辿り着いたのは学校帰りの若者で賑わうハンバーガーショップだった。
 
 俺と小紫が注文を済ませて席に着いた後で、糸杉が入店する手はずになっている。

「ここに来たかったのか?」
「はい」

 もしかしてこういうお店が初めてとかじゃないよな。俺の心配をよそに小紫はカウンターへと向かっていく。

「今日もお疲れ様です」

 小紫は新人にレジ業務を指導していた女性に向けて話しかける。営業スマイルを欠かさない女性クルーは俺たちを見て驚いたように目を見張る。

「陽花ちゃん。今日は元気そうだね」
「はい。先日はありがとうございました」

 どうやら小紫と面識があるらしい。

 年は三十を過ぎたくらいといったところだろうか。それよりも若いかもしれない。

 はきはきとした話し方や頬笑み、ナチュラルなメイクに大人の余裕がある。長い髪は綺麗に結ばれ清潔感を感じさせる。

 他のクルーとは違う制服を着ていることから社員だろうと予想する。もしかすると店長なのかもしれない。名札には谷中(たになか)と書かれている。

 小紫にここまで仲の良い大人の知り合いがいることは意外だ。

 彼女はこちらをちらりと見ると、それだけで何かを察した様子で小紫に小声で話しかける。

「もしかして彼氏さん?」
「えっと、まあ、そんな感じです」

 今は嘘でも恋人同士であることを思い出した小紫は否定の言葉を飲み込み、小さな声で肯定する。嘘の関係であるにも関わらず、小紫の頬は真っ赤だった。

「ほほう、陽花ちゃんは目が少し曇っている駄目な男がタイプなのか」
「音霧先輩は駄目な男ではないですよ」
「目の方は否定してくれないんだ」
「そこは否定しようのないことなので」

 真面目に冗談を混ぜることなく言われる。

 本当に正直な子だ。ただ、ここで嘘でも優しくしないところが彼女らしくあり。逆に適度に空気を読める彼女からしたら不自然ともいえる。

 どう対処すれば相手が一番喜ぶのか。その術を知っているのにわざと避けているように、まるで相手との境界線が見えているようにそれ以上は踏み込まない。一歩近づけば一歩遠ざかる。それはまるで糸杉に似ている。

 集団の中に溶け込み相手の印象に残らないような振る舞いを小紫も熟知していた。

「ねえ君。名前は?」
「音霧です」
「音霧くんね。君は雨が好き?」
「……嫌いですね」

 質問の意図はわからないが、嘘をつく意味もないので正直に答える。

 質問に答えた俺に彼女が向けた視線は客に向けるそれとは程遠く、まるで値踏みするようである。

「何か?」
「いえ、陽花ちゃんの選んだ子を目に焼きつけようと思ってね」

 言葉では冗談を言っているけれど表情はそうではなかった。
 
 嬉しいけれどどこか寂しい。そんな複雑な笑顔を見せる。

「選んだって。まだ私たちはそこまで」
「そこまでってどこまでかな?」
「それは……ちゅ、注文をしないと他のお客さんに迷惑がかかりますよね。これください。これとこれも」
「はい。ありがとうございます」

