黒田根市で起こっている事故。私には事故だとは思えなくて、色々と調べた。それが雨の日、女生徒、車道への飛び出し、三年前と酷似しているとわかって、それが三年前と関係していること確信したわ。父が轢きそうになったあの男子生徒が事故を誘発させている。あの事故に関わった人間は彼しか残されていない。だったらそいつに一生忘れられないように私を刻み込んでやる。あなたが壊した人間は一人じゃない。そう伝えるために」
相手に対する復讐。自分に対する糾弾。窒息するような罪悪感の中で見出した糸杉なりの救いだったのだろうか。
だが、それでは同じ人間を生み出すだけだ。やり方が間違っている。
「そして父が轢いたあの女の子と楽しそうに話している音霧くんを公園で見つけた。あの子がどうなったのか知っていたから、その光景が異常なことは直ぐにわかったわ」
「やっぱり見えてたんだな」
「ええ、今でもはっきり」
糸杉は俺たちの傍で今にも泣きだしそうな表情をしている楓に視線を向ける。
どういうわけか、糸杉にも楓の姿は見えているようであった。しかし、今更驚くようなことじゃない。初めて出会ったあの日、確かに糸杉は俺の隣にいるはずのない楓に視線を向けていたのだから。
「それで勘違いして、俺を慈善活動部なんかに引きずり込んだのか」
「そうよ……けれど音霧くんは、部外者、だった」
さっきの仕返しのつもりなのだろう。部外者の部分をゆっくり、はっきりと述べる。
「だったら糸杉が死ぬ意味はもうない」
「どういう意味?」
「俺も部外者じゃない。事故が起こった要因は俺にもある」
俺は自分のしたことを包み隠さず糸杉に話す。自然と滞ることなく言葉が出て来る。誰にも話さなかった自分の罪を恥を曝け出しているというのに。
「俺が卑怯な手を使わなければ、あの日に二人が一緒に帰ることはなかったし、仙都が道路に飛び出すこともなかった」
「そう……」
全てを曝け出したからと言って罪がなくなるわけではない。
罪は決して分配されず、同じ質量で俺たちにのしかかっている。
この事故に関わった楓以外の人間に事故を引き起こす要因があった。
自分が存在していなければ事故は起こらなかった。それは罪を認識するための呪詛であり、罪から逃れるための慰めでもある。しかし、これからはそうした言い訳は許されない。
他人の落ち度を知ってしまったことで、俺たちはそれを責めずにはいられない。
「自分さえいなければ……そう思っていたのに」
糸杉は溜息と共に気持ちを吐露する。その背中は弱々しくて、小さくて、これが本当の糸杉の姿なのだと感じる。普段見せている冷淡で氷のような性格は、他人を近づかせない為の虚構に過ぎない。
世界から自分を切り離してしまった糸杉に俺が出来ることは一つしかない。
「俺はお前を許さないよ。だからお前も俺を許さないでほしい」
驚いたように見開かれた糸杉の瞳は変わらず悲哀の色に染まっていた。
「俺がお前を恨んでやるよ」
「上から目線は気に入らないわね。それからお前って言うのやめて」
ふと見せた和らいだ表情が何を意味するのか俺にはわからないけれどこれで糸杉が死のうとすることはないだろう。
再び糸杉は車道側に視線を向ける。
「その提案には乗ってあげる」
「思いきり上から目線なんだな。自分がされて嫌な事を相手にするなよ」
「別に憎んでる相手なら問題ないでしょ」
「そうか……それなら俺も問題ないな」
お互いに憎み合っているのに清々しい気持ちになる。
俺たちはお互いに憎み合い、世界と繋がりを持つことで生きていくことを決めた。
結末としては最悪かもしれない。物語にあるように全て水に流して仲直りなんて展開にはならない。なれるはずがない。俺たちは狂ってしまっている。一度狂った人間が清い関係を築くことは不可能だ。それならば狂っているなりにどこまでも転がって行くしかないだろう。お互いを道ずれにしながら。それも悪くないと今は思える。
倒れた時に痛めたのか、腕をさすりながら糸杉は汚物を見るような視線を向ける。
「俺の所為じゃないぞ」
「まだ何も言っていないのだけれど」
