それから数日間、慈善活動とやらは行われることはなかった。

 俺はあの日から部室に顔を出すことをせず、いつもと変わらない日常を過ごせていた。

 嵐の前の静けさのようであったが、後に来る嵐はたとえどんな備えをしたところで役に立たないだろう。

 出来るだけ素早く穏便にことを済ませ、一カ月という期間を耐え抜く。それしかここから逃れる方法はない。

 特に何もすることがない昼休みはぼーっと窓の外を眺めて過ごす。

 また雨が降り出しそうな予感がする。先日から雨が降ったり止んだりを繰り返し天気が安定しない。

 そんな天気の所為で楓に会うことが出来ていなかった。

「ねえ、聞こえていないのかしら?」

 楓の事を考えて完全に油断していた。肩に触れられた瞬間、電流を流されたように身体が跳ね上がり硬直する。
 首だけ隣に向けると糸杉がクラスメイト用の笑顔を向けて立っていた。

「校内を案内してくれないかしら」

 向けられた笑顔を見ながら器用だなと感心してしまう。

「どうして俺に?」

 教室に居る生徒皆が同じ疑問を抱いている事だろう。

 昼休みの教室には時間を持て余している生徒は幾らでもいる。先ほどまで愉快に会話をしていた女子にでも頼めばいい。

「私はクラスの皆と仲良くなりたいの」

 朗らかな表情を浮かべるけれど、向けられている目は相変わらず悲哀の色を刻んでいる。

 天使だ。糸杉さん優しい。どこからかそんな声が聞こえた。
 この目を見ればそんな考えも一瞬で吹き飛ぶ。

「わかった」

 無愛想に答えると席を立ち教室を出る。

「あれ? どこ行くんだ?」

 教室を出たところで仙都と出くわす。

「ちょっと校内案内」

 後ろに目配せをする。すぐ後ろには糸杉が笑顔を浮かべて立っている事だろう。

「あっそ」

 何か言われるかと思ったが、思いのほか興味を示さず仙都は教室へと入って行った。

 廊下を歩いていても他の生徒たちの視線が気になり居心地が悪い。

 先ほどの糸杉の言葉を思い出して寒気がする。本当は誰とも仲良くなる気なんてないくせによくあんな言葉が言えるものだ。

 人気のない階段まで来て後ろを振り返る。糸杉は何も言わずについて来ていた。

「これで満足だろう」
「思いの外、音霧くんに対する悪意が少なかったのが不満だわ。もっと嫉妬されると思っていたのに」

 もう隠す気はないらしい。張り付けていた笑顔は剥がされ、不遜な態度で不満を漏らす。

「音霧くんって意外と嫌われていないのね」

 考えを巡らせるように顎に手を当てながら話す。

「当たり前だろう。嫌われるようなことしてないし」
「そうね。存在してないみたいな扱いだものね」

 言い方に棘があったが、いちいち反応しても疲れるだけだ。

「それで俺に何の用? 校内の案内なんてとっくにしてもらってるだろう」

 校内の案内が口実であることは直ぐにわかった。だからこうして人気のない場所に来ている。

 糸杉の予想通りに事が運んでいるのか、冷たく凍ったその表情を一切変えない。

「クラスメイトから聞いたのよ。以前の音霧くんは雨の日には登校していなかったって」

 試すようにこちらを下から覗き込んで、僅かに口角を上げる。

「何か理由でもあるの?」

 奇妙に浮かべた笑顔とこの状況は相性が最悪であり、こちらの警戒心を否応なく引き上げる。

「言う必要なんてないだろ」
「そう。雨の日にはいったい何をしていたのかしらね」
「何が言いたいんだ?」

 それを知って糸杉に何の意味がある。

「交通事故」

 糸杉は俺の質問には答えず、毒針のような言葉で思考を留まらせる。

 動揺して視線を泳がせてしまいそれが過ちであると気づいた時には遅かった。
 悲哀の色が深く刻まれた瞳はそれを見逃すことは決してしない。

「この付近で増えているのだけれど知ってる?」

 何か探りを入れようとしていることは明らかであるけれど、糸杉の目からはその真意を窺い知ることは出来ない。

「知ってるわけないだろ」

 どこからともなく車の急ブレーキの音が聞こえてくる。
 気を落ち着かせるために窓の外に視線を移し外の景色を見る。

「最近になって増えているらしいの」

 俺の意志を無視して糸杉は言葉を続ける。

「それも全員女子高生」

 雨に打たれて道路に倒れる少女の光景が脳裏をよぎり頭痛がする。 

「横断歩道から飛び出しているみたいなの。どうしてかしら?」

「だから、俺が知るわけがないだろ」

 糸杉は俺の様子など気にする素振りも見せずに容赦なく続ける。その質問にどんな意味が含まれているのか。そんな事を考える余裕はない。

「そんなことより。どうして俺に関わる」

 頭痛を誤魔化しながら、毅然と糸杉に問いかける。俺が考えるべきはこいつと関係を絶つ方法だ。

 初めから俺が狙いだったのか、それともたまたまだったのか。それはわからない。だが俺をターゲットにしている事は間違いない。

 糸杉は逡巡しているのか、窓の外を見てすぐに答えなかった。

 焦らすようにたっぷりと間を取ってからこちらに振り返り、これまで見たことのない冷淡な表情で言い放つ。

「あなたに私を刻みたいの」

 意味が分からない。ただ俺は彼女が苦手だということは再認識できた。きっと水と油のように交わることはないのだろう。

「本当に訳が分からないな。お前」
「わかってもらう必要はないわ」

 理解されようとしないでどうやって相手に自分を刻む気なのだ。それこそ、強烈な印象を与えでもしない限り無理だ。

 用が済んだのか糸杉はさっさと教室へ帰ろうとして、俺がついて来ていない事に気づき蔑みの視線を送って来る。

「一人で帰ると不自然なのだけれど」
「わかってるよ」

 頭痛を誤魔化して気丈に答えて後に続く。

「そういえば」

 不意に足を止めて振り返った糸杉の表情は雨で流されてしまったように何も浮かんでいなかった。

「その交通事故は雨の日に起こるそうよ」

 嫌な記憶が脳裏にフラッシュバックする。

 女の子が宙を舞い地面に叩きつけられる映像。雨が降っているように縦に幾つもノイズが走る。

 次第に身体は平衡感覚を失い、いつの間にか俺は地面に顔を打ち付けていた。立ち上がろうとしても身体が痺れて言う事をきかない。次第に強烈な吐き気に襲われ、耐えることに気力を割かれてしまう。

 ああ、そうか。またこれか。

 俺は知らない内に発作を起こしていたようだ。治ったと思って油断していた。気づけば外はあの日と同じように強い雨が降っている。

 薄れゆく意識の中から見えた窓には大粒の雨が叩きつけていた。