『電球が切れちゃったから、取り替えて欲しい』

 メッセージを入力し、送信ボタンを押すと『今から行く』と返事が来た。
 土曜日の夜にすぐに返事が来るというのは、まだ彼女ができていないということだろう。

 私の家に来るのはこれで三度目。
 彼の家からすぐに来るとしたら三十分はかかる。その間にシャワーを浴びて新しい服と下着に変え、メイクを直す。バスルームの電気をつければ洗面所が真っ暗になることはないけれど、薄暗い中でメイクをしても細かいところが見づらいのでギリギリまで顔を鏡に近づけなければならず、143cmという低身長の私だと背伸びが必要でいつも時間がかかってしまう。いつまでも暗いままではいけないと思い、彼に電球を変えてもらうことにした。
 メイクは見せられる程度には直せたので、次に歯を磨く。水で口をすすいでから、マウスウォッシュを含む。彼とキスをするかもしれない。だから、きちんとケアをしておかなければいけない。
 口に含んだマウスウォッシュを吐き出して、鏡を見ながら髪を櫛で梳かす。ショートボブは簡単に整うから楽だ。
 鏡の前で全力の笑顔を作ってみる。
「まだ大丈夫」
 目の前の三十五歳の私を見て言ってみた。作り笑顔が少し痛々しくなってきている気もする。加えて、目尻のしわが少しずつ増えてきて、肌質は明らかに落ちてきている。お金をかけてケアをしているけれど、衰えはどうやっても止めることができない。ただ、うすぼんやりした洗面所で見る私の童顔は二十台に見えなくもない。まだ夜の街ではナンパされることもあるし、女でいることができていると思う。
 二十代の頃は顔の幼さゆえにお酒を買うときや夜遅くまで遊んでいる時に免許証を見せなければいけないことを面倒だと感じていたけれど、今となっては幼く見えるこの顔にありがたみを感じる。
 あとは、お気に入りのピアスをつけたいところだけれど、数日前から見当たらない。イエローゴールドの三日月をモチーフにしたピアスは小さく、どこかに置いたままなのか、それともどこかに落としてなくしてしまったのかさえもわからない。もう一度買い直そうと思ってショップに行ってみたけれど、もう販売終了したとのことで手に入らなかった。気に入っていたからとても残念だ。
 準備が整い、そろそろ彼がくる頃かなと思うと、少しずつ心拍数が上がり体が熱くなる。



 彼と出会ったのは、薬局だった。
 私はもともと甲状腺機能低下症という病気を患っている。
 病気がわかったのは中学生の頃で、理由のないひどい倦怠感で病院を受診してみたところ、甲状腺機能低下症と診断された。といっても、重症ではなくただ甲状腺の機能が人より少し低下しているだけ。低血圧や倦怠感はあるけれど、ホルモンを補充するための薬を服用していれば、普通の人と変わらず過ごせる。死ぬような病気ではない。
 三ヶ月に一回、近所のクリニックで受診し、処方箋をもらったものの忙しさにかまけて薬局に出すのを忘れてしまっていた。
 処方箋の期限は受け取ってから四日以内に薬局で薬をもらわないと無効になってしまい、またクリニックに行かなければならない。それはひどく面倒なので、受け取ってから四日目の休憩中に職場近くの薬局へ駆け込んだ。
 処方箋を受け付けに出して、待合のベンチで待つと他に患者もいなかったため、すぐに名前を呼ばれた。
 薬を受け取るカウンターには、いかにも働き始めてまだ二、三年という見た目のフレッシュな薬剤師が立っていた。清潔な白衣を纏った細身で短髪の彼はすずらんのようだった。
 話し方は少したどたどしかったけれど誠実な印象で、薬の説明を受けいくつか質問に答えた。だいたいどこの薬局でも聞かれることは変わりなく、適当に答える。
「今日は〇〇円になります」
「あっ、はい」
 手に持った財布からお金を取り出していると、
「あの、あそこのカフェで働いているんですか? 僕、休みの日によく本を読みに行くんですよ」
 店名が書かれたカフェのTシャツにカーディガンを羽織っただけの私の格好を見て彼は言った。
「あっ、そうなんですか。ありがとうございます」
 少し恥ずかしくなって軽く頭を下げて、お金を出して顔を見上げると、キラキラとした爽やかな笑顔を向けられてしまい、年甲斐もなく照れてしまった。