「目が言ってる」
糸杉の目はいつものように悲哀が深く刻まれている。その目は一生治ることなんてないのだろう。俺の目が腐っているのと同じだ。しかし、空虚な世界を映すその目ではっきりと見たはずだ。道路に飛び出さないように前を塞ぐ楓の姿を。だからあの時足が止まった。
「楓に感謝しないとな」
「……ええ。気が付いたら彼女が目の前にいたわ」
糸杉は直視することを拒むように横目で俺の傍の楓を見る。
楓はこちらに優しく微笑んで立っていた。
「ありがとう。楓」
足が遅い、もっと運動しろ、女の子は大切に扱いなさい、そんな事を言ってくるのかと思っていたが、楓は微笑んだまま何も言ってこない。まるで向こうとこちらでは世界のチャンネルが違う様に思えた。
それが別れだと感づくのに時間はかからなかった。
「ごめんなさい」
思わず口を衝いて出た糸杉の言葉に楓は表情を曇らせて首を横に振る。
「言うべき言葉が違うらしいぞ」
「そうね……ありがとう」
糸杉の感謝の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた楓は雨が作り出す靄の中へと消えて行った。
「ありがとう……」
結局、俺たちは一番憎んでほしい相手には初めから許されていた。そんな気持ちを無視して俺たちは、自分を自分で傷つけ僅かな不幸で背負っている気になっていた。
「どうしてお前らには見るんだろうな」
楓を見送ってすぐ、傘を差した仙都が公園の影から現れる。
「もう俺には楓がどんな風に笑ったのか思い出すことが出来なんだ。だからせめてあの時の顔だけでも思いだそうと……」
何かを言おうと一歩踏み出そうとした糸杉を制止させて仙都に近寄る。
「まだこんなこと続けるのか?」
「ああ、俺は楓が消えたら生きていけない」
「こんなことをしている間は無理だと思うぞ」
「偉そうなことを言うんだな」
「仙都は楓が轢かれる瞬間を見てないだろう。仙都が思い出すべき楓はそこにはいない」
あの時一つの傘を分け合う二人をこっそりと隠れて見ていた俺にしか楓が轢かれる瞬間を見ていない。車道で立ち尽くしていた仙都なら尚更見られるはずがない。
「……なるほどな。どうりで何も思い出せないわけだ」
酔いから醒めたように仙都は切迫した表情を緩ませる。その瞬間を狙ったように仙都のスマホが着信を知らせる。ふとポケットに自分のスマホがない事に気づき、辺りを見回す。
「うわ……」
俺のスマホはさっきの衝撃で無残な姿となって地面に転がっていた。画面は蜘蛛の巣が張ったように割れている。
「自業自得ね」
「それをお前が言うのは間違ってるぞ」
「またお前って言った。あなた鳥よりも脳みそ小さいの?」
「憎い相手の嫌がることをしてるだけだ」
俺たちの不毛な会話の間に仙都は要件を済ませる。
「はい……はい……ご愁傷さまです」
消え入るような声で通話を切ると仙都はスマホをポケットにしまい一度大きく息を吐く。毅然とした表情が強がりであることは明らかだった。
「たった今、楓が息を引き取った」
三年前と同じような土砂降りの雨はいつの間にかあがり、雲の合間から太陽が顔を覗かせていた。
それから数日後に楓の葬式が行われた。
楓の葬式には大勢の人が来た。彼らはまるで楓を利用して同窓会でもしている気分なのだろうと、心のどこかで思ってしまう。だから、すすり泣く数名の生徒を見ても白々しい思いしかしなかった。
そこに楓はいない気がして、焼香を済ませるとさっさと帰った。
視界の端に糸杉を見た気がしたが、それを確かめることはしなかった。
放課後、関山先生に呼び出された俺は戦々恐々としながら職員室へと入る。放課後直後ということもあって生徒の姿もちらほら見える。
「話って何ですか? 先生からの呼び出しでいい思い出ないんですけど」
もしかしてまた暑苦しい事に参加させられるのだろうか。今度は地域のボランティア活動だろうか。それとも、生徒会が募っている地域交流だろうか。
「音霧、答えを聞かせて貰おうか」
「答え? 何のですか?」
