青い風、きみと最後の夏

「もしかしてずっと、外にいたの?」

 お母さんが言うように、碧人の髪も制服も、しっとりと濡れていた。
 わたしはそんな碧人の姿を眺めながら、最後に碧人がこの部屋に来たのはいつだったっけ、なんて頭の隅で考える。

「おまえが無視するから」

 碧人がぼそっと答えた。わたしはあわてて、持っていたスマホを見せる。

「む、無視してたわけじゃないよ。気づかなかっただけなの。メッセージきてるって、いま知って……」

 碧人は不審な目でわたしを見ている。

「ほんとかよ」
「ほんとだってば! ていうか、そんなところで待ってないで、うちくればよかったじゃん」
「いきなりなんて、これるわけないだろ? 『碧人には会わない』なんて言われてさ」
「え?」

 碧人は疲れたように、わたしのベッドの上に腰を下ろした。

「学校で聞いたよ。篠宮に会ったんだってな」
「……うん」

 碧人が深くため息をつく。

「そんで、おれには会わないって言ったんだろ?」
「言ったよ。だってそのほうがいいと思ったから」
「勝手に決めんなよ! カンケーないやつに言われたくらいで!」

 碧人が少し大きな声を出す。わたしはぎゅっと唇を結んだ。
 碧人は頭に手を当てて、くしゃくしゃと自分の髪をかきまわす。
「だけど……練習サボったのは悪かったと思ってる。先輩にも怒られたし、明日からちゃんと出る」

 わたしはちょっとホッとする。
 碧人は根が真面目だから、ほんとうはサボりなんか、できるはずないんだ。

「でもおれは夏瑚にも会いにくる。毎日は無理かもしれないけど……」
「どうしてそこまでするの?」

 わたしの声に、碧人が手を止める。

「わたしのことが心配なの? わたしだったらもう大丈夫だよ。碧人のお父さんに言われたとおり、わたしにできることを、ゆっくりやっていくつもりだから」

 碧人がじっとわたしを見ている。わたしはそんな碧人に笑いかける。

「だから碧人もできることをやっていきなよ。とりあえず、夏の大会に出るっていう目標があるんだからさ」

 碧人は黙ってうなだれてしまった。部屋のなかに沈黙が落ちる。

「碧人?」

 うつむいた碧人は動こうとしない。わたしはもう一度唇をかみしめて、碧人の背中をばんっと叩いた。

「なにしょぼんとしてるのよ! 明日からちゃんと練習して、大会出場して、ぜったい一位取りなよ? あんたはまだ走れるんだから!」

 碧人が顔を上げ、大きな瞳でわたしを見た。わたしはハッと口をつぐむ。

 最後の言葉、言わなきゃよかったな。
 なんだかわたしが走れない分まで、碧人に押しつけているみたいだ。
「あの、えっと……」

 これじゃ、わたしのお母さんと変わらない。

『がんばってね、碧人くん。みんなの分まで』

 亡くなったみんなの分まで。走れなくなったわたしの分まで。
 みんなの想いを、碧人ひとりに押しつけてしまう。

 おじさんは背負わなくていいって言ったけど……きっと碧人はみんなの想いを、無理してでも背負おうとするはず。
 だって碧人は、根が真面目なやつだから。

「わかってるよ」

 つぶやいた碧人が立ち上がった。

「おれだけだもんな。あんな事故に遭ったのに、かすり傷ですんだやつ」

 碧人はたぶん、それを申し訳なく思っている。きっと、ずっと。

「わかってる。走ることができるのはおれだけなんだから……やるよ」
「碧人……」
「夏瑚にはしばらく会わない。そうする」

 碧人がわたしを見て、ほんの少し口元をゆるめた。
 それは、笑っているのに泣いているみたいに、わたしには見えてしまった。
 あれはまだ、わたしたちが中学一年生のころ。
 ある陸上の大会に、碧人が出場することになった。
 一年生で選ばれたのは、碧人だけだった。

『すげーじゃん、碧人! ぜってー、勝てよ!』
『いっせー、あんまり碧人にプレッシャーかけんなよ』
『は? プレッシャーがなんだ! おれは誰よりも速い、って気持ちでいかなきゃだめだろ! なぁ、碧人?』

