今日も僕らは傘をささない

 辿り着いたのは学校帰りの若者で賑わうハンバーガーショップだった。
 
 俺と小紫が注文を済ませて席に着いた後で、糸杉が入店する手はずになっている。

「ここに来たかったのか?」
「はい」

 もしかしてこういうお店が初めてとかじゃないよな。俺の心配をよそに小紫はカウンターへと向かっていく。

「今日もお疲れ様です」

 小紫は新人にレジ業務を指導していた女性に向けて話しかける。営業スマイルを欠かさない女性クルーは俺たちを見て驚いたように目を見張る。

「陽花ちゃん。今日は元気そうだね」
「はい。先日はありがとうございました」

 どうやら小紫と面識があるらしい。

 年は三十を過ぎたくらいといったところだろうか。それよりも若いかもしれない。

 はきはきとした話し方や頬笑み、ナチュラルなメイクに大人の余裕がある。長い髪は綺麗に結ばれ清潔感を感じさせる。

 他のクルーとは違う制服を着ていることから社員だろうと予想する。もしかすると店長なのかもしれない。名札には谷中(たになか)と書かれている。

 小紫にここまで仲の良い大人の知り合いがいることは意外だ。

 彼女はこちらをちらりと見ると、それだけで何かを察した様子で小紫に小声で話しかける。

「もしかして彼氏さん?」
「えっと、まあ、そんな感じです」

 今は嘘でも恋人同士であることを思い出した小紫は否定の言葉を飲み込み、小さな声で肯定する。嘘の関係であるにも関わらず、小紫の頬は真っ赤だった。

「ほほう、陽花ちゃんは目が少し曇っている駄目な男がタイプなのか」
「音霧先輩は駄目な男ではないですよ」
「目の方は否定してくれないんだ」
「そこは否定しようのないことなので」

 真面目に冗談を混ぜることなく言われる。

 本当に正直な子だ。ただ、ここで嘘でも優しくしないところが彼女らしくあり。逆に適度に空気を読める彼女からしたら不自然ともいえる。

 どう対処すれば相手が一番喜ぶのか。その術を知っているのにわざと避けているように、まるで相手との境界線が見えているようにそれ以上は踏み込まない。一歩近づけば一歩遠ざかる。それはまるで糸杉に似ている。

 集団の中に溶け込み相手の印象に残らないような振る舞いを小紫も熟知していた。

「ねえ君。名前は?」
「音霧です」
「音霧くんね。君は雨が好き?」
「……嫌いですね」

 質問の意図はわからないが、嘘をつく意味もないので正直に答える。

 質問に答えた俺に彼女が向けた視線は客に向けるそれとは程遠く、まるで値踏みするようである。

「何か?」
「いえ、陽花ちゃんの選んだ子を目に焼きつけようと思ってね」

 言葉では冗談を言っているけれど表情はそうではなかった。
 
 嬉しいけれどどこか寂しい。そんな複雑な笑顔を見せる。

「選んだって。まだ私たちはそこまで」
「そこまでってどこまでかな?」
「それは……ちゅ、注文をしないと他のお客さんに迷惑がかかりますよね。これください。これとこれも」
「はい。ありがとうございます」

 小紫はこれ以上つっこまれないように手当たり次第に注文をする。ユヅキさんはそれを慣れた手つきで注文を受けていた。

 メニューに注視する小紫を微笑ましく見る彼女はまるで保護者のようであった。視線について相談するならば、この人にするべきだったのではないだろうか。

 この人なら小紫の話を親身になって聞いてくれる。そうした確信があった。

 店の外で除者にされた糸杉が恨みの籠ったメッセージを送ってくる。

『さっさとしなさい。恋人がいちゃついているみたいで不愉快だわ』

 俺たちはちゃんと恋人同士に見えているらしい。

 とりあえず、順調にことは運んでいる。後は視線の主が行動を起こしてくれさえすればいい。小紫に危険が及ぶことがあるのなら、その時は俺が身体を張って守れば済む。

 何かに洗脳でもされたように、自分の身を投げ出すことを平然と考えている。

 この部に入ってからの俺は完全に歯車を狂わされてしまっていた。

 商品を受け取った俺たちは店の中心に位置する二人かけの席に座る。

 ようやく入店できた糸杉は俺にしかわからないようにきつい視線を送るが、それには気付かないふりをする。糸杉はコーヒーを注文して一人掛けの窓際のカウンター席に座った。

 カップルに見えるようにしなくてはならないのだが、そんな経験は一度もないので何を話していいのかわからない。数日を過ごしてもこの関係になれることはなかった。

「あの人とはどんな関係なんだ?」

 小紫はアイスを食べる手を止めて視線を落とす。握ったカップが僅かに凹む音がした。

「ユヅキさんは恩人みたいな人です」

 迷った挙句に選んだ話題だったが、小紫の様子を見るにこの話題はカップルに見えるような雰囲気になりそうにない。早々に切り上げて何か別の話題にしよう。

「いい人なんだね」
「他人とは思えないくらい優しいんです」
「そうか。ところで生徒会の仕事はどう?」
「詳しいことは聞かないんですね?」

 話を逸らそうとすると小紫の方から話題を戻して来る。

「俺が知りたかったのは小紫との関係だから。何かあったのかまでは興味がない」

 少しきつい言い方だったかと後悔したが小紫は何ら気にした様子は見せない。

 それにそういうことは本物の彼氏にでもやってもらえばいい。偽物の出番はない。

「音霧先輩って糸杉先輩に似てますね」
「心外だな」

 この世にある数多の悪口の中でも一番の悪口だと思う。

「ちなみにどの辺が?」
「他人との距離の取り方とか。糸杉先輩もわたしが話したくないことは何も聞きませんでした」

 こちらとしては単に深い関係を築きたくなかっただけだ。あいつだって自分の利にならないと感じていただけだろう。

「だけどそんなお二人の優しさに甘えていてはいけませんよね」

 小紫は両手に持ったカップを置くとしっかりとこちらに視線を合わせる。

 普通であることを愚直に演じる彼女が動機はわからないけれど、それを破ろうとしている。ここまでさせて話さなくていいとは言えなかった。

「わたし小さいときに母に捨てられてるんです。まだ幼かったので記憶は曖昧なんですけど、寂しかったことだけは覚えています」

 普通ではない境遇がいままで彼女をどれほど苦しめてきたのか。それは今の彼女を見れば想像に容易い。

 普通の人間が普通でない人間に憧れるように、普通ではない人間もまた普通の人間に憧れる。

 だから小紫は不必要に普通を演じていた。

「今はいい人に出会えて余るほどの愛情をもらっています。それは凄く幸運なことです。引き取られた先で上手くいかない子は沢山いますから」

 小紫は暗い話にならないように笑顔を絶やさない。

 どんな言葉をかけるべきなのかわからない俺を、小紫は黙って話を聞いてくれる良い人だと勘違いしたのかさらに話を続ける。

「わたし欲張りなんです。今の両親がいくら愛情を注いでも、本当の親に愛されなかった劣等感は拭えませんでした。だから先日喧嘩をした時に酷い事を言ってしまったんです。『自分の子供が居たらわたしなんてどうでも良いんでしょ。わたしは代わりなんでしょ』って。当然なんです。誰だって自分の子が可愛いです。だけどそのもしもはあり得ないわけで、両親の愛情も偽物なんかじゃない。家を飛び出した私は途方に暮れて、もうあの家には帰れないと悲観的になりながら、ここで悩んでたんです。そんな時にユヅキさんが声を掛けてくれて、事情は何も知らないのに親身になって励ましてくれたんです」

 その時の心情を思い出したのだろう。小紫の声は震えて目には涙を溜めている。

「もういいよ。それより早く食べないと溶けるよ」

 やはりかける言葉が見つけられず、溶けかかったアイスを勧める。的外れな事をしている自覚はあった。

 それでもこれ以上は聞いていけない気がした。小紫が何を言われて、どう気持ちに折り合いをつけたのか。それを聞いていい権利は偽物の俺にはない。

「先輩の気持ちわかりますよ。私も偽物ですから」

 溶けかかったアイスを口に運びながら小紫は誰に言うことなくぽつりと呟いた。

 この子は本当に周りが思っている以上に周りをよく見ている。

「話したらスッキリしました。ありがとうございます」

 小紫は頬をかきながら笑ってみせる。

 その笑顔に無理な様子はなく自然体であった。

「小紫って簡単に騙されそうだな」
「心外ですね。わたしはちゃんと人を見ているつもりですよ」

 鼻を鳴らしながらアイスを頬張る小紫は頭が痛くなったのか、うなりながら頭を押さえる。その様子からは先ほどの悲痛な面持ちが消えていた。

 無理をしている様子は見えない。それはこの件に関して小紫の中では解決している事の証だった。

 外見の子供っぽさからつい保護の対象として見えてしまうが、小紫は俺なんかよりもずっと大人だった。彼女はちゃんと過去を受け入れて、前を見て進んでいる。

 染みついた生き方を変えることが出来ないだけだ。それも時間がたてば解決していくことだろう。

 ふと後方で物が落ちる音が響く。

「すみません」

 振り返れば申し訳なさそうな表情を張り付けた糸杉が店員に頭を下げている。その相手は谷中さんであった。

 彼女は朗らかな笑顔で床に落ちたトレイを拾い、後片づけをしていく。

 ふと糸杉の方を見ると、誰にも気づかれないようにひっそりと悲哀の色を深く刻んだ目を向けていた。

 わざとこちらの気を引くような真似をしたらしい。

『不審な客がいたのか?』
『いないわ。客はね』

 その答えだけ何が言いたのかわかった。

『もう少しそこでカップルを演じていて。小紫さんには知らせずに』

 俺がメッセージを送るよりも先に糸杉は行動に出ていた。頼んだコーヒーを全て飲み干すとそのまま店を出て行く。

「糸杉先輩どこか行くんですか?」
「外から様子を見るらしい。少し目立ちすぎたからな」
「そうなんですね……」

 小紫は糸杉の行動を不審に思っていたが、小紫以外に店を出て行く糸杉を不審な目で追っている者はいない。

 糸杉も凡そのよその目星はぼしはついているのだろう。

 ただ、どうしてそんなことをしているのか理由がわからない。それでも確かめる必要がある。そうしなければ前に進めない人がいる。それを手助けするのが俺たちの活動だ。

「糸杉先輩と音霧先輩の関係はどうなんですか?」

 糸杉の後姿を目で追いながら考えを巡らせていると、小紫は期待に目を輝かせて訪ねて来る。しかし、その期待に応えることは出来そうにない。

 どう言ったらいいのだろう。俺と糸杉はまだ出会って日が浅い。ただ同じ部活で活動しているだけの他人に過ぎない。

「ただの知り合いだな」
「昔からの中に見えるくらい息ぴったりですけどね。お似合いですよ」
「さすがの俺も今の発言は看過できないな」
「そうですね。今はわたしの彼氏ですもんね」

 自分の過去を話したことで吹っ切れてしまったのか俺に対してそれまでの遠慮がなくなっている。

「でもそうなったらいいなと思っていますよ」
「俺に死ねといっているようなもんだな」

――あなたに私を刻みたいの――

 先日言われたことが頭にこだまする。

 あいつは本当にそれだけの理由で俺をこんなことに巻き込んでいるのだろうか。他に重要な何かが隠されているように思えてならない。

 若干ではあるが、俺の中に糸杉が刻まれているのは否定できなかった。

 今のところは糸杉の思い通りに事が運んでいる。

「わたしには糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます」
「あいつが他人に何かを望むことなんてあり得ないだろ」

 想像しようとしても出来なかった。無理に想像しようとしてもあの悲哀の色を深く刻んだ目が邪魔をする。あれは諦めてしまった人間の目だ。

 それからしばらくは他愛のない雑談をしていた。

 日が暮れたころポケットにしまったスマホがようやく通知を告げる。

『そろそろ店を出て』

 糸杉からメッセージ。間髪入れずにもう一つのメッセージが届く。

『もうすぐ雨が降る』

 待ち望んでいたはずの雨。それでも気分は最悪でこれから起こることを考えると憂鬱でしかなった。
「もうこんな時間なんですね」
「悪いな。こんな時間まで付き合わせて」
「何を言ってるんですか。付き合わされているのは音霧先輩の方ですよ」

