今日も僕らは傘をささない

 傘を持ってこなかったことをこんなにも幸運に思ったことはない。
 正午から降り始めた雨は止む気配を見せず、夕方になった現在もしとしとと降り続いている。
 先日、夏至を迎え暦の上では夏になるのだが雨の日の風は少し肌寒い。しかし、その風が火照った体を冷やすのに役立っていた。
 オレたちは一つの傘を分け合ってゆっくりとした足取りで歩く。肩が触れ合う度に相手の体温が直に伝わって来る。そうする度に身体は電流が走ったように強張った。
 隣で無邪気に話す彼女を異性として意識し始めたのは最近になってからだ。
毎日一緒に馬鹿な事ばかりしているオレたちのことを、友人たちはお似合いだと囃し立てる。内心では嬉しいのだが、オレたちは幼馴染という関係から先に進めていない。
 オレたちはまだ中学生だし、恋愛には疎い。それに彼女は誰に対しても分け隔てなく優しく、気さくである。
あいつにだって……
 下手に告白をして今の関係が破綻してしまう事をオレは一番恐れている。しかし、この関係をいつまでも続けるわけにはいかなくなってしまった。
これは杞憂ではない。
 先日、もう一人の幼馴染に彼女の事を好きだと打ち明けられてしまった。
 彼がどうしてオレにそんな事を伝えたのか、その意図はわからない。
 しかし、彼女がそいつと寄り添いながら去って行く様子を想像するだけで、胸を鷲掴みされたように苦しくなった。
 だからこそ、この曖昧な関係を終わらせる必要がある。
 ちゃんと、自分の気持ちを言葉にしよう。
 別に彼女があいつのことを好きだと決まったわけじゃない。オレにだってチャンスはある。ここで告白したら抜け駆けのように思えたが、オレは決めたことをすぐにやらなくては気が済まない性格だ。そんなことはあいつだって知っているはずだ。
 赤信号で立ち止まり、普段の何気ない会話を切り上げて、彼女を見つめる。
 逃げ出したいほどの異様な沈黙の中、意を決して口を開く。

 オレは――

 わたし聡(そう)くんが好きなんだ。

 言葉を先に口にされてしまった事をオレは今も後悔している。

 雨は苦手だ。
 何もかもが洗い流されてしまうようで、無かったことにされてしまう気がするからだ。

 閉めたカーテンの隙間から午後の陽光が差し込んでくる。
 昨夜から今朝にかけて降り続いた雨は正午前にようやく止んだ様子で、外から雀の囀りが聞こえてくる。

 くたくたの参考書を閉じると、それを鞄にしまい身支度を整えて自室を出る。

 あの日から、俺は雨にあたると体調を崩してしまう。

 医者が言うには身体的な問題ではなく精神的な問題であるらしい。

 当時は雨に濡れると何か得体のしれないものに絡めとられたように身体が硬直し、次の瞬間には胃の中身を吐き出してしまうほどであった。

 医師には次第に良くなるから焦る必要はないと言われているし、学校側も理解を示して、出される課題をこなせばある程度の欠席は免除してくれている。

 あれからもう三年。本当は既に治っているのかもしれない。

 体調の変化など気のせいで、雨の日に外に出たところで発作なんて起こらず普通の人と同じように過ごせるのかもしれない。

 試したことはないが最近ではそんな気がしている。
 それならば何故今日もこうして雨が止むまで待って居ていたのかといえば、 発作が起こらなくなったと時、三年前の事故は過去の出来事にしてしまう気がしているからだ。
 
 あの事故を過去の出来事にするには、まだ何も受け入れられていない。

 俺は優しすぎる世間に甘えている。自分で立てる足がありながらも、支えてくれる人達に寄りかかり、そんな環境を変えることを拒んでいる。
  
 三年前から俺は根性なしなのだ。
 わかっていても変わることは容易ではない。

 頭の中で堂々巡りを繰り返しながら一階フロアへと降りる。
 
 居間を抜けて甘いシャンプーの香りが漂う扉を開く。

「あら? 学校行くの?」

 客の洗髪中である母が息子の登場に驚いた声を上げる。

「雨止んだから」

 努めて普通に柔らかい口調で話す。
 こういうことはこの三年でうまくなった。

「そう……行ってらっしゃい。無理しないでね」
「行ってきます」

 まるでお菓子の国のようにカラフルな容器やインテリアが施された店内を抜けていく。もちろん、客への挨拶も忘れない。

「あれ? 学校行くのか」

 待合席で客とゴルフ談議に花を咲かせていた父がようやく俺の存在に気づく。

「雨止んだから」

 先ほどと同じ会話をしながら何となしにつけっぱなしのテレビに視線を移す。


『昨日、黒田根市北区の路上で女子高生が道路に飛び出し跳ねら』


 途端、チャンネルは切り替わり芸能人がとある街を散策する映像が流れる。

「最近、こういう番組流行ってるよね。うちにも来ないかな」

 客と世間話に再び花を咲かせる父を見るが特に変わった様子はない。きっと、無意識にしたのだろう。

「仕事しないとまた小遣い減らされるよ」
「それは困っちゃうな。それじゃそろそろ、散髪しますか」

 父に仕事を促してから家を出る。扉に設置されたカウベルが今日も小気味よい音を立てた。
 音霧(おとぎり)家の一階は両親が経営する理髪店になっている。主婦層や、ご老人に向けに開いた店が近隣住民に受けてそれなりに繁盛している。
 
