荷台に砂利を満載したトラックが、砂埃と排気ガスをまき散らしながら道路を走り去っていった。脇の狭い歩道を歩いていたわたしは、たまらず咳き込んでしまう。
 その道はかなり交通量が多く、しかも緩やかな下り坂になっているせいもあり、どの車も法定速度以上のスピードを出して走り抜けていく。ガードレールに守られてはいるものの、ひやりとしたことは一度や二度じゃない。実際、二十年ほど前に下校中の生徒の列に乗用車が突っ込み、二人が死亡する事故があったそうだ。
 さいわい、今通学路には車が突っ込んでも大惨事を引き起こすほどの生徒はいない。三年生は現在補習に出ているし、一、二年生も試験前で学校に居残ることを禁止されているため、早々に帰路についたのだろう。
 そんな寂しい通学路をわたしは俯き加減で歩いていた。教科書やノートがぎっしり詰まったスクールバッグを背負っているせいもあるけど、今はそれ以上に心のほうがずっしり重く感じられた。
 わたし、なんで逃げ出したりしたんだろう? つばささんはあんなに親切に接してくれたというのに、その好意を踏みにじるような真似をして……。
 自分の非礼ぶりにほとほと嫌気がさしてしまう。今からでも学校に戻って謝ってきた方がいいかもしれない。それが人として当然の礼儀のはずだから。
 そう思う一方、これでよかったんだと開き直る自分もいた。
 つばささんは松永先輩の敵なんだ。他の誰よりも先輩のことを嫌っていると言われるような人間なんだ。そんな相手に少しくらい優しくされたからといって気を許しちゃいけない。あんな松永先輩のことを悪く言う人間が集まっているような醜悪な場所からはさっさと逃げ出して正解だったんだ。
 そうとも。わたしの行動は決して間違っていないんだ!
 わたしは自分に向かって強弁する。しかしどう自己正当化しようとも、重く沈んだ気分はちっとも軽くなってはくれなかった。
 大きなため息をつく。それによって少しでも憂鬱が体から抜けてくれることを期待したものの、吐き出された憂いはそのまま体にまとわりつき、よけいに足取りを重くさせるばかりだった。
 ニュータウン側へと通じている大きな橋を渡る。巨大な主塔がしょぼくれているわたしを蔑むように見下ろしている。上下四車線の道路を車がビュンビュン走り抜けていく。そんなせわしなさとは対照的に下を流れている川の流れはとても緩やかで、陽の光を受けてキラキラ輝いていた。
 ――松永先輩に会いに行かなくていいの?
 ふとその考えが頭をよぎったのは、似通った家が建ち並ぶニュータウンの通りを歩いている時だった。
 わたしが怖い思いをしながらも三年生の教室に行ったのは、ひとえに松永先輩に会うためだった。あいにくそこに先輩はいなかったけど、だからといって会うのを諦めるのは早すぎる。学校にいないのなら、家に行けばいいのだ。――そう、つばささんが提案したように。
 わたしがつばささんの提案を蹴ったのは、彼女と一緒という点に問題があったからだ。敵と家に行ったりなんかしたら、松永先輩に変な誤解をされかねない。でも、わたし一人で行く分には何の問題もないはずだ。
 一目先輩の顔を見ればこんな憂鬱な気分なんて一瞬にして吹き飛んでしまうに違いない。
 よし、今から松永先輩の家に行こう。先輩の家がどこにあるのかは知らないけど、そんなことは職員室で三年生を担当している先生に尋ねるなり、学生名簿を見せてもらうなりすれば簡単にわかるはずだ。まずは学校に戻ることにしよう。――そうと決まればさっそく行動だ!
 ……と心の中で意気込みはするものの、現実のわたしは今来た道を引き返すことができずにいた。松永先輩に会いたいと思う一方で、なぜか会うのが怖いという二律背反な感情がわたしの中で渦巻いていた。
 三年生の教室で女子生徒から聞いた松永先輩が停学になったという話を思い出す。そんなのはただの噂にすぎない。だいたい、そのことをわたしに教えたのは先輩に悪意を持っている人たちなのだ。とうてい信じるに値しない。
 とはいえ、松永先輩にはそうなってしかるべき理由があることも理解していた。そう、あの鮮やかな赤い髪だ。停学が妥当かはさておき、そのうち重い処分を受けるだろうことは容易に想像ができた。
 わたしたちの自分の証を持つという生き方が決して許されるものではないという現実を改めて思い知らされたような気がした。
 でも、わたしを尻込みさせる理由はそれだけじゃない。
 わたしだって、校則違反をしている松永先輩のことを快く思っていない生徒がいるだろうことは承知していた。でも一方で、校則に違反しようとも自分らしさを追い求める先輩の姿勢を心の中では賞賛し、密かに応援している人だって少なくないはずだとも信じていたのだ。
 だけど、現実はどうだ。今日会った女子生徒たちが松永先輩に対して抱いていたのは冷笑と悪意だけだった。あの優しかったつばささんでさえ敵対者として立ちはだかった。そんな周囲の負の感情が恐ろしかった。
 わたしにとってそれは他人事では済まされない。自分の証を守ろうとするわたしも遠からず同じような扱いを受けることになるはずだから。