 小紫は無垢な笑顔を振りまいて隣を歩く。

 糸杉の言う通り店を出てまもなくして雨が降り始めた。コンビニで買ったビニール傘には霧吹きのような細かい雨粒が音もなく張り付いていく。

 帰宅時間帯と重なったため人通りが多く後ろを付けられていても気づくことは難しい。糸杉に考えがある様子だったが今のところ明確な指示はない。とりあえず俺は小紫を自宅まで送り届ければいいのだろう。

「そういえば糸杉先輩はどこにいるのでしょうか?」
「さあな。案外近くにいるかもしれないぞ」

 俺たちの会話を聞いていたかのように、糸杉からメッセージが届く。

『私の指示に躊躇なく従える?』

 今更それを聞くのか。いったい俺に何をさせようというのだろうか。

『従わなかったら後が怖いからな』
『人を悪魔みたいに言わないでよ』

 悪魔の方がまだ優しい気がする。

 こちらがメッセージを受信してから間髪入れずに指示が送られてくる。俺がどう答えようと送る気だったのだろう。わかっていたことだが、もとから俺に拒否権はない。

 糸杉から送られてきたメッセージを見て思わず眉を顰める。

 いったい何のためにこんなことをする必要があるのか。

「どうかしました?」

 指示の内容を見られないように咄嗟にスマホをポケットにしまう。

「ちゃんと後ろにいるらしい」

 不安そうにこちらをのぞき込む小紫は俺がこれから何をしようとしているのかを知る由もない。

 まるでこの指示は糸杉から俺に対する挑戦のように思えた。

 糸杉が監視するように俺をあの目で見ていることは後ろを振り返って確認するまでもない。

 別に楓の件を握られているからと言って、すべての事に従わなくてはならないわけではない。糸杉の指示を実行してしまえば俺は後には引けなくなる上に楓に合わせる顔がなくなってしまう。

 糸杉の指示に従うふりをして、歩幅を調節して歩く速度を落としていく。

 渡ろうとしている信号は点滅し始め周りの人々は急いで渡ろうと速度を上げていく。俺はその波に逆らうように歩道と道路の際、その一歩手前で足を止めた。

「音霧先輩?」

 つられて足を止めた小紫は俺の一歩前に立つ。タイミングは狙った通りでまもなくして信号は赤へと変わった。

「やっぱり何かありましたよね?」

 勘の鋭い小紫はこちらの様子がおかしいことに気づいたようだったが、それを無視して小紫の後ろにある車道に目を向ける。

 横断歩道を横切る車は飛び出してくる人など想定するはずもなく、速度を落とすことなく通り過ぎていく。

 これはふりだ。本気でやるわけじゃない。

 自分に言い聞かせてピントを小紫に合わせる。
 
 小紫は憂わし気な表情でこちらを見上げている。直ぐに視線を逸らし、傘を持っていない方の手に意識を集中させる。
 
 この手を前に押し出せば、華奢な小紫は抵抗もできずに道路へと身を投げ出されるだろう。

 そうなった後は……小紫に起こることは……

 目の前の光景にノイズが走り、その合間を縫うようにあの日の事が蘇る。強烈な眩暈と吐き気に耐えながら小紫の背後にある信号の色を確かめる。

 信号は赤のままだ。

 これはふりだ。何も起こらないし起こさない。

 再度自分に言い聞かせた後、空いている手を持ち上げる。

 ふとその腕を誰かが握ったかと思うと、そのまま身体の後ろへと持っていかれ、さらに足を掛けられ地面に押さえつけられてしまう。

 雨の降っているアスファルトは想像以上に冷たい。

 何が起こっているのか把握しないうちに俺は現行犯で逮捕されたような方になってしまった。

「妙な動きをしたらそのまま腕をへし折るぞ。騒いでも同じだ」

 耳元で囁かれた脅しにはありったけの怒気が詰められ、腕に走る激痛が冗談ではないことを物語っている。

 周りの人間は俺たちの変わった様子に気づいていながらも静観することを決めたらしく、誰一人として俺を助けようとする者は現れなかった。

 か弱い女子高生に乱暴しようとした男と思われているのだろう。

 スマホで撮影する人間がいないだけまだましだと思うようにしよう。

「え? なんで?」

 状況が把握できない小紫は困惑した声で俺を押さえつけている人物に声を掛けるが、この状況が好転することはない。出来る人間がいるとすれば一人だけ。

「それはあなたをずっとつけていたからよ」

 まるで魔法のように糸杉の言葉があたりに響いた瞬間、信号が青に変わる。

 人々は俺たちを空間から切り離すように避けて通っていく。

 人込みから颯爽と現れた糸杉の表情は余裕を感じさせ、事のタネを明かしていく。

「やればできるじゃない」
「こうなることわかってたのか?」
「もちろん」

 こちらを見下ろす糸杉に非難の視線をむけるもののまったく動じない。

 余裕の表情を見るに糸杉は初めからこうなることを予見していたようだ。結局俺はこいつの手のひらの上で踊らされているに過ぎない。

「音霧くんなら最高のヒール役になれると思っていたわ」
『ヒール役?』

 小紫と俺の腕を固めている人物の声が重なる。

「さっさと本題に入れよ。というかそろそろ腕を離すように言ってくれ。感覚がなくなってきた」

 こんな会話をしてはいるが俺の腕は未だにがっちりと締め上げられた上に押さえつけられている。

「それもそうね」

 糸杉は鋭い視線の矛先を俺にのしかかる相手に向ける。

「あなたが心配しているようなことは起こらないから安心してください。店員さん。名前は谷中だったかしら?」

 決められている腕から彼女の動揺が伝わってくる。

「なるほど私は嵌められたのか」

 状況を把握したらしい彼女はついに俺の腕を開放すると乾いた笑い声をあげる。

「詳しく話を聞かせてもらうかしら」
「それは断っても構わない?」

 しきりに目を逸らし、腕時計を見る。この場から離れたいと態度で物語っている。

「女子高生をストーキングする店員がいるとクレームが入っても構わないのならばどうぞ」

 これでは脅しているのと変わらないな。こいつはどうしてこんなやり方しかできなのだろうか。

「わかったよ。あそこで話をしよう」

 谷中さんはすぐそばにあったファミレスへ歩いていく。

「小紫はどうする?」

 未だに状況を把握しきれず呆けた顔で佇む小紫に声を掛けると、谷中さんの背中に焦点を合わせてじっと見つめる。

「私は帰ります。その方が話しやすいでしょうから」

 こんな時まで他人を気にする必要などないと言いたいが、それが彼女の生き方で変えることは簡単ではない。

「じゃあ、送っていくよ」

 俺は糸杉に目配せをすると、小紫と一緒に点滅しだした信号を急いで渡った。



 特に会話もないまま俺たちは一週間ともに歩いた道を歩いていく。

 ふと赤信号で立ち止まり先ほどの事を思い返す。

 もしもあのまま誰も俺を止めることがなかったのだとしたら俺は小紫を突き飛ばしただろうか。

 それはありえない。

 あの時の俺は金縛りにあった用に身体を動かすことが出来なかった。

 では、相手が糸杉だったのなら。

「どうかしましたか?」

 小紫に声を掛けられて我に返る。

 赤だった信号は青に変わっており、渡ろうとしない俺の隣で不思議そうに小紫が見上げている。

「なんでもない」

 悟られないように平静を装う。

 相手が糸杉であったとしても俺はそんなことをしないだろう。もしもそれをしてしまえば俺は楓に合わせる顔がなくなってしまう。


 特に会話もないまま家の近くまで来てしまう。一つ先の路地を曲がればこの関係も終わりを迎える。

 それも当然だ。小紫を悩ませていた視線の相手は既に確保されている。恋人ごっこをする必要はもうない。

 それに抵抗するように小紫の歩く速度は遅くなっていった。

「やっぱり残った方がよかったでしょうか?」
「そう思うならどうして残らなかったんだ?」

 責めたような言い方になってしまい、慌てて言葉を重ねる。

「これは小紫の問題だから。他人の事を気にする必要はなかったと思う。むしろ積極的に言った方が……」

 そこまで言って自分が的外れなことを言っていることに気づく。

 そんなことが出来ているのなら悩むわけがないのだから。

 小紫は自分の境遇の影響で人との距離に敏感になっている。得ることよりも失わないことに重きを置いている。

「なんか……すみません」
「謝られることをされた覚えはないよ」
「そんなことないです。腕は大丈夫ですか? それに制服だってびしょびしょですし。それは私の……」

 別に小紫の所為ではない。誰かに責任があるとすればただ一人。 

「とりあえず、また明日。部室で」

 また明日。その言葉を聞いた途端、小紫は俯かせていた顔を上げる。

「報告とか色々あるし、あれだけ校内で見せびらかしたからね。急に会わなくなると変な噂とか流されそうだし」

 こちらが言い訳をつらつらと並べると、小動物のようにくつくつと喉を鳴らして笑いだす。

「はい。また明日ですね」

 こちらに一礼してから、玄関を潜り暖かな光が漏れる家へと入って行く。

 また明日などという挨拶を交わしたのは何年ぶりだろうか。確証のない未来を口にするのが怖かった。

 今は不思議と恐怖を感じていない。

 未来の事を考えて行動するなんて二度と来ないと思っていたのに。

 何をすべきでどうすることが最善なのか。どれもはっきりとわからないまま、二人が待つファミレスに向かう。

 これからしようとしていることは余計なことなのかもしれない。気づかないふりをして気のせいで終わらせてしまえば、何も変わることなく終われたはずだ。

 彼女もそれ望んでいる。否定する権利は俺にはない。

 糸杉に弱みを握られているというだけでは説明がつかないほど、俺は他人との関係に深く足を踏み入れようとしている。

 自分が誰かの何かを変えてしまう。それが嫌で俺は今まで他人と関わることを避けてきた。それなのにどうして今になってまた関わろうとしているのか。

 気持ちの整理がつかないうちに二人の待つファミレスについてしまった。
「意外と早かったのね。もう少しゆっくりしていてよかったのに」
「俺がいないと何をするかわからないからな」

 嫌味で返しても相変わらず糸杉は気にした様子はない。

 糸杉の隣に腰を掛けながら様子を伺うけれど特に何かを話した様子ではなかった。

「今飲み物を持ってくるよ。大丈夫、支払いは私がするから」

 谷中さんはこちらの返事をさせずに席を立つとドリンクバーへと向かってしまう。この空間から逃げ出したかったのだろう。俺だって糸杉と二人きりでファミレスなんて奢られても断る。

「それでこの後はどうする気なんだ?」

 監視するように谷中さんの背中を凝視する糸杉に小声で話しかける。

「彼女が素直にすべてを話せばそのまま解放するわ」
「まるで犯罪者を捕らえたみたいな台詞だな」
「その通りでしょ」

 糸杉としては彼女の行いがストーキングであることは決定事項らしい。

「そんな簡単なことに思えないけどな」
「随分肩入れするのね」
「肩入れという訳じゃない。先ほどの態度を見るに谷中さんが小紫に危害を加えようとしている可能性は低い」
「それを肩入れというのよ。ピンチの時に助けて相手を油断させている可能性だってあるじゃない」

 こいつの周りには悪人しかいなかったのだろうか。

「ウーロン茶で良かったかな?」
「ありがとうございます」

 よく冷えたウーロン茶は乾いた喉に沁みた。

 向かいに座った谷中さんは湯気の立っていないコーヒーを一口飲むと溜まった何かを吐き出すように息を吐いて視線を店の外へと向けた。

「君達の目的を聞いても良いかな?」
「私たちの目的は小紫さんの生活を脅かすものを阻害することよ」

 どうしてそんな言い方しかできなのか。

「それはあの子が言ったの?」

 谷中さんは縋るような視線を向けるが、それには意に介さず不遜な態度そのままに糸杉はさらに続ける。

「そうよ。小紫さんは大変困っている。後ろを付きまとわれて困惑しない女子がいるわけがないでしょ」
「糸杉」

 俺の非難の視線も無視して続ける。

「けれどストーカーが女性だったなんて予想外だった」
「ストーカー。そうかあの子はそんな風に」
「自覚がなかったの? 後をつけるなんてストーカー以外誰もしないことよ」