 ちなみに理髪店と聞くと赤白青のラインが入ったサインポールが店先に立っている床屋をイメージするだろうが、店の外観はチョコレートケーキのようなブラウンの壁にオリジナルのインテリアを施した小洒落たものになっている。もちろん、赤・白・青の縞模様が目印のサインポールも立っている。これがなければここを理髪店とは誰も思わないだろう。

 俺の周りの環境は恵まれている。

 三年前のあのことがなければ、俺はこの店を継ぐことを考えて毎日前向きに生きているはずだったし、彼女の髪を切る日だってあったかもしれない。

 アスファルトにできた水溜りに映る自分の顔を見つめる。

 一枚の枯れ葉が躍るように落ちて行き、映った自分の顔を大きく歪ませた。
あれから三年。季節は移ろい、外見も少し大人びた。それなのに俺は同じところを今も廻っている。

 こんな未来は誰も望んでいなかった。しかし、これが現実である。受け入れる時期はとっくに過ぎている。
 昼休みの教室は騒がしく重役出勤の俺を気にする者など誰も居ない。

『雨が降っている時、音霧は学校に来ない』

 それはクラスでの暗黙の了解となっている。それに対して不満や異議を唱える生徒は居ない。

 このクラスでの俺の立ち位置は透明人間だ。

 そこに居るのにそこに居ない。そうした扱いは気が楽である。

「よう。今日も一段と遅い登校だな」

 しかし、こちらの気持ちを酌んでくれない奴がいる。

仙都(せんと)、俺の事は放っておいてくれないか?」
「堂々と遅刻してきていじるなって方が無理だ」

 わざと大げさなリアクションを取りながら仙都は隣の席に腰を下ろす。
 越水仙都(こしみずせんと)とは小学生の頃からの付き合いである。
 
 ショートレイヤーの髪型は気取り過ぎず、自然体で好青年の印象を相手に与える。

 持って生まれたコミュニケーション能力と整った容姿が相まって彼を悪く言う者を俺は聞いたことがない。

 迂闊に嫉妬をされないところが仙都の凄いところである。彼と話したものは男女問わず、棘を抜かれたように虜になってしまう。俺も他人から見たらその一人なのだろう。

「で、用件はなに?」

 こちらの問いに仙都は人懐っこい笑顔を浮かべて揉み手をする。

「課題終わったか?」
「やっぱりそれか」

 鞄からノートを取り出すと仙都へと渡す。
 先日出された数学の課題はその日のうちに終わっている。帰宅部である俺は勉強くらいしかやることがない。

「毎回サンキューな。聡|《そう》が居なかったら俺の高校生活は詰んでるわ」

 受け取ったノートを恭しく高々と掲げる。

「たまには自分でやれよ」
「わかってるよ。今回だって半分はやったんだ」
「偉そうに言うな」
「まあまあ、俺も色々忙しいんだよ」

 ノートなんて仙都ならば誰からでも借りられる。態々俺から借りようとするのは俺を一人にしない為なのではと考えてしまう。

 典型的なクラスで浮いているキャラである俺が、一年半の高校生活を不自由なく過ごせているのは仙都のおかげであると言っても過言ではない。

――越水仙都が気軽に声を掛けているからあいつはやばい奴ではない――

 そういった認識がクラスにはあった。

 居なかったら、詰んでいたのはこちらだ。

 昔からサッカーが得意である仙都は本来であれば私立の高校に推薦で行くはずだった。しかし、何故か複数校の誘いを断って俺と同じ公立の高校へと進学した。

 そのことについて以前に何度か理由を尋ねたが、仙都は真面目に答えようとしない。

 三年前のことが影響をしているのは間違いない。

「……平気か?」

 ぼんやりしている俺を気遣う様に、仙都はこちらの顔を覗き込んでくる。

「大丈夫だよ。ちょっと考え事してただけ」
「とにかく、放課後までには帰してくれよ」
「前から気になってたんだが、放課後何か用事でもあるのか? いつもすぐに帰るし」

 仙都は探りを入れるように凝視する。

「別に何もないよ。学校は勉強するところだから。放課後は居る必要がないと思ってるだけ」

 俺はそれから逃れるように適当な言い訳を見繕う。

「ふーん。せっかくの青春を無駄にしてるようでもったいないな」
「それは人それぞれだよ」
「それもそうだな。それじゃ、放課後までには必ず返すから」

 仙都は勢い良く席を立つと、何かを思い出したように足を止めてこちらを振り返る。

「そういえばセッキーが探してたぞ」
「聞かなかったことにする」

 セッキーとは俺たちの担任の関山|《せきやま》先生のことだ。生徒達から理解のある大人として人気のある教師だが、俺はあの人が苦手だ。
 
 というよりも天敵と言っていい。

「本当にセッキー苦手だな」
「他人の事情にずかずか入り込んでくるからな」
「確かに熱血漢なところあるな」

 一応あれでも女性だけどな。

 問題のある生徒を正しい道に導こうとする先生の姿勢は立派である。ただ、全員にそのやり方が有効という訳ではない。

「というか、マジで無視する気か?」
「実際、その呼び出しを俺は聞いてないからな」

「そうだろうと思って直接迎えに来てやったぞ」

 ハスキーな声が後ろから聞こえ、肩を叩かれる。
 
 クラスメイトの視線がこちらに痛いほど刺さった。

 昼休みで賑わう教室に堂々と教師が入って来れば当然であろう。
 関山先生は今日も艶のある長い髪を一つに纏めて厳格な印象を受ける。スマートに着こなしたスーツと切れ長の目もそう言った印象に一役買っている。

