と言っても、それはよくある話だった。新任の若い化学教師がその対象で、帰り道に「かっこいいよね」と言い合う程度の幼い憧れだ。
 相手が教師なら、授業中いくら視線を向けていても、誰に咎められることもない。向こうから意識して見られることなどないと知りつつも、化学の授業の前にはトイレの鏡で制服のネクタイやスカート丈を整えたり、おでこにニキビができている日は、学校に行くのが少し憂鬱になったりもした。

 彼氏がいるわけでもない私と梢子は、そんなふうに、ただ学校内を漂う“恋愛”というトレンドに乗り遅れないようにしないといけなかった。
 タレントやミュージシャンに熱を上げるクラスメイトを横目に、いびつな優越感を抱きながら先生の話をしている間は、わたしたちは特別な女の子でいられた。
 「恋する女の子はキレイだ」とみんな言う。それは、恋をしていない女の子はブスだと言ってるようなものだ。

 その化学教師――岩井先生は他の女子からも人気があったが、もちろんわたしたちは表立ってその話題に加わったりはしなかった。
 わたしと梢子はそんなふうに些細な秘密を共有し、そして一年近くが経って、例の季節がやってきた。

 みんな普段から他人の色恋に興味津々なくせして、なぜかその時期だけわざとらしく友チョコの話題で盛り上がっていたりする。そんなことなら最初からいっそ、バレンタインなんて無視すればいいのにと思う。

「樹里は、どうするの?」

 ……帰り道で、半歩後ろを歩く梢子からそう聞かれた。

「どうする、って……」

 何の話かはわかっているけど、わたしは梢子のほうを見ないまま、煮え切れない返事をした。

「2年になったら、もう岩井先生の授業なくなっちゃうかもしれないし」

 梢子は、彼女にしては珍しく、決意のこもった声でそう言った。
 バレンタイン当日の朝、梢子はとても丁寧にラッピングされたチョコをこっそりわたしに見せて、はにかんだように笑ってみせた。
 ――「恋する女の子はキレイだ」とみんな言う。
 なんだかちょっと悔しいけれど、それは真実だと思った。


    *    *    *


「あたし、放課後はだいたいこのへんにいるからさー。気が向いたらまたいつでもおいでよ」

 馴れ馴れしくわたしの肩をポンポンと叩く金井先輩にさようならを言って、わたしは校舎のほうへ戻ろうとした。
 ふと、遠く校庭の向こう、校門のあたりに見知った人影があることに気づいた。
 ゆるくウェーブのかかった髪のシルエットは、間違いなく梢子のものだ。
 梢子の髪は地毛で、雨の日は広がるし、乾燥していればしていたで静電気とかで大変らしい。
 長い髪は似合わないと言われ、小学生からずっとストレートのショートヘアで通しているわたしにはよくわからない悩みだけど。

 眺めているうちに、梢子の影は校門から消えてしまった。

(あの子、まだ学校に残ってたんだ)

 さっきの金井先輩の勧誘じゃないけど、まさか高2のこの時期に部活を始めたわけでもないだろう。
 図書室で勉強でもしてたのかな。
 そのつもりなら何も放課後になってから言わなくても、前もって話してくれればいいのに。
 わざわざあらたまってスマホで連絡を取り合うほどの関係でもなく、2年生になってからずっと、こんなふうになんだか噛み合わない感じが続いている。

 翌朝は、梢子と顔を合わせたくなくて、早めに家を出た。
 ちょっとした仕返しをしたかったのかもしれない。
 ……仕返しも何も、梢子は特に悪い事なんてしてないのに。

 通学路の半分ほど来たところで、やっぱりなんだか梢子に対して申し訳なくなってきてしまった。
 今日は曇り空で気温も低く、夕方にはけっこう肌寒くなりそうだ。帰りにコーヒーでもおごってあげようかな。
 そう考えてから、梢子はココアのほうが好きだったのを思い出す。その拍子に湯気に香るカカオの甘い匂いを想像してしまい、あやうく朝からお腹が鳴りそうになった。