 糸杉はわざと挑発の意味でその言葉を浴びせている。冷静さを欠けば本音が聞けると思っていのかもしれないが、こんなやり方では誰も得をしない。

 今の言葉や先ほどの行動からもわかる通り、やはり谷中さんは小紫に危害を加えるつもりはない。むしろ逆なのだろう。

「どういうつもりで行動しているのか知らないけれど、あなたの気持ちは彼女には届くことは」
「それ以上は辞めろ」

 思ったよりも語気が強くなったことで店内の空気が凍ってしまう。糸杉も目を見開いてこちらを見つめた。直ぐに店内は普段通りの賑わいに戻るが席の空気は重たいまま。それでも黙っていては何も進まない。

「小紫の意思を曲げてまでするようなことじゃない。小紫は別に恐怖を覚えたりはしていなかった。確かに戸惑っていたかもしれないが、ただ知りたかっただけだ」
「……そうね。依頼人の意志は尊重すべきだったわ」

 糸杉が珍しく引き下がった。

「……確かにストーカーだな」

 沈黙を破り溜息を吐いた谷中さんの表情は穏やかだった。

「少し言い訳をさせてくれないかな?」
「円満に解決できるのであればそれに越したことはないわ」

 険のある言い方であったが、その表情にいつものような鋭さを感じない。

「先にこちらの方から話してもいいですか? 勘違いを解いておきたいので」
「勘違い?」

 小紫が俺たちに依頼するまでの経緯とそれからの事を簡潔に話す。その間糸杉は口を噤んで口のつけられた様子のない自分の分のコーヒーをじっと見つめていた。

「つまり音霧くんと陽花は恋人関係ではないんだね」

 念を押すように確認される。

「そうです。すみません。嘘を付いて」
「それを聞いて本当に安心したよ」

 安堵の笑みを浮かべて胸をなでおろす。どういう意味だとは聞かないでおこう。

「じゃあ今度は私の番だね」

 居住まいを正した彼女の瞳には覚悟が伺えた。

「私は陽花を守りたかったんだ」
「誰から?」

 それまで黙って聞いていた糸杉が間髪入れずに問いただす。いつも諦めたように濁っている眼光が獲物を見つけた獣のように鋭く光ったように見えた。

「最近、女子高生が道路に飛び出す事故が多発しているのは知っているかい?」

 以前そんなことを糸杉から聞いたような気がする。

「ええ。その殆どが自殺だと言われているけれど、遺書もなく動機も不明瞭。彼女たちは衝動的な何かに突き動かされたように飛び出している。それが何か?」

 糸杉は原稿を読むようにすらすらと抑揚なく話す。

「あなたも調べているんだね。もう一つ加えるならその事故は必ず雨の日だという事」

 雨の日の事故。その事柄だけで心臓が針金で縛られたような感覚になる。

「あの子は色々と抱えているからね。心配で見守っていたんだ。冷静になって考えてみればストーカー行為と変わりなかったけれどね。そしたら変な男を彼氏と言って連れてくるじゃない」

 変な男。聞くまでもなく俺の事だ。変である自覚はあるから素直に受け入れることにする。

「さらにその男は雨の日に不審な行動をとろうとした」

 糸杉が説明を付け加える。

「あいつは陽花に危害を加えようとしているんじゃないか。そう思ったら勝手に体が動いていたよ」

 それがここまでの経緯だった。

「どうしてそこまでするんですか?」

 俺の質問に視線を他の席の女子高生へと逸らすと考えこむように瞳を閉じる。しばらくして開いた瞳には迷いが消えていた。

「陽花は私の娘なんだ」

 不思議と驚きはなかった。心のどこかでそうなのではと思っていた。

「私は十七の時にあの子を産んでね。私には親はいなかったし止める人は誰もいなかった。あの頃の私は現実を甘くみてたんだ。高校も出てない女が子供を育てるなんて無理があった。頼る宛がなかった私は結局、施設にあの娘を捨てたんだ。自分が生きていくために」

 自分が犯した過ちを忘れないように、決して望んでしまわないように。呪いの言葉を自分に言い聞かせていように聞こえる。

「それからは真面目に働いてここまで来た。最近ではお店を任されるようにもなって、やっと心のゆとりができ始めた時に、目を泣き腫らした陽花がお店に来たんだ。施設に預けて以降、会ってないのにすぐに陽花だってわかった。それと同時に神様のいたずらだなって思ったよ。だけど私はその神様のいたずらを利用することにしたんだ。名乗れなくても構わない、あの子が幸せになれるのであればどんなことでもしてあげたい。あの子が苦しんでいる理由を作った私がこんなことを言うのはおかしな話だけどね」

 乾いた笑いを浮かべて谷中さんはコーヒーカップに口をつける。

 掛ける言葉を見つけられなくて、俺は目の前に置かれたウーロン茶を飲むことで誤魔化した。何の味もしない。無味な液体が食道を通って行く。

「ごめんね。こんな話に付き合わせて。これからは後もつけないから安心していいよ」
「名乗りでるつもりは」

 突き刺すように糸杉が質問をする。

「しないよ。絶対に。私はあの子を捨てた。生きていくためには邪魔だったからね」

 戒めのように言い聞かせる言葉はまるで自らの体に杭を打ち付けているように聞こえた。

「理由はどうであってもそのことに変わりはない。なかったことにして母親面する資格はない。自業自得なのさ」

 別に放っておけばいい。本人がそう言っているのだ。これ以上立ち入ることに意味なんてない。

「小紫さんの悩みを知ってもなおその言葉が言えるのね。まだ間に合うというのに……」

 そんなことは糸杉だって承知しているはずなのに、責める言葉を止めようとはしない。

「別に勝手にすればいいわ。ただ、あなたの小さなプライドの為に小紫さんが犠牲になっていることは忘れないで」

 俺には今の糸杉が八つ当たりをしているように見える。

「結局あなたは彼女に拒絶されるのが怖いだけでしょ。娘の為ならどんなことでもすると言っておいて、自分がしたことを謝ることすらできない」

 糸杉らしくない強い語気に困惑する。こんな風に感情を顕わにするのは初めてだ。

「あなた達にはまだ未来がある。償うことだってできる。何をすべきかもう一度考えなすことね」

 言いたいことを言い終えた糸杉は、千円札を叩きつけるように机に置くとそのまま席を立った。

「拒絶されるのが怖い……か」

 糸杉の言った言葉を繰り返しながらコーヒーの黒い液体を見つめている。

「すみません。あんな言い方しか出来なくて」
「正論を叩きつけられて寧ろ清々しい気分さ」

 そう言って頬をかきながら破顔する谷中さんから小紫の面影を見る。

「君も同じ意見なのかな?」
「俺は……」

 ふと二人が仲良く街を歩いているところを想像してみる。幸せそうな二人の姿に得体の知れない感情が芽生える。

「このままなかったことにして過ごすのもありかと思います。小紫だってどうしても自分の出生を知りたいわけではないでしょうし、知ったところで悩みが全て解決するわけではない。現状維持であれば犠牲になるのはあなただけで済むでしょうし、余計ないざこざで他人を巻き込むような事態には……」

 芽生えた感情の正体に気づいて思わず口を噤む。きっとこの感情は嫉妬だ。 

 償う機会があるこの人が羨ましいのだ。だから適当なことを言って流そうとしている。

「すみません」
「謝られるようなことを言われた覚えはないよ。寧ろ甘やかされていたと思うけどね」

 微笑みながらコーヒーを飲む谷中さんは俺の真意に気づいていない。

「君は女子高生の子供がいる女性を甘やかして何を企んでいるのかな?」
「別になにも深い意味は……」
「冗談だよ。今のはからかっただけだ」

 谷中さんはすっかり冷めてしまったコーヒーに映る自分の顔をみて嘲笑する。

「君たちは良いコンビだね」
「それは最悪の悪口ですよ」

 俺の言葉から何を感じ取ったのかわからないが谷中さんは決心の付いた表情をしている。

「過去に縛られて今を殺すことで私は償ったつもりでいたのかもしれないね」

 彼女の言葉は今を殺し続けている俺にも深く突き刺さる。

「追いかけた方が良いよ」

 谷中さんは糸杉が置いていった千円札を俺に押し付ける。

「あの子、酷い顔をしていた。彼女を慰められるのは君だけだろ」

 心外だった。そんな役目を買った覚えはない。

「私の心配はいらないよ。どうするかはもう決めたから。君たちのおかげでね」

 ここにきて一番の笑顔を向けられる。

「私がもう少し若かったら君に惚れていたかもしれないね」
「年下の男子をからかうのは良くないですよ」
「からかわれたくなかったら早く追うことだね」

 追い出されるように店を出る。

 外は相変わらず音のしない霧のような雨が降っている。

 このまま帰っても誰も責めはしないが、押し付けられた役目を放棄する気にもなれず頬に当たる雨に不快感を覚えながら糸杉を追いかけることにした。


 走ると空気中に漂う水分が頬に纏わりついて気持ち悪い。

 糸杉はさほど遠くへは行っておらず、近くの交差点でぼんやりと佇んでいた。ふとした瞬間に道路に飛び出してしまいそうな雰囲気を感じ取り思わず声をかける。

「糸杉」

 こちらが声を掛けても振り返ることはしない。

 その方が良かった。弱っている糸杉の顔を俺は見たくない。そんなものを見てしまったら忘れられなくなる気がする。

「今振り向いたら音霧くんは優しく慰めてくれる?」
「冗談が言えるなら大丈夫だな」

 俺は糸杉の背中に、糸杉は誰も居ない前方に。信号が青になっても渡ることなく、一定方向の会話は続く。

「これで良かったのかしら。説教なんてらしくないことしたと思うわ。少し感情的になってしまったし」
「言葉に嘘がなければ構わないと思うけど」

 正直なところそれが良かったのかわからない。けれど、わからないとは言いたくなかった。わからないと言ってしまう事は考えることを放棄している気がして、関わってしまった手前それでは無責任だ。答えが出なくても向き合うことでその責任を果たしたい。