「そう露骨に嫌な顔をするな」
「表情に出さないようにしたつもりなんですけどね」
「読心術は私の得意技だ」

 さらっと恐ろしいことを言う。

 直接来られては無視するわけにもいかず、渋々席を立つとそのまま生徒指導室へと連行された。
 生徒指導室とは名ばかりの教室は部屋の半分を不要物に支配されており、残りの半分を擦りガラス付のパーテーションに色褪せたソファーが向かい合わせに置かれた部屋だ。

「とりあえず座れ」

 関山先生は自分の向かい側に座るように促す。

 ただの教室とは異なる異質な空気。昼休みの喧騒ははるか遠くに聞こえ、まるで校舎裏に連れ込まれた気分だ。彼女のテリトリーであるここでは会話の主導権を必然的に握られてしまう。

 次ある時は廊下でことを済ませるようにしよう。
 次はあってほしくないけれど。

「単刀直入に聞こう。音霧は慈善活動というものをどう捉えている」

 これは予想外だ。
 単なる説教を永遠と聞かされるのかと思っていた。
 
 それに単刀直入に聞かれているのに全く真意が見えない。
 
 手を組んで顎を乗せる先生からは戦闘漫画の強敵のように並々ならぬ覇気を放っている。

 答え次第では俺の今後の学園生活を左右する分水嶺になるだろう。
 じっくり考えてから応えなければ。
 
 慈善活動とは『善人』だと思われたいと願う人間がする行為だと思っている。
 
 善人であると認識されれば不自由することはないし、場合によっては与えた善意が返ってくることもある。さらに、困難な状況に陥った時には助けてもらえる。

 しかしそれは人生に余裕がないと行えない行為である。
 
 つまり慈善活動とは人生に余裕のある人間がする保険のようなものであり、暇つぶしと言っても過言ではない。
 
 よし考えは纏まった。
 
 口を開こうとして再考する。
 
 目の前にいる教師は全身から炎を発せるほどの熱血教師である。
 
 給料分の仕事しかしない教師が多い中で、彼女は生徒の為ならば私生活を犠牲にすることも厭わない。

 ならば彼女に対する答えは決まっている。
 
――人々の生活を改善することを目的とした、人類への愛に基づく活動。それが慈善活動である。
 ああ、慈善活動は何と素晴らしいことか――
 
 最高の答えだ。これで行こう。

「そうか。お前の考えはよくわかった」

 応えようとした途端に掌で遮られてしまう。制限時間付きだとは聞いていない。

「まだ何も言っていませんけど」
「濁りきった瞳を見ればわかる。さっきも言っただろ。私は心が読める」

 時間とか関係なかった。この教師は読心術が出来るのだった。
 失敗に気づいた時にはすでに遅かった。

「君には慈善活動に参加してもらう」
「お断りします」

 今回は迷うことなく即答する。

「安心しろ。君一人でやれと言うわけではない。実はもう一人」
「俺は断りましたんで。話はこれで終わりですよね。じゃ、教室戻ります」
「待て、話はまだ」

 何かを言おうとしているが、足を止めれば終わりだ。奈落の底に引きずり込まれて戻ってこられなくなる。

 生徒指導室を出たところで女子とすれ違う。こんな辺境に好んでくる生徒など居るわけがないので、彼女も呼び出されたのだろう。

 だが、俺には関係のない話。むしろ彼女を身代わりにして俺は逃げることにする。
 
 教室に戻るまでの間、関山先生が追ってくることはなかった。おそらくあの女子に慈善活動がどうとかの話をしているのだろう。

 いきなり慈善活動って、いったい何を考えているんだ。




 放課後、用事を済ませてバスの待機列に並ぶ。最寄り駅の黒田根駅は数本の路線が乗り入れていることもあり、それなりの人で賑わっている。

 友達とおしゃべりに興じる女子高生、仕事帰りなのに何故か浮かない顔のサラリーマン、今が一番幸せと顔に書いてあるカップル等々。
色々な人たちが同じ時間の中で生きている。

 俺もそれに漏れることはない。

 用を済ませていたら夕方になってしまった。もちろん用とは関山先生の件ではなく、俺にとって最も重要で優先すべきことだ。

 放課後に無理やり連れていかれるかもしれないと危惧はしたが、関山先生は特にそんなことをすることはなかった。

 嵐の前の静けさのようで恐ろしくもある。

 そんなことを考えていると、バスが到着したので乗り込む。
 駅前に植えられた銀杏は紅葉の季節にはまだ早いが、近いうちに葉の色を黄色に変えて駅前を銀杏の匂いで包むことだろう。