 以前、わたしは沢田さんに自分の証を守るためにはどんな誹謗も甘んじて受ける覚悟があると言った。その信念には一片の偽りもないつもりだ。だけど、過酷な現実を知ってしまった今のわたしに、自分の強さを臆面もなく信じることができるのだろうか……。
 わたしは自分の弱気を振り払うように、ぶるぶると激しく頭を振った。校則の規定以上の長さに伸びた髪がびしびしと頬に当たって少し痛い。
 おもむろに俯き加減だった顔を持ち上げた。青く澄んだ空ならわたしのいじけた心を吹き飛ばしてくれるに違いない。いつものようにわたしの気持ちを楽にしてくれるはず。――そんな期待を抱きながら空に目を向けた。
 しかし――
 ――がんじがらめに縛り付けるかのように幾重にも張り巡らされた電線。
 ――串刺しにするかのごとくそびえ立っている赤い鉄塔。
 ――爆音をあげて引き裂いていく飛行機雲。
 学校の屋上から見えるものとは違い、ここの空はとても狭く、はるか遠くに感じられた。
 ……これはわたしが見たい空じゃない。
 わたしは再び頭を垂れると、上を見ないようにしながら足早に家路を急いだ。
 体操着でぱんぱんに膨らんだ巾着袋を手に教室から廊下に出たわたしを出迎えたのは頭が痛くなるほどの喧噪だった。
 オンボロのスピーカーから流れるひび割れた呼び出しの声、仲間を連れ立って廊下を駆けていく男子のせわしない足音、授業中ずっと黙していた鬱憤を晴らすかのような女子生徒の甲高い話し声――校内は三時限目と四時限目の間の休み時間という狂騒の真っ直中にあった。
 目の前で繰り広げられている騒々しい光景に、わたしは眉をひそめてしまう。休み時間なのだから多少うるさくなるのは仕方がないのかもしれないけど、それにしたってもう少し限度というものをわきまえてほしいものだ。
 ……って、今はそんなことに立腹している場合じゃない。早く体育館に行かないと。今日はわたしたちの班が用具係になっているから、授業が始まる前に準備を済ませておかないといけなのだ。
 そう思い、下りの階段にむけて足を踏み出そうとした、そのときだった。

 ――――。

 わたしは思わず足を止めてしまった。今、何かが聞こえたような気がしたのだ。
 ――それは、扉が閉まる音。
 松永先輩?
 一瞬先輩の顔が頭に浮かんだものの、すぐにそれはありえないと思い直す。先輩が屋上に向かうのは放課後と決まっていた。今日はこれから四時限目の授業があり、昼休みを挟んでさらにあと二時間も授業が残っているのだ。こんな早くから屋上に行っているはずがないじゃない。
 ……そもそも、松永先輩は学校には来ていないはずだし。
 階段の前で立ちつくしているわたしの肩を誰かが後ろから叩いた。振り返るとそこには沢田さんが立っていた。
「河村さん、どうかしたの? こんなところでぼーっとしてさ」
「ううん、何でもない」
 わたしは首を振って答える。
「しっかりしてよ。体育の時間にぼんやりしていたら怪我の元だからね」
「……うん」
 わたしは煩わしく思いながらもうなずいた。
 渡り廊下で言い争いをした後も沢田さんは変わらずわたしにちょっかいをかけ続けてきた。てっきりあれで気まずくなり、距離を置くものと思っていたので、ちょっと意外だった。どうやら彼女は、わたしが想像している以上にお節介な性分であるようだ。
 わたしの方はといえば、これまで以上にぞんざいな態度を取るようになっていた。沢田さんの厚意はわかってはいるけど、それを素直に受け入れる気にはどうしてもなれなかった。
 それに――
「みっさきーっ!」
 沢田さんを呼ぶ声が聞こえてきた。
 わたしたちが同時に声がした方を見ると、矢島さんが教室から出てきたところだった。彼女は二つに分けたお下げをぱたぱた揺らしながら駆けてくると、沢田さんの胸に飛び込んだ。沢田さんは驚きながらも易々と矢島さんの小柄な体を受け止める。
「ちょっとエリカ、危ないでしょうが」
 友人のとっぴな行動に沢田さんは文句を言おうとしたものの、矢島さんは聞く耳を持たず、逆に諭すように言う。
「みさき、のんびりしてちゃ駄目じゃない。わたしたちは当番なんだから、早く体育館に行って準備しないといけないんだよ。みさきはバレーボール部なんだから、ネット張りとか率先してやってくれなきゃ」
「はいはい、わかってるって」沢田さんは矢島さんの体を引き剥がしながらそう答えると、わたしに言った。「わたしたち先に行っているから、河村さんも早くしてね」
「早く早く!」
 わたしが返事をするよりも先に沢田さんは矢島さんに腕を引っ張られるようにして階段を降りていく。そのとき矢島さんと目が合った。彼女は沢田さんに対する際の無邪気さとはうって変わって、憎々しげにわたしを睨んでいる。
 どうもわたしは矢島さんに敵意を持たれているようだ。わたしに大好きな沢田さんを取られるとでも思っているのだろうか。
 取り越し苦労もいいところだ。わたしには沢田さんと矢島さんの間に割って入る意志も資格もないのだから。
 沢田さんたちの背中を見送ると、わたしは屋上に向かう階段を見上げた。相変わらずそこはプラスチックの鎖と注意書きのプレートによって封印されている。ここから見るかぎりでは普段と何ら変わるところはなさそうだ。
 さっきの音が気になったけど、沢田さんに急かされていることもあるし、今から確かめに行くわけにもいかない。
