プロローグ


⼩学⽣の頃、⻑期休暇に⼊ると親⽗に連れられて出張について⾏った。それは⽇本の中だけではなくてよく海外にも⾏った。⼩学三年⽣の夏、俺は初めてイギリスに渡った。
⻑期休暇に出張に出かける時にはいつも授業が再開する⼨前まで同じ場所に滞在する。それはイギリスに⾏った時も同じで国の中心地からは少し離れたところにある、ホテルだったりホールだったりが立ち並んでいるホテル街の中でひときわ背の高いホテルに泊まった。その街は少し特殊で二十四時間三百六十五日、絶え間なくどこかの政治家だったりバイヤーだったりが会議を繰り返す会議の街だった。
泊まったホテルの屋上は展望台のようになっていて、⼀度だけ親⽗に連れていってもらったことがある。普段歩いているはずの地⾯がとても遠くにあって、その道を照らす街灯が夜空の星のように輝いていて、それが⽬の届く先の先まで絨毯のように広がっていた。俺は親⽗に体を⽀えてもらいながら窓ガラスに顔が当たってしまうのではないかというところまで前のめりにその光景に夢中になった。それからはたまに親⽗に黙って何度か⼀⼈で訪れていた。

いつものように、夜、親⽗が部屋を離れると少し待って僕も部屋の鍵を開ける。ホテルにはたくさんの⼤⼈がいたけどどの⼈も悩ましいをしていて僕のことを⾒ても特に気をかけられることはなかった。
屋上まではエレベーターと階段で繋がっていた。しかしエレベーターは夜の間屋上には向かわず、客室とホールのある階を⾏き来しているばかりだった。だから必然と階段を使って屋上へ向かう。実際には何⼗階も登る必要があって⼤変な苦労だったけど、あの夜景⾒たさにそんな些細なことは障害にもならなかった。
いつものように⽬が回るのではないかというほどの階段を登り続けていると、階段に座り込んでいる少⼥を⾒つけた。⾝⻑からして僕と同じくらいの歳だろうか。鮮やかな⾚⾊のドレスを上品に⾝に纏い、美しく結われたブラウンの髪がお姫様のようだと思った。
⾟うじてカッターシャツと呼べる上着にスラックスを着ているイアmの服装を思えば話しかけるのは少し気が引けるけど、こんな時間に少⼥が⼀⼈で階段に座っているのはおかしいだろう。まぁこんな時間に階段を登っている僕もそうだと⾔われれば否定も何もできないのだが。
でもこんなあからさまな海外の⼈と会話することができるだろうか。当時から挨拶程度なら親⽗の真似でなんとかできるが対話となると⼤分厳しいかもしれない。そんなことも多少思ったのだけどやっぱり彼⼥に興味が湧いたのでどうとでもなれと思いながら話しかけた。
"hello?"
"は、ハロー?"
"What are you doing now?"
と辿々しい英語を話す。すると、
「え?」
と明らかな⽇本語で答えられる。よかった。僕もこれで無理をしなくていい。僕は改めて、
「何してるの?」
と聞いた。
「何?って何もしてない?」
どうやら⾒たままらしい。
「どうしてこのホテルに来たの?」
「ママに連れてこられたから?」
疑問形に疑問形で返されても困ってしまうのだけど。
「どうしてここにいるの?」
「それはまっ…。⼀⼈になりたかっただけ」
「そうなんだ。じゃあ⼀緒だね」
「そうなの…?」
「うん。⼀⼈でいるのに凄くいい場所があるんだよ」
「そんなところがあるの?ここはどこでもずっと騒がしいのに?」
確かにそれは当時の僕もかなり思っていた。ホールがある階はもちろん客室のあるフロアも廊下を忙しなく移動する⼈がいて落ち着きがない。
「誰もいないところがあるんだよ。」
「それって⼊っちゃいけないところ?」
「いや、違うよ?ただ⼤⼈は興味がないからこないだけの場所。」
「そんな場所があるのね。」
と彼⼥は少し語尾を⾼くして答えた。
「よかったら⼀緒に⾏かない?」
「⼀緒に?」
「うん。どうせ誰もこないんだし、⼀⼈でずっといるのも、ね?」
「秘密の場所じゃないの?」
「うん、秘密の場所ではないかな?」
現に初めて訪れたときは多くの⼤⼈がいた。
「連れてって」
と少しそっぽを向いて少⼥は⾔った。それに応えるように⼿を伸ばす。⼥性はエスコートするものだ、と昼間⾒ていた映画でやっていたし。
ゆっくり伸ばされる少⼥の⼿をとりこちらに引く。
「僕はとうや、君は?」
「私はかえで。よろしくね」
「うん、よろしく」
と挨拶をすると早速僕は彼⼥の⼿を引いて階段を登った。
⼆階ほど登ると最上階についた。いつも通り誰もいない。少し暗いライトがパノラマを淡く照らしている。登りきると下の喧騒は届かなくなって現実から別の世界へ⾏ってしまったように思える。
「本当に誰もいない場所があるのね。」
と彼⼥はまず驚きの表情を⾒せた。
