「婚約者の事なんだが……」

 え? いまなんて言った?
 驚愕して言葉が出ないこちらをよそに話を続ける。

「一緒にいても上の空というか……もしかすると他に」

「ちょっと待ってください。気持ちの整理を」

「音霧くん黙ってて」

 叱責された上に、蔑むような視線を向けられる。

「お二人の出会いを教えていただけますか?」

「出会いはとあるバーで、私と彼はそこの常連で――」

 馴れ初めを語る関山先生は嬉々として恋バナをする乙女のようである。十数年前に戻ったような彼女の話は無駄に長く、相手どうでもいい情報を永遠と聞かされる。

「それでその彼なのだが、最近は私に会うことも少なくなったんだ。もしも私に対する気持ちが冷めてしまったのなら……それだけではなく他に相手が……」

「つまり彼の気持ちを確かめたいということですね」

 糸杉が簡潔にまとめる。

 そんなもの探偵でも雇えよ。というより聞いた話だけでも浮気の可能性はたかい。関山先生の思いの重さに辟易したとかそんなところか。先生は気持ちが熱すぎる部分があるからな。

 電話をしても忙しいからと切られ、遊びに誘ってもあまり楽しそうではない。奢ってくれる回数が明らかに減った。

 状況証拠は揃っている。

 ちなみに真剣に話しているが先生とお相手の彼とのお付き合いはたったの二カ月である。

 まさかとは思うが妄想の類ではないよな。だとしたら案内する場所が探偵事務所からメンタルクリニックに変更になる。

「音霧、少しは考えていることを表情から隠せ。彼はしっかり存在しているぞ。幻覚ではない」
「すみませんでした」

 先生は人を殺したことがありそうな鋭い視線を向ける。

 読心術が可能であることを忘れていた。この人の前では心を無にする必要がある。

 糸杉が邪魔をするなと言わんばかりにこちらを睨んでくる。この場に俺の味方はいない。

「この悩みを解決することで先生の生活は改善されますか?」
「そうだな……悩みがなくなれば全力で教育に力を注げるだろうな」

 どうして俺の方を向いて答えるのだろう。悪寒がする。

 それよりも糸杉の意図が図れない。

「待て。先生の婚約者がいたことは百歩譲って疑問に思わない事にするとして」

「百歩? 精々五十歩くらいにしてくれ。さすがに傷つく」

 五十歩百歩って故事知ってますか? とは言えない。言ったら殺される。

「とにかく先生の相談と慈善活動と何の関係があるんですか?」

「音霧、君は慈善活動というものを勘違いしている」

 関山先生は立ち上がると黒板に『慈善活動』と書いていく。これから授業でも始めるような雰囲気だ。ちなみに先生の専攻は数学であり、国語とは無縁だ。

「慈善活動とは人類への愛にもとづいて、人々の生活『well being』を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指している」

 慈善活動の文字から枝分かれするように様々な活動が書き足されていく。どれも反吐が出そうなものばかりだ。

「自己の損失を顧みずに他者の利益を図る行動、それ自体が慈善活動ということになる」
「つまり他人の為に自己を犠牲にしろと言うことですか?」
「言い方に難ありだが、まあそんなところだ」

 友人や家族ならともかく、何が楽しくて自分を犠牲にして赤の他人を助けなくてはならない。

 道徳の授業を受けるつもりはない。

「おい。糸杉はこんな茶番に賛成なのか?」

 味方を求めて糸杉に話を振る。この世は民主主義。つまり多数決である。糸杉が反対に回ればこの場はこちらが正しいことになる。そしてこいつは人の為に動くような人間ではない。

「もちろん。先生のお考えは素晴らしいです。感服しました」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。感服しましたとか日常会話で使用している場面に初めて遭遇した。
 こいつがこんなことの為に労力を費やすとは到底思えない。絶対に裏があるはず。

「そうか、そうか。糸杉は理解が早くて助かる」

 そんなことは読心術の使い手である先生にだって承知のはず。それなのに何も言わないということは先生にも考えがあってのことなのだろうか。

「では話を続けよう。慈善活動部は先ほどの理念に基づいて設立された部であり、相談もしくは願いを完遂することが活動内容にないっている」

 つまり俺はこの活動を通じて他人に尽くせと言う事なのだろう。

 先生がどうして俺を選んだのかなんとなく理解できた。

「つまりここは矯正施設と言う事なんですね」
「音霧ならそう言うと思ったよ。まあ、今はそういう事にしておくか」

 関山先生は徒労に終わった熱弁に溜息を吐いてソファーへと座る。

 慈善活動部、その正体は利他的行為を目的とした生徒指導活動の一環であった。

 無理にでも逃げ出すことは出来た。それをしないのは関山先生の諦めの悪さと、糸杉に弱みのような物を握られているからだ。

「それでここまでの話を聞いて君たちはどう思う」
「その前に一つ申し上げたいのですが」

 糸杉は人差し指を立てて先生をじっと見つめる。

「結婚とは今後の人生をその人と共に歩んでいくということ。それをたった二カ月で決断してしまうのはどうかと思います。いままで出会いがなかったので、この機会を逃したくない気持ちもわからなくないです。しかし、焦っている事が露呈してしまっては相手も引いてしまいます。今の先生は結婚というニンジンを目の前に出された馬と同様です。そうして一直線に突っ走っていつの間にかそのニンジンがなくなっている。そんな事態に陥った場合、次にまた走りだすことは容易ではありませんよ。もし仮にうまく結婚までたどり着けたとしてやっぱり違う。などとなったらもっと悲惨です。今度は×が付いてしまいます。×の付いた女をいったい誰が拾って」