 次の日曜日の午後に彼は一人でカフェにやって来た。
「いらっしゃいませ」
「あっ、こんにちは」
 彼を席に案内すると、ベーグルランチを食べながら薬の本を読み始めた。勉強熱心なのがまた可愛らしい。帰り際「また来ます」と言って帰った。
 それから彼は、毎週水曜日と日曜日に来るようになった。というか、来たのに気づくようになっただけかもしれない。
 来たときには「体調はどうですか?」と気遣ってくれたり「今日のおすすめはなんですか?」とか、聞かれたり、時折他愛もない世間話なんかもするようになった。   
 そして、出会ってから二週間目の来店時には「今日は何時までですか?」と聞かれ、連絡先が書かれた付箋を渡された。
 なんとなく気があるのは態度でわかっていた。しかし、私はもう三十五歳だ。おそらく彼とは十歳は離れている気がする。連絡して良いのか迷ったけれど、家に帰ってからすることもなかったので「こんばんは」とメッセージを送るとすぐに返事が来た。あまりに返事が早いのに驚いてしまったが、私も二十代のころはすぐに返信を返していたことを思い出すとなんだか可笑しくなってしまった。
 何度かやりとりをしているうちに、今度飲みましょうという話になって、私の行きつけの店に誘った。
 そこはカウンターのみのこじんまりした小料理屋で五席しかないので知り合いと会うこともない穴場だ。そして、自宅に歩いて行けるほど近い場所にあるのでいきつけにしている。
 二人並んで座るとふとももが触れるくらい狭いカウンターに腰掛ける。とりあえずのビールで 乾杯をすると、私のセレクトで適当に料理を頼んだ。
 お腹が空いてそうにみえたので、塩焼きそばとオイルサーディン丼、クリームチーズの醤油おかか合えを頼むと、ほとんどすべて一人で完食した。私は横で美味しそうに食べる彼を見ながらナッツをつまみに酒を飲んでいた。
 小一時間で彼はお腹いっぱいになり、私はちょうどよく酔っ払っていた。
 満腹になって満足そうな彼をみて「行こっか」と言って、店を出た。
    
 ふらふらとした足取りの私は彼の腕に絡みついた。わざわざ高いヒールのサンダルで来たのもこれをするためだ。彼は嫌な顔はせず腕を貸し、私のマンションまで運んでくれた。
 鍵を開け中に入る。サンダルのアンクルストラップを外そうと玄関にしゃがみこむ。膝下だけれどスカートを履いているので、この体勢だと彼からはスカートの中が見える。視線を感じてからわざとらしくスカートを股に挟んでパンツを隠す。サンダルをぬぐと彼を家の中に招いた。
 ソファーに腰を下ろして彼を隣に座らせると、そこからは早かった。
 キスをされてあっという間に服を脱がされた。彼が「入れたい」と言ったので、寝室に移動しベッドサイドチェストの引き出しにいれておいたコンドームをつけてあげた。
 準備万端の私に引かれてしまうかと心配だったけれど何も言わず熱く私を抱いてくれた。
 そして、行為が終わると彼を家に帰したくなかったので手を繋いだままベッドで眠った。
 それが初めての夜だった。



「先輩、彼氏出来ました?」
 翌日、バイトの子から指摘された。
 何も変わっていないつもりだったけれど、若い子の五感というのはとても敏感みたいだ。
「なんか、匂いが違います」
 くんくん、と自分の匂いを嗅いでみる。けれど、別に変わった匂いはしない。
「変な匂いする?」
 昨晩、若い男の子に抱かれただけで匂いが変わるものなのだろうか。    
「たぶん、自分じゃ気づかない匂いです」
「ふーん」
 そのときは曖昧に返事をしておいた。 
 
 私の変化は様々なところで起きていった。
 服や下着は新調したし、年相応のものではなく、少し若めのものを無意識に選んでしまい、家に帰ってから開けてみると、デザインが若すぎたなんて後悔もすることもあった。
 そして、夢をもう一度追いかけてみようと思った。
 そのきっかけは彼が二回目に家に来た時だった。行為が終わった後、腕枕をする彼に尋ねた。
「小さい頃、何になりたかった?」
「薬剤師」
「じゃあ、夢が叶ったんだね」
そう言って彼の胸を優しく撫でる。
「でも、もっと活躍したい。今、薬局で地域の人達をいかに健康にできるかっていうのを研究しているんだ。その結果が出たら来年の学会で発表する予定」
「学会かぁ……」
高卒の私には『学会』というものがすごく高尚なものに思えて、年下ながら彼を少し尊敬する。
「うまくいくといいね」
「うん」
彼の口元は少し笑っていて、目をつぶっているけれど、未来を見据えている気がした。
「小さい頃の夢は何だった?」
「セーラームーン」
「なにそれ、可愛い」
「幼稚園の頃だけどね。セーラームーンが好きで、悪を倒してタキシード仮面とデートしたいと思っていた」
 変身アイテムのコンパクトのおもちゃを買ってもらって、変身ポーズを真似てみたけれど、変身できるはずもなく、いつしかセーラームーンにはなれないと気づいたときに、新しい現実的な夢が生まれた。
「それと、パン屋さんになりたかった。近所に美味しいパン屋さんがあって、そこのクリームパンがすごく美味しくて」
 そういえば、カフェで働いているのも夢を叶えるためだった。焼きたての美味しいパンを提供するカフェを開業したいと思っていて、お金を稼ぐためとカフェのノウハウを得るつもりで働いていたけれど、日々の生活に満足してしまっていて、開業の夢はすっかり忘れてしまっていた。
「パン屋さんを開業したら一番最初のお客さんとして行くよ」
「ありがとう」
 三十五歳にもなって結婚もできず夢も叶えることもなく、中途半端な自分を少しだけ変える勇気をもらえた気がした。



