化学準備室は校舎の3階の端にある。放課後、岩井先生はよくそこにいるのだと、梢子から前に聞いたことがあった。
 チョコレート色の花を一輪、そっと手に持って、わたしは階段をのぼっていく。

「園芸部の先輩から貰ったんですけど……」

 頭の中でセリフの練習をする。目立たない色の花一輪だ。女子生徒のちょっとした気まぐれのお遊びだと思ってくれるだろう。
 階段をのぼりきり、廊下の角を曲がろうとしたところで、わたしはハッと足を止めた。
 廊下の突き当り、化学準備室の扉の前――白衣の背中の隣に、制服姿の女生徒が並んで立っていた。
 軽くウェーブがかった髪の、見覚えのある後ろ姿。

 先生の手がそっと優しく梢子の腰に回され、ふたりは寄り添いながら準備室の中へと消えていった。
 横開きの扉がわたしの目の前でゆっくりと閉じられ――
 
 かちゃりと、錠が下ろされる音が誰もいない廊下に響いた。

(梢子が……先生と……?)

 梢子は、わたしが見たこともないような笑顔で、隣にいる先生を見上げていた。
 わたしの知らない梢子と、わたしの知らない先生がそこにいた。

 意思に反して、スカートの中の脚が小刻みに震えはじめた。

 小さな頃からずっと、自分の方が当たり前のように先を歩いているのだと思っていた。
 梢子はまだ子供で、わたしはそれより少しだけ大人なのだと。
 だけど、わたしが自分に言い訳をして足踏みしている間に、彼女は想いを伝えたのだろう。

 どうせおままごとみたいな恋だと、そう決めつけていたのはわたしだけだった。
 梢子の想いは、わたしよりはるかにずっと真剣で、切実だったんだ。

 雲を踏むように、なんだか実感のない足取りで、わたしは化学準備室の扉の前まで歩いて行った。
 手にした一輪の小さな花。
 これはわたしだ。夢見がちで幼くて、傷つくのが怖くて、こんなちっぽけなものしか差し出せない、わたしそのものだ。

 その場にいて、聞き耳を立ててしまいそうになるのが怖かった。
 わたしは扉の前にその花を落とすと、足早にその場を離れた。

 ――どうやって外に出たのかおぼえていない。
 上履きのまま、わたしは裏庭に出ていた。

「……ああ、お帰り」

 温室のビニルをかきわけて、金井先輩が顔を出す。
 わたしはたぶん、ひどい顔をしていたと思う。
 でも、金井先輩は、そんなわたしを見ても、何も言わなかった。

 わたしは……堰を切ったように、何もかも先輩にぶちまけた。
 去年からのこと、梢子のこと、岩井先生のこと。
 そして――ついさっき、準備室の前で見た光景のこと。

「……先輩は、知ってたんですね」

 それには答えず、先輩は温室の中に運び入れられたプランターに目をやる。

「花をもらったあと、わたしもスマホでちょっと調べてみたんですよ。白やピンクのコスモスの花言葉は『純潔』、黒いチョコレートコスモスの花言葉は……」

 先輩が、そっとわたしの言葉を引き継ぐ。

「――『()()()()()』」

 ビニールの温室の隣、先輩がよく作業しているあたりでしゃがむと、ちょうど化学準備室の扉が見える。

「教えたほうがいいのか、ホントは迷ったんだけどね。でも気持ちの整理とか言ってたから、ちょうどいいのかなーって。……まさか、相手が樹里ちんのお友達だとは思わなかったけど」

 頭をかきながら、先輩は校舎の3階に目をやる。

「校舎の中にいると、外……それも階下からの視線には鈍感になるんだろね。裏庭を通り抜ける生徒はいても、ずっとそこにいるのなんてあたしぐらいだしさ。こっちからは、日光の具合を見たり、温室を補修したりしてればイヤでも目に入るのにね」

 人間は胸から下あたりが隠れると安心してしまうものらしい。それはたぶん、道端に咲いている花が、自分たちを見上げているなんて考えもしないように。

「……まぁ、卒業後には結婚も視野に入れて真剣に交際してるのかもしれないし。善悪は当人たちにしかわからないよ」

 先輩はそう言ったけど、わたしにはそれはどうでも良かった。
 本気だろうと遊びだろうと、梢子は自分の手で恋を実らせた。
 そしてわたしは、種をつけない花だった。

「――わたしは、大人ぶっているだけの子供でした。自分なりに悩んでみたりしたつもりでいても、どこまでもただ、恋に恋していただけで」

 わたしは吐き捨てるようにそう言った。よく知りもしない先輩の前でこうして自虐ぶっていること自体が、どうしようもなく子供なんだと頭では理解しながらも、止めることができなかった。

「んー、『恋に恋する』ってまるで悪い事みたいに言われるけど、あたしは違うと思うんだよ」

 金井先輩は、わたしのそんな様子にまるで動じることなく、穏やかにそう言った。

「だってそうでしょ? 樹里ちんはさ、いっしょうけんめい真剣に、今しかできない恋に恋してたんだよね」

 たとえ独りよがりだったとしても。
 どんなに幼く、子供じみていても。
 呆れて笑っちゃうほどに未熟でも。

「――それはとても素敵な、価値のある恋だったと思うよ」

 いつの間に裏庭に射す日はオレンジ色に染まりはじめ、吹く風も肌寒さを感じさせはじめていた。

「普通のコスモスは一年草で、咲いてしまったら終わりなんだけどね。チョコレートコスモスは、実は宿根草なんだよ。……土の上の花が枯れても、ちゃんと世話をして冬を越せれば、来年にはまた芽を出して花をつけるんだ。それを踏まえての、あの花言葉なんじゃないかって、あたしは思う」

 金井先輩のその言葉に、わたしはいよいよ堪えきれなくなって、震える声で口にした。

「……少し、泣いてもいいですか」

 先輩は軽く微笑んで、温室の入り口を開けた。

「いいよ」

 わたしより頭ひとつぶん背が低い、ちっちゃな先輩は、丸い眼鏡越しの瞳で私をまっすぐに見て、言った。

「ほんの少しの間だけ、あたしが世間の視線や冷たい風から守ってあげよう。かわいいお花さん」


    *    *    *


 金井先輩が教えてくれたとおり、チョコレートコスモスは翌年の秋にも花をつけた。
 それは色褪せた褐色ではなく、深く鮮やかな赤紫色の花だ。

「……変わった香りですね」

 ビニールテープで温室を補修していたわたしの背中に声がかけられる。
 振り返ると、なんだか物憂げな顔をした女生徒が、所在なさそうに佇んでいる。

「キミ、お花に興味ある?」

 もし興味があるなら教えてあげよう。朽ちた茎や葉は土に還って循環して無駄にならないことや、寒い冬をやり過ごして地中で生きている球根のことを。それから、この秋に咲いたたくさんの花たちのことを。