昼休みの教室は騒がしく重役出勤の俺を気にする者など誰も居ない。

『雨が降っている時、音霧は学校に来ない』

 それはクラスでの暗黙の了解となっている。それに対して不満や異議を唱える生徒は居ない。

 このクラスでの俺の立ち位置は透明人間だ。

 そこに居るのにそこに居ない。そうした扱いは気が楽である。

「よう。今日も一段と遅い登校だな」

 しかし、こちらの気持ちを酌んでくれない奴がいる。

仙都(せんと)、俺の事は放っておいてくれないか?」
「堂々と遅刻してきていじるなって方が無理だ」

 わざと大げさなリアクションを取りながら仙都は隣の席に腰を下ろす。
 越水仙都(こしみずせんと)とは小学生の頃からの付き合いである。
 
 ショートレイヤーの髪型は気取り過ぎず、自然体で好青年の印象を相手に与える。

 持って生まれたコミュニケーション能力と整った容姿が相まって彼を悪く言う者を俺は聞いたことがない。

 迂闊に嫉妬をされないところが仙都の凄いところである。彼と話したものは男女問わず、棘を抜かれたように虜になってしまう。俺も他人から見たらその一人なのだろう。

「で、用件はなに?」

 こちらの問いに仙都は人懐っこい笑顔を浮かべて揉み手をする。

「課題終わったか?」
「やっぱりそれか」

 鞄からノートを取り出すと仙都へと渡す。
 先日出された数学の課題はその日のうちに終わっている。帰宅部である俺は勉強くらいしかやることがない。

「毎回サンキューな。聡|《そう》が居なかったら俺の高校生活は詰んでるわ」

 受け取ったノートを恭しく高々と掲げる。

「たまには自分でやれよ」
「わかってるよ。今回だって半分はやったんだ」
「偉そうに言うな」
「まあまあ、俺も色々忙しいんだよ」

 ノートなんて仙都ならば誰からでも借りられる。態々俺から借りようとするのは俺を一人にしない為なのではと考えてしまう。

 典型的なクラスで浮いているキャラである俺が、一年半の高校生活を不自由なく過ごせているのは仙都のおかげであると言っても過言ではない。

――越水仙都が気軽に声を掛けているからあいつはやばい奴ではない――

 そういった認識がクラスにはあった。

 居なかったら、詰んでいたのはこちらだ。

 昔からサッカーが得意である仙都は本来であれば私立の高校に推薦で行くはずだった。しかし、何故か複数校の誘いを断って俺と同じ公立の高校へと進学した。

 そのことについて以前に何度か理由を尋ねたが、仙都は真面目に答えようとしない。

 三年前のことが影響をしているのは間違いない。

「……平気か?」

 ぼんやりしている俺を気遣う様に、仙都はこちらの顔を覗き込んでくる。

「大丈夫だよ。ちょっと考え事してただけ」
「とにかく、放課後までには帰してくれよ」
「前から気になってたんだが、放課後何か用事でもあるのか? いつもすぐに帰るし」

 仙都は探りを入れるように凝視する。

「別に何もないよ。学校は勉強するところだから。放課後は居る必要がないと思ってるだけ」

 俺はそれから逃れるように適当な言い訳を見繕う。

「ふーん。せっかくの青春を無駄にしてるようでもったいないな」
「それは人それぞれだよ」
「それもそうだな。それじゃ、放課後までには必ず返すから」

 仙都は勢い良く席を立つと、何かを思い出したように足を止めてこちらを振り返る。

「そういえばセッキーが探してたぞ」
「聞かなかったことにする」

 セッキーとは俺たちの担任の関山|《せきやま》先生のことだ。生徒達から理解のある大人として人気のある教師だが、俺はあの人が苦手だ。
 
 というよりも天敵と言っていい。

「本当にセッキー苦手だな」
「他人の事情にずかずか入り込んでくるからな」
「確かに熱血漢なところあるな」

 一応あれでも女性だけどな。

 問題のある生徒を正しい道に導こうとする先生の姿勢は立派である。ただ、全員にそのやり方が有効という訳ではない。

「というか、マジで無視する気か?」
「実際、その呼び出しを俺は聞いてないからな」

「そうだろうと思って直接迎えに来てやったぞ」

 ハスキーな声が後ろから聞こえ、肩を叩かれる。
 
 クラスメイトの視線がこちらに痛いほど刺さった。

 昼休みで賑わう教室に堂々と教師が入って来れば当然であろう。
 関山先生は今日も艶のある長い髪を一つに纏めて厳格な印象を受ける。スマートに着こなしたスーツと切れ長の目もそう言った印象に一役買っている。

「そう露骨に嫌な顔をするな」
「表情に出さないようにしたつもりなんですけどね」
「読心術は私の得意技だ」

 さらっと恐ろしいことを言う。

 直接来られては無視するわけにもいかず、渋々席を立つとそのまま生徒指導室へと連行された。