「ほんとだとエレベーターがあるから来やすいはずなんだけど、今は動いてないから」
「そうなのね」
と彼⼥はパノラマの⽅へ歩いていく。少しずつ⼩⾛りになりながら。彼⼥はパノラマの真ん中で⽴ち⽌まると、
息を飲んで⽴ち尽くした。そして少しして、
「凄い…。」
と呟いた。そしてまた⾒惚れていると急に僕の⽅に⾛ってきて両⼿を握られた。そして満⾯の笑みで
「連れてきてくれてありがとう」
と⾔われた。その笑顔につられて僕も
「うん。」
と笑顔になってしまった。
⼆⼈で真ん中に⽴ち、大パノラマを独占する時間がしばらく続いた。
「そういえば、ここにいて⼤丈夫なの?お⺟さん⼼配しない?」
すると少しムッとした顔と声⾊で
「別にいいの。」
と⼩さく呟いた。
「実は迷⼦になってたんでしょ?」
と呟くと、かえではそっぽをむきながら頷いた。
「探しにいこ?」
と提案したが、
「そんなことしたらとうやまで迷⼦になっちゃうよ?」
と笑い、僕から離れるように歩き出す。
「じゃあ僕の⽗さんを探すのを⼿伝ってよ」
それがよほど不意の⼀⾔だったのかかえでは一瞬立ち止まって硬直した後にくるっと踵を返し、また近づいてきて、
「いいわよ?」
と微笑んで⼿を伸ばしてきた。さっき案内したときエスコートしたのは僕だから、今度案内するかえでがエスコートをするということだろうか?なんか少し間違っている気もしたけど僕は彼⼥の⼿を取った。僕たちはそのまま階段を駆け降りた。
階段で⼀階まで降りるのは僕だけなら簡単かもしれないが、彼⼥は厳しいだろうしエレベーターを使うことにした。エレベーターの中では極⼒静かにして、⼀階では⼀番最後におりた。
⽗さんは何か困ったことがあったら電話を使え、と部屋で⾔っていた。ロビーと連絡ができるらしい。つまりロビーってところに⾏けば助けてくれるってことだ。そう思ってロビーを探した。
⼀階はどこもとても騒がしくて⼈が凄く多い。それに背が低いから前もあまりよく⾒えない。少し無理やりに前に進んでいるがあまり進めている感じがしない。エレベーターから降りたはいいもののエレベーターホールから抜け出せない。
すると突然⽚⽅の⼿にあった温もりが消えた。振りかえると伸ばされた⼿は⾒えるが彼⼥は⼈の波に押されてどんどん遠くへ⾏ってしまう。僕は慌てて⾛り出した。さっきよりも無理をして⼈をかいて進んでいくが追いつけそうにもない。
するとその先のエレベーターの出発する⾳が聞こえた。
───かえでが遠くへ⾏ってしまう。
なんとかエレベーターの前までたどり着いたがやはりエレベーターはもう⾏ってしまった後だった。意味もないと知りながらエレベーターの扉を叩く。
少しの間俯いていると後ろから肩をとんとんと叩かれた。振りかえるとかえでがいた。
「かえで!」
と少し⼤きな声を出してその叩かれた⼿を握り⼿繰り寄せる。少し驚いた表情のかえでに気づかず両⼿を指を絡めて握る。すると⼆⼈の距離は⼀気に縮まった。
「とうや…?」
と恥ずかしそうに、しかし不安そうに聞いてきた。
「ごめんっ」
と慌てて⼿を離そうとするが逆に強く握られた。
「とうや…?」
ともう⼀度聞かれる。
「ごめん。かえでの⼿が離れちゃって、それでエレベーターの⽅に流されていって、それで遠くにいっちゃうんじゃないかと思って…。」
と顔を上げると、
「うん、ありがとう」
とこちらを真っ直ぐと⾒るかえでと⽬が合う。
「もう離さないから」
ともう⼀度強く握る。すると今度は少し照れくさそうに
「ありがとう」
と⾔われた。
そのまま⼿を繋いだまま歩いているとホテルマンがたくさん集まっているカウンターを⾒つけた。多分あそこがロビーだろう。
ロビーに向けて歩いていると⼀⼈の⼥性がこちらに向かって⾛ってきた。
「かえで!」
と⼤きな声を出しながら⼥性は隣にいるかえでに抱きつく。
「どこ⾏ってたの?⼼配したのよ?」
「うんママごめんなさい」
とかえでとかえでのお⺟さんは涙を流していた。
少しして落ち着いたかえでのお⺟さんがこっちに話しかけてきた。
「かえでを連れてきてくれたのね。ありがとう、坊ちゃん。」
としゃがみながら肩に⼿を乗せられた。
「お名前を聞いてもいいかしら?」
と笑顔で聞かれた。
「とうやまとうやです」
「とうやくんね、本当にありがとう。」
かえでのお⺟さんの⼿はとても暖かかった。
「かえで。部屋に戻るわよ」
とかえでのお⺟さんが⾔ったので少しかえでに⽿打ちをした。
「屋上のことは⼆⼈だけの秘密だよ?」
エレベーターホールから繋ぎっぱなしだった⼿を離してかえでは少し悲しそうに頷いた。
「708号室にいるから」
と離れていくかえでに僕は⼿を振った。