翌日、仙都が学校を休んだ。最近は様子がおかしかったこともあって、教室は空気は浮足立っているように感じる。

 別に学校を休むことは珍しい事ではない。季節の変わり目でもあるし風邪をひいた可能性だってある。

 それよりも俺は放課後の天気の方が気がかりだった。今朝のニュースでは午後からは所によって雨の予報になっている。

 それは昼休みの現在でも変わっていない。

 窓から空を見上げれば曇天が今にも雨粒を落としてきそうに広がっている。

 俺は心のどこかで雨が降ることを望んでいる。雨が降れば昨日決めた覚悟も先延ばしにできる。

 この期に及んでまだ逃げようとしている。

「音霧くん」

 曇天が広がり始めた空を眺めていると、少し疲れを残した表情の糸杉が隣に立っていた。

「何かあったのか?」

 教室ではめったに話しかけてこない。緊急の用事であることは直ぐにわかった。

「ここでは話せないわ。放課後、部室に必ず来て」
「放課後は予定が、おい、聞けよ」

 聞こえていないわけではないだろうに、こちらを完全に無視して糸杉は自分の席へと戻って行く。

 まるで俺が今日は部室に行く気がない事を悟っていたような強引な態度だった。

 クラスの女子数名と他愛無い会話をする糸杉ははっきり言って気持ち悪い。
 
 まるで綺麗な旋律の中に混ざってしまった一つの不況音のように俺には見える。

 いつまでこんなことを続けていくつもりなのだろう。あんなに生きづらそうに生活している姿を見せられているこちらの身にもなってほしい。

「放課後か……」

 呟きと同時に窓に一粒の雨がぶつかる音がする。

 これではどちらにせよ公園には行けそうにない。

 心のどこかでほっとしている自分が心底嫌だった。


 放課後に部室に向かうと糸杉は既に待っていた。

「単刀直入に聞くわ。越水仙都はどこ」
「俺が知っているわけないだろ」
「そう。知らないなら用はないわ」

 椅子に置いた荷物をひったくるようにとるとそのまま出ていこうとする。

「待て。仙都を見つけてどうする」
「音霧くんには関係ないわ」

 その言い方が何故か気に障る。

「関係ってどういう意味だよ」
「もう一度聞くけれど、本当に今場所を知らないのね」

 こちらの質問を無視して糸杉は最終確認をする。

「知らない。仙都に何を聞くつもりだ」
「わかっていて聞いているの? それとも受け入れられないだけ?」
「何が言いたいんだ」
「……」

 糸杉は何も言わない。代わりに俺に考える時間を与える。

 沈黙の部室に雨音が響く。

 俺だってわかっている。糸杉が考えているその可能性が現実的であることを。


 多発する事故の裏にいるのは仙都だ。


 昨日の質問に嘘をついたことでその疑いは濃くなっている。

 仙都は支倉に助かってもらっては困る立場だった。だから傍にいながら処置もせず、そこにはいなかったと嘘をついた。

 でもどうして仙都がそんなことをしなくてはならない。

 あいつはあんな事があっても前向きに生きていたはずだ。

「お前は仙都の何を知ってる」
「何も知らないわ。でもそれは音霧くんもそうでしょ。今まで他人に興味を示さなかったのだから」

 いつものように相手を挑発する態度を取ってくる。その態度からはある種の敵対心が見える。

「それに何も知らない方が余計な感情を挟むことなく客観的に見られるわ」

 それはそうだろうが、糸杉は何も知らなすぎる。

 俺たちの過去に何があったかなんて糸杉は知らない。

 仙都は三年前の事故で十分に苦しんだ。そんな奴がこんなことに関わろうとするのだろうか。

 ましてやあの時の事を想起させるようなことをするはずがない。

「もし、糸杉の思っていることが事実だったとしたら。今度こそ、警察に任せるべきなんじゃないか?」
「こんな曖昧な事では警察は動かないわ」
「証拠を集めて動かせばいいだろ」
「そこまでして他人に手柄を渡すような真似をする必要がある?」
「手柄なんて関係ないだろう。これは人の命に」
「綺麗事なんて言わないで!」