「電球入れたよ」
 彼は切れた電球を私に手渡した。
 照明のスイッチを入れると洗面台は眩しいくらいに明るくなった。
「ありがとう。良かったらご飯食べていかない? 作りすぎちゃって」
 作りすぎたというのはもちろん嘘だ。最初からハンバーグとポテトサラダを二人分作っていた。傷つきたくなくて言い訳がましくなってしまう自分が情けない。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
「温めるから座ってテレビでも見て待ってて」
 彼は言われた通り、リビングの椅子に座りテレビを見る。私はキッチンでフライパンにもう一度火を入れ温め直してからお皿に盛り付ける。リビングテーブルに並べると向かい合わせに座った。
「いただきます」
 そう言って、手を合わせると彼は勢いよく食べ始めた。
「美味しい」
 満面の笑みで言った彼はとても可愛い。
    
 あっという間にご飯を食べ終わると、私たちはソファーに移動する。それが私からの合図でもある。ソファーで触れ合い、キスをされ、服を脱がされる。そして、ベッドに移動する。
 私を激しく求めてくれると生きている喜びを感じる。そして果てる寸前の彼の切ない顔が愛おしくなり強く抱きしめると「ねぇ、中にだしていい?」と、耳元で囁かれた。驚いたけれど、顔に出さないよう冷静に言う。
「子供ができて、困るのは自分でしょう?」
 私の言葉は聞こえたはずだけれど、彼は引き抜きコンドームを外すと、私の中に戻してそのまま果てた。そして、彼は何も言わず倒れこむように眠りに落ちた。私も彼の満足そうな寝顔を見ているうちに、いつのまにか眠ってしまっていた。

 ふと、目がさめるとまだ夜中の三時で、今までのことは夢だったのではないかと不安になって、横を確認すると彼は私の隣で可愛らしい寝顔をしながらスヤスヤと眠っていた。
 眠っている彼をみるとある種の母性のようなものが湧き出てくる。彼女になりたいというより、お母さんになりたいと思っているのかもしれない。もしかして、これが自分の求めた幸せなのだろうか。こんな時間に起きてしまったので頭が良く回っていない。何を考えてもおかしな思考になりそうな気がしたので、考えることをやめることにした。
    
 トイレに行きたくなり、彼を起こさないようそおっと起きて、トイレで用を済まし洗面所で手を洗う。
 電球がついた洗面所は明るい。
 自分で電球を変えることもできた。脚立くらい家にあるし、これくらいのことができないと一人暮らしなんてできるはずもない。
 彼は全てのことをわかった上で何も言わないでいてくれる。そのことが愛おしかった。
 歯磨きをせず眠ってしまったので軽く歯磨きをして、マウスウォッシュですすいでから、棚にしまった。棚が乱雑だったのでヘアスプレーやワックスを少しだけ並べ直す。すると、棚の奥の隅がきらりとひかり、背伸びをして奥を覗くと、失くしたと思っていた月のピアスがそこにあった。
 そういえば、以前外してからここに置いたのを思い出した。隅に追いやられたピアスは電球が切れていた時には暗くて見つけられなかった。明るくなって良かったとつくづく思う。
 そして、ベッドに戻ろうとすると、私の中から彼のものがどろっと垂れてきて下着を濡らした。もう一度トイレに戻りそれを拭って下着を取り替える。
 今日は安全日だ。たぶん妊娠はしない。でも、もし妊娠しても堕ろそう。
 彼はまだ若い。夢もあるし繋ぎとめておくのはかわいそうだ。ベッドに戻ると、彼のおでこにキスをした。それに気づいた彼は一度眼を開けたけれど、そのまま眠ってしまった。

 電球は切れたなら変えればいい。暗いままより明るい方がいい。
 いつか終わりが来るとしても、その日まで彼を愛していたい。