 こうした曖昧な感情に振り回されることも、人との関わりがあるからであり、本来ならそれが普通なのだろう。

「音霧くん、少し変わったわね」
「糸杉もな」

 以前ならこうした感情を持つことはなかった。以前の俺は他人との関係を簡単に絶ってしまえて、他人の感情に鈍感だった。それは糸杉も同じだ。

 認めたくはないが、俺たちは何処か似ている。

「人間って意外と悪意のない生き物なのね」
「俺の目前にいる人間は俺に対して悪意しか見せないけどな」
「だって私は人間じゃないもの」

 平然とした返事が返ってくる。

 落ち込む背中に追い打ちをかけるように揶揄したが、俺程度がこいつを傷つけることはできないらしい。

「そうかもな。あんな指示を出すほどだし」

――小紫さんを道路に突き飛ばして――

 これが糸杉からの指示だった。狂っている。念まで押させて俺が本気で実行するとでも思っていたのだろうか。

「たとえ本気で実行しようとしたとしても彼女が止めていたでしょ。音霧くんは全く気付いてなかったけれど、私たちはあなたのすぐ後ろにいたのよ」

 あの瞬間俺がどんな気持ちでいたかなんてこの女には関係ないのだ。自分の目的のために平気で自分ですら蔑ろに出来る奴なのだから。

「まあどちらの結果になっても私にはどうでもよかったのよ」

 道路へ吐き捨てるような言葉には何の感情も籠っていない。またわざと嫌われるような言葉を並べている。

 これ以上近づかせないように。自分からも近づかないように。

「本当に人間じゃないのかもな」
「だったら今すぐ私を突き飛ばした方がいいんじゃない?」

 糸杉の向こう側では車が速度を落とすことなく通り過ぎていく。ふとその背中が刑の執行を待つ罪人のように見えた。

『糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます』

 ふと小紫が言ったことを思い出す。糸杉は俺に何を望んでいるのだろうか。他人と深く関わることを避けている俺にはたどり着くことの出来ない答えだ。

「雨が強くならない内に帰る事ね。風邪を引いても休ませないから」

 答えに迷っている間に糸杉は信号を渡って行く。俺は後を追わない。一人になりたかった。それは糸杉も同じだろう。

 お金を返しそびれていることに気づいたが、その頃に信号は赤に変わり糸杉の姿は通り過ぎる車に遮られて見えなかった。



 その後、雨はあっけなく止んでしまった。

 そのまま家に帰る気にはなれず、何かに縋るように街を彷徨っているといつの間にかいつもの公園に辿り着いていた。

 夜の公園は静寂に満ちて湿った落ち葉を踏む音すら大きく聞こえる。

「あれ? こんな時間にどうしたの?」

 楓はいつもの場所で街頭に照らされた紅葉を眺めていた。

「なんとなく寄ってみた」

 そう言いながら俺は制服が濡れることも厭わずにベンチに座る。湿ったベンチは想像以上に居心地が悪かった。

 どうしてここに来たのだろう。こんな姿を楓に見せて心配させてしまうだけだというのに。

「何かあったんだね」

 透き通った水晶玉のような瞳がこちらを捉える。

「……」

 こういう時には相変わらず鋭い。

 目を逸らしてしまった為に誤魔化すことは出来なかった。

「話してごらん。楓お姉さんが聞いてあげるから」

 とてもお姉さんとはいえない笑顔で優しく語り掛ける。

 掻い摘んで話すつもりだった。けれど、話し始めると止まらなくなり、自分が思っていた以上に溜めこんでいたのだと思い知らされる。

 楓は一言一句聞き逃さないように真剣に俺の話を聞いていた。

「余計な事をしたんじゃないかって思ってるんだね」

 俺は黙って首を縦に振る。

 きっとそれは糸杉も同じだったのだろう。自分が何かをしたことで誰かの関係が壊れてしまう。それを俺たちは恐れている。

「大丈夫。その親子なら大丈夫だよ」

 何の保障もない大丈夫が妙に心強い。

「それと、その気持ちは聡くんが正常だって証だよ」

 楓は何かに安堵するようにこちらに微笑む。いつもは太陽のように眩しい笑顔が今日は少し優しく感じる。

「だからその感情を捨てないでね」

 それだけ言い残して楓はふっと何処かへ行ってしまった。気を遣わせてしまったようで申し訳ない気持ちになる。



 数日後、俺たちは小紫からユヅキさんが実の母親であったと報告を受けた。

 小紫は照れくさそうに頬をかきながら笑い、愛情が二倍になったと純粋に喜んでいた。

 結局、俺たちの心配は杞憂であり余計なお世話だったわけである。

 またしても俺たちは想定した形での改善を思う様に果たすことが出来なかった。

 ただ一つだけ改善した点があるとすれば、小紫の報告を聞きながら興味なさそうに本を読んでいた糸杉が、ふっと笑みを浮かべたことくらいだろう。



 クラクションは時間を引き延ばしたようにいつまでもけたたましくなり続けている。

 その音に圧倒されオレのまるで身体の動かし方を忘れてしまったように固まったまま後ろを振り返ることが出来ずにいた。

 なんとかして地面に張り付いた足を引き剥がして歩道を振り返る。

 そこにはクラクションをけたたましく鳴らす車が歩道に乗り上げ電柱に衝突して止まっていた。

「うそだろ……」

 俺に衝撃を与えたのは歩道に乗り上げた車よりも、そのそばでピクリとも動かず地面に横たわった楓の姿だった。

 雨が降っているにも関わらず、楓の周囲は鮮血の赤で染まりその範囲を広げていく。

 悪夢のような光景にオレの身体は未だ自由が利かない。

 こんな時はどうすれば良い……

 どうしてこんなことになった……

 誰の所為でいでこんな……

 狼狽えるオレをよそに誰かが楓に駆け寄る。

「楓、しっかりしろ! おい!」

 彼は手早い判断で楓を仰向けに寝かせ救命処置を施していく。

 まるで映画のワンシーンを見ているようで現実感は皆無だった。

 ただその場に立ち尽くだけしかできなかったあの時のオレを今でも恥じている。しかし、あの時のオレに何が出来たのか。その答えは見つかっていない。
 
 それにも関わらず、記憶は残酷にあの時の事を消し始めている。


 目が覚めると既にホームルームも終わり、教室は放課後の騒がしさを見せていた。

「聡が居眠りとか珍しいな。糸杉の所為か?」

 仙都は顔をしかめて棘のある言い方をする。

「ちがう。あいつは関係ないよ」

 どうしてなのか仙都の言葉に素直に頷くことが出来なかった。

「こう見えても、俺にだって色々あるんだ」

 この疲れは確かに糸杉の所為である。だけど根本的なところは別にある。

 ここ最近は嫌でも現実に向き合わされている。

「それで俺に用があったんじゃないのか?」
「いや……何も。ちょっと声を掛けてみただけだ」

 仙都が出かかった言葉を飲み込んだのは分かったけれど、無理に聞き出そうとは思わなかった。

「それじゃ、俺は行くから」
「ちょっと待ってくれ」

 やはり話す気になった仙都は慌てて俺を呼び止める。

 こんな曖昧な態度をとる仙都は珍しい。何かあったのだろうか。

「あいつ……糸杉とはどんな感じだ?」
「どんな……とは?」

 質問の意図を図りかねて聞き返す。

「ごめん。忘れてくれ。聡が誰かと何かをしているのが珍しかったから興味本位で聞いてみただけだ」
「なるほど。そういうことか」

 俺は糸杉が既にいない事を確認してから答える。

「お互いに嫌な奴だと思ってる」

 正直なところ最初に出会った頃ほどの嫌悪感は抱いていないけれど、嫌な奴だと思っていることに変わりはない。

「もういいか? そろそろ行かないと」
「引き留めて悪かった」

 最近は放課後にあの部室によることが習慣になってきている。確実に俺の中の何かが変わっている。その自覚はあるが、何が変わったのかわからないまま曖昧な時間を過ごしている。

 実体のない感情に揺さぶられながら部室のある校舎へとつながる渡り廊下を歩いていると、向こう側から生徒が二人歩いてくるのが見える。

 一人は小紫だ。そしてもう一人は三つ編みにした髪を片方から前に垂らして、柔らかい雰囲気を漂わす生徒だった。どこかで見た覚えのある顔だ。

「また小紫か」
「またとは何ですか。まるで私が面倒ごとを運んできているみたいな言い方です」
「よくわかってるね」
「ひどいです。私は音霧先輩たちの活動に感銘を受けたんです。だからそのお手伝いを」
「はいはい。それはもう何回も聞いたから」

 あの一件以降、小紫はどうやら慈善活動をボランティアと勘違いしたらしく幾度も雑用という依頼を持ち込んできていた。

「あなたが音霧くんですか」
「そうですけど……」

 隣で俺たちのやり取りを見ていた女子生徒はよく通る澄んだ声をこちらに向ける。

「うちの書記がお世話になりました」

 どこかで見たことのある生徒だと思ったら生徒会長であった。彼女は薄っすらと疲れの浮かぶ顔を慣れたように笑顔に変える。

「言われた通り、確かに腐った目を持っていますね」

 明らかな悪口を言われたのに全く嫌な気がしない。それはこの人が漂わせる雰囲気のせいなのだろう。

 人懐っこい微笑みでこちらを見上げてくる生徒会長からは糸杉と違った危険な雰囲気を感じ取る。これは無意識の人たらしの空気だ。生まれながらこういう人間はいる。俺と糸杉とは真逆で彼女の周りにはおそらく常に人がいることだろう。

「ごめんなさい。いきなり失礼でしたよね」

 律儀に深々と頭を下げる彼女から甘い匂いが漂ってくる。

「いろんな人から言われますから。もう慣れましたよ」
「面白いことを言いますね」

 嫌味を言ったのに本気で面白そうに口元を押さえて笑う。

「好きですよ。ポジティブな人は」

 失念していた。こういう人間はさらっとこういうことを言う。

「あなたと一緒に活動出来たら退屈しそうにないですね。どうですか? 一緒に生徒会のお仕事でも。ちょうどこちらの担当教諭も関山先生ですし」
「謹んでお断りします」

 生徒会と生徒指導を請け負う関山先生には密接な関係がある。糸杉から逃れられたとしても、やることは大して変わらないだろう。だったらまだこちらの方がましだ。

「それで今回は何を持ち込んできたんだ?」

 生徒会長を避けて小紫に質問すると表情が途端に暗くなる。

「そのことについては糸杉先輩から聞いてください」

 様子から察するに今回は雑用というわけではないらしい。それもかなり重い問題のようだ。ちょうどいい具合の依頼はないのだろうか。

 いや、依頼なんて来ないのが一番いい。

「糸杉が引き受けたなら俺に拒否権はないからな。出来るだけのことはするよ」
「あなた達ばかりに頼ってしまって申し訳ないけれど、よろしくお願いします」

 悲痛な面持ちで深く頭を下げる生徒会長をみて無下にするわけにはいかないと考えてしまっている。

 どうやら俺はこの短時間で彼女にたらしこまれてしまったらしい。

 部室に入ると事務用の机に向かって糸杉がスマホで動画を見ていた。

――午後7時頃、黒田根市の路上で38歳の会社員が運転する乗用車が女性をはね、女性は運ばれた病院で死亡が確認されました。死亡したのは市内の高校に通う女子生徒16歳で、運転手の証言などから自殺の可能性が高いとみられるが遺書は見つかっておらず、警察は事故と自殺、両方面から捜査していく方針です――

 俺が入ってきたことに気づいているにも関わらず無視して動画を再生し続ける。

「その事故がどうかしたのか?」

 ゆっくりとした動作でこちらに振り返る糸杉は、いつものように悲哀の色を深く刻んだ瞳で俺を見る。

「この事件、小紫さんの一件があった日に起こっているのよ」

 霧のような雨が降ったあの日。この町でまた一つの命が消えていた。最近はこんなことが多発している。ニュースを見ないようにしている俺の耳にすら届くほどだ。

「あの日にあったから何なんだ?」
「別に……」

 糸杉が言葉を飲み込むなんて珍しい。今日は雪でも降るんじゃないだろうか。

 以前にも糸杉は事故について言及していた。

 もし糸杉の目的が多発する事故に関係しているのだとして何がしたのか。自殺する人間を救いたいなんて大仰なことを言い出すわけがあるまい。そうでないことは悲哀の色を深く刻んだ瞳が証明している。

 あの日の事で思い出したが、俺は重要なことを聞きそびれていた。

「聞いてなかったけど、どうしてあんな指示を出したんだ? よく考えてみたら谷中さんを誘き出すにしては過激すぎる。他の目的は何だったんだ?」

 もし俺が指示通りに動いたとして直ぐに止められる位置にいたとしても、糸杉は谷中さんの真意を知らなかった。小紫を囮に誘い出すことは確実性がない。だとしたら何のためにあんな指示を出したのか。

 それに俺が指示を無視していたら何も起こらずに終わってしまう。

 実現の可能性が著しく低いことを糸杉がするだろうか。

「それに関して音霧くんには申し訳ないと思っているわ」

 糸杉の口から謝罪の言葉出るなんて槍が降るのではないだろうか。

「何に対する謝罪だ?」
「あなたを疑っていたことよ」
「何の疑いだ?」
「事件の」
「どの事件だ?」

 まるで会話が噛み合わない。それもそうなのだろう。俺と糸杉はきっとまるで違う方向を見て話している。

「女性生徒が道路へ飛び出す事件よ」
「あれは事故だろ」
「そうかしら? いくら何でも件数が多すぎるわ。それに共通点も多い。雨の日、女子生徒、道路に飛び出す。本当に飛び出しているの?」
「まさか誰かが突き飛ばしてるとでも言いたいのかよ」
「その可能性もゼロではないでしょ。雨の日なのは傘で姿を隠すため、女子生徒は力の弱い立場だから」