 小紫はこれ以上つっこまれないように手当たり次第に注文をする。ユヅキさんはそれを慣れた手つきで注文を受けていた。

 メニューに注視する小紫を微笑ましく見る彼女はまるで保護者のようであった。視線について相談するならば、この人にするべきだったのではないだろうか。

 この人なら小紫の話を親身になって聞いてくれる。そうした確信があった。

 店の外で除者にされた糸杉が恨みの籠ったメッセージを送ってくる。

『さっさとしなさい。恋人がいちゃついているみたいで不愉快だわ』

 俺たちはちゃんと恋人同士に見えているらしい。

 とりあえず、順調にことは運んでいる。後は視線の主が行動を起こしてくれさえすればいい。小紫に危険が及ぶことがあるのなら、その時は俺が身体を張って守れば済む。

 何かに洗脳でもされたように、自分の身を投げ出すことを平然と考えている。

 この部に入ってからの俺は完全に歯車を狂わされてしまっていた。

 商品を受け取った俺たちは店の中心に位置する二人かけの席に座る。

 ようやく入店できた糸杉は俺にしかわからないようにきつい視線を送るが、それには気付かないふりをする。糸杉はコーヒーを注文して一人掛けの窓際のカウンター席に座った。

 カップルに見えるようにしなくてはならないのだが、そんな経験は一度もないので何を話していいのかわからない。数日を過ごしてもこの関係になれることはなかった。

「あの人とはどんな関係なんだ?」

 小紫はアイスを食べる手を止めて視線を落とす。握ったカップが僅かに凹む音がした。

「ユヅキさんは恩人みたいな人です」

 迷った挙句に選んだ話題だったが、小紫の様子を見るにこの話題はカップルに見えるような雰囲気になりそうにない。早々に切り上げて何か別の話題にしよう。

「いい人なんだね」
「他人とは思えないくらい優しいんです」
「そうか。ところで生徒会の仕事はどう?」
「詳しいことは聞かないんですね?」

 話を逸らそうとすると小紫の方から話題を戻して来る。

「俺が知りたかったのは小紫との関係だから。何かあったのかまでは興味がない」

 少しきつい言い方だったかと後悔したが小紫は何ら気にした様子は見せない。

 それにそういうことは本物の彼氏にでもやってもらえばいい。偽物の出番はない。

「音霧先輩って糸杉先輩に似てますね」
「心外だな」

 この世にある数多の悪口の中でも一番の悪口だと思う。

「ちなみにどの辺が?」
「他人との距離の取り方とか。糸杉先輩もわたしが話したくないことは何も聞きませんでした」

 こちらとしては単に深い関係を築きたくなかっただけだ。あいつだって自分の利にならないと感じていただけだろう。

「だけどそんなお二人の優しさに甘えていてはいけませんよね」

 小紫は両手に持ったカップを置くとしっかりとこちらに視線を合わせる。

 普通であることを愚直に演じる彼女が動機はわからないけれど、それを破ろうとしている。ここまでさせて話さなくていいとは言えなかった。

「わたし小さいときに母に捨てられてるんです。まだ幼かったので記憶は曖昧なんですけど、寂しかったことだけは覚えています」

 普通ではない境遇がいままで彼女をどれほど苦しめてきたのか。それは今の彼女を見れば想像に容易い。

 普通の人間が普通でない人間に憧れるように、普通ではない人間もまた普通の人間に憧れる。

 だから小紫は不必要に普通を演じていた。

「今はいい人に出会えて余るほどの愛情をもらっています。それは凄く幸運なことです。引き取られた先で上手くいかない子は沢山いますから」

 小紫は暗い話にならないように笑顔を絶やさない。

 どんな言葉をかけるべきなのかわからない俺を、小紫は黙って話を聞いてくれる良い人だと勘違いしたのかさらに話を続ける。

「わたし欲張りなんです。今の両親がいくら愛情を注いでも、本当の親に愛されなかった劣等感は拭えませんでした。だから先日喧嘩をした時に酷い事を言ってしまったんです。『自分の子供が居たらわたしなんてどうでも良いんでしょ。わたしは代わりなんでしょ』って。当然なんです。誰だって自分の子が可愛いです。だけどそのもしもはあり得ないわけで、両親の愛情も偽物なんかじゃない。家を飛び出した私は途方に暮れて、もうあの家には帰れないと悲観的になりながら、ここで悩んでたんです。そんな時にユヅキさんが声を掛けてくれて、事情は何も知らないのに親身になって励ましてくれたんです」