 バスは大通りを抜けて住宅地へと入って行く。

 天気予報は既に調べてあり、この後雨が降ることはない。今日も誰にも邪魔されることはないだろう。

 そんなことを考えていると本来なら降りるべきバス停がアナウンスされる。
 ここで降りれば自宅はすぐ目の前だ。
 
 中学時代の知り合いは乗っていないか。不審に思われていないか。
 
 俺は出来るだけ息をひそめてバス停を通り過ぎるのを待った。

 いつまでこんなことを続けるつもりなのか。こんなことして何の意味があるのか。

 気を紛らわすようにバスが二つ先の停留所に着くまで自問を繰り返す。

 バスを降りると鉛のようにのしかかっていた何かが抜けて足取りが軽くなる。少し歩いたところにある公園へと向かう。

 ジャングルジム以外は何もなく、忘れ去られたような公園は街道に植えられた銀杏に対抗するように、公園内では楓が植えられている。もう少し気温が下がってくれば燃え上がるような紅が公園を囲う季節がやってくる。

 そこが俺の目的地であり、雨の降っていない放課後は必ずここに寄っている。

 公園の奥まったところに設置してあるベンチに他校の制服を着た女子が座っているのが見えた。
 
 それまでの言いようのない不安が、圧倒的な力で擦り潰され跡形もなく消え去っていくのを感じる。

「お待たせ」

 ぼーっと茜色の空を眺める彼女に声を掛ける。

「全然、待ってないよ」

 切なそうに遠くを見つめていた彼女の表情が俺を見つけると花が咲いたような笑顔へと切り替わる。
 無邪気な笑顔から逃げるようにして視線を逸らすと彼女の隣へと腰を下ろす。

「今日は学校に行ったんだね」
「午後には雨が止んだから」

 そっと撫でるような心地よい声音を聞くと、それだけで鬱々とした毎日に光が差したように救われる。

「偉いね。聡くんはやればできる子だ」
「子供扱いは辞めてくれよ。同い年だし」
「え~。私は聡くんのお姉さんのつもりなんだけどな」
「どちらかというと妹だろう。落ち着きないし、危なっかしいし」
「その言い方は何かひどい」

 不満を示すように楓は口を尖らせる。

 ころころと変わる表情はいつも俺を翻弄する。

 紅葉楓(こうようかえで)は俺のもう一人の幼馴染である。
 幼稚園の時から一緒で常に隣には楓がいた。幼いときはお互いに、お嫁さんにする。お嫁さんになる。と周囲に話して、そこに仙都が割って入ってくるのがお決まりのパターンだった。
 
 手足はすらりと伸びてスタイルも良い。美少女と称しても差し支えない彼女は少し童顔だ。しかし、そこも魅力の一つでもある。
 
 肩くらいで揃えられた髪は夕日の色に僅かに染まり溌溂とした印象を相手に与える。俺はこの髪が特に好きだ。紅葉の季節になれば彼女の魅力がより一層引き出される。

「ねえ? じろじろ見てどうしたの?」
「いや、今日も可愛いと思っただけ」

 気持ちがついつい口から漏れてしまう。

「相変わらず聡くんは冗談が上手いね」

 しかし、俺の真意は楓には届かず、ぱっと明るい笑顔で流されてしまう。
 この状態で告白したとしても。冗談で返されることは火を見るよりも明らか。

「そう言えば今日は少し遅かったね」
「楓が前に行きたいって言ってたパンケーキのお店に行ってきたんだ」
「え! どうだった。どうだった。ちゃんと名物の二段重ねのフワフワもちもちのホットケーキ食べた? 味は? お店の雰囲気は? 写真撮った?」

 恐ろしい程の食いつきである。女子は甘いものが絡むと豹変する。その辺は楓も例外ではない。

「今日もちゃんと記録してきたから」
 
 腕に絡みついて目を輝かせている楓をそっと引き離す。

 こんな状態ではこちらが落ち着いて話せない。それに胸の高鳴りが楓にも聞こえてしまう気がして恥ずかしかった。

 俺は誤魔化すようにして鞄からB5サイズのノートを差し出す。

「ではでは今日も拝見いたします」

 いつものようにノートを食い入るようにして見る。以前に言葉で説明しようとして失敗してからこの方式になった。
 女子が喜びそうなスイーツやSNS映えしそうな場所を記録したこのノートはこれで三冊目になる。

「このノートちゃんとまとめて出版でもしてみたら?」
「それこそ冗談だろ」

 現役男子高校生編集、オススメ絶景&カフェ。そんな字面が思い浮かんだが、あまり魅力的ではない。

 俺は諸事情で遠出が出来ない楓の代わりに話題の店や、場所なんかに出かけてそれらの感想を伝えている。

 外出は疲れるし甘いものはあまり好きではないが、楓の喜んだ姿を見るためならば俺は何だってする。

「ねえ、聡くん無理してない?」

 感想を綴ったノートから不意に顔を上げと、大きな瞳に不安の色を漂わせてそんな事を聞いて来る。

「無理? どの辺が?」

 楓の急な変化に俺は戸惑いを隠せない。

「聡くんは甘い物は好きじゃないし、遠出も疲れるからあまりしたがらない。私は聡くんの事はそれなりに知ってるよ」
「確かにその通りだけど、俺は楓の喜ぶ顔が見たいから」