「糸杉、そこまでにしておけ」

 関山先生は一点を見つめて動かなくなっている。糸杉の正論という名の凶器に脳の処理が追い付いていない。

「大丈夫よ。先生はそこまで弱い人間ではないわ。実際に彼の浮気を疑っているからこそ、こうして相談しているのだもの。結婚という餌に群がるハエであったなら既に入籍しているはずよ」

 それは過大評価だと思う。むしろこの人なら婚姻届けをもう用意しているまである。

「はやり……浮気なのか」
「状況証拠だけですので確実ではありませんが、彼の気持ちは既に離れているとみていいと思います」

 俺と話す時とは違った意味で容赦がない。そんなにはっきり言う必要があったのだろうか。

「ははは……糸杉の言う通りだな……私は結婚を焦るあまり目を曇らせて……私は馬鹿だな。馬だけに……」

 そういってポケットから取り出した婚姻届けを破っていく。

 致命傷だった。先生も先生という肩書を脱いでしまえば恋する乙女なのだ。恋愛に年齢は関係ない。

「次がありますよ。きっと」
「音霧くん。どうして終わったつもりでいるのかしら?」
「まさか浮気じゃないと思ってるのか?」
「浮気の可能性は高い。けれど確定はしてないわ。物事を確定させなくては先生も前には進めません。ここは探偵を雇って調べるべきと思います」

 最終的な結論は俺と一緒であった。無駄に傷をつけた分だけ糸杉の方がたちが悪い。

 すっと立ち上がった糸杉は女神のような微笑みを携えて、項垂れる関山先生に救いの言葉を告げる。

「先生のwell beingが改善することを祈っています」
「ああ。相談に来て良かったよ。さっそく知り合いの探偵に依頼し来る」

 先生の曇った眼に生気が戻り、意気揚々と教室を後にする。

 想像とは異なっていたが、面倒な事態にならなかったことに安堵する。

「浮気調査をするとか言い出すのかと思ったよ」
「まさか」

 思わずこぼれた俺の本音にすかさず反応を示しつつ、黒板に書かれた文字を跡形もなく消していく。

「そんなことをしている暇なんてないもの」

 まるで先ほどまでの時間は無駄だったといわんばかりに黒板消しを置いた糸杉は窓際に置かれたデスクに向かう。

「じゃあ何の為に」
「音霧くん」

 言葉を遮って振り向いた糸杉は俺にいつもの視線をぶつけてくる。

「雨。止んだわよ」

 それだけ言うと再びデスクに向かう糸杉に、わざと聞こえるように舌打ちをしてから部室を後にした。

 あいつは俺が何を聞いても素直に話すようなことはしない。それなのに常に俺の邪魔をしてくる。

『あなたに私を刻みたいの』

 昼に言われた意味の分からない言葉に振り回されている自分を自覚して、廊下の窓に薄っすらと映った自分の顔を睨みつけた。


 今日も本来降りるべきバス停を通り過ぎて俺はあの公園へ向かう。

 遊具がほとんどなくなり寂しさだけが残った公園で楓は待っていた。

 俺の姿を見つけて大きく手を振る楓はあの頃と何も変わっていない。

 ここに来るまでに今日は何を話そうか考えて、糸杉の姿がちらつき不快な気分になる。その繰り返しをして何も決まらないままここまで来てしまった。

「お待たせ」
「全然、待っていないよ」

 いつものあいさつを済ませると隣に腰を掛ける。

 話を切り出すタイミングがつかめず無言の時間がしばらく流れた。

「何かあったでしょ」

 俺の様子から察した楓はこちらを覗き込むようにして聞いてくる。

「まあ、ちょっと」
「聞かせて。聡くんがどんな学校生活を送ってるのか興味あるな」

 俺の抵抗を全く無視して詰めてくる楓には糸杉の時のような不快な気持ちは感じない。それはきっと信頼関係というやつなのだろう。

「慈善活動部のことでなんだけど」

 俺は先ほどあったことをそのまま話す。

「謎な部活だね」

 楓は顎に指をあてて思案する。

「でも、聡くんにはぴったりの部活かも」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけあるよ。それに……」

 風に揺れる楓の葉に視線を逸らして独り言のように呟く。

「聡くんの優しさを独り占めするのはよくないから」

 久しぶりに楓の浮かない表情をみて、話さなければよかったと後悔する。

 こんな表情をさせるために俺はここにきているわけではない。

 あの時のように笑ってほしいだけなのに、俺はあの日から楓の本当の笑顔を見られていない。

「それで一緒に活動している子ってどんなの子なの?」

 暗かった表情をぱっと明るくした楓は身体をぴったりとくっつけて詰め寄ってくる。

「普通だよ。普通の女、の子」
「普通ってどんな感じに?」
「普通は普通だよ」

 どんなに俺が話を終わらせようとしても、興味津々の楓はその話題を終わらせようとしなかった。

 結局、この時間にまであいつが侵食してきている。

 そのうちどこからともなくあいつが現れて楓も連れ去ってしまうのではないか。そんな恐怖を覚えながら何も対策をとれない自分が情けなく思えた。



 後日、関山先生から婚約者は浮気ではなく事業の失敗で憔悴しているだけであったと聞かされた。

 俺たちの見立ては大外れだったということだ。

 相手に自分が立ち直るまで結婚は待ってほしいと言われてしまったようだが、等の本人は落ち込むどころか何も嵌められていない薬指を眺めてうっとりとしていた。おそらくいつまでも待つ気なのだろう。
 
 先生の幸せ自慢を聞いている間の糸杉は全く興味なさそうに虚空を見上げていた。
 
 やはり単純な人助けがこいつの目的ではないようだ。