いつか、この日が来ることは知っていた。
 けれど、考えないようにしてきた。
 昨日まで、それは許されない感情だったから。
 
 いずれ夫婦になる二人でも、正式な婚姻を結ぶ前にそういうことになってしまえば、醜聞(しゅうぶん)になる。
 体面を気にする上流社会で、それは世間的な死と同義だ。
 だから俺は、物心ついた時から、両親に固く言い渡されてきた。
 ――結婚するまで、あの子に手を出してはいけません……と。
 
 幼いうちは、意味もよく分からずにいた。
 しかし、思春期になり、どういうことなのか、ぼんやりとわかってきた時……俺は、それについて考えることをやめた。
 一度考え始めてしまえば、意識せずにはいられない。
 そして意識してしまえば……禁じられた衝動に、一気に転がり落ちてしまいそうな予感がしたから。
 
 その日が来るまで、俺とコイツは、ただ兄妹のように仲の良い同居人。それだけの関係だ。余計なことを考えてはいけない。
 ただ今まで通り、兄妹のように、友人のように、そばにいれば良いだけ。
 ……そう思っていた。
 
 だが、考えてみれば俺は『今日から夫婦だから』なんて、簡単に気持ちを切り()えられるほど器用ではないのだ。
 そもそも、その不器用さを知っていたからこそ、最初から想いを育てないようにしてきたのだから……。
 
 初めての夜。
 二人きりの寝室に取り残され、俺は途方(とほう)に暮れた。
 何をどうすれば良いのか、頭では分かっている。
 だが……ずっと妹のように思ってきたコイツに、俺がそれをするのか?
 
 胸の底に何かが引っかかって、上手く動けない。
 知識のまま、機械的に手足を動かせば、行為自体は()せるだろう。
 その柔肌(やわはだ)に触れてしまえば、気持ちはついて行かずとも、肉体を(たか)ぶらせることは出来るだろう。
 だけど、そうじゃない。俺がそれをしたくない。
 これまで誰よりも身近にいた大切な相手に、そんな、心を(ともな)わない行為で触れてしまいたくはないのだ。
 
 視線を(すべ)らせると、小刻(こきざ)みに(ふる)える小さな肩が目に入った。
 可哀想(かわいそう)に、と思う。(おび)えないで欲しい、と思う。
 それと同時に、新鮮な驚きがあった。
 ……コイツのこんな姿は、今まで見たことも、想像したことも無かった。
 
 頼りなく、か弱げで、今にも泣き出しそうなその顔を、俺は何故だか可愛いと感じた。
 そしてその感情をあわてて打ち消そうとして……もう消す必要など無いのだと気づき、小さな混乱を味わう。
 ()みついた習性は、容易にはなくならないものだ。
 俺はこれまでに、どれほどの感情を、無意識のうちに殺してきたのだろう。
 
 触れてはいけない相手なら、美しいだとか、可愛いだとかいう感情は、持っておかない方がいい。
 持っていて良いのは、妹か友人に対するような、親愛の情。ただ人として、身近な相手として“大切だ”という、その気持ちだけ……。
 思えば俺はずっとコイツのことを“女”として――性の対象として見ないようにしてきた。
 それが許された今となっても、そういう目で見ることに、妙な罪悪感や背徳感を覚える。
 
 以前から、恋愛とは奇妙なものだと思ってきた。
 その感情を崇高なものと賛美する一方で、その行為については、(よこしま)なもの、浅ましいものと断罪する。
 恋しくて、大切にしたい想いとは裏腹に、獣じみた衝動と切り離すことができない、恐ろしいもの。
 俺が、そんな衝動のままに無理を()いたなら、コイツは何と思うだろう。
 コイツに、(けだもの)を見るような目で見られ、嫌悪されるのが怖い。
 一時の衝動や快楽に我を忘れ、大切な絆を永遠に手放してしまうのが恐ろしい。
 