 いつまで続くかわからないけれど、心地よい時間が一秒でも長く続くことを俺は心から願っている。

「でもね、こんなこと」
「本当に嫌じゃないから」

 まるで天使が通ったようにまわりの音が吸い込まれるように消えていく。

「楓を喜ばせることが俺のしたい事なんだ」

 遮るものが何もない俺の言葉は周囲によく響いた。
 まるで告白をしてしまったようで、恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じる。

「それを言われたら私はもう何も言えないね……」

 楓は視線を泳がせてぽつりと呟く。

 羞恥心は楓にも伝播し微妙な空気が生まれる。

 冗談でもいって茶化してくれた方が幾分かましだった。

 窒息するほどに長い沈黙。それを破ったのは楓の方であった。

「ねえ、あの子。聡くんの学校の子じゃない?」

 楓が指さした先には、夜を纏ったような長い黒髪を靡かせた少女だった。後姿であるが、髪から受ける印象は陰湿で根暗、いかにも近づきたくない。

「確かにうちの高校だけど」
「知ってる人?」
「たぶん。知らない」

 俺は首を横に振って答える。

「高校は人数多いもんね」

 たまたま家が近所で帰宅の途中でこの公園の前を通った。初めはそう思っていた。しかしそれが思い違いだったことをすぐに知ることになる。

 彼女は公園の前を通り過ぎるでもなく、公園に入って来るでもなく、ただこちらに背を向けて道路を眺めていた。

 横断歩道の信号が青に変わっても渡る気配はない。

 やがて信号は赤になり、そして青になる。
 それを何度も繰り返す。まるで何かを待っているように彼女はそこに佇んでいる。
 
 奇妙な時間が俺たちの間に流れていた。

 気づいてしまったが為に俺たちは彼女から目が離せなくなっていた。
 
 会話など続けられるはずもない。彼女からはまるで幽霊のような不吉な雰囲気が漂っている。
 
 俺の中の何かがあれは危険だと告げる。
 
 ささっと消えてくれればいいのに。

 こちらの心の声が聞こえてしまったのか彼女はゆっくりとした動作でこちらを振り返った。
 
 冷たげで儚さを纏った顔立ち。
 それなのに見た者を魅了し虜にする危うさがあった。

 その顔には見覚えがあった。確か昼休みに指導室に呼ばれていた女子。

 けれども問題はそこではない。

 彼女は俺から目を逸らすことなくこちらに向かって来ていたのだ。

 ゆったりとした足取りは獲物を見つけた死神のようにで気味が悪い。

 口角を上げて薄っすらと笑みを浮かべているはずなのに、黒曜石のような黒い瞳には悲哀の色が深く刻まれており全く笑っているようには感じられない。

「すみません。少しお尋ねしたいのですが」
 
 それはとても綺麗な声だった。
 
 楓の声が風のように包み込むような心地よさなら、この女の声は細波のように何かを洗い流すような声だ。

「なんでしょうか?」
「この辺りにバス停はありますか?」

 どうということはない質問のはずなのに俺の警戒心は解かれることはない。
 油断したすきに魂を吸い取られてしまうそうな、そんな危うい空気を彼女から感じる。

「バス停ですと、ここから右に曲がって……」
 
 手短に道順を教える。
 その間、彼女は黙って俺の説明を聞いていた。
 
「ありがとうございます」

 彼女は頭を下げると一瞬だけ楓の方へと視線を送る。

「お邪魔してすみませんでした」

 そういうと彼女は今度は小走りでこの場を去っていった。
 
 その背中を俺は見えなくなるまで睨みつけていた。
 他人に興味を持たない俺がどうしてこんなにも彼女を敵視するのか。自分でも不思議でならなかった。

「ねえ聡くん。お願いして良い?」

 あの女の去って行った方向を見つめる楓の表情は悲痛の色が現れている。

「なに?」
「あの子を助けてあげて」

 あの子とは間違いなく先ほどの女の事だろう。

「あの子、すごく寂しそうだった。きっと一人ぼっちなんだよ」

 楓の表情はいたって真面目で冗談を言っているようには見えない。

「そう言われても名前とか知らないし」

 楓の直感は正しいのかもしれない。あの女からは確かに普通ではない何かを感じた。しかし極力関わらないほうが身のためだろう。
 関山先生に目をつけられているほどだ。関われば面倒ごとに巻き込まれるのは目に見えている。