 糸杉が上げる理由は確かに一理あるが、だとしたら警察がすでに動いているはず。それに遺書が見つかっている事例もある。
 こいつの言っていることは荒唐無稽だ。

「それで俺が疑われた理由は?」
「言った方がいい?」

 悲哀の色を深く刻んだ瞳、その奥に違う色が少しだけ見えたのを見逃さない。こいつはいま確かに笑った。

「言わなくていい」

 思い当たる節がないわけでもない。

「もし仮に糸杉の言う通りだったとして、そんな奴人間じゃない。狂ってる」
「そうね。あなたは普通の人間だった」

 さっきから会話に距離を感じる。これはきっと気のせいではない。

「それじゃもう行くから。戸締りはよろしく」

 こちらに興味がなくなったと言わんばかりに、部室から出ていこうとする糸杉の腕を掴む。違和感をそのままにすることに居心地の悪さがあった。

「早く帰った方がいいわよ。雨が降りそうだし」

 糸杉は腕を振り払おうとするが、俺の腕はそう簡単には離れない。

「生徒会長から何を頼まれた」
「簡単な探し物よ」
「何の探し物だ」

 しつこくすがる俺に珍しく瞳に感情を乗せた糸杉は忌々しく睨む。だが、すぐにいつもの悲哀の色に戻すと吐き捨てるように言った。

「行方不明の生徒の捜索と保護よ」

 どこが簡単な探し物だ。それに物ですらない。

 散々振り回しておきながらここにきて除け者にされることに苛立ちを覚えた。

「これこそ警察の出番だろう。どうしてここに依頼に来たんだ?」

 糸杉は説明を求められたことにうんざりしているのか、それとも察せない俺に嫌気がさしているのか、握られた腕を振りほどきながらこれ見よがしにため息をつく。

「私が説明しよう」

 狙ったようなタイミングで関山先生が扉を開けて颯爽と入ってくる。

「盗み聞きですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。それと珍しく音霧がやる気なのだからちゃんと説明してやらないと可哀想だろう」

 非難の視線を受け流しながら糸杉をソファーへと誘導していく。

「その子は生徒会長の友人で近所に住む後輩なんだ。先日から学校を休んでいたのだが、どうやら突然行方をくらましたらしい。警察に届けるべきだと言ったのだが、親や学校は大事にはしたくないみたいでな」

 先生は唇を噛みながら足元を睨む。

「そこで君たちの出番というわけだ。勘違いしてほしくないが君たちだけに任せる気なんてない。警察には私個人で掛け合うつもりだ。もちろん私も時間を空けて捜索する」

 もはや慈善活動だとか生易しい話ではなくなっている。

「本気でやるつもりなのか?」
「もちろんよ。困っている人を放っておけないもの」

 これほど嘘だとわかる言葉は他にはない。糸杉は今回の件が一連の事故につながる可能性を考えているから協力しているのだ。

 何が糸杉をそこまでさせるのか。この町で起こっている事故に何があるのか。

「それにここは慈善活動部でしょ」

 嘘だらけの言葉を先生だって見抜いているはずだが、今は協力を得られるのであればどうでもいいのかもしれない。

「便利な言葉だな」
「どう思われても構わないわよ」

 嫌味を涼しい顔で返されてしまう。

「それで顔と名前は?」

 俺の一言に室内の空気か凍ったように止まってしまう。目の前に視線を向けると、糸杉が目を丸くしている。

「なんか変なこと言ったか?」
「別に。やけに協力的だと思っただけよ。気持ち悪い」
「言葉尻に性格の悪さが滲み出てるぞ」
「音霧くんになら別に構わないでしょ」

 視線をスマホに移してつまらなそうにつぶやく。

「音霧もついに部員として自覚が芽生えてきたようだな」

 関山先生は俺の肩を掴んで今にも泣きだしそうなほど感動している。

 最近では抵抗しても無駄という考えが刷り込まれて早くことを済ませてしまおうと思うようになっている。

 環境に適応しすぎてしまった結果だった。

「今回は状況が状況ですから。四の五の言っていられないじゃないですか」

 俺はまだ仮入部の身だ。あと一週間すれば俺はこの部とは関係がなくなる。

「茶番は終わったかしら?」
「先生の感動を茶番とかいうなよ」
「音霧くんの無駄な抵抗を茶番と言ったのよ」

 冷たい視線を向けながらスマホをこちらに向けてくる。

「会長の隣のいるのが家出中の支倉(はせくら)あざみさんよ」

 スマホには微笑む生徒会長に抱き着いて無邪気な笑顔を見せる女子生徒が写っている。背が高くまるで大型犬が主人にじゃれついているようだ。

 健康的に日焼けた肌とくせ毛のショート髪が彼女の活発さを体現している。

「ちなみに一年生よ」
「これで一年か」

 背が高いから会長と同じ三年生と勘違いしていた。
 
 それなりの恰好をしてしまえば大学生と言われても疑われないだろう。

 漫画喫茶くらいなら数日は潜伏していても怪しまれることはなさそうだ。

 もう一度支倉あざみをまじまじと見つめる。

「どこかで見た覚えがあるような気が……」

 糸杉が何かを言いたそうにこちらを見るが、いくら待っても口を開くことはなかった。

「何か言いたいことでもあるのか?」
「見た覚えがあるなんて適当なことを言っていると思っただけよ。それにあなた人の顔覚えられるの?」

 俺のことを心底馬鹿にしているような物言いだが、実際のところ人の顔を覚えるのは苦手なので反論することができない。

「彼女は優秀な陸上選手で朝礼でも表彰されているし、将来の陸上界を背負うと取材も受けている。音霧に見覚えがあるのはおかしなことじゃないぞ」

 関山先生が割って入るようにこちらの味方をしてくれるが、俺が見た覚えがあるのはそこではない気がする。

「それでは支倉さんについて教えていただきますか?」

 糸杉はこともなげに尋ねる。

「やはり一流の選手だけあって一年生であるが責任感の強い性格で皆からも頼りにされている。生活態度は良好で彼女を悪く言う人間は教師を含めて誰もいなかった。不登校の件で色々と聞いて調べたが、不登校になる直前は思いつめた様子だっただけで、これといって原因となるようなことは起こっていない」
「教師側からでは見えないこともありますからね」

 黙って聞いていた糸杉がぽつりと呟く。

 つまりいじめということだろう。

「支倉さんはまだ一年生です。上級生からの嫉妬がその行為に至ってしまってもおかしくはない。それに生徒間で口裏を合わせてしまえば表に出ることはありませんからね」

 相変わらず糸杉はこの世には悪人しかいないと言いたげだ。

「それはないと思いたいが……可能性としてはありうる」

 神妙な面持ち話す二人だが、その可能性は万に一つもないように思えた。支倉は将来陸上界を背負うほどの選手だ。そこまでの実力ならば嫉妬は生まれにくい。寧ろ周りの人間は彼女の事を虎の威を借りように誇っているはずだ。わずかな嫉妬心を表に出せば虐げられるのはこちら側。圧倒的な実力は意図せずにそういう空気を作り出す。

 俺の近くにもそういう人間がいるからわかる。

 そうは思っているものの余計なことを挟もうものなら大怪我しそうな雰囲気なので、疎外感を覚えながら二人の会話をおとなしく聞く。これもまた圧倒的な力の差が作り出す空気だ。

「クラスの方はどうですか?」
「担任や仲の言い生徒に事情を聴いたが問題は確認されていない。むしろ彼女は悩みを聞く側で話す側ではなかった」
「なるほど。まるでどこかの誰かさんね」

 糸杉が俺に目配せをする。珍しく意見が一致したことに驚嘆する。

 仙都の姿を思い浮かべると、ふとあの日の光景が蘇る。

 薄暗い教室で仙都と話していた女子生徒、あれが支倉あざみだ。あの時の彼女は写真からでは想像できないほどに気落ちしていた。

「そういうわけで申し訳ないが小紫の時のように力になれそうにないな」

 小紫のように? 

 こちらが疑問の視線を向けると糸杉は合った目を逸らして何事もないように話し始める。

「小紫さんの事情は先生から聞いて全て知っていたわ。でも、実の親がこんなに近くにいるなんて知らなかったけれど」
「私の情報も万能ではないからな」

 生徒のプライバシーを平気で話すなんてどうかしている。しかもこんな奴に。

 こんなことが明るみになったら先生だってただでは済まされない。

「そんなぬるいことを言っているから女性に関節技を決められるのよ」
「まだ何も言っていないし、あれはお前があんな指示を出すからだそっちに気を取られて」
「言い訳が上手い人間は碌な大人にならないわよ」

 碌な大人にならないのはそっちの方だ。直ぐに他人を悪者扱いするし、見下す。こんな上司がいたら即刻パワハラで訴えている。

「あんな体たらくでよく小紫さんを守れると思ったわね」

 糸杉は立ち上がると荷物を持たずに部室を出ていこうとする。

「どこに行く気だ?」
「お手洗い」

 侮蔑のまなざしを向けられる。小紫の一件から俺に対する態度が変わっている気がするのは気のせいではない。

「仲良くやっているようだな」
「先生の目は節穴ですか?」

 今のやり取りを見て仲が良いと判断したのだろうか。

「これでもちゃんと見ているつもりだ。この調子であの子をずっと気にかけてくれ」
「あんな奴のお目付け役はごめんなんですが」
「それもあるが、あの子はふとした拍子にどこかへ飛んで行ってしまいそうだからな」

 まるで風船やたんぽぽの種のような可愛いい表現の仕方をしているが、あれはどちらといえば爆薬を積んだ戦闘機だ。

「わかっているのなら先生が見ておくべきでは?」
「私はこう見えても忙しいからな。それに音霧を信頼している。君ならしっかりと自分の役目を全うできるだろうさ」
「役目とは?」
「それを知ってしまったら君は反射的に拒否するだろうから言わないでおくよ。こういうことは言葉で表すよりも感じることが大事だ」

 関山先生らしい言葉ではあるけれども教師としてどうなのだろう。できれば言葉で生徒を導いてほしいものだ。

「ところで追いかけなくていいのか? 糸杉がおとなしく音霧に行き場所を告げるとは思えないが」

 それを言われて妙に納得してしまう。

「追いかけても邪険に扱われるだけだと思いますよ」
「君の眼はまだまだ節穴だな」

 関山先生は扉を開け放してこちらに退室するように促す。

「あの子には君が必要だ」

 俺と糸杉を関わらせようとする意図が見て取れるけれど、それが今ではあまり嫌に思えないでいる。どうせトラブルを起こすのだ。仲裁に入って借りを作っておくのもいいかもしれない。

 陸上部が活動をしているグラウンドへ向かうと、隅に人だかりが出来ていた。既にトラブルは起こっている様子で、他の部活の部員も数名が気にするように人だかりに視線を向けている。

 おそらくあの中心に糸杉がいることだろう。

 あいつはいつだって相手の神経を逆なでするようなことをする。今回もそうに違いない。

「言いがかりはよしてもらえるか?」
「私は一つの可能性を話しているの」

 糸杉と部長と思われる大柄な男子、双方とも腕を組んで剣呑な雰囲気を出している。周りの部員数名も糸杉に敵対する視線を向けていた。集まってくる他の部員を遠ざけようとする生徒はいるものの、二人を宥めてその場を収めようとする者は誰もいない。

「一人ずつ話を聞くくらい問題ではないでしょ」
「その必要はない」
「なぜ?」
「陸上部の中でそんな奴がいるわけがないからな」

 部長の言葉に周りの部員も賛同するように頷く。

「そうやって同調圧力で口を塞いでいるのがわからないの?」

 案の定、糸杉は陸上部を挑発して本音を引き出そうとしている。こういうところは全く成長しない。これでは余計に頑なになるだけだ。

「糸杉それ以上は辞めた方がいい」

 俺の制止も無視して糸杉は続ける。

「もしかしてそれが狙い? そうすれば裏での行いが明るみに出ないものね」
「お前はどうしても俺たちが裏で何かをしたと思いたいらしいな」
「先ほども言ったけれど一つの可能性の話をしているの。ここまで話の分からない人がトップだと組織も駄目になるわ。早々に引退する方が部の為じゃないかしら」
「何も知らないくせに」
「失礼だろ」
「謝れ!」

 部長を馬鹿にされた部員たちが詰め寄る勢いで騒ぎ始める。これ以上は話し合いが出来るような雰囲気ではない。

「帰るぞ。これ以上はお互いに無意味だ」
「そうね」

 ようやく引き下がった糸杉は俺たちに怒りをむき出しにする部員たちに余計な一言を放つ。

「こうやって支倉さんも追い込んだのかしら」

 ぎりぎりのところで耐えていた部員たちだったがついにそのうちの一人が耐えられなくなる。

「いい加減にしろよ!」

 糸杉に詰め寄る男子部員との間に割って入るとそのままの勢いで頬を殴られる。

「部外者のくせに」

 態勢を崩してよろめいたところを、胸倉をつかまれ無理やり立たされる。首が絞められて息が出来なくなる。力の差が歴然で抵抗する暇などない。

「支倉は俺たち弱小陸上部の希望だったんだ。あいつがいなかったら俺たちはこうしてグラウンドを使わせてもらうことなんて出来なかった。そんなことも知らないで、俺たちが支倉を追い詰めただと。ふざけるな!」
「やめろ!」

