娘は、私の背に乗りながら、両足を交互にぱたぱたする。

「あまり動くと危ないよ」

お父さんは、ずり下がってきた娘を背負い直す。

川は大河と言う程ではないが、豊かな水量が流れている。

川の上は木々は無く、ぽっかりとあいている。

綿雲が幾つかある青空が見える。

ふと、そよ風に乗って、弦楽器の弾く音が聞こえてきた。

「何か聞こえない?」

妻が私に言う。

「確かに聞こえるな」

私は答える。

その音は、川瀬の方向から聞こえる。

私は川瀬の方向へ目線を集中する。

目線は、木々の幹をすり抜け、枝葉の隙間をすり抜け、更に奥へ進む。

枝葉の隙間に何やら動くものを感じるも、勘違いだった。

木々の中に周囲と違う色を見つけるも、山肌に咲く花だった。

ひとつ、ぴぴっと鳴いて小鳥が飛んだ。

小鳥は川瀬の方向へ飛んでいく。

小鳥の飛ぶ姿を目線が追っていく。

その目線の先に、一人の男性が見えた。

白い上着にジーンズを装っている。

陽が射して、その男性の背を白く輝かせる。

「あそこに人がいるな」

私は、背に乗る娘を片手で支えて、もう片方の手で指す。

娘は上体をその方向へ出す。

妻もその方向へ顔を向ける。

「あ、本当だ、あそこにいるね、何しているんだろう」

妻は、その男性を見ながら言った。

「ねえ、どこ?」

娘は私の背から身を乗り出す。

「あんまり、体を傾けると落ちちゃうよ」

私は娘に言う。

「だって、わからないんだもん」

娘は言いながら、無我夢中で左右に顔を動かして探している。

男性は、車のタイヤくらいの大きさの石に腰を掛けている。

その手には、アコースティックギター。

男性は、さらさらと流れる川瀬でゆったりと演奏をしている。

その旋律は、指で一つ一つ弾き、まるでハープのような音色だった。

ギターの弦が弾かれる度に、ふわんと周囲の木々へ広がる。

そのふわりとした音は優しくて、雲の上でうたた寝するような心地になる。

「なんていう曲なんだろうね」

妻が言う。

「私も聞いたことが無いな」

私は答える。

少しの間、私達はその旋律に耳を乗せて楽しむ。

ほんのり花の甘い匂いも感じる。

鳥達の囀りや木々の音、川の音がひとつに混ざり合う。

混ざり合った音は、まるで合奏曲のように耳を感動させる。

「何年か前に家族でオーケストラを観に行ったことあったね」

妻が言う。

「そうだね。なんだか、その時を思い出すな」

私は柔らかな旋律に聞き惚れながら言う。

「うん、また、行きたいね」

妻はそう言うと、旋律に耳を乗せる。

妻の目はほのぼのとして、頬がそっと上がっている。

「わたしも川に行きたい!」

娘が私の耳元で言う。

心地良い気持ちで旋律に乗っていた私の耳は、娘の声に驚いた。

「うう、耳元で叫ぶのは駄目だよ」

私は、目をぎゅっと閉じて、その衝撃に堪える。

まるでオーケストラの舞台の照明機器が天井から落下したようだった。

耳の奥をつんざいた。

「川に行きたいの」

娘は、小さな声で言う。

「ここからじゃ、無理だよ。だいぶ山を登ってきたからね」

旋律が止まる。

私達は、男性へ視線を向けると、立ち上がっていた。

ギターを背負い、川瀬を歩き始めた。

男性の歩く姿をそれぞれの木々の隙間が断片的に映す。

段々と見えづらくなる。

木々の中へ入り、男性の姿は見えなくなった。

「行っちゃったね」

娘が言う。

耳は、突然無くなった、心地良さを埋めようと、甘くて優しい音を探す。

しかし、物寂しげな雰囲気が残っているだけで、元の涼やかな山に戻っていた。