 ……きっと空耳だったんだ。
 今は授業前の休み時間で、教室の移動やら何やらでとても騒がしいのだ。そんな中、屋上の扉が閉まるごく小さな音を聞き取ることなんてできるわけがないじゃない。
 そう自分に言い聞かせると、わたしは階段を降りていった。

 体育の授業は嫌いだ。理由は簡単。運動音痴だからだ。鉄棒の逆上がりやマット運動の後転で失敗する度、情けなくて穴があったら入りたくなる。
 体操着も嫌いだ。垢抜けない小豆色のジャージはまだ我慢できるにしても、ブルマは太股がむき出しになるし、お尻の形がくっきり露わになるしで恥ずかしいことこの上ない。どういうこだわりがあるのかわからないけど、他の学校ではすでに短パンになっているのだから、うちの学校も早いところ切り替えてほしいものだ。
 今日の授業で行ったバレーボールも嫌いだ。レシーブする度に手が痛くなるし、サーブをしてもネットにすら届かないし……。沢田さんには悪いけど、わたしはこの競技を好きになれそうになかった。
 でも、バレーボールならまだよかったのだ。来週からは水泳の授業が始まることになっていた。その現実がさらにわたしを憂鬱にさせた。
 自分の名誉のために言っておくけど、わたしは決して泳げないわけではない。むしろ泳ぎは人並みにこなせる数少ない運動のひとつだ。そのせいもあり、以前は泳ぐことが好きだった。夏休みにはよく近くの市民プールに泳ぎに行ったものだ。
 でも、今は嫌いだ。なぜって、水着姿になるのがこの上なく恥ずかしいから。身体にぴっちりとまとわりつく紺色の布は、胸のふくらみが気になり始めた体を隠すにはあまりにも心許なく感じられた。
 水泳の期間はできることなら体育には参加せずにすませたいところだけど、もし休んだりしようものなら男子に「お前、生理だろ」なんてからかわれ、不快な思いをさせられるに決まっている。どうして男子ってこうも馬鹿でスケベなんだろう。ほんと嫌になる。
 気持ちが塞いだまま体育の授業は終了した。まぐれでサーブが一本入ったくらいではこの鬱々とした気分は解消されることはなかった。
 わたしたち当番はバレーのネットやボールを体育用具室に片付けた後、制服に着替えるため更衣室へ向かおうとした。そのとき、パトカーか救急車のものと思われるサイレンの音が聞こえてきた。その音はどんどん近づき、最後にはけたたましいまでの音量になったところで唐突に止んだ。
「ねえみさき、もしかしてこの学校に来たんじゃない?」
「そうみたいだね。校庭で体育の授業をしている男子が怪我でもしたのかも」
 わたしの前を歩いていた矢島さんと沢田さんはそのようなことを話している。
「ねえ、河村さんはどう思う?」
 沢田さんはわざわざ後ろを歩いていたわたしに話を振ってきた。
「さあ……どうなんだろう?」
 そんなことわかるわけもないので、わたしはそう答えるより仕方がなかった。こちらとしては救急車よりも、沢田さんの隣でわたしを睨みつけている矢島さんの方がよっぽど気になるのだけど。
 更衣室に入ったわたしたちを出迎えたのは、むっとするようなぬるい空気と、酸っぱい汗の臭い、そしてかしましい女子生徒たちの声だった。次の授業が控えているときはあまりゆっくりしてはいられないのだけど、今日はこの後は昼休みということもあり、みんな着替えもそこそこに、のんびりとお喋りに花を咲かせているようだ。
 話をするならこんな狭くて汗くさいところでせずとも、教室に戻ってから好きなだけすればいいのに。だいたい女同士とはいえ、どうして人前で下着姿のままで平気でいられるのだろう。だらしないったらありゃしない。
 心の中でそんな不平をぶつくさ呟きながら、わたしは制服に着替えようとした。
 そのとき、更衣室のドアが勢いよく開け放たれた。中にいた女子生徒が一斉に悲鳴を上げる。男子の悪戯だと思ったのだ。だが、更衣室に飛び込んできたのは制服を着た女子生徒――クラスメイトの安達紀子さんだった。
「みんな大変! 事件よ!」
 荒い息を整えるのもそこそこに安達さんは言った。
 安達さんはどこのクラスにも必ず一人はいる情報通を自称する女子生徒だ。テレビタレントのゴシップやテレビドラマの今後の展開、ネットで仕入れた怪しげな豆知識といったネタはもとより、X組のAさんがBくんと付き合っているだの、C先生が十回目のお見合いに失敗しただのといった学校ローカルな噂などを仕入れては、休み時間にまるで見てきたかのように披露しているのをよく目にしていた。わたしは彼女とは話をしたことはないけど、正直あまり好きにはなれそうにないタイプだと思う。
 安達さんはまた新しいネタを入手したらしく、それを披露するためわざわざ一度出ていった更衣室に舞い戻ってきたようだ。
 しかし、聴衆の反応はいたって冷淡だった。
「紀子にかかればどんなしょうもない出来事も大事件ってことになるからね」「この前の水木先生が事故ったって話も、小学生が乗っていた自転車の補助輪に足を踏まれたってだけだったし」「それは事実に即しているからまだいいわよ。この子の場合、ガセも多いから」「その最たるものといえば、〈坂本、ついに結婚か!?〉ってやつよね」「あの時は天地がひっくり返るかってほどびっくりしたけど、結局は誤報だったし」