 そう言えば、チョコだ。梢子はあのバレンタインチョコを、ちゃんと先生に渡せたのだろうか。けっきょく聞けずじまいだった。
 ホワイトデーの前後、周囲の女子たちがまた多少騒がしくなるころから、梢子は岩井先生の話をしなくなり……そうしてわたしたちは2年生になった。

 この年頃の女の子にはよくあること――
 時間割どおりに刻まれる高校生(わたしたち)の日常では、次の年からは綺麗に忘れてしまえるものなのかな。


    *    *    *


 放課後、やっぱり梢子の姿は見当たらなかった。今日も、どこで何をしてるんだろう。
 特に用があるわけでもないくせに校内をウロウロしていると、廊下の向こうに、見間違えるはずもない白衣の後姿が目に入った。

 ――岩井先生だ。
 今もまだ、条件反射のように心臓がきゅっと反応する。わたしは他の子たちのように浮ついた振る舞いもできないかわり、そんなに早く気持ちを切り替えることも出来ない。
 少し早足で近づくと、先生はわたしに気づいてくれたようだった。

「あぁ、倉橋か」

 半年ぶりにそう呼ばれた。先生の落ち着いた柔らかい声が、ありふれたわたしの苗字にさえ、特別な響きを持たせる。
 チョークで汚れた白衣の袖口と、染みついた薬品の臭いが、どんな香水よりもわたしには好ましく感じられた。

「倉橋は……仲村と違って文系クラスだったっけ」
「はい、そうですよ」

 そう、だから2年になって梢子とはクラスが離れてしまったし、岩井先生は引き続き今の1年生に化学を教えている。

「でも、化学の復習も忘れないでくれよ」
「わ、わかってます」

 先生はこれから職員室にでも向かうところなんだろうか。隣を歩きながらも、先生の顔を直接見る勇気は出なくて、反対側に視線をそらす。窓ガラスに映り込んだ姿を見て、岩井先生なら背の高いわたしと並んでも釣り合いが取れる……なんて、生意気にも大それたことを考えてしまう

 でも、先生はきっと、わたしが隣でこんなことを考えているなんて、夢にも思わないんだろう。
 どこまでも、わたしの独り相撲だ。

 ――わたしは結局、チョコレートを渡せなかった。
 思い切って買って用意してあった包みは、わたしの部屋の机の引き出しに仕舞われたまま、その日の夜に包みを自分でほどいて食べた。
 渡してしまえば、これが恋だと自分で認めてしまうような気がして、それが怖かった。いちど肯定してしまえば、もう引き返せなくなる気がした。
 これは恋なんかじゃない、ただの憧れ。子供のお遊びみたいなものだよと、どうしようもない虚勢が舌の上で一粒ずつ溶けていった。口の中にかすかな苦みを残して。

 まだどの色にも染まらない固い(つぼみ)を、何も知らずに最初に見た人は、それが咲く前の花の姿だと気づくだろうか。
 どこまで開けば花と呼べるのか、枯れ始めるまで誰にもわからない。


    *    *    *


 そうやって二言三言交わしただけで、廊下の曲がり角でわたしは岩井先生と別れた。
 用もないのにいつまでもくっついていたら変な子だと思われる。彼は教師で、わたしは生徒だ。それ以上、何ができるだろう?
 相手が同級生の男の子だったら、「帰り、どっか寄って帰ろっ」とか、「連絡先教えて」とか――いや、実際のわたしにそんな大胆なセリフが言えるかはあやしいが――会話を繋げられる可能性はあるけれど。

(……気持ちを伝えたところで、そこで行き止まりじゃないの)

 気が付けばわたしの足は、また校舎の裏庭に向かっていた。途中でそのことに気づき、金井先輩の顔が頭をよぎったが、ここまで来て行き先を変えるのもなんだか癪だ。

 裏庭と言っても、周囲に畑と一軒家しかないせいで、陽当たりはいい。
 小さな制服姿が、プランターを抱えて温室との間を行ったり来たりしているのが目に入ってきた。

 あらためて見ると、その温室は破れたビニールハウスの残骸を自分たちで繋ぎ合わせたものらしく、なんだか少し斜めに傾いて、あちこち透明なビニールテープで補強されていた。