「嫌なのか?」
 (らち)も無いことと知りながら、思わずそんな問いを口にしていた。
 嫌だろうが何だろうが、もう俺たちは夫婦で、いずれは行為を()けられない。
 コイツもそれは分かっているだろうし、問われても困るだけだろうに……。
「ち……違っ……嫌じゃない……嫌じゃ……ない……けど……だけど……っ」
 案の(じょう)、コイツは必死に言い(わけ)しようとする。だが、にじむ涙は誤魔化せていない。
「……上手く、言えない……けど……」
 拒絶しているわけではないのだと、何とか訴えようとする、その健気(けなげ)な姿に、自分でもどうしたいのか分からないままに、手を伸ばしていた。
 その身がビクリと震えるのに気づきながら、指で頬に触れ、涙を(ぬぐ)う。
 コイツの涙を()いてやるのなんか、これまで何度あったか分からないと言うのに、まるで初めて触れるような気がした。
 指先から、甘い(しび)れが走るような……胸が知らずザワつくような、奇妙な感覚。
 何だかまずい気がして、あわてて指を引っ込める。
 
 彼女はただ、びっくりしたような目で俺を見ていた。
 その目にじっと見つめられるのが居たたまれなくて、俺は言い訳のように口を開く。
「泣くなよ。怒ってるわけじゃない」
 昔から、コイツに泣かれるのは苦手だ。どうしたら良いのか分からなくなる。
「戸惑うよな、そりゃ。いきなり『今日から夫婦です』って言われても、急には気持ちを切り換えられないよな」
 いつものように、あやすような言葉を()ける。その言葉は俺が実感しているものばかりで、今コイツが欲している言葉なのかどうかは分からなかったが……。
「気持ちがついて行かないのに、(あせ)って無理にするようなことでもないだろ。急には変われないなら、ゆっくり“夫婦”になっていけばいい。俺たちは、これからもずっと一緒にいるんだから」
 言いながら、自分で自分の心の整理をつけていく。
 そうだ。何も今夜でなくても良いはずだ。気持ちの追いつかないまま、肉体(からだ)だけ先に結ぶより、ちゃんと気持ちが育ってからでも……。
「でも……いいの……?」
 おそるおそる上目遣(うわめづか)いに問われ、不意打ちのように心臓が大きく震えた。
 ……どうにも良くない。そういう対象として意識し始めた途端、どうにもいちいち胸が(うず)いて(たま)らない。
 無理にすることではないと、さっきこの口で言ったばかりだと言うのに。
「無理をさせて、お前の俺を見る目が変わることの方がキツいからな」
 自分で自分を(いまし)めるようにそう言って、苦笑する。コイツに嫌われたくないのは本当だ。
「ただ……あんまり長くは待たせないでくれよな。俺の方は割と早く、その気になりそうな気がするんでな」
「え……」
 うっかり口が(すべ)って、言わなくて良いことを言ってしまった。
 俺はあわてて目を()らす。頬が熱くなっているのが、自分でも分かった。
「……問い返すなよ。恥ずかしいだろ」
 彼女の顔が見られないし、胸の辺りがむず(がゆ)くて(たま)らない。
 結婚とは、夫婦とは、こんなにも恥ずかしいものだったのだろうか。
「……では、お言葉に甘えて。今宵はもうお休みしましょう。……旦那様」
 もう泣いても震えてもいない彼女は、さらりとそんな呼びかけをしてみせた。
 未だ戸惑いを消せない俺と違い、既に一歩先に進んでいるような彼女に、軽い敗北感と、悔しさのようなものを覚える。
「そうだな。おやすみ」
 あんな些細(ささい)な触れ合いだけでは物足りない気もしたが、今夜はもう、これで良いということにする。
 早々に布団(ふとん)(もぐ)り込んだが、正直、あまり眠れる気はしなかった。
 
 隣に横たわる存在を、強く意識する。
 もう“妹のよう”でも“友人のよう”でもない存在を。今日からはもう、俺の妻となった人を。
 恥ずかしくて、くすぐったくて、落ち着かなくて、モヤモヤして……だが、自然、口元がにやけてしまう。
 
 こんな調子では、きっと進展は(おそ)いことだろう。
 だけど、俺たちは確実に“夫婦”になっていく。
 関係の形が変わっても、これからもずっと、そばにいる。