 安達さんの情報媒体としての信頼性はこの程度のものだった。
 みんなのつれない反応に安達さんは不機嫌そうに頬を膨らませ、「今度ばかりは本当に本当なのよ!」と力一杯訴えた。
「じゃあ、その大事件とやらを話してみなさいよ。とりあえず聞いてあげるからさ」
 女子生徒の一人に促され、安達さんは待ってましたとばかりに言った。
「自殺よ! この学校の中で人が死んだの!」
 安達さんのその一言に更衣室がどよめいた。相手をせずさっさと着替えようとしていたわたしも思わず手を止めてしまった。
 一方的な愛情を押し付けたあげく、自分の気持ちに答えてくれないとして相手を刺し殺した男。自分の腹を痛めて生んだ子どもを虐待して死に追いやった母親。神の名の元に自らの体に巻き付けた爆弾で罪のない人々を巻き込んだテロリスト。――テレビを付けさえすれば、この世界が死で満ち溢れているという現実に嫌でも気付かされる。
 でもその一方で、わたしは死というものを実際に目の当たりにしたことがなかった。小学校四年生の時、学校で飼っていた兎が何者かに無惨に殺されたという事件があったけど、それも生徒が登校する前に早々に片付けられてしまった。おばあちゃんが亡くなった時も、死に目どころかすでに火葬されていて、小さな木の箱に入った灰しか拝むことができなかった。登場人物を殺せば聴衆の涙を誘えるという安易な目論みで作られた映画を見たところで、当然それは死に立ち会った内には入らないだろうし。
 まだ十二年ほどしか生きていないわたしたちにとって、死なんてしょせん現実味のない他人事でしかなかった。それゆえに、死という事態が自分の通っている学校という身近で起こったことに誰もが色めき立った。興味津々で安達さんにさらなる情報を要求する。
 安達さんは自分がみんなに求められている状況に酔っているようだ。詰め寄るクラスメイトに「まあまあ、そう慌てなさんなって」ともったい付けて言った。
「死んだのが誰なのかはわからないけど、なんでも三年の女子だって話だよ。現場の状況から見て、おそらく屋上から飛び降りたんじゃないかってさ」
 ――三年の女子。
 ――屋上。
 それらの単語を聞いた瞬間、わたしは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
 この学校では生徒が屋上に上がることを禁じている。屋上へ通じる階段はプラスチック製の鎖によって封印されており、たとえそれをくぐり抜けたとしても、屋上へ通じる扉は鍵がないと開けることはできない。よって、生徒が屋上から飛び降りるような事態は本来なら起こりえないはずだった。
 だけど、唯一それを行うことが可能な生徒をわたしは知っていた。
「屋上から飛び降りたってことは、落ちた場所はとんでもないことになっているんじゃ……」「その通り。地面に激突した衝撃で身体がぺちゃんこにつぶれて、脳味噌や内臓が辺り一面に――」「うわぁ……」「――というのはあくまでわたしの想像なんだけどね」「ちょっと、やめてよね! お昼が食べられなくなるでしょ」「ごめんごめん。実のところわたしも人が飛び降りて死んだという話を聞いただけで、実際に現場を見たわけじゃないのよ。どうやら中庭に落ちたらしいんだけどね。うちのクラスの男子が何人か野次馬しに行ったようだから、気になるんなら行ってみたら?」「馬鹿な男子じゃあるまいし、死体を見に行くだなんて悪趣味な真似するわけないでしょ!」
 女子更衣室の中は死んだという女子生徒の話題で持ちきりになっている。わたしには、それらの会話がまるで安物のスピーカーを通したようにくぐもって聞こえていた。
 頭の中をある推測がぐるぐると駆けめぐる。
 三年生。――ありえない。
 女子生徒。――そんなこと。
 屋上。――あるはずかない。
 死。――嘘に決まっている。
 次々とわき上がる疑念を必死に打ち消そうとするわたしの脳裏に、体育館に行く前に聞こえた音が響いた。
 ――それは、扉が閉まる音。
 瞬間、わたしの中で何かが爆ぜた。
 手に持っていた制服を投げ捨てた。
 たむろしている女子生徒をかき分けながら更衣室のドアへと向かう。
 ドアの前では安達さんが得意気に喋っている。
 邪魔。
 わたしは彼女の体を押しのけた。
 たまらず尻餅をつく安達さん。
 わたしに向かって何やらキイキイ文句を言っている。
 相手にしている暇はない。
 わたしは勢いよくドアを開け放つ。
 女子生徒が一斉に悲鳴を上げる。
 かまわず更衣室の外へと飛び出した。
 ちょうど更衣室の前を通りかかった男子と衝突する。
 わたしの体は跳ね飛ばされ、尻餅をついてしまう。
 男子は戸惑いと苛立たしさの入り交じった声で何事か怒鳴っている。
 聞いている余裕はない。
 すぐさま立ち上がって駆け出す。
 さっきまでバレーボールのネットが張られていた体育館の中央を突っ切る。
 行き先は西側非常口。
 その先にある中庭。
「河村さん!」
 誰かがわたしの名を叫んだ。
 たぶん沢田さん。
 無視する。
 内履きのまま非常口から外に出る。
 中庭へとひた走る。
 確かめなくては!
 わたしの推測が間違いであることを、自らの目でしかと確かめなくては!
