老婆は瞳をちらりと動かし、周囲を確認する。

息の荒い口呼吸で、はあ、はあ、と短く呼吸している。

呼吸を整えることもせず、老婆は分厚い本を両手で頭上へ持ち上げた。

「霧の中には悪魔がいる」

老婆は開いた分厚い本を両手で頭上に掲げたまま、叫んでいる。

老婆の視線は分厚い本のページに集中し、瞳が見開いている。

瞳は漆黒のように光を吸収し、くすみ、輝きが無い。

老婆の奇天烈な行動に、客は凍りつく。

私も他の客と同様に驚いて体が凍りついている。

私はその老婆の瞳を見て、恐怖というよりも憐れみを覚えた。

老婆の瞳を見ていると、どこか寂しそうだった。

「何言っているんだ、あの婆さん、帰ろうぜ」

カップルの若い男性は、そう言って席を立ち、レジへ向かう。

その足取りは冷静に見せているが、歩幅が大股だった。

この場から逃れるように浮き足立っているのがわかる。

カップルの女性も足早に男性を追う。

「外に出てはいけません。悪魔に殺される」

老婆は分厚い本を掲げたまま声を荒げて叫ぶ。

老婆の怒号が店内の隅まで響く。

店員は老婆を気にしながら会計を進める。

カップルの男性が手元がもつれて、小銭を地面に散開する。

「あー、くそっ」

カップルの男性は苛立ちを見せながら、小銭を拾う。

カップルの女性も手伝う。

小銭を拾い終えると、再び会計を進める。

店員は強く怯えていた。

マスク越しでも容易にわかる。

瞳が泳ぎ、眉が下がり、額に冷や汗を滲ませている。

会計を済ませたカップルは急ぎ足でレストランの扉へ向かう。

レストランの扉を開ける。

すうっと、外の濃霧が足元から店内に入り込む。

カップルの足元が濃霧に覆われる。

カップルは濃霧に満たされた外へ駆けていった。

レストランの扉は自然と閉まる。

静まり返った店内。

テレビの音が、うるさいくらい大きく聞こえる。

老婆は分厚い本を机に置き、ページを凝視している。

その時だった。

鈍く重い、大きな音が耳に入る。

僅かにレストランが揺れた。

レストランに何かがぶつかったような音だった。

生肉を地面に叩きつけた音。

大きな石を地面に叩きつけて砕く音。

濡らした雑巾を地面に叩きつけた音。

これらの音に似ているが違う。

どの音も混沌していて、聞いたことのない音だった。

「お、おい、嘘だろ」

男性の怯えた声が店内で聞こえる。

私達、客の誰もがその声の発生源へ視線を向ける。

その光景は目を疑った。

いや、目は正しく映していた。

しかし、頭で理解できるような光景ではなかった。

レストランの窓には、べったりと、こびり付いた赤い液体。

それは水風船を外から窓へ当てたように放射線状に広がっている。

その放射線状の中心へ目線を動かす。

そこには先程、外へ出たカップルの男性の姿があった。

カップルの男性は捨てられた人形のように倒れて動かない。

普通では曲がらない方向へ関節が曲がっている。

カップルの男性の顔は店内に向き、口や耳から血が溢れ出ていた。

妻は娘の顔を胸で覆う。

妻の腕が震えているのがわかる。

私の手の指も異様に冷えて強張る。

絶句の無音はテレビの音をより大きくさせる。

店員が悲鳴を上げた。

その悲鳴で、客の誰もが置かれている状況を理解した。

泣き叫ぶ者も居れば、震え上がり動かない者も居る。

レストランの扉へ駆ける者も居れば、腕を組む者も居る。

扉へ駆ける者は他の客を退けて、我先に扉へ向かう。

泣き叫ぶ者や震え上がる者は石のように体を動かさない。

腕を組む男性は白い薄髭をざらざらと手でなぞる。

その男性は、レストランに入る前の列で前に居た老父だった。

「これ、何かの撮影じゃないのか?」

老父はにやりと笑みを作り、声高らかに声で店員へ訊ねる。