「……見た目は不格好かもしれんけど、これで意外としっかり暖かいんだよ」

 わたしの姿に気づいた金井先輩が、プランターを持ったままそう言った。
 あれにぎっしり土が入ってるのだから、けっこうな重さで、小柄な先輩には大変なんじゃないだろうか。

 園芸には全く興味がないけれど、ただ黙って眺めているのも後輩としてどうかという気がして、わたしは手伝いを申し出た。

「おー、園芸部に入る気になった?」
「いえ、なりませんけど」

 正直に言うと、プランターに植えられているその花のことは、少しだけ気になったのだ。
 その花は、全体が黒……いや、焦げ茶っぽい色合いをしていた。
 ひょろりと伸びた茎の先に咲いたその花は、全体が黒……いや、焦げ茶っぽい色合いをしていた。
 花にしてはとても珍しい色だ。
 形そのものは、植物に詳しくないわたしが想像するような、いわゆるごく普通の「花」の形をしている。それなのに、まるでそこだけ絵具で塗り潰したような、奇妙に浮いた感じがする。

 金井先輩から受け取ったプランターを両手で支えようと力を込めると、土の匂いをかきわけるように、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。それも、花らしい蜜の甘さではなく、どこか香ばしさを含んだ、まるで――

「ちょっと変わってるでしょ、その花。“チョコレートコスモス”っていう種類なの」
「チョコレート、コスモス……?」

 コスモスはさすがにわかる。でも、わたしのイメージの中にあるコスモスは、たいていピンクや白色だ。

「コスモスはね、“秋桜”とも書いたりするけど、ヒマワリと同じキク亜科なんだ。もちろんカカオとも全然遠い植物なんだけど、そのチョコレートコスモスはそんなふうにチョコレートみたいな色と香りをしてるの。不思議だよね」

 わたしは、その花を見下ろした。遠目には黒っぽく見えるけど、陽が当たると赤紫色にも見える。
 そして、その香りは、あらためてわたしに半年前のことを思い起こさせた。

「金井先輩。あの……」
「なに? 入部届?」
「いえ、その……このお花、花屋さんとかで売ってますか?」
「うーん、どうだろ。園芸店とかなら球根の状態とかでは手に入るだろうけど、切り花として店頭に置いてるところはあんまりないかも。これで良ければ、手伝ってくれたお礼にあげてもいいけど」
「えっ、じゃあ、1本もらっても……」
「一輪ね」園芸部らしい訂正をしてから、先輩は丸眼鏡の奥の瞳をぱちくりさせながらわたしに尋ねる。「どうしてこれが欲しいの?」
「……バレンタインに、チョコを渡しそびれた相手がいて。この花を渡せたら、なんて言うか、気持ちの整理がつくかなって思って……」

 自分で言いながら、なんて少女趣味なことを口走っているんだろうと、気恥ずかしくなった。このチョコレートコスモスの香りのせいか、我ながらおかしなことを言ってしまったと後悔する。
 しかし金井先輩は、笑いもせず神妙な顔で「そっか」とだけ言うと、そばにあった園芸バサミを手に取ると、慣れた仕草で分かれた枝の根元から、黒いコスモスの花をスパッと切り離した

「あの、今さらですけど……切っちゃって良かったんですか?」
「どうせ冬には枯れちゃう花だしね。そういう“咲き方”もあってもいいと思うんだよ、あたしは。増やしたり育てたりしてる時点で、どこまで行っても人間のエゴでしかないしねぇ。」

 プランターを下ろして、その花を受け取る。チョコレートの香りがいっそう強まったような気がした。

「それ、あんまり水もちのする花じゃないから……」
「あ、大丈夫です。相手は校内の先生なんで。化学の」

 少しだけど、先輩に話したことで、開き直って気持ちが軽くなった気がした。
 ……もし半年前にこうしていたら、踏み出すことができていたのだろうか。