 学校の中庭はお世辞にもきれいとは言い難かった。ぼうぼうに生い茂った雑草によって遊歩道は獣道のような有様。ひょうたん形の池はドロドロに濁り、中に何が潜んでいるかわかったものではない状態だ。木製の藤棚は白蟻に食い荒らされ、無惨に崩れ落ちてしまっている。花の姿はほとんど見られず、彩りと呼べるものは生徒が教室の窓から投げ捨てたと思しきジュースの紙パックや、持ち込みを禁じられているはずのスナック菓子の空き袋くらいだ。各学級ごとに花壇が割り当てられ、思い思いの花々を植えて華やかさを競い合っていた小学校の中庭とはえらい違いだ。
 そんな状況のせいもあり、普段の中庭はほどんど誰も足を踏み入れることのないうらぶれた場所なのだけど、今日ばかりはその一角に人だかりができていた。おそらく、そこに女子生徒が落ちたのだろう。
 興味本位で野次馬しにきた生徒たちは、モニター越しでしか見たことのなかった死体を生で見たショックで顔をしかめたり、人だかりから離れて気分悪そうにうめいたりしている。
 その様子を見てわたしは怖じ気づいてしまった。飛び降りたのがわたしの懸念している相手であろうとなかろうと、その惨状を目の当たりにしたら彼らの二の舞になることは容易に想像がついた。
 わたしが人だかりから離れたところでまごついていると、後方から坂本先生の大きな声が聞こえてきた。
「こらお前たち、そこをどくんだ!」
 坂本先生は白いヘルメットをかぶった二人組の救急隊員らしき人たちを従え、こちらに駆けてきた。救急隊員は人だかりをかき分けるようにして事故現場へと飛び込んでいく。
「こんなところにいないで早く教室に戻るんだ!」坂本先生は野次馬に向かって怒鳴った。「水木! お前まで野次馬やってる場合か?! さっさと生徒達を中庭の外に誘導しろ!」
「は、はい!?」
 人だかりに紛れていた水木先生があわてて返事をした。どうやら、生徒を現場に近づかせないという職務を忘れ、野次馬の一人と化していたようだ。
 自分の役割を思い出した水木先生に先導され、生徒たちはぞろぞろと校舎の中へと戻っていく。死体を目の当たりにしたショックのせいもあってか、誰も文句を言うことなく大人しく指示に従っていた。
 崩れた人だかりの中から救急隊員が出てきた。さっきは空だったストレッチャーの上に何か乗せられている。当然それは屋上から飛び降りた女子生徒なのだろうけど、上から緑色のシートが被されているため確認することはできなかった。
 正直、わたしはほっとした。死体なんて見たくはなかったし、なによりそれが誰かだなんて本当は知りたくなどなかったから。
 そのとき、一筋の風が中庭を吹き抜けた。それは緑色のシートを軽くめくり上がらせ、中の人の頭部をほん一瞬だけ露わにした。その頭は赤かった。でもそれは血ではなく、髪の毛の色だった。
 その夕陽のような、まぶしさと切なさを感じさせる赤色によって、わたしがここに来るまでに抱いていた疑念は、揺るぎのない確信に変わってしまった。
 愕然と立ちつくしているあたしの横をストレッチャーが通り過ぎていった。
 しばらくしてから救急車のサイレンが再び鳴り、遠のいていった。
 野次馬がいなくなったことで、わたしのところからでも現場の様子が見渡せるようになった。煉瓦で作られた花壇の一角が崩れ落ち、何かの液体でべっとり濡れている。もちろんそれは血なのだろうけど、赤というよりは黒っぽくて、汚れた油のようにしか見えなかった。
 現場から少し離れたところで坂本先生が制服姿の警察官と何やら話をしている。発見時の状況でも説明しているのだろうか。
 生徒の死という不測の事態に狼狽してもおかしくない中、坂本先生は冷静に事にあたっていた。わたしにはその様子が、天敵である松永先輩が亡くなったことに嬉々としているかのように思えてならなかった。初めて坂本先生に恐怖を感じた。
 ふと坂本先生がこちらを向いた。わたしの姿に気付くと一瞬ぎょっとしたような表情になる。警察の人に断りを入れると、足早にわたしの方に向かってきた。
 わたしは逃げだそうとしたものの、足は竦んで動いてくれない。やがて坂本先生はわたしの前までやってきたけど、わたしは俯いたまま先生の顔を見ることができなかった。
「おい、大丈夫か?」
 その気遣うような言葉に、わたしははっとした。それが坂本先生の口から発せられたという事実に驚きを隠せなかった。
 ゆっくりと頭を上げると、そこにはいかつくて、無精髭が生えていて、ちゃんと顔を洗っていなさそうで――だけど、とても悲しげな表情をした坂本先生の顔があった。
「大丈夫か?」
 今一度、坂本先生は自分に可能なかぎり優しげな声で話しかけてきたけど、わたしは返事をすることができなかった。
「お前、体操着姿じゃないか。靴だって内履きだし。野次馬するためにわざわざ体育館からやってきたのか?」
「…………」
「困ったやつだな……。何年何組だ? 見た感じ一年のようだが」
「…………」
「まあいい。早く着替えて教室に戻るんだ。俺はここを離れるわけにはいかないから誰か他の先生に付き添わせよう」
「……いえ、一人で平気です」
 自分でもびっくりするほどのかすれ声だったけど、なんとか返事をすることができた。
「そうか。なら、早く行くんだ。気を確かに持ってな」
「はい……」
 わたしはうなずくと、とぼとぼとした足取りでその場を立ち去ろうとした。でも、すぐに立ち止まり、振り向いて言った。
「……坂本先生」
「どうした? やっぱり付き添いが必要か?」
「いえ、そうではなくて……」わたしは錆びたロボットみたいにぎこちなく頭を下げた。「……ごめんなさい」
 わたしは見た。教師として、いや一人の人間として、子どもに自ら死を選ばせてしまったという現実を前に、坂本先生の目が悲しみと無力感で深く沈んでいるのを。
 それなのに、わたしは坂本先生が天敵である松永先輩の死を喜んでいるなどと思い込み、その姿に恐怖すらしたなんて……。
 わたしはなんて失礼で、なんて薄情で、なんて最低なやつなんだろう。自分のことが恥ずかしくてたまらなかった。
 だから、せめて坂本先生に謝らなくてはならないと思った。たとえそれが己の羞恥の念を拭い去るための方便でしかないのだとしても。
 唐突なわたしの謝罪に困惑した様子の坂本先生だったけど、やがてそんなことはいいからさっさと教室に戻れと言うように軽く手で払う仕草をした。
 わたしはもう一度頭を下げると、今度は脇目も振らず、逃げるように中庭から出ていった。

 わたしが更衣室で着替えて教室に戻ってくると、クラスメイトはお昼も食べずに教室にいた。なんでも緊急の職員会議が招集されたため、それが終わるまで待機しているよう言われたのだそうだ。なぜ突然職員会議が開かれたのか生徒にはいっさい説明はなかったものの、誰もがその理由を知っていた。
 大人しくしていろと言われても、このような状況下で静粛にしていられるわけもなく、クラスメイトはいくつかのグループに分かれ、今回の件について話し合っていた。
 ――ある男子のグループ。
「おれ、人が死んでるところなんて初めて見ちまったよ」「オレもだぜ。でもよ、この間観た映画のほうがよっぽどリアルな感じがしたな」「馬鹿だなお前。映画のはしょせん作り物だぜ。リアルなわけねぇだろ」「でもよ、そっちのほうが何倍も気味が悪かったんだよな」「まあ、確かにそうかもしれないな。仮想はついに現実を追い越しちまったというわけか」「まったく、何をわけのわかんこと言ってるんだか」
 そんなことを笑いながら話している。
 ……何であなたたちは笑っていられるの? 松永先輩が死んだというのに。あなたたちには血も涙もないの?