 拳を振り上げる男子部員に向けて水がかけられる。必然的に俺も水がかかった。

「支倉の帰る場所をなく気か!」

 部長の一喝がグラウンド中に響き渡り、こちらを気にしながらも活動を続けていた他の部も中断を余儀なくされた。

「すみませんでした……」

 部長の喝がよほど効いたのか、びしょびしょに濡れた男子部員は胸倉から手を放して引き下がる。息のできない苦しさから解放されるが、濡れた制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

「申し訳ない。責任は部長の俺にある」
「殆どこちらの所為なので気にしないでください」

 深々と頭を下げる部長にこちらも頭を下げると、教師たちが来る前にその場から立ち去る。

「行くぞ」

 呆然としていた糸杉の腕を引くと先ほどまでの頑なさが嘘のようにあっさりとついてくる。その軽さに心配になって振り向くと糸杉は普段とは違った瞳の色でこちらを見つめていた。

「なんだよ。文句があるのか?」
「いえ……血が……」

 確かに口の中が鉄の味がする。それに気づいた途端、悶絶するほどの痛みに襲われた。

 丁度そこへ教師数名が騒ぎを聞きつけて駆け付ける。その中には関山先生の姿もあった。

「大丈夫か?」
「めちゃくちゃ痛いです」
「そこは男らしく大丈夫くらい言えないのか」

 俺の正直な感想にあきれ顔の先生だが、そういう考えは時代遅れだ。男であろうとも痛いものは痛い。

「死ぬほど痛いですけど、大事にしないでくださいよ。悪いのはこちらですし」

 手を挙げたことは非難されるべきことだ。しかし、そう仕向けたのは糸杉なのだからあちらだけ罰を受けるのは忍びない。

「わかっている。事情を聞いて注意をするだけだ。音霧は保健室で治療して貰え。ついでに洗濯機も借りるといいだろうな。糸杉は音霧の体育着を持ってこい。それくらいはしてやれ」
「……はい」

 強い風も吹けば飛んで消えてしまいそうなほどの弱々しい声で糸杉は返事をする。

 反省の色を見せている糸杉を見て、案外こいつも普通なのだと感じてしまった。


 俺たち以外に誰もいない保健室には洗濯機が回る音だけが空しく響いている。

 鏡を見ての自己判断に過ぎないが、唇を切ったくらいで怪我の具合は大したことはなさそうであった。大きく腫れることもないだろう。

 適当に要した氷嚢で冷やすと痛みが次第に和らいでくる。

 糸杉は洗濯機の傍でこちらに背を向けて立っている。その背中は先日見せたものと同じだった。

 こんな姿は見たくない。見せられてしまったら嫌でも考えさせられてしまう。

「ごめんなさい。巻き込んでしまって」

 すんなり謝罪されたことの居住まいの悪さといったらこの上ない。それに謝る相手は俺ではない。俺は勝手に割り込んで怪我をしただけ。本当ならもっと早く無理やりにでも糸杉をあの場から引き離す方法もあった。

 それをしなかったのは僅かにでも彼らを疑っている気持ちがあったからだ。

 それならば俺も同罪だろう。

「もう少し賢いやり方があっただろ」

 糸杉は黙っていれば容姿は良いのだ。クラスでしているように少し偽って相手のペースに合わせれば、聞きたいことは勝手に向こうが話してくれる。

「悠長なことをしていられないでしょ。それに……」

 僅かに逡巡して言葉を切った後、諦めたように言葉を紡ぐ。

「私はこのやり方しか知らないから」

 糸杉の言葉がすとんと身体の内側に落ちていく。こいつは出会った時からそうであった。相手の本音さえ聞ければ自分はどう思われても構わない。目的のためには自分を犠牲にすることを厭わない。

 嫌われることが平気ということではなく、嫌われる方法しか知らない。

 そうなってしまうほどの事が糸杉にあったということなのだろう。

「もうあんなことするなよ」
「ええ。そうね」

 妙に素直だな。なんて思ったのもつかの間。

「盾がこんなに貧弱では危ないものね」

 さっきまでの態度はどこへ消えてしまったのだろう。反省の時間は終了したようで今度はこちらを攻めにかかる。

「まさかあんなに弱いなんて思わなかった。ボロ雑巾のように弄ばれた挙句に濡れネズミ状態。恥ずかしくて目を背けてしまったわ」

 開いた口が塞がらない。いったいどの口がそれを言っているのか。

「俺がいなかったらお前がそうなってたんだぞ」
「それこそ大事にすると脅して本当のことを聞くつもりだったわ」

 あたかも余計なことをしてくれたと言わんばかりの言い方。それに彼らが本当のことを言っていない前提で話をするのだから余計にたちが悪い。

「自分の考えに固執するのをどうにかした方がいいと思うぞ。この前のこと忘れたわけじゃないだろ」
「そうね……」

 小紫の件を引き合いに出すと雄弁だった口が途端に塞がる。

 目的を前にして冷静さを欠いているように見える。

「あの人たちは嘘を言っていない」
「それくらい私にでもわかったわ。だから音霧くんに謝ったの。私のしたことは無意味だったわけだから」
「それがそうでもない」

 殴られて頭がおかしくなってしまったのか可哀想。みたいな顔をされる。

「陸上部は支倉にかなり頼っていた。それも部の存続がかかっているほどに。一年生の彼女がそれを重荷に感じていても不思議じゃない」
「けれど彼女は責任感の強い生徒よ。それくらいで投げ出すとは思えないわ」
「責任が果たせなくなる事態になったとしたら?」

 俺の問いかけに糸杉は黙って顎に手を当てて考え込む。

「音霧くんにしてはなかなか言い着眼点ね」
「素直に褒められないのかよ」

 責任感の強い支倉はその責任を果たせなくなる何かを抱えていた。それを知らない周りの人間は彼女にさらなる期待を押し付ける。良心の呵責に耐えられなくなった心の糸は遂に切れてしまった。

 大筋はこれであっていると思う。

 責任感の強い人間ほど糸が切れてしまうまで周りに言えないでいるもの。今の支倉がその状態なのだとしたら取り返しのつかないことになる前に見つけなくてはならない。しかし支倉の精神状態がわかったところで居場所がわかるわけではない。

「こんなこと言いたくはないが、既にってことはないか?」
「それはないわね。その選択をするときは一連の事故と同じ方法を選ぶはずよ」
「どうしてそれが言い切れる」

 俺の問いかけに糸杉は悲しみを深く刻んだ瞳をこちらに向ける。

「だってこの町にはそういう空気が流れているでしょ」

 深い悲しみを刻んだ瞳が僅かに微笑む。

「こういう空気は容易に伝播する。それに……」

 わざと言葉をそこで切ってから、悲哀の色が刻まれた瞳でこちらを睨む。

「そうするように手引きしている人間がいるもの」

 糸杉は一連の事故には裏があると思っている。おそらくこの依頼を引き受けたのも真相に近づけると考えたからだ。

 支倉が自殺をする前に保護して問い詰めるつもりなのだろう。本当にそんな人間がいるのか。それを知っていったい何をする気なのか。

「糸杉の本当の目的は何なんだ?」
「初めに言っているじゃない。私は深く刻みたいの」

 何を、誰に、どうした方法で刻もうとしているのか。聞きたいことは次々と湧き出てくる。

 ただそれを聞いたところで糸杉が素直に答えるわけがない。

 そうこうしている内に時間は過ぎていき空気の重たさに口ら開けなくなる。

「ずいぶん派手にやられていたけど大丈夫か?」

 重い空気を吹き飛ばすように陽気な声が夕暮れの保健室に響く。

「仙都か。もう少し静かに入ってきてくれ」
「なんだ。二人きりの時間を邪魔されて拗ねてるのか?」

 俺たちの間に入って茶化すように俺たちを交互に見る。

「冗談でもそれはきついぞ」
「そうね。不愉快よ」

 仙都が入ってきた途端に糸杉の機嫌が悪くなる。それを仙都が感じ取れないわけもなく、作った笑顔が次第に引きつっていく。

「ま、冗談はそこまでにしよう。支倉のことで動いてくれてるんだろ。俺も手伝うよ。学校に来ていないのは何となくわかってたし」

 仙都は支倉から相談を持ち掛けられていた唯一の人物だ。グラウンドであれだけ騒げば察してもおかしくない。

 手がかりが何もない以上、手当たり次第に調べることになる。仙都を巻き込むのはあまり気が進まないが人では多い方がいい。

「結構よ」

 しかし、俺の考えとは裏腹に糸杉は仙都の提案を無下に断る。言葉にははっきりと拒絶の意志が込められていた。

「あなたがいると邪魔だから」
「オレは糸杉さんと話してないよ。聡に話してるんだ」

 仙都は明らかに挑発するような話し方をする。

「それに君が見つけても意味がないだろ。説得が出来るのか?」

 仙都の言う通りだ。糸杉は人を挑発して焚きつけることは出来るけれど、説得をして思い留まらせることは苦手だ。

「それなら別行動にしましょう。あなたがいると見つけられそうにないもの」
「別行動には賛成だな。糸杉さんは余計なことをするからその方がいい」

 二人とも微笑みながら話しているけれど、目が笑っておらず互いに鋭い眼光のぶつけあいをしている。保健室の空気は少しの火花でも爆発しそうなほどである。

 そこへちょうど洗濯機が洗濯完了の音を鳴らす。陽気なその音はスタートの合図のように睨み合って動かなかった二人を動かした。

「それじゃ俺は着替えてくるから聡も準備しててくれ」

 それまでの一触即発の雰囲気が嘘のように朗らかな笑顔を俺に向けて颯爽と保健室を出ていく。

「越水くんは昔からあんな感じ?」
「そうだけど、それが何か?」
「胡散臭いと思っただけよ。全てが嘘に見える」

 仙都の事をそんな風に見たことは一度もなかった。あいつは昔から周りを巻き込んで率いてくような奴で、あんなことがあった後でも俺と違って狂ってしまうことはなく現実を生きている。

「音霧くんは彼の子守をお願い。雨が降り出す前に探し出さないと」

 糸杉の焦る気持ちもわかる。昨日も今日も予報は雨を示していた。

 しかし、最近は雨の予報が的中しない日が続いている。今日も夕方からの雨予報なのだが雨は一向に降りそうにりそうにない。まるで誰かが雨を降らせないようにしているみたいだ。

「今日もこのまま予報が外れて雨が降らなければいいのにな」
「そうね。あの日もそうであったらよかったのに」

 思わず零れてた糸杉の言葉は悔恨だけではなく、別の感情も混ざっているように見えた。

「彼が戻ってくる前にさっさと行くわ」

 どういう意味だとこちらが問いかける前に逃げるようにして保健室を出ていく。

 残された俺はしばらく呆然と糸杉が出ていった方向を見ることしかできなかった。

 俺は言い訳のしようがないほどに糸杉に気を取られている。
「ここにもいないか」

 何件目かになるゲームセンターから出るとどっと疲れが襲ってくる。様々な音が大音量で鳴り響く店内は俺の体力を容赦なく奪っていった。今も耳の奥で音が鳴っている錯覚に見舞われる。