「同じ高校ならすぐに会えるでしょ」
「そうとは限らないよ。学年が違えば接点はないし」

 実際、あの高校に通って一年半が経つけれど、今日まで一度も見たことがなかった。違う学年ということは十分にあり得ることだ。

「でもあの子、凄く可愛かったし、聡くんが知らないだけで有名人なんじゃない?」
「それなら俺がわざわざ助けなくても、誰かが助けてくれるよ」

 目立つ相手と一緒にいたらせっかく確立させた透明人の立ち位置が壊れてしまう。

「他の子じゃダメ。聡くんじゃないと」
「どうして俺なんだ?」

 俺の代わりなんて幾らでもいる。態々関わる必要はない。

「もう! なんでそんなに頑なの!」
「楓だって頑なだろ。今会ったばっかりの人に何でそこまで深入りするんだ」

 楓のお願いならば、どんなことでも快く受ける自信はあった。だけどこれだけは例外だ。あいつは俺らの関係を壊してしまいかねない。

「……わかった」

 言葉だけの了承をして楓は足元に視線を落とす。

 すっかり曇ってしまった表情に心が痛まなかったわけではない。だがやけどをするとわかっていて火中の栗を拾う者がいないのと同じで、あれに関われば俺の生活は一変してしまう。

 直感でそう感じていた。これは説明のしようがない。だから余計に拗れてしまう。

「じゃあこれだけは約束して」

 諦めない楓は思いついたというように手を叩いて提案する。

「あの子にまた偶然に出会えて、もしも助けを求めてたなら助けてあげて」
「助けられる状況なら……そうする」

 ここら辺が落としどころだ。これ以上お互いに意地を張ってもしょうがない。

「私は聡くんが優しい人だって知ってるから。その時になったら絶対に助けてくれるよね」

 無邪気な笑顔が眩しくて思わず目を逸らしてしまう。
 
 残念だが的外れだ。俺は優しくなんてない。

 優しい人間というのは仙都の事をいうのだ。楓の言う通り本当に優しい人間ならば俺は三年前にあんなことをしていない。

 俺は姑息で卑怯で憶病な人間だ。

 数秒だけ向けられた、あの悲哀の色が深く刻まれた瞳が脳裏に焼き付いてしまっている。

 あの女は俺を一方的に知っている。そんな気がした。

「じゃあ俺はそろそろ帰るから」

 視線を逸らしたまま一度も振り返ることなく公園を後にする。

 逃げるように去って行く俺の背中に、楓がどんな視線を送っているのか。振り返って確かめる勇気は俺にはない。

 俺は楓の期待には応えられていない。

 あの日からずっと。

 そのまま家に帰る気にはなれず、夜の駅近くを当てもなく彷徨っていた。

 遠くの方でアスファルトが濡れる臭いがする。予報に反してもうすぐ雨が降るのだろう。それまでには家に帰らなくてはならない。だが、気持ちとは裏腹に足取りは家の方には向かない。
 
 どうしてこんな気持ちにならなきゃならない。

 思いを寄せる相手と公園で二人だけの時間を過ごしていたはず。

 これもすべてあの女の所為だ。

 あいつを見てから俺の中の歯車が確実に狂っている。

 こんな気持ちになるのも久しぶりな気がする。

 何か思い通りにならないこと、思い通りにならないことがあったとしても、今までは全て自分が至らない所為だと思うようにしていた。

 それなのに今回は憤りを他人にぶつけてしまっている。

 二度と会いたいとは思わない。だが、同じ学校に通っている以上、偶然なんてこともある。そうした時、あいつはまたあの視線を向けてくるのだろうか。そうされた時、俺はどういった反応を示すのだろう。

 自分の事なのにまるで他人の事のようにわからない。

 人ごみに紛れればそんな気持ちも晴れるのではと思ったが無意味だった。

 電話をしながら歩いていたビジネスマンと思われる男性と肩がぶつかり舌打ちをされる。

 俺は逃げるようにして路地へと入った。

 今日の記憶だけ消せる装置があればいいのにと本気で思う。

 そうすれば……駄目だ。またあの女の事を考えされられている。

「ねえ、お嬢さん俺たちと少し付き合ってくれよ」

 考えを紛らわすために周囲に耳を傾けると、下卑た男の声が聞こえてくる。

「俺たちのことじっと見てただろう」
「食事だけで良いからさ」

 声のする方向に視線を向けて思わず息を飲む。

 男三人に囲まれている女性は記憶から消し去ってしまいたい相手であった。

 あの女は俺を試すように視線を向けて男たちと一緒に路地の奥へと消えていく。

 あんなのただのナンパだ。気にするようなことじゃない。見知らぬ男についていくことはあまりよくはないが、それでどうこうなるほどこの町の治安は悪くない。
 それにどうなっても俺には関係のないことだ。俺に責任は……