 ――ある女子のグループ。
「どうして!? どうして死ななきゃならなかったの? 生きていればこの先、楽しいこともきっとたくさんあったはずなのに」「そうだよね……。たった十年ちょっとしか生きていないのに悲しすぎるよ」「死にたくなるほど悲しいことでもあったのかな? それを相談できるような相手はいなかったのかな?」「ねえ、わたしたちの誰かが死にたいと思っていたら相談に乗ってあげようね」「うん、みんなでがんばって生きていこうね!」
 そんなことを泣きながら話している。
 ……何で泣いているの? あなたたちと松永先輩は何の関係もないというのに。単に、自分は人の死に涙できる心優しい人間なのだとみんなに思われたいだけなんじゃないの?
 ――そして、わたし。
「…………」
 ただ黙して自分の席に座っている。
 ……わたし、どうして泣いていないの? 悲しくないの? 何も感じないの? 大切な人が死んでしまったというのに……。。
 そのとき、教室の扉が開いて豊田先生が入ってきた。クラスメイトはあわてて自分の席へと戻り、教室はしんと静まり返った。
 豊田先生は教壇に立ち、皆を見渡す。心なしかその顔は憔悴しているように見受けられた。
 ひとつ小さく咳払いをしてから豊田先生は言った。
「今日は午後から休校ということになります」
「やったぜっ!」
 男子のひとりが席から飛び上がらんばかりに喜んだ。しかし、そのような反応をしたのは彼一人だった。他のみんなは「なんて不謹慎な」とばかりに眉をひそめたり、「形だけでも悲しんでおけよ」と呆れ顔をしている。その男子は気まずくなり、自分の席で小さくなってしまった。
 何事もなかったように豊田先生は続ける。
「今日は掃除も結構ですので、居残ったりせずに早めに帰宅してください。明日は一時限目に臨時の全校集会を行いますが、それ以外は平常通りの予定ですので、宿題や忘れ物などしないよう気をつけてください。――以上です」
 豊田先生の話はそれだけだった。なぜ午後の授業が中止になったのか、なぜ明日緊急の全校集会が行われるのかについては一切説明はなかった。豊田先生から詳しい情報がもたらされなかったことに誰もが少なからず不満を抱いたけど、どうせ訊いたところでまともに答えてくれるはずがないとわかっているので、いちいち文句を言ったりはしなかった。
 日直の号令で起立し、豊田先生に礼をしてその日の学校は終わった。ある生徒は我先にと教室を飛び出し、またある生徒はさっきの続きとばかりに教室の一角に集まってお喋りを再開した。
 豊田先生も教室から出ていこうとした。おそらく、これからまた職員会議の続きがあるのだろう。
「あ、そうでした」廊下に出ようとしたところで、豊田先生はふと思い出したように立ち止まった。「どこで話を聞きつけたのかわかりませんが、マスコミの人間が学校の前をうろついているそうです。ですが、決して相手にしてはいけませんよ。彼らは人の不幸をおもしろおかしく伝えたいだけの人間なのですから」
 ほとんど誰も聞いていない中そう伝えると、豊田先生は今度こそ教室を出ていった。
 しばらくするとお喋りしていた生徒たちも一人、また一人と教室を後にしていく。それでもなお、わたしはただ呆然と自分の席に座り続けていた。
「河村さん」
 わたしを呼ぶ声がした。顔を上げなくても誰だかわかる。どうせ沢田さんが心配そうな様子でわたしを見下ろしているのだろう。
「早く家に帰ったほうがいいと思うよ。そろそろ生徒が帰ったかどうか先生が見回りに来る頃だろうからさ」
「…………」
「今回のことは残念だとは思うけど、だからっていつまでもここにいても仕方がないでしょ」
「…………」
「なんて言うか……生きている人間は死んだ人間の分まで生きていかないと」
「…………」
「……ごめん。もっと気の利いたことを言えればいいのだけど」
「…………」
 わたしのことを心配してくれるのはわかるけど、正直ほっといてほしかった。
 沢田さんがさらに何か言おうとしたところ、
「みさきー、早く帰ろうよー!」
 お約束のように矢島さんが沢田さんを呼ぶ声が聞こえてきた。
 沢田さんは急かす矢島さんに「今行くー!」と答えると、再びわたしに言った。
「じゃあね河村さん。気を確かに持ってね」
 そして沢田さんは教室から去っていった。
 ――気を確かに持て。
 たしか坂本先生も同じことを言っていた気がする。わたしはそれほど思い詰めているように見えるのだろうか。頭の中が真っ白で、何も感じることができないだけなのに。
 気がついたら教室はわたし一人だけになっていた。沢田さんに忠告されたように、このまま席に座っていたら見回りに来た先生に怒られてしまうだろう。
「……帰ろう」
 ひとり呟き、席から立ち上がった。机の脇のフックに掛けていたスクールバッグを手に取ると、思いのほか軽い。そういえば教科書やノートはまだ机に入れたままだった。