「さっきも話したが支倉がこんなところにいる可能性は引くと思うけど」

 ちなみに捜索範囲は大きく広がり、電車を乗り継いで大勢の人で賑わう駅を何個も降りた。

「そうか? 案外気を紛らわす為にいるかもしれないだろ」

 様々な人が行き来するこの場所は身を隠すには申し分ない場所に思えるが、気を紛らわすには賑やかすぎる。

「四日も家に帰っていないならどこか宿泊ができる場所で隠れている可能性の方が高いと思うが」
「なるほど。誰か友達の家に泊めてもらっているのかもしれないな」

 友達の家に泊まっているのならここまで大事にはならないだろう。

 さっきからこの調子だ。仙都は俺の話を全く聞き入れようとしない。

 支倉が自殺を選択する可能性を示しても、彼女はそんな愚かな選択はしない、の一点張りだった。

 
 糸杉はこうなることを見越していたから仙都と行動を共にすることを嫌った。俺は体よく押し付けられということだ。

「支倉と仲の良かった子の連絡先は知らないな」

 つぶやきながらスマートフォンをいじる仙都からは緊張を感じられない。どこか他人事もしくは事態を軽く考えているように見える。

「今日はもう帰ろう。仙都も部活で疲れているだろ」

 このまま二人で探しても時間を無為に失うだけ。実際にかなりの時間を失っている。

 あと少しすれば警察に補導される時間になる。そうなれば支倉がこんなところをうろついている可能性はもっと低くなる。

「いや、オレはもう少し探すよ。先に見つけられたら困るからな」

 目的もなく歩きながら周りに目を配る仙都は糸杉への対抗心を隠そうとはしない。こんなに意地を張っている仙都は珍しいけれど、目的を違えている。

「支倉を見つけた後どうする気なんだ?」
「もし彼女が愚かな選択をしようとしているのなら全力で止めるよ」
「どうやって?」
「どうするかな。そんなことは見つけてから考えればいいだろ」

 実際、仙都はそうやって昔から難なく様々な問題をこなしてきた。しかし今回はどうだろうか。人の感情は行き当たりばったりで正解にたどり着くことは難しい。

 全てを抱えこんでしまう支倉ならば尚更だ。

 こういう相手には糸杉のような乱暴な方法の方がいいのかもしれない。

 どうして俺はあいつの肩を持つようなことを考えているのだろう。

「支倉がここまで追い詰められた理由に心当たりはないのか?」
「ないな。そこまで仲が良かったわけじゃないし」

 まるでちょっとした知り合い程度の言い方をする仙都に違和感を覚える。

 周りを気にして照明も付けず薄暗い教室で話していた二人の雰囲気は世間話をしているようには思えなかった。何か重要な話をしていたんじゃないのか。

「じゃあ、あの日は支倉と何を話していたんだ?」

 立ち止まって問いただす俺に仙都は背中を向けて淡々と答える。

「ただ話を聞いただけだ」
「どんな話を?」
「それは彼女のプライバシーの為に話すわけにはいかないな。周りに言いふらすような内容でもないし、彼女はオレにだけ話してくれたんだ」
「だったらなんで何もしなかったんだ?」

 責めたつもりはなかったけれど、結果的に責めたようになってしまう。

 仙都は瞠目するも、すぐにそれを隠すように薄い笑みを顔に張り付ける。

 口から出てしまった言葉をなかったことにすることにはできず、さらに言葉を続ける。

「支倉は仙都に助けを求めたんじゃないのか?」

 歩道の真ん中で立ちどまった俺たちを邪魔そうにして人の波がよけていく。

「まさかこんなことで責められるとはな」

 仙都は全く気に掛ける様子を見せずに快活に笑う。

「ごめん」
「謝る必要なんてないよ。事実だし」

 ビルのネオンを見上げる仙都の横顔は全てを諦めたような表情を浮かべて、どこか糸杉と似ているようにも見えた。

「聡、変わったな」
「どこが?」
「こんなに感情を表に出すタイプじゃなかっただろう」

 指摘されて気が付く。最近は落とした物を一つ一つ拾い集めるようにもとに戻りつつある。だけどそれは落としたわけじゃない。捨てたんだ。俺に必要なのは罪の意識だけでその他の感情は必要ない。

「これは頼まれたことだからだよ。引き受けた以上はちゃんとこなしたい」

 建前だけを述べて誤魔化そうとするけれど、うまく言い訳が出来ない。

「それだけだったら人を庇って殴られるなんてことしないだろ」

 確信を付かれた俺は思わず息を飲む。自分でも気づかないふりをしていた。あの行動の意味は、目的は、感情は、そのどれも俺の中に正解が思いつかない。

「お前は演じる必要なんてなんだよ」

 仙都の言葉に声が出なくなる。犯行を見抜かれた犯人はもしかしたらこんな気持ちなのかもしれない。

「聡は先に帰っていいぞ」

 会話を一方的に断ち切って仙都は喧騒に消えていく。

 追いかけることもできたけれど、再び痛み出した頬が何かを訴えかけているように感じてあの場所へと足を向けた。



 電車に揺られ町に戻ってきた俺は支倉を探すこともせずにバスに揺られてあの場所へと向かう。

 静まり返った公園のベンチで楓は曇って真っ黒な色の空を眺めていた。

 その姿を見つけて心の底からほっとする。

「また、夜に会ったね」

 昼も夕も夜も関係なしに楓の笑顔は変わることなく明るい。

「この頃はいろいろと忙しくて、体力的にもつらいよ」

 ぼやきながら隣に座ると楓は俺の頬の様子に気づいたようで目を丸くする。

「聡くんそれどうしたの?」

 俺は包み隠さず格好悪いところも全て楓に話す。

 話を聞いている間の楓は何度も確かめるように相槌を打ってその度に嬉しそうにしていた。

「ちゃんとその子を守ってあげられたんだね」
「俺が守ったのは向こうの方だよ」
「そうだね。相手の方も守ってあげたんだよね」

 笑った楓が首を傾げると揺れた髪から甘い香りが漂ってくるような気がする。

「ここ最近の聡くんは変わったね。もちろん良い方向に」

 ここでも同じ指摘をされる。別に変りたいと願ったわけじゃない。寧ろ変わりたくなんてない。変わってしまったら自分が犯した過ちが過去になってしまう気がして、誰からも責められないまま終わってしまうなんて許されることじゃない。

「それより楓はなにかして欲しい事ってないのか? 行きたい場所とか、やりたいこととか」

 嬉しそうに微笑んでいた表情を影のある笑いに変えて考えるような仕草をする。

「聡くんはさ、人ごみとか苦手だよね」
「そんなことはない。少し疲れるだけだ」
「それを苦手って言うの」

 不満げな声を漏らしながら、楓はジャングルジムへと駆け寄りあっという間に天辺まで上る。

 ひらひらとスカートが風に揺られる。こういう無防備なところは変わらない。

「私にこんなことを言う資格はないんだけどさ」

 真っ暗な夜空を背景に街灯の光を浴びた楓の髪は仄かに赤く煌めき、その表情はこちらからは伺うことが出来ない。けれどもあまり良い表情ではないだろう。

 震えた声がそう思わせる。

「聡くんはもっと自分のしたいことに時間を割くべきだよ」

 視線が合わなくても清らかな水のように澄んだ声はしっかりとこちらに届く。

 そんな事を言わないでほしい。

「楓の喜ぶ顔が見たいっていうのは駄目なのか?」

 ジャングルジムの天辺で空を見上げる楓は遠くに飛んで行ってしまいそうだった。

「それは……」

 言葉を探す楓の頭上を一枚の枯れ葉が横切って行く。それを見送ってから楓はこちらに視線を戻した。

「本当に聡くんのしたいこと?」

 無防備なくせに核心を突くことばかり言う。

「これは俺の」


――しなくちゃいけない事なんだ――


「俺の……やりたいことだよ」

 あやうく口を衝いて出そうになり、無理やり誤魔化した。これを言ってしまったらきっと、この関係は終わりを迎えてしまう。終わりにするにはまだ俺は何もしていない。いつか終わりが来る。その時まで俺の時間を楓の為に使わなくてはならないんだ。

 こんなことでは返せない程の事を俺は楓にしたのだから。

「私は私以外の誰かに一生懸命になってる聡くんが見られたら凄くうれしいけどな」
「楓以外の奴……」

 ふと糸杉の顔が思い浮かぶ。

「私以外にもいるでしょ」

 あいつは今も一人で支倉を探して街を歩き回っているだろう。目的の為ならば自分を平気で犠牲に出来る奴だ。しかし、その行動は純粋な気持ちからではない。糸杉は支倉がどうなろうが別に構わないのだろう。

 俺も同じようなものだ。

 だからこそ、あいつの目的が何なのかがわからない。

「そんな奴いないよ」
「本当に? いま思い浮かんだんじゃないの?」

 楓に嘘が通じないことは昔からわかりきっている。どういうわけか楓は俺の嘘を簡単に見抜いてしまえる。

「別に助けたいとかじゃない。気になるだけだ」
「気になる……ね」

 楓はジャングルジムから飛び降りると笑顔を綻ばせてこちらに近寄ってくる。

「気になる。私も気になるよ」

 興奮気味に詰め寄る楓はおもちゃを見つけた猫のように目が光っている。

「勘違いするなよ。そういう意味の気になるじゃなくて」

 言葉を重ねれば重ねるだけ誤解が深まっていく。

「わかってる。聡くんはその人の力になってあげたいんだね」

 全然わかっていない。けれどこれ以上の言葉は無為に傷口を広げるだけだ。

「行ってきなよ。その人のところへ」
「そういうのじゃないから。それに望んでいないだろうし」
「だったら行方不明の子は見捨てるの?」

 そんなことどうでもいい。以前の俺ならすぐにそう答えられていた。

 変わってしまっていないことを確かめたくてここに来たのに結局変わってしまった自分を自覚させられる。

「自分がどうしたいか。それが大事だよ」

 本当は何がしたいのか。考えても未だにわからない。ただ、わからないで済ませてはならないことはわかっている。

 してほしいことだけははっきりしている自分に嫌気がさす。

 いつまでもベンチに張り付いたままでいる俺に楓が手を叩いて提案する。

「聡くんは気になってるその子の力になって行方不明の子を見つけるの。そしてその子も助ける。これは私からの命令」
「命令か」

 ここまで言わせなければ動けないなんて、俺の情けなさは昔から何も変わっていない。

「それから私の事も忘れてくれるといいかな」

 そっと風に乗せるように楓は呟くと、力なく微笑んで公園の外へと出ていく。

「それだけは無理な命令だな」

 ベンチから立ち上がったタイミングを見計らったようにポケットに入れたスマートフォンがアラートを鳴らす。

 それは後数分に黒く重たい空から雨が降ることを告げていた。

 駅に戻る頃に雨は降り始め、本降りになる予感があった。

 糸杉と仙都からの連絡がないということはまだ見つかっていないと考えるのが普通だ。

 小粒の雨が頬に当たるたびに焦りが増していく。

 支倉が行方をくらませてから四日。その間に気持ちが変わっていることを願いたいが、その可能性はほとんどないだろう。

 追い詰められて答えを出した人間はその答えに固執する。

 あとはきっかけが来るのを待つだけ。

 焦るこちらをあざ笑うかのように雨は強さを増していく。

 傘をさして歩く人の顔を注意深く見ながら捜索するが、傘が邪魔をして思ったようにいかない。

 とにかく車の通りが多い大きな道路沿いを選んで探す。夜が更けようとしているのに駅周辺は眠ることを知らずに賑やかさを保っている。金曜日ということもあり雨にも関わらず通りを歩く人々はみんな陽気な雰囲気だ。