 その時の心情を思い出したのだろう。小紫の声は震えて目には涙を溜めている。

「もういいよ。それより早く食べないと溶けるよ」

 やはりかける言葉が見つけられず、溶けかかったアイスを勧める。的外れな事をしている自覚はあった。

 それでもこれ以上は聞いていけない気がした。小紫が何を言われて、どう気持ちに折り合いをつけたのか。それを聞いていい権利は偽物の俺にはない。

「先輩の気持ちわかりますよ。私も偽物ですから」

 溶けかかったアイスを口に運びながら小紫は誰に言うことなくぽつりと呟いた。

 この子は本当に周りが思っている以上に周りをよく見ている。

「話したらスッキリしました。ありがとうございます」

 小紫は頬をかきながら笑ってみせる。

 その笑顔に無理な様子はなく自然体であった。

「小紫って簡単に騙されそうだな」
「心外ですね。わたしはちゃんと人を見ているつもりですよ」

 鼻を鳴らしながらアイスを頬張る小紫は頭が痛くなったのか、うなりながら頭を押さえる。その様子からは先ほどの悲痛な面持ちが消えていた。

 無理をしている様子は見えない。それはこの件に関して小紫の中では解決している事の証だった。

 外見の子供っぽさからつい保護の対象として見えてしまうが、小紫は俺なんかよりもずっと大人だった。彼女はちゃんと過去を受け入れて、前を見て進んでいる。

 染みついた生き方を変えることが出来ないだけだ。それも時間がたてば解決していくことだろう。

 ふと後方で物が落ちる音が響く。

「すみません」

 振り返れば申し訳なさそうな表情を張り付けた糸杉が店員に頭を下げている。その相手は谷中さんであった。

 彼女は朗らかな笑顔で床に落ちたトレイを拾い、後片づけをしていく。

 ふと糸杉の方を見ると、誰にも気づかれないようにひっそりと悲哀の色を深く刻んだ目を向けていた。

 わざとこちらの気を引くような真似をしたらしい。

『不審な客がいたのか?』
『いないわ。客はね』

 その答えだけ何が言いたのかわかった。

『もう少しそこでカップルを演じていて。小紫さんには知らせずに』

 俺がメッセージを送るよりも先に糸杉は行動に出ていた。頼んだコーヒーを全て飲み干すとそのまま店を出て行く。

「糸杉先輩どこか行くんですか?」
「外から様子を見るらしい。少し目立ちすぎたからな」
「そうなんですね……」

 小紫は糸杉の行動を不審に思っていたが、小紫以外に店を出て行く糸杉を不審な目で追っている者はいない。

 糸杉も凡そのよその目星はぼしはついているのだろう。

 ただ、どうしてそんなことをしているのか理由がわからない。それでも確かめる必要がある。そうしなければ前に進めない人がいる。それを手助けするのが俺たちの活動だ。

「糸杉先輩と音霧先輩の関係はどうなんですか?」

 糸杉の後姿を目で追いながら考えを巡らせていると、小紫は期待に目を輝かせて訪ねて来る。しかし、その期待に応えることは出来そうにない。

 どう言ったらいいのだろう。俺と糸杉はまだ出会って日が浅い。ただ同じ部活で活動しているだけの他人に過ぎない。

「ただの知り合いだな」
「昔からの中に見えるくらい息ぴったりですけどね。お似合いですよ」
「さすがの俺も今の発言は看過できないな」
「そうですね。今はわたしの彼氏ですもんね」

 自分の過去を話したことで吹っ切れてしまったのか俺に対してそれまでの遠慮がなくなっている。

「でもそうなったらいいなと思っていますよ」
「俺に死ねといっているようなもんだな」

――あなたに私を刻みたいの――

 先日言われたことが頭にこだまする。

 あいつは本当にそれだけの理由で俺をこんなことに巻き込んでいるのだろうか。他に重要な何かが隠されているように思えてならない。

 若干ではあるが、俺の中に糸杉が刻まれているのは否定できなかった。

 今のところは糸杉の思い通りに事が運んでいる。

「わたしには糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます」
「あいつが他人に何かを望むことなんてあり得ないだろ」

 想像しようとしても出来なかった。無理に想像しようとしてもあの悲哀の色を深く刻んだ目が邪魔をする。あれは諦めてしまった人間の目だ。

 それからしばらくは他愛のない雑談をしていた。

 日が暮れたころポケットにしまったスマホがようやく通知を告げる。

『そろそろ店を出て』

 糸杉からメッセージ。間髪入れずにもう一つのメッセージが届く。

『もうすぐ雨が降る』

 待ち望んでいたはずの雨。それでも気分は最悪でこれから起こることを考えると憂鬱でしかなった。