 このまま置いていこうかと考えたけど、数学の宿題が出ていたことを思い出した。明日は全校集会の後は通常通りだそうだから、やはり持って帰ることにしよう。
 わたしは机の中から教科書類を引っ張り出したところ、押し出されるように中から何かがこぼれ落ちた。それは板張りの床を跳ね、硬い乾いた音をたてた。
 それは、見覚えのない封筒だった。
 校門を出ると、通学路の脇に白いワゴン車が駐まっているのが見えた。その側面には地元テレビ局の略称である三文字のローマ字と、あまりかわいくないマスコットキャラクターが描かれている。そこから少し離れたところには淡いブルーのスーツを着た女性レポーターと、頭にバンダナを巻いた屈強そうな男性カメラマンの姿があった。豊田先生が言うところの〝人の不幸をおもしろおかしく伝えたいだけの人間〟だ。
 他のクラスでも同様の注意が喚起されているらしく、馴れ馴れしく話しかけてくる女性レポーターを無視して歩き去る生徒が大半だったけど、中には自分にテレビカメラが向けられるという一生に一度あるかという事態に舞い上がり、後日先生に怒られるのもいとわずインタビューに応じる生徒も少なからずいた。
 レポーターはそんなお調子者の一人にマイクを傾けていた。その後ろでは複数の男子生徒が、どうせ首から下しか撮していないカメラに向かってさかんにVサインを送っている。
「ねえ君、学校で飛び降りと思われる事故があったそうだけど」「はい。今、学校はその対応で大わらわですよ」「君はこの件についてどう思った?」「そりゃあ、びっくりですよ。だって自分の回りでそんな事件が起きるだなんて考えてもみなかったですからね」「どうしてそんなことになったのか理由はわかるかしら? 例えば、この学校にはいじめがあったとか」「さあ……僕は死んだ生徒とは学年が違うんでよくは知りませんけど」「そう……」「ただ――」「ただ、何?」「しいて言うなら、あの人が不良だったからじゃないかな」「不良? どういうこと?」「いやね、その死んだ生徒はこの学校でも有名な不良だったんですよ。髪を真っ赤に染めたりするようなね。もちろんそれは校則違反ですから、よく教師ともめていたんです」「じゃあ、先生との対立が原因なのかしら?」「どうなんですかね? 僕にはよくわかりませんけど」「ありがとう。参考になったわ」「いえいえ、どういたしまして」「大人の無理解が女子生徒のガラスのような自尊心を傷付け、死に至らしめたという筋書きか……。何ともありがちね」「あの――」「ん? まだ何か言い残したことでもあるの?」「いえ、別にそういうわけじゃないんですが……。今のって何時のニュースで流れるんですか? 記念に録画しておきたいんで」
 インタビューを終えて去っていく男子生徒。次は自分の番だと名乗りを上げる他のお調子者たち。そんな彼らを無視してカメラマンと何やら打ち合わせをしているレポーター。――そんな光景をわたしは腹立たしい思いで眺めていた。
 あなたたちは何もわかっていない! 松永先輩はいじめとか大人の無理解とか、そんなくだらない理由で死んだんじゃない。もっと崇高な理由で自ら死を選んだんだ。
 松永先輩はこんなくだらない世界を離れ、さらに空に近い場所へと旅立ったんだ。自らの手で雲をつかみ取るために。その際に生身の身体は邪魔なだけ。だから地上に置いていったんだ。たしかに人は生まれることを拒否できない不自由を背負わされているかもしれないけど、死ぬことだけは己の自由にできるのだから――。
 その真相をこの場にいる全員に訴えたかった。勝手な解釈で松永先輩の死を貶めようとしている人たちに教えてやりたかった。それは、唯一先輩と心を通わせることのできたわたしの義務なのだから。
「ねえあなた、ちょっといいかしら?」
 わたしが心の中で勇んでいたところ、不意に声をかけられた。件のレポーターがいつの間にかわたしの目の前に立っていた。テレビカメラがわたしに向けられている。
「通っている学校で起こった悲劇について、あなたがどう思っているのか聞きたいんだけど」
 レポーターは私にマイクを突き付けて言う。どうやら男子生徒ばかりでなく、女子生徒の話も聞きたいと思ったようだ。
 さっきは松永先輩の考えを代弁するのだと息巻いていたくせに、実際にその機会が与えられるとへどもどせずにはいられなかった。
 でも、がんばらないと。先輩の名誉を守るために闘わないと!
 そう自らを奮い立たせ、緊張でうまく動きそうにない口からなんとか言葉を紡ぎ出そうとする。
「せ……先輩は……松永先輩は……」
 だけど、その先が続かない。実際に口にしようとした段階で気付いてしまったのだ。先ほど思い描いた松永先輩の死の真相を、わたし自身まったく信じられずにいるということに。
 そもそも、わたしは松永先輩について何を知っているというのだろう?