 ふと向かいから流れてくる人波の中にパーカーを目深に被り傘で視線を隠した人影に視線が向く。

 その足取りは足枷をつけられた様に重く、ゆらゆらと人波に翻弄される姿は川面に落ちて行く当てもなく流される枯れ葉のようで、気力が感じられない。

 それは周りの賑やかさとの対比で顕著に表れている。

 直感で支倉だと確信する。

 咄嗟に裏通りに隠れて通り過ぎる瞬間に顔を確認する。

 間違いなく支倉だった。その瞳には写真で見た時のような溌溂とした輝きはなく、ぼんやりとここではないどこか遠くを眺めている。

 気づかれないように後をつける。制服姿を見られただけでも警戒される。相手は陸上部のエースだ。本気で逃げられたら追い付けるわけがない。

 糸杉に今の居場所と連絡を入れるとすぐに返事が来た。

『越水くんは近くにいる?』

 そんなことを気にするのか。どれだけ仙都が嫌いなんだ。

『いない』
『言われたこともこなせないのね。役立たず』

 礼を言われることを期待していたわけではないが、まさか罵倒されるとは思っていなかった。

『尾行して。合流したら挟み撃ちで確保』

 送られてきた指示に異議はなかったのでそのままスマホを閉じると、さらにメッセージを受信した音がする。

『あなたがいて助かった』

 ホーム画面に映し出されたメッセージを見て固まる。

 このメッセージを送ったのは本当に糸杉だろうかと疑ってしまう。素直に礼を言われても違和感で気持ち悪かった。あいつはやっぱり罵倒する方が似合っている。

 うかうかしていると見失ってしまうので返信をせずに支倉を尾行する。本降りになった雨が煩わしかったが傘を買っている暇などなかった。

 支倉はこちらに気づいた様子もなく街をさまよう。

 どんなことが支倉に起こっており、どうすれば解決できるのか。寧ろ支倉を確保してからが本番といえる。今後の事を考えると気が重たくなる。

 ふと、支倉はなんでもない場所で立ち止まるとスマホを確認する。

 何かを確認するように少し画面をいじったところで突然、彼女は走り出した。

 直ぐにこちらも追いかける。予想に反して俺たちの距離は簡単には離れなかい。

 陸上部といっても走りが専門ではないのかもしれないが、日ごろ運動をしていない人と変わらないというのは違和感がある。

 彼女は日本で一位二位を争う選手だ。男女の差を差し引いてもおかしい。

 冷静に分析している場合ではない。距離が縮まらないとしても追い付けないのだから見失うのは時間の問題だ。

 次第に息が絶え絶えになり足元がおぼつかなくなる。

 途端、何かに足を取られて前のめりに倒れ込んだ。

 慌てて支倉を確認すると姿が人の波に消えていくのが遠くで見えた。

『ごめん。逃げられた』
『存在感のない音霧くんにどうして気づいたのかしら?』

 そんな場合ではないだろうに、常に俺を貶すことは忘れない。

『誰かが支倉に知らせたみたいだった』
『やはりね。今の彼女の精神状態で周りに気を配れると思えないし』

 糸杉の言う通りで見かけた支倉は周囲を気を配れるほどの余裕はなさそうだった。

 誰かから知らせを受けたことは間違いない。

 これで協力者がいることが確定してしまう。それが糸杉の言う通りの相手でなければいいのだが。

 だが、誰がこんなことをしているのか。それにこんなことをして何の利益があるというのか。

 とりあえず、糸杉と合流して先の事を考えなくてはならない。

 焦る俺とは対照的に街を行き交う人は陽気さを増していく。大声で歌いながら千鳥足で歩く男性の気楽さがこちらの気持ちを逆なでする。

 ゲラゲラと笑い声をあげながら横に広がり歩く彼らはこちらの行く手を阻んで横断歩道を渡っていく。

 赤に変わった信号がこちらの気持ちを急かした。

 こうなっては背に腹は代えられない。糸杉に詰られる覚悟で仙都に電話を掛ける。

『どうした?』
「今どこにいる」
『今か。ちょうど黒田根駅に戻ったところだ』
「ちょうどよかった。支倉を見つけたんだけど逃げられた」
『そうか。わかった。オレも探すよ。どの辺だ?』

 電話の向こうから先ほどの陽気な歌声と笑い声が聞こえる。

「ちょうど……」

 その辺りにいる。そう言おうと視線を前に向けた時、向こう側にパーカーのフードを脱いだ支倉が立っているのが見えた。

『どうした?』

 支倉は焦点の合わない目で地面を見つめている。

 駄目だ。

 その一言が喉の中で空回りするだけで出てこない。

 ふと支倉が緩慢な動作で視線を右へ向ける。つられて視線を向けると、一台の乗用車が近づいていた。

「やめろ!」

 俺が叫ぶのと同時に支倉はその身を道路へ投げ出していた。

 ブレーキの甲高い音に間髪入れず身体と車がぶつかる鈍い音がする。

 足元をすくわれるような形の支倉はフロントガラスにその身を打ち付けて人形のように宙を舞う。

 あの時と同じ光景に全身が金縛りにあったように動かなくなる。

 宙に浮いた支倉の身体が地面に叩きつけられるまでの一瞬の出来事が何倍にも引き延ばされ時間がゆっくりと流れていく。

 その場にいる誰もが時間が止まったようにその光景に見入っていた。

 女性の悲鳴で間延びした時間が引き締められ再び動き出す。

 ざわめきが形を成したように野次馬がうねるように道路に倒れる支倉を囲っていく。

 歩行者の信号が青に変わるとこちら側の人たちも光に向かう虫のように吸い寄せられていった。

 俺はまだ動けないまま心臓が過剰に血液を全身に供給する。

 それらの光景がカメラを通して観ているようで、頬に当たる雨の感覚すら感じられなくなっている。額から滴るのが冷や汗なのか雨なのかわからない。
 
 あの日と同じで感情が抜け落ちていくような感覚になる。

 あの日と同じなのだとしたら俺はこの後何をした。何をしなくてはならない。

 働かない頭に語り掛け、無理やり身体を動かそうと試みる。

『自分がどうしたいのか。それが大事だよ』

 楓の言葉が頭に浮かんだ瞬間、地面に縛られた足が動き出していた。

 こうなったことへの自分に対する嘲りや罵りの言葉はいくつも浮かぶけれど、そのどれも今の行動に制限を掛けられるような力はない。

 あの日と同じ結末にするわけにはいかない。

 人垣から支倉の様子を伺う。彼女は意識を失っているようでうつ伏せのまま動かないでいる。その傍には狼狽して立ち尽くす運転手の姿がある。

 これだけ集まって騒いでいるくせに誰も支倉に駆け寄る者はいない。スマホで撮影する者、友人となにがあったのか話している者、非難の視線を向ける者。

 誰かがやるだろう。そうした空気が辺りを支配していた。そんな人たちに嫌悪するものの、それを感じている時間すら惜しい。

「きゅ、急に女の子が飛び出して、それで」

 狼狽した運転手らしき男すら自らの義務を失念している。

「すみません。通してください」

 人垣をかき分けうつ伏せに倒れる支倉の傍らに片膝を立てて肩を叩く。

「大丈夫ですか?」

 こちらの問いかけに全く反応を示さない。

 衝撃を与えないよう、丁寧に仰向けに体位を変える。頭部の外傷、その他大量の失血箇所はない。足は骨折しているだろうが命にかかわるようなことではない。

 胸部の上下運動が見られない事から考えて呼吸をしていない。

 移動させることは極力避けるべきだ。

「ハザードランプを付けて後続車の誘導をお願いします」
「え、え? 後続?」

 茫然自失していた運転手はこちらの意図を汲めず視線を泳がせ言葉を零す。

「彼女を移動させるのは危険なのでここで応急処置をします。あなたは後続の車に追突されないように誘導をお願いします。こちらは何とかしますから」

「わ、わかった」

 運転手は何度も首を縦に振ると車へと引き返していく。本当にわかっているのか不安になるほどに狼狽していたが、近くで騒がれるよりもましだ。

「誰かAEDを」
「持ってきたわよ。既に救急隊への連絡も済ませてある」

 AEDを持った糸杉が俺の傍らに立っていた。

「使ったことは」
「ないけど大丈夫。あなたのすべきことをやって」

 この子を助けたい。向けられた眼差しから強い意志を感じる。

 状況を冷静に把握できている相手がいると非常に助かる。あの時とは状況が違う。今は一人じゃない。

 糸杉は俺の向かい側に移動すると、迷うことなくAEDを起動させ、女子の上着のボタンを外していく。

 手際が良いところを見るに、こうした経験は初めてではないのかもしれない。

 AEDの音声に従いショックを行ない、再び充電が完了するまでの間は心肺蘇生、胸骨圧迫30回に人工呼吸2回を行なう。

 肋骨が折れる感覚が掌に伝わるが、ここで躊躇ったら助けることは出来なくなる。

 この感覚をもう一度味わうなんて思わなかった。

 胸骨圧迫は普段運動をしている人でもかなり疲れる。先ほど走ったこともあって直ぐに息が上がり、汗が額に滲んだ。

「くそっ」

 次第に手首が悲鳴を上げ始める。しかし、手を止めるわけにはいかない。

 死なせるわけにはいかない。これは自分の為だ。善意十割で行っているわけじゃない。

 祈るよう思いで圧迫を続ける。

「代わるわ」
「必要ない」
「でも」
「大丈夫だから」

 掌から伝わる命を直接握っている感覚は形容しがたい不安、緊張、恐怖へと変換される。俺はいま支倉の生死に一番近い場所にいる。何もなければ関わることがなかった赤の他人の命を左右している。

 こんな感覚を味わうのは自分一人で十分だ。

 遠くで聞こえていたサイレンがすぐ近くでその音を止める。

「救急隊です。通してください」

 数名の隊員が人をかき分けてこちらに向かってくる。

「ご苦労様です。後はこちらで引き継ぎます」
「お願いします」

 これまでの応急処置の内容を簡潔に伝えて下がる。張り詰めていた気持ちが一気に緩み視界がぼやけて来る。

 ここから早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 野次馬の集団を縫うようにして抜ける。野次馬たちの視線はパトライトの赤い光に向けられその場から離れる俺を気に掛ける者はいなかった。

 少し離れた場所で呼吸を整える。鈍い痛みが広がる手首は震え、抑え込もうと両手を強く手を握っても治まる気配を見せない。

 ここにいる意味はもうない。

 重い足取りで騒がしいこの場所から逃げる。

 気づけば雨は小降りになっている。しばらくすれば止んでしまうだろう。
 
 言いようのない敗北感が俺の肩にのしかかってくる。

 このまま帰るような気分になれずにあてもなく歩いた。


 あてもなく歩き続ければ自然と足がここに向かっているのは分かっていた。

 深夜の公園は奇妙に静まり誰も寄せ付けようとしない。

 当然、楓の姿はなかった。寧ろいなくてほっとした。いたら俺は甘えてしまっただろう。

 濡れたベンチに腰掛けると、乾き始めていた尻からじわりと冷たさが伝わってくる。

 すぐ近くにある横断歩道。信号は赤。

 あの日、悲劇はあの場所で起こった。ふと青に変わった横断歩道を渡ってくる人影が見える。

「なんでお前がここに来るんだよ」
「さあ。何となく歩いていたらここについてしまったの」

 今は誰とも会いたくないのに、さらに最も会いたくない人間が目の前にいる。

 糸杉は躊躇することなく濡れたベンチに腰を掛ける。

 何を考えているのか表情を伺うけれど、悲しみを深く刻んだ瞳には何も映らない。

「音霧くんは経験があったの?」

 何が。と問う必要はない。態々口に出して言いたくない。

「昔、同じことがあった」
「そう……」

 質問の意図を図りかねたが糸杉はそれで納得した様子でそれ以上は聞いてこなかった。

「そういえば仙都に連絡するの忘れてた」
「その辺は問題ないわ。先生への連絡もした」
「悪いな。面倒なことやってもらって」
「平気よ。これくらい。今回、私は役立たずだったもの」
「役立たずだったのはお前だけじゃない」

 それに糸杉が役に立たなかったというのは誤りだ。糸杉がいなければ迅速に応急処置を置こうなうことはできなかっただろう。

 だからこそ、当時の事を思い出して暗い気持ちになる。

 あの時も糸杉のような人がいたら、と。

「そろそろ帰るぞ。風邪ひいたら明日、会長に報告できなくなる」

 残念な報告になるがしないわけにはいかない。起こったことを捻じ曲げずに伝える義務が俺たちにはある。

「そうね。どんな誹りも受ける覚悟をしておいた方がいいわ」
「そうだな」

 妙なところで意見が合致する。

 びしょ濡れになった男女が深夜の公園で二人。そこには敗北感だけが漂っていた。



 翌日、幸いにも支倉が一命をとりとめたことを関山先生から聞かされた。

 最悪の結果にならなかったが、もっと良い結果に繋げることだって出来たはずだ。糸杉も同じなのだろう。先生が話している間、一言も口を挟まず足元をじっと見つめていた。

 結局のところ突発的な自殺として今回も例外なく処理されることだろう。

 今度のことで裏で誰かが糸を引いている可能性に懐疑的だった俺の考えは変わった。支倉の意識が戻ればそのことは明るみになることだろう。

 そしてこの事態に陥ったことに対して、誰も俺たちを責める者はいなかった。

 理不尽でも、八つ当たりでも、なんでもいい。誰か一人でも俺たちの所為にしてくれる人がいたのなら、少しはこの重みから解放されるのかもしれない。