――聡くんが優しい人だって知ってるから――


 そのまま去ろうと足を踏み出そうとして楓の言葉が脳裏に突き刺すように響く。

 ここであの女を見捨てたら、肯定してくれた楓を裏切ることになる。そうなったら俺は今日の事を引きずって二度と楓と向き合えない気がする。

 すぐに身体を反転させてあの女が消えていった路地に向かう。

 本当に今日は厄日だ。

 角を曲がると彼女はまだそこにいた。

「いきなりいなくなったら心配するだろう」

 明るく不自然にならない程度に声をかける。

「あん? なんだ?」

 男達がこちらに気づいて一歩下がる。男の間から見えた女は変わらず俺を悲哀の色が深く刻まれた瞳で見つめている。

 少しは驚いた表情でもするかと思っていたのに全く面白くない。

「その子、僕の彼女なんです。街を案内していたんですけど逸れてしまって、探していたんです」

 口を衝いて出た嘘は身の毛がよだつほどであり、自分の舌を引き抜いてしまいたい。

「彼氏?」
「何だよ。だったら先に言えっての」

 やはり男たちは彼女に危害を加える気などなかったようで、あっさりと引き下がりその場を去って行く。

 大事にならずに安心したが、残されたのは気まずい雰囲気と話したこともない女。

「もう少し話に合わせてくれても良かったんじゃないか?」

 何も言わない彼女に文句を言う。お礼くらい言われても良いはずなのに彼女はそんなそぶりも見せない。

「そうね。次は気を付けるわ」
「次があってほしくないんだけど」

 こんな状況だというのにとても綺麗な声だと思ってしまう。

 しかしその声に反して態度は不遜だった。

 こちらに向けた視線の種類は変わらないし、漂う雰囲気は刺々しい。

 お礼を言うつもりはさらさらないらしい。

 いや、礼を言われても困るか。本心から助けようとしたわけではないのだし。
 もしかしたら俺の心根など、この女には見透かされているのかもしれない。

「行かないのかしら?」
「え?」
「私たちデート中なんでしょ。彼氏さん」

 蠱惑的な笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる。

 誰に監視されているわけでもないのだから恋人ごっこを続ける意味もない。ただこの場を立ち去れば、俺たちの関係は終わる。それでいいはずだ。
 この女が何を考えているのかさっぱりわからない。

「その場しのぎの嘘を本当にする意味はないよ」

 差し出された手を無視して会話を続ける。

「いいの? 美少女とデートが出来る唯一の機会なのに」
「自分で美少女っていうなよ。それに俺が金輪際デートが出来ないみたいな言い方も気に入らないな」
「そのままでは無理ね」
「なんでそう言える」
「死んだ魚を三日間放置したような目の人に誰も近づかないもの。あの人たちにも見る目がないと思われたでしょうね」
「なんだそれ。俺はどんな目の色をしてるんだ」

いや、指摘する点はそこではない。

「端的に言えば腐っているのよ」

 ここまで言わないとわからないのかと呆れた顔をする。
 やっぱりこの女は感謝なんて微塵もしていないし、寧ろ俺の事を嫌っている節がある。

 どうして初対面の相手にここまで言われなくてはならないのか。

 それにこの女が発する言葉、一挙手一投足、全て癪に障る。こんな人物と出会ったのは生れて初めてだ。

 言い返さなくては腹の虫がおさまらない。

「何はともあれ人助けが出来て良かったよ。君みたいな性悪女と食事なんて罰ゲームだろ。今頃あの人たちは有意義な時間を過ごしてるよ」
「へー、話したこともないのに性格がわかるの」

 こちらの反撃に汚物を見るように目を細める。

「その態度が性格の悪さを表してるよ」
「ま、否定はしないわ」
「俺はもう帰るから。次の被害者が出る前に君も帰りなよ」

 これでいい。この女に関わるのはこれで最後。もう二度と関わることはない。

 身を翻して人通りの多い道へと出ようとする。

 河のような人の流れに身を任せてしまえば、今起こった気分の悪い出来事も全て忘れられるような気がしていた。

 あと数歩で喧騒が全てをかき消してくれる。

「そうだ。言い忘れていたわ」

 彼女の言葉が俺の足を絡めてるようにして止める。振り向くことはしない。振り向いたら彼女の思う壺な気がした。

「まだ何か?」
「助けてくれてありがとう。本当にあなたは優しい人ね」

 地面の一点を見つめて思考が停止する。
 言葉の真意を確かめようと、言葉を選ぶが適切な言葉が見つからない。
 この女はどこまで知っている。何がしたい。どうして俺たちの前に姿を現した。

 問い詰めようと振り返った時にはあの女の姿はどこにもなかった。

「聡? こんなところで何してんだ?」

 不意に声を掛けられ振り返ると、そこには仙都が幽霊でも見たような表情で立っていた。

「ちょっと色々とあって」

 いい言い訳が思いつかず、あいまいな返事をしてしまう。

「へー。そうなのか」

 それでも仙都は興味なさそうに周りに視線を向けている。

「仙都はどうしてこんな時間に?」
「部活だよ。これでもうちの部は今年、県大会出てるんだぜ」

 言われて校舎の屋上からそんな垂れ幕が下がっていたことを思い出す。

「それよりも大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」

 心配する仙都を見てようやく自分が冷静ではなかったことに気が付く。
仙都は傘をさしていた。

「ああ……雨か……」

 いつの間にか降り始めていた雨は傘を差さなくてはならないほどに強くなっている。

「もう少しましなリアクション取れよ」
「今日はちょっと色々ありすぎて無理」
「みたいだな。気を付けて帰れよ」

 足取り軽く去って行く仙都をずぶ濡れのまま見送る。

「入れてはくれないんだな」

 これも仙都なりの気遣いなのかもしれない。今日はもう一人になりたい。
三年ぶりに肌で感じる雨は髪が肌に濡れて気持ち悪く思うけれど、ただそれだけであとは何も感じない。