「慈善活動部に入るかは一カ月後に答えると言っただろ」
そんなことかと安堵する。
その場しのぎの為に言ったに過ぎなかったのですっかり忘れていた。
「続けますよ」
楓がいなくなったもうあの公園に行く意味はない。
それに約束もしてしまった。俺にはあの部室に行かなくてはならない理由がある。
「案外あっさりしているな。抵抗するものだと思っていたぞ」
「こんな時間の使い方も悪くないというか、そんな感じです」
「そうか。そうか。拒否するならそれなりの手段を考えていたのだが行使せずに済んで何よりだ」
満面の笑みで怖いことを言って来る。一体何をやらかすつもりでいたのだろうか。
聞いたところでこちらに利益はないので聞かないでおこう。
「何はともあれ、糸杉を頼むぞ」
「そこは頼まないでください」
「とか言いつつも音霧はやってくれる奴だと信じているよ」
先生の言葉には色々な意味が含まれているような気がした。もしかしたら俺たちがどういう答えを出したのか知っているのかもしれない。生徒を更生させるためには手段を択ばない熱血ぶりだし、違法な方法で情報を入手していたとしても不思議ではない。
「それから越水の件は申し訳なかった」
先生は恥も外聞も無く頭を下げる。他の生徒に見られると面倒なのでやめてほしい。
「先生が謝るようなことではないと思いますけど」
「いや、あるよ。私はまたしても生徒の闇を見抜くことが出来なかった」
そのことが余程堪えているのかよく見ると先生の目のしたにはくまが出来ていた。化粧を厚くして誤魔化そうとしても完璧には誤魔化せていない。
そんな暗い表情だと婚約者に逃げられますよ。とか軽口を言えるような空気ではない。励まそうとしても俺に言えることなんて見つからなかった。
「隠しているものを見抜こうとするのは無理ですよ。それに狂ってしまった人間はなにをしたってその狂いを治すことは出来ないですから」
仙都が狂ってしまっていることを知っていたとしても俺たちに出来たことはほとんどなかっただろう。仙都が狂ったのは事故が原因であり、その事がなくならない限りその狂いを戻すことは出来ない。もちろん過去は変えられないのだから、その狂いを、過去を、受け入れるしかない。
所詮他人が与えられる影響は限られている。きっかけは作れるけれど最終的には当人の意思次第だ。それを俺はこの一カ月で見せつけられた。
「いや、他人と関わることで人は変われる。それは音霧が証明してきたじゃないか。君は間違いなく変わったよ。君だけじゃない。糸杉もだ。それは君らが関わりを持ったからだ」
「あんなやつと関わりなんて持ちたくなかったですけどね」
「ひどい言い方をするな。糸杉の魅力に気づけないのなら私が一から教えてやろう。そこに座れ」
「急いでいるんで失礼します」
熱血指導が発動する前に職員室を出る。
部室に向かう途中、廊下の窓から雨が降り出しそうな寒空を眺める。
校舎に下がっていた『祝サッカー部県大会出場』の垂れ幕は撤去されていた。
仙都はあれからすぐに自首をした。我が校の英雄的存在が犯罪に手を染めていた衝撃的なニュースは瞬く間に世間に知れ渡り、関山先生はその対応に現在も追われている。
早く迎えに来てあげて欲しい。でないと萎れてしまいそうだ。
「関山先生は窮地を乗り越えると、寧ろ強くなるタイプよ」
いつの間に俺の後ろにいた糸杉は、いつものように悲哀を深く刻んだ目で俺を見つめる。
「俺の心を簡単に読むな。それと先生を戦闘民族みたいに言うな」
お互いに憎むと約束したが、関係は何も変わっていない。
「これで私は殺人犯の娘ね」
誰に言うわけでもなく空虚に向けて呟く。
「その方が憎みやすい」
「そう。どんどん憎んで良いのよ」
「怖いな。その言い方」
後で何十倍にもなって返って来そう。
その後はお互い無言のまま部室に向かう。以前は息苦しかった沈黙がいつの間にか何も感じなくなっている。
「糸杉せんぱーい! 助けてくださいー」
部室の扉を開けると半泣き状態の小紫が糸杉に抱き着こうとして避けられていた。避けられた小紫はバランスを崩して壁に激突する。