 クラスは何組? 家はどこ? 家族構成は? 得意な科目は? 運動は得意? 好きなアーティストは? どんな本が好き? 好みの男性のタイプは?
 ……どの問いにもまともに答えることができなかった。
「ねえ、どうしたの? なんで黙っているの?」
 でも仕方がないじゃない。先輩はあまり自分のことを話したがらなかったのだから。どうせ聞いたところで、難しい話ではぐらかされるのがオチだろうし。それでもしつこく尋ねようものならきっと鬱陶しがられたに違いない。最悪、もう会ってくれなくなったかもしれない。それだけはどうしても避けなければならなかった。
「もしかしてあなた、何か知っているの?」
 言い訳のような言葉が次々と頭に浮かんでは消える。だけど、結局はたったひとつの結論にしか達しそうになかった。
「だったら話してくれない? これはこの学校だけの話ではなく、この国の教育制度に対する問題提起になるのかもしれないから」
 それは――
「ねえ、お願い。答えて!」
 レポーターはわたしにぐいぐいとマイクを押しつけてくる。わたしはマイクに言葉を発する代わりに手で払いのけると、レポーターを突き飛ばした。たまらずよろけたレポーターの横を走り抜ける。
「ちょっと!? 逃げないで!」
 走るわたしの背後でレポーターが叫んだ。
 逃げる?
 何から?
 興味本位でぶしつけなことを聞いてくるレポーターから?
 顔が映らないよう、ひたすら胸元ばかりを撮し続けるいやらしいテレビカメラから?
 違う。わたしが逃げているのは、松永先輩のことを何ひとつわかっていなかったという、認めたくない事実からだ。
 いつも通っている橋の真ん中までやって来たわたしは、これ以上走ることができずに立ち止まった。前屈みになってしばし荒い息を整える。
 呼吸が落ち着いたところで、今来た道を振り返った。そこにわたしを追いかけてくるレポーターやカメラマンの姿はない。彼女たちにしてみればわたしなど数多くいる取材対象の一人にすぎず、多少不審な行動をとったところでわざわざ追いかけるほどの価値はないのだろう。
 ひと息をついたわたしは、背負っていたスクールバッグを下ろして橋の欄干に背中を預けた。堆積した煤で制服が汚れてしまいそうだけど、そんなことをいちいち気にしていられない。
 スクールバッグのチャックを開ける。中には教科書やノートなどに混じって、机から出てきた例の封筒も入っていた。
 封筒を取り出し、口を下にする。すると、中に入っていた物がするりとわたしの手のひらの上に落ちてきた。
 それは、わたしたちを空に近い場所へと誘ってくれたあの屋上の鍵だった。
 鍵は松永先輩に見せてもらったときは銀色に輝き、まるで貴金属で作られているかのように思えたものだけど、今こうしてあらためて見てみると、スーパーの一角にある合鍵屋のロゴが刻印されている安っぽい代物にすぎなかった。
 封筒には他には何も、手紙のようなものは入っていなかった。なので、はっきりしたことはわからないけど、おそらく松永先輩は、わたしに空に近い場所を委ねようと考え、屋上から飛び降りる前にこの鍵を机の中に入れたのだと思われた。
 それは、先輩がわたしのことを誰よりも信用してくれたという証なのだろう。
 そんな松永先輩の想いに対し、わたしはというと――
 わたしは鍵をぎゅっと握りしめると、大きく振りかぶり、橋の上から勢いよく放り投げた。
 鍵は太陽の光を浴びてきらきら輝きながら、放物線を描いて落ちていく。その様子はまるで、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
 鍵は下を流れる川へと吸い込まれていった。車がうるさかったにもかかわらず、その着水音がはっきりと耳に届いた。
 水面に広がった小さな波紋は川の流れによってあっという間に掻き消され、鍵がどのあたりに落ちたのかさえもわからなくなってしまった。

 松永先輩。
 先輩がわたしに屋上の鍵を託してくれたことはとても嬉しかったです。わたしはこれまで、真面目ないい子だと言われることはあっても、信用に足る人間だと思われたことなんてたぶんなかったはずだから。
 本当ならその気持ちに応えたかった。
 ……でも、駄目なんです。
 だって、わたしは先輩の考えているような人間ではないから。
 わたしは大人にとっての真面目ないい子でいたいがために平気で友達を裏切るような最低の人間なんです。
 自分の証を守っていくなんて偉そうに宣言しておきながら、先輩がみんなにどう思われているか知ったとたん怖くなり、決意がぐらついてしまうような情けない人間なんです。
 それに、わたしは松永先輩が死んだというのに、悲しいという気持ちよりも先に、わたしを見捨てて行ってしまった、裏切られたという憤りの方が先立ってしまうような薄情な人間なんです。
 わたしが松永先輩のことを何ひとつわからなかったように、きっと先輩もわたしという人間を理解していなかったんでしょうね。
 それにわたし、あの鍵を手にした瞬間、怖くなってしまったんです。先輩がこれを使ってわたしに後を追えと言っているように思えて……。
 結局のところ、沢田さんに指摘されたように、わたしには松永先輩のような強さなど持っていなかったのだと思います。
 だから、わたしにはあの鍵を持つ資格なんてありません。空に近い場所に近づいてはいけない人間なんです。だから、捨ててしまいました。
 ごめんなさい松永先輩……。本当にごめんなさい……。

 わたしは再びスクールバッグを背負うと、足早にその場を後にした。
 家に鞄を置いたら髪を切りに行こうと思う。

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