「ほら。やっぱり治ってるじゃないか」

 雨を降らす真っ暗な空に吐き捨てると、その言葉はそのまま自分に返って来る。

 果たして俺は三年前の事をすっかり忘れてしまったのだろうか。答えは否だ。これっぽっちも忘れられてなんていない。

 そういえばあいつも傘を持っていなかったな。

 まるで幻だったかのように消えた女が俺と同じように空を見上げているような気がした。
 あの後ずぶ濡れのまま家に帰ったが、風邪を引くなどというありふれた展開はなく、雨は俺の健康に対して何ら影響を与えなかった。

 それでも雨が嫌いなことに変わりはなく、昨夜から降り続く雨を教室の窓から忌まわしく眺める。

 雨の日に学校を休むことはやめた。

 雨の日に俺が登校したら少し騒ぎになるだろうかと思ったが、思いのほか教
室の雰囲気は変わりなくいつもの日常が流れている。

 透明人間を演じてきたのだから当然の扱いか。居ても居なくても変わりない。

 窓に吹き付ける雨は未練がましく、ゆっくりと波線を描きながら落ちていく。

 そう言えばあの女もこの学校に居るのか。

 名前も名乗らず消えた女を俺は忘れることが出来なかった。あの目が今も脳裏に張り付いている。

「おーい。無視すんなよ」

 ふいに顔の前に手を出されて我に返る。

「悪いぼーっとしてた」
「体調でも悪いのか?」

 俺は無言で首を横に振る。
 本当にもう何ともないのだから心配されても困る。

「何か俺に用か?」
「用というか、何というか」

 言いづらそうな表情を浮かべて言葉を濁す。

「はっきり言えよ」
「どうして学校に来てんの?」

 この会話だけを切り取ったら仙都はかなり酷いことを言っているように聞こえるだろうが、普段の俺は雨の日に登校していなかったのだから当然だろう。

「あ、いや別に、来たら悪いとかじゃなくてさ」

 慌てる仙都に落ち着くように手を前に出す。

「意外と平気だったんだよ。知らないうちに治ってた」

 仙都は瞼をしばたたせて困惑の表情を浮かべる。

「一念発起したとか、吹っ切れたとかそんなことはないってことだよ。何も変わってない」

 そこまで言えば仙都もわかってくれるはずだ。

「なんだ。女でも出来たのかと思ったのによ」

 真意は伝わったようで、欧米の人のリアクションを真似しながら冗談を言って話題を打ち切る。

「そうだ。女といえばなんだけどさ。この学校で黒髪が綺麗で目が死んでる生徒っていない?」
「何それ?」

 自分で言っていても何を言っているのかわからなかった。
 たったそれだけの特徴でわかるはずがない。

「ごめん。忘れてくれ」
「無理だな」

 仙都は机に体重を預けて詰め寄ってくる。

「聡が女の事を聞くなんてただ事ではない。これは面白そうな匂いがするぜ」
「面白がるな。忘れろ」
「嫌だね。何があった。吐いて楽になっちまいな」

 刑事ドラマのセリフを真似をする仙都は机の筆箱を俺に向けてくる。マイクのつもりだろうか。
 刑事なの記者なのか突っ込もうとすると関山先生が意気揚々と教室へ入ってくる。

「今日からこのクラスに仲間が一人増える」

 突然の転校生に教室が異様な騒めきに包まれる。

「転校生って可愛いのかな?」

 クラスの誰かがそんな言葉を発すると、そこら中がざわめき立つ。

「転校生が女子って決めつけるなよ。男だったら可哀想だろう」

 仙都も例に漏れず、先ほどの話を忘れて興奮していた。

「入ってくれ」

 関山先生が入り口に向けて声かけるとゆったりとした足取りでその転校生は教室へと入ってくる。
 
 夜に染まったような黒髪、月の光を吸い込んだような白い肌、すらりと伸びた手足、そのどれもが既視感で埋め尽くされている。

「糸杉梓(いとすぎあずさ)です。中途半端な時期での転校ですが、これからよろしくお願いします」

 細波のように何かを洗い流すような声にも聞き覚えがあった。しかし、一部だけ違うところがある。

「超可愛い」

 仙都の呟きを合図にしてクラスにいた生徒が糸杉に詰め寄っていく。

 糸杉梓と名乗った女は日向のような笑みを浮かべて、次々に浴びせられる質問に答えていく。その瞳は戸惑いを見せ、如何にも転校生といった表情である。

 クラスの男子共は既に魅了されていた。

 関わりたくないと思っていた。二度と会いたくないと思っていた。それなのにまた出会ってしまい、クラスメイトとして関わりを持ってしまっている。

 何か見えざる手が俺を罠に嵌めようとしているとしか思えない。

「そんなに睨み付けるな。これから仲良くやっていく仲間だぞ」

 クラスメイトに囲まれる糸杉を恨めしく睨んでいると、関山先生が隣で呆れた様子で佇んでいた。

「向こうはそんなこと思ってないですよ」
「ん? 知り合いなのか?」
「別に」
「ま、そんな事よりも。音霧は放課後に指導室な」

 こちらが断りの台詞を言う前に関山先生は転校生に群がる生徒たちを鎮圧しに行く。
 どうにかして回避する方法を考えなくては。