 感情的になった糸杉は期待を裏切られたような悲しい目をしていた。その瞳に怒気なんて全く含まれていない。期待外れの哀れみ。

 それを見た途端、俺はこいつに見放されたのだと悟った。

「音霧くんは今回の件から降りて」
「そういうわけにはいかない」
「今の音霧くんは邪魔なだけよ。何の役にも立っていない」
「俺はお前の従僕になった覚えはないぞ」
「そうね。だったら余計に一緒にいる意味なんてないでしょ」

 またしても他人を遠ざける言葉を投げつけてくる。

 もしかしたら俺を焚きつけるための挑発ではない。明らかな拒絶だった。

 無理やりこちらに引きずり込んでおいて、使えなくなったら切り離す。糸杉は最初から何も変わっていない。

「このままでは非効率だわ。別行動にしましょう」
「そうだな。その方が良い」
「それとさっき越水仙都の事を何も知らないと言ったけれど」

 わざと言葉を切って俺をまっすぐに見つめる。

「あの事故の当事者だということは知ってるわ」
「は?」

 どうしてそれをお前が知ってる?

 悲哀の色を浮かべる瞳は俺の身体を縛り上げて疑問は言葉にならなかった。

「以前も言ったでしょ。私は刻みたいの。あの事故を起こした人間に」
「それなら……」
「だからあなたには関係ない」

 ふといままで見せたことのない表情を浮かべると、視線を外して部室を出ていく。

 俺は糸杉が出ていった方向をただ見ている事しか出来なかった。

 埋まることない決定的な溝が俺たちの間に出来た瞬間であり、糸杉は誰にも心を開くことはないと確信した瞬間でもあった。

 どこで間違えたのだろう。こんな結末を望んでいたわけではない。心のどこかでもしかしたらわかり合えるのではないか。そんな風に思っていた。

 糸杉が居なくなった部室で俺はいつも糸杉が座っているデスクに向かって考える。

 小粒の雨が窓に当たり景色をぼかす。糸杉は雨の中を帰ったのだろうか。あいつも雨が苦手だと言っていた。それなら止むまでここで時間を潰していたかったのではないのか。予報が正しければこの雨は日が暮れる頃には止んでしまう。

 思えば、俺は糸杉の事を何も知らない。

 どうしてこの部を作ったのか。
 どうして雨が苦手なのか。
 どうして教室では自分を偽るのか。
 どうして俺たちの過去を知っているのか。

 どうしてすべてを諦めてしまっているのか。

 悲哀の色が深く刻まれたあの目が頭から離れない。

 窓から見える向かい側の廊下に、小紫がスキップしながらこちらに向かって来るのが見えた。

「友達の掃除を手伝っていたら、遅れてしました!」
「ご苦労様。今日も元気だな」
「はい! 天気は雨でも私は毎日晴れです。糸杉先輩はどうしました?」
「今日は帰ったよ」
「そうなんですか……」

 俺の様子から何かを悟ったのかもしれない。無駄に高かったテンションが少し抑えられる。

「私に出来ることがあったら言ってくださいね。私もこの部の一員なんですから」
「いつから部員になったんだ?」
「昨日です。関山先生から許可を貰いました」
「そうか」

 驚くような事実だったのだが、特に反応できなかった。

 部室を出て行く直前に見せた糸杉の表情が忘れられない。

 安堵と落胆の混ざった表情。

 あれはどっちなんだ?

 お前はどっちを望んでいる?


