『アカイイト』

「碧子(みどりこ)さん、碧子さん」
誰かに呼びかけられて、麻野碧子は、はっと正気づいた。


薄い青から濃い群青色までが縦にグラデーションをなした空間に碧子は立っていた。足元は、ドライアイスをたいているように煙っていて、ふわふわとおぼつかない。
そして、碧子に呼びかけているのは、人間じみた顔の、大きな白い日本猿だった。
「ようこそ碧子さん……おや?ご自分が何故ここに来たのか分からないといった顔ですな」
 猿が喋るなんて……と碧子は思ったが、話しかけてみることにした。それに、この空間には、碧子と猿だけしかいないようだったからである。
「あの……ここはどこでしょうか?あなたはどなたですか?」
「ここは、あんた方の言う『此の世』と『彼の世』の境です。そして私は時の氏神と呼ばれていますが、ここの番人です」
「お猿さんが神様?」
 時の氏神は、猿と言われて、少々気分を害したようだ。
「私の姿は、見る者によっていかようにも変わります。この境の形もそう。あんたには、私が猿に見えるのですか」
「あの……それで、私は一体何故ここに?」
「思い出せないですか。では仕方がないが教えましょう。あんたは抗ウツ剤と睡眠薬を大量に飲んで、手首を切って自殺を図ったのですよ。今流に言えば、リスカとオーバードーズですな。それであんたはどうしたい?」
「どうしたいって……?」
「此の世に戻るか彼の世へ逝くか、生きるか死ぬかってことですよ」
「…………。」
 碧子は黙って俯いてしまった。この期に及んで躊躇う碧子に、時の氏神はイライラし始めたようだった。そして碧子に提案をする。
「では、あんたの迷いを晴らすために、あんたの生きてきた時間を収めた『走馬灯』を回そう。あんたの一番見たい人、見たい場所へ時空を超えて瞬時に飛びますよ」

 ─カラカラカラ……。

ふと気がつくと、碧子は長年勤めた会社の自分の席に座っていた。
「皆さん」
 係長の佐々木の声がした。
「本日付けで新しく着任された佐伯智久課長をご紹介します。では佐伯課長、ご挨拶を……」
 ドキン!!
碧子の胸が激しく打った。
「佐伯と言います。皆さんの顔と名前を一日でも早く覚えたいので、名簿を読み上げますから返事をして下さい」
 佐伯は名簿を繰りながら、一人一人の名前を呼んで行った。
「麻野碧子さん」
「は、はい!」
「あなたが女子社員の皆さんの中では一番のベテランですね。よろしく。碧子か……とても綺麗な名前だな。」
 ……碧子は、このやり取りだけで、佐伯課長を強く意識するようになった……ありていに言えば、一目ぼれしたのだ。
 子供の頃から容姿にも恵まれず、真面目だけが取り柄の地味で控えめな碧子は、男子社員からは敬遠され、女子社員からは、後輩であっても小馬鹿にされていた。そんな碧子に優しく接してくれたのは、東京からやってきた佐伯課長だけだった。しかし佐伯は、他の女子社員からも人気の的となっていた。
 ……それでもいい。
碧子の佐伯課長に対する思いは、密かに日に日に碧子の心につのっていった。
そしてバレンタインデー。
碧子は意を決して、高級チョコレートメーカーのチョコレートのリキュールと、手編みのマフラーを佐伯に贈った。

─カラカラカラ……。

 デスクのカレンダーは3月14日
「これ、ホワイトデーのお返しだよ。ありがとう」
 そう言って佐伯がラッピングされた小さな包みを碧子の机に置いていった。
 碧子が、一人のときを見計らってそっと包みを解くと、中には小さなエメラルドのついたネックレスが入っていた。
 佐伯にチョコを贈った他の女子社員には、ハンカチがお返しに配られていたのに……。
『碧子か……とても綺麗な名前だな』
 碧子は、佐伯のその言葉を思い出していた。
 きっと課長は、私の名前にちなんでこれを選んでくれたに違いない。佐伯課長も私のことが好きなんだ!碧子の心は生まれてこのかた味わったことのない歓喜に震えた。そして……佐伯に『告白』をしようと碧子は決意したのだった。
しかし翌日……。
「麻野君、君に渡したホワイトデーのお返しなんだが、あれ実は妻にために買ったのを間違って渡したんだよ。悪いけど返してくれないかなあ」
 佐伯は、ばつが悪そうに、そう切り出した。
「そうですか。どうりでおかしいと思ったんですよね。こちらこそすみませんでした」
 碧子はそう言うのが精一杯だった。そのままトイレに駆け込み、個室で声を押し殺して泣いていた。
 すると、数人の女子社員が喋りながらトイレに入って来る声が聞える。
「グリーンチャイルドのオバさんさあ、なんか思いっきり勘違いしてたっぽいよ。カチョーがアテクシにエメをくれるなんてー!ってさ」
「そうそう、40手前の、行き遅れのブスのくせにあつかましいんだよね。カッコイイ上司と不倫なんてさあ……」
 けたたましい笑い声が遠ざかる……。
 打ちのめされた碧子は、逃げるように長年勤めた会社を辞めた。
 しかし世間は甘くなかった。
40近いうえに大した資格も持たない碧子の再就職先など、とてもじゃないが見つからなかった。雇用保険もしばらくして打ち切られ、絶望した碧子は、40歳の誕生日に自殺を図ったのだった。

「生きるか死ぬか、どうするかね?」
 時の氏神の声に、碧子は「やめて!やめて!!」と耳を塞ぎながら、その場にしゃがみこんだ。
その時……。
ふと、碧子は、自分の足元に目をやった。
こよりのようにより合わさった赤いひも状のものが、自分の足首から伸びている……。
「氏神さま、これは……この紐はなんですか?」
「ああ、それは運命の赤い糸とか、あんたたち人間が呼ぶものだよ。運命によって結ばれる相手と繋がっているという……それと……」
「私にも、私にもその相手はいますか!?」
「そうだなあ……いるかもしれんし、いないかもしれんし……その右足の糸をたぐってごらん」
 碧子は、糸をたぐった。
 碧子の運命の赤い糸は、碧子の右足から始まって、碧子の左足に結ばれていた。
「そ、そんなー……!!」
「おや残念。その赤い糸は……」
 碧子は、何かに思い至ったように、すっくと立ちあがった。
「そうだわ!そうよ!この赤い糸を切って、その先を佐伯課長の足に結びつければいいんだわ!佐伯課長のところへは、また瞬時に飛べるもの!」
 碧子の右手には、自殺を図るときに使ったカッターナイフが握られていた。
「そんなことをしてはいけない!やめなさい!!」

 ブツン……!

 碧子がカッターで糸を断ち切った瞬間、碧子の身体は靄を抜け、底知れぬ暗い奈落へと落ちていった。
 「だから言わんこっちゃない。赤いのは運命の糸、一緒により合わさった朱色の糸は玉の緒……寿命の糸だというのに自ら断ち切ってしまっては……まあ、自ら命を絶つものは地獄へ逝くと人間たちは言うがなあ」

 時の氏神は奈落を覗きこみながら、トントンと腰を叩いた。


(おわり)