「待って!幸!」

幸は雨の中、僕の部屋を飛び出して行った。
傘も持たずに。
「何、やってんだよ!あいつは!」
傘を差し、もう一つの傘を握り締めながら幸を探す。彼女は泣いていた。まだ鼓動が早くて、真実を受け止めきれない。

「別れたくない」と言った僕に幸は言った。

「私、病気なの。難病なの」


筋萎縮性側索硬化症(ALS)…手足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。脳からの「手足を動かせ」という命令が伝わらず、力が弱くなり筋肉がやせていく。手足が動かなくなる——それはダンサーの選手生命を奪うようなものだ。

どうして、どうして、幸がそんな病に?
プロのダンサーを夢見て頑張っていたのに。夢を諦めなきゃいけないのか?神様は何でそんなにもいじわるなんだろうか。


彼女は雨の中、公園の舞台の上で踊っていた。上手く踊れなくなっているのか、手足が絡んで転倒しそうになっている。もしかしたら、彼女のラストダンスになるのかもしれない。
「海斗、私の最後のダンスだよ。見ていて」
指先に雨が落ちて、彼女の体をなぞって流れていく。今までのダンスより、一番心を打たれたのかもしれない。そんな美しいラストダンスだった。

「さようなら、私の夢」
雨粒を流しながら倒れる彼女を、力一杯抱き締めた。彼女が回した腕の力はいつもより弱かった。


幸は筋肉がやせて、全身に力が入らなくなっていた。僕の支えなしでは歩けないほどになっていき、いずれ歩く事が出来なくなった。病気は進行しても視力や聴力、体の感覚などは問題がなかったので車椅子で色々な所へ連れて行ってあげた。
海、花火、映画など僕のダンスも見に来てくれた。僕がダンスする姿を見るのは辛いだろうが、彼女はとても喜んで弱々しい拍手をくれた。

「か、いと、すご、いね」
のどの筋肉が衰えて声が出しにくくなっていた。そんな彼女を思い切り抱き締めて、何回もキスをする。僕との感覚を覚えていて欲しい。


「幸、愛してるよ」

「かい、と、わた、しも……」

涙を何回拭ってあげただろうか。その度に一緒に泣いてしまう僕は情けない。彼女の病気が進行していく事は、やがて彼女との別れを意味する。そんな未来なんて来なくていい。僕は彼女にまたキスをした。幸の病魔を吸いとってあげたい。僕が病魔に侵されてもいいんだ、彼女が救えるなら……。


僕は彼女の分もダンスを頑張っていた。ついに海外での出演が決まり、幸の入院する病院へ報告に向かった。彼女は呼吸をするのも困難な状態だった。報告を聞いた彼女は口元を綻ばせながら喜んでくれたが、本当に苦しそうで見ていられなかった。

「頑張ってくるからね!だから幸も頑張って!」彼女の細い手を優しく握り締めた。



僕は海外で、愛する人の死を知った。


あの日、彼女がラストダンスを踊った様に、僕は街の中で一人踊っていた。周りのカップルを羨ましく思う。どうして僕たちは、普通の幸せを手に入れれなかったのだろう。彼女には素敵な夢があったのにどうして邪魔をした?僕たちはただ幸せになりたかっただけなのに。世の中は不公平で残酷だ。悔しい……彼女に何もしてあげられなかった。


「ごめん、ごめん、幸……」

気付いたら天から雨が降り出していた。それは彼女が「ありがとう」と僕に言っている様で、優しく体を撫でていった。雨粒が輝く。

「幸、ありがとう、ありがとう」

目から降りしきる雨粒は止まない。
僕のラストダンスは終わらない。

end