「どうして避けるんですか?」
「私は小紫さんとそこまで仲良くした覚えはないわよ」
「地味に酷い!」
泣きっ面に蜂とはまさにこの事。人を傷つけることに躊躇がない。
俺以外にそれをするのは珍しい。
「それで何が大変なんだ?」
「それが……」
小紫は俺たちが居なかった間の経緯を話し始める。途中で頭痛がしてくるほどに大変な状態だった。
「依頼の受け過ぎね。それにこの購買部で人気の商品を買うってただのパシリよ」
「そうなんですか? 慈善活動って難しいです……」
それもそうだが、『近日発売のスマホの列に並ぶ』『代わりに彼氏に別れ話をする』が気になってしょうがない。ここは代理業者じゃない。
「断るのか?」
「いいえ。受けてしまった以上、途中で投げ出すことは部の信用に響くわ」
無駄に責任感だけは強い。巻き込まれる方はたまったものではない。
「けれど私たちが手伝ってしまうと今後の小紫さんに悪影響がでるわね。全て自分でこなすべきよ」
「そんな~」
いきなり一人でスカイダイビングを命じられたような不安な表情をする。
「魚を与えても成長にはつながらないわ。魚の釣り方を学ぶべきよ」
それには一理ある。ここで小紫を手伝ったところで彼女の成長はない。
「安心してフォローはするから。まずは『美味しいお菓子の作り方』を済ませましょう。小紫さんなら出来るわよね? 家庭科室も今日なら空いているでしょうし。依頼人を連れて済ませて来て」
「今からですか!?」
「今やらなくて明日からやれる根拠を教えてくれるかしら」
「今からやります!」
弁明が面倒になったのか小紫は素直に従って荷物を纏める。
厳しくもあるが、後輩を指導する糸杉は今までになく生き生きしているように見えた。
「それにしてもお二人はいつの間にそこまで距離を縮めたんですか?」
「何の話だ?」
「だって二人一緒に部室に来るなんて初めてですよ。まるで恋人」
「関係ない話は良いから、早く行きなさい」
心底不愉快な表情を浮かべて糸杉は小紫に指示を出す。
「はーい」
小紫は空気よりも軽い返事をして依頼人のところへ向かって行った。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あの子家庭科部だし」
そういう問題の大丈夫ではない。小紫が人に何かを教えるところが想像できない。もちろん糸杉もだが。
ようやく静けさを取り戻した部室に、窓に雨粒が当たる音が響く。
それを合図にさらさらとした雨が降り始めた。
「音霧くん傘は?」
「もってないな」
「持っていたら借りて帰ろうと思ったのに」
「借りたら俺が濡れるだろうが」
「音霧くんに傘は必要ないでしょ」
「そう思っているなら、傘を持っているか聞く必要がないだろ」
「確かに、その通りね」
一通り会話を楽しんだ後、糸杉はいつものデスクに座る。
こんなことに付き合わされても不思議と不愉快ではない。こうして二人で時間を潰す行為が日常になっている。
俺たちの関係はいつ壊れてしまうかわからない。それでも壊れてしまうその日まで俺は糸杉を世界に繋ぎ続けようと思っている。それは糸杉も同じなのだろう。時には雨が降ることもあるだろう。その時は傘をさして守ることはしない。
自分たちに降りかかる不幸に相手を引きずり込むこと。それがあの日俺たちが交わした約束なのだから。
それを確かめるために傘はささずにいようと思う。
「さて家庭科室に向かうわよ」
纏めていたノートを閉じて意気揚々と立ち上がる。
「俺も行くのか?」
「当り前じゃない。毒を食べてくれる人がいないと」
「毒を食すことは決まっているんだな」
つまりはこういうことだ。お互いの面倒ごとに付き合う。こんな風にして俺たちは普通に近づいていく。
「それから……」
ふと足を止めた糸杉は窓の外に向かって話しかける。
「これからもよろしくね」
「こちらこそよろしく」
糸杉が見た方向を見ながら答える。今日の雨は簡単に止みそうにない。今日も俺たちはずぶ濡れになって帰ることになるのだろう。
一人じゃないのならそれも良い。
(了)