 慈善活動部は俺の知らないところで話が進み、関山先生の鶴の一声で全てが決まって創られた部だ。俺はその流れに成す術がなくここまで流されてきた。

 だからその流れが止まってしまうことにも俺は成す術がない。

「今日も来ませんね。糸杉先輩」
「そうだな」

 俺は適当な本を流し読みしながら小紫の質問を受け流す。

「忙しいんでしょうか?」
「そうだな」
「……学校もお休みしてるんですよね?」
「そうだな」

 何かを考えているわけではないのに本の内容が全く頭に入ってこない。

「……音霧先輩ってゴミですね」
「そうだな」

 糸杉がここに来なくなってから二日が経っていた。

 あれから糸杉は体調不良で学校を休んでいる。

 仙都も同じだった。連絡を入れても返事がない。

 担任の関山先生も二人は体調不良でしばらく休む。そう言ったきり、言及することはなかった。

「ゴミクズ先輩」

 どうして俺はいまもここに来ているのだろうか。それはきっと糸杉が何食わぬ顔でここに来ることを期待しているからではないのか。

 自分でも自分の行動の意味がわからない。

 色のない日常が再び訪れようとしている。あれだけ望んだあの日々が来るのだ。これは良い事だろう。糸杉の事なんて放っておけばいい。

 いままでの日々が戻ってくるのだから、こんなところにいないで早く楓に会いに行けばいいじゃないか。

 先日したはずの決意すらも揺らいでしまった俺は何も行動に移せずにこんなところで時間を潰してしまっている。

「あ、糸杉先輩」
「え?」

 本に落とした視線をあげて入り口側を見るが、そこには誰もおらず、扉が開いた痕跡もなかった。
 小紫は難しい顔をしてこちらを見据えている。

「やっぱり糸杉先輩と何かあったんですね」
「別に何もない」

 小紫には何があったのか詳しく話していない。俺も糸杉も小紫をこの件に巻き込むことを望んではいない。

 再び本に目を落とそうとすると、小紫に本を奪われる。

「逆さですし、音霧先輩が哲学書とか気持ち悪いですし」
「知らないのか? 今は哲学書を逆さにして読むのが流行ってるんだぞ」
「聞いたことないです。そんなわかりやすい嘘で私を騙そうとしないでください。これは没収です」

 哲学書を読んでいて没収されるなんて聞いたことがないな。

 することのなくなった俺はソファーに横になり窓から見える青空を横目で見る。雨は降りそうにない。

「何があったのか知りませんが、糸杉先輩をこのまま放っておいて良いんですか?」
「良いのも何も、あいつが決めたことだ」
「音霧先輩はどうなんですか? 納得してるんですか? このまま糸杉先輩がいなくなっても良いんですか? 取り返しのつかない事になっても後悔しないんですか? いつまで自分に言い訳するんですか?」

 矢継ぎ早に問うてくる小紫はやはりただならぬ何かを察している様子だった。

「私は……嫌です……こんなの」

 小紫は下唇を噛んで必至で耐えながらも泣いていた。悔しさを滲ませる瞳からは雨の降り始めのように大粒の涙が零れる。

 ここで泣くのはずるい。そう思いながらもそれをさせた自分を嫌悪した。

「すみません……泣くつもりはなかったんですけど……なんか悔しくて」
「小紫はいつも自分の気持ちに正直だな」
「その方が後悔しても後に活かせるってお母さんが言っていたので」

 こんなところをあの人に見られたら本気で殺されそうだ。

「その通りだな」

 糸杉から離れたい、関わりたくない、そう思っていた気持ちが、いつの間にか反転している。俺は心のどこかで糸杉と関わることを望んでいる。

 この世界で俺を非難の目で見て来るのはあいつしかいなかった。

 糸杉が居なくなったら俺はまた逆戻りだ。後悔はしたくない。言い訳をするのはもう辞めよう。

「ごめん。小紫。しばらくこの部を任せて良いか?」
「もちろんです!」

 小紫は直ぐに涙の気配を消して破顔する。

 この先にどんな現実が待っていようと受け入れる以外に先に進む方法はない。

 つい先日もそう決めたばかりではないか。

 その場に留まり続けた俺はいつしか先に進むことを考えるようになっている。