 一成が瑛介くんの忠告を振り切り、碧人の肩を組み、顔をのぞきこんでいる。

『はは、まぁ、がんばるよ』
『強気だ、強気! 強気でいけよ! 碧人は三中陸上部の、期待の星なんだから!』
『だから、いっせー、プレッシャーかけるなって』

 みんなに囲まれ、碧人はいつもみたいに笑っていた。

 でもその日の帰り、わたしが忘れ物を取りに部室に戻ろうとしたら、碧人がまだグラウンドで走っていたんだ。
「え、碧人?」

 立ち止まったわたしに気づいた碧人が、グラウンドの隅に駆け寄ってくる。

『あれ、夏瑚。帰ったんじゃねぇの?』
「忘れ物取りに戻ってきたんだ。それより碧人、なにやってんの?」

 もうとっくに練習は終わり、先輩たちや他の部活の生徒もいない。
 ひと気のないグラウンドはいつもよりずっと広く見えて、いまにも消えそうな夕陽が、あたりをかすかに照らしていた。

『あー、うん。もう少し、走っていこうかなって……』
「へぇ、めずらし。あっ、選手に選ばれたから? もしかしてプレッシャーかかってる?」

 碧人は照れくさそうに笑って、茶色い髪をくしゃっとつかんだ。

『そりゃあ、かかるよ』
「瑛介くんも言ってたけど、いっせーの言葉なんか気にしなくていいよ。あいつの鋼の心臓は特別だから」

 あははっと碧人は笑って、わたしを見た。

『うん、でもさ、やっぱ選ばれた以上はいい成績残したいし。一年のみんなや、選ばれなかった先輩たちの分もさ』

 淡い光のなかに立つ碧人は、すごくまっすぐな目をしていた。

『だからもう少し、練習していくよ』

 そのとき、わたしの心の奥のなにかが、コトンっと音を立てて動いた気がしたんだ。
『じゃ、また明日な』

 グラウンドに向かって走りだす碧人の背中に、声をかける。

「待って、碧人! わたしもつきあうよ!」
『え?』

 碧人が不思議そうな顔で振り返る。わたしは胸のなかに芽生えたザワザワを追い払うように、にかっと笑って碧人に言った。

「わたしここで見ててあげる。お礼はアイスバー一本でいいよ」
『はぁ?』

 碧人は一瞬眉をひそめたあと、すぐにけらけら笑いだした。

『ま、いっか。じゃ、頼むわ。ひとりはちょっと寂しかったからさ』

 わたしは碧人の前でふふっと笑う。
 おとなりの家に遊びに行くと、ひとりぼっちで留守番していた碧人が、いつも嬉しそうにわたしを迎えてくれたことを思い出した。

「よしっ、じゃあがんばれ! 本番はぜったい一位でゴールしなよ!」
『だからプレッシャーかけるなって』

 碧人が笑って、わたしも笑った。

 ふたりだけの夕暮れのグラウンド。碧人の走る姿を、わたしはずっと見ていた。
 そしてその大会で、碧人はみんなの期待に応えるように、誰よりも速くゴールしたんだ。
 しとしとと降る雨が、誰もいないグラウンドに溜まっていく。
 わたしは保健室の窓辺に座って、それをぼんやりと眺めている。

 ここ数日、雨はずっと降り続いていて、このまま永遠とやまなかったら……なんて、ふと考える。
 グラウンドも、校舎も、バス通りも、わたしの家も、雨で水浸しになっちゃって、やがてあふれて、わたしたちは溺れて……夏は永遠にやってこない、なんて。

「あら水原さん、いたんだ」

 カラリと引き戸が開き、鴨ちゃん先生の風鈴みたいに澄んだ声が響く。

「『いたんだ』って……ひどいなぁ。せっかく遊びに来てあげたのに」

 廊下から、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
 雨の日の放課後の校舎は、いつもより余計に騒がしい。

 鴨ちゃん先生はふふっと笑って、持っていた書類を机の上に置いた。

「最近ちゃんと授業受けてるみたいだね」

 先生の声を聞きながら、わたしはまた窓の外へ視線を移す。

「受けてるよぉ、エライっしょ?」
「うん。エライ、エライ」

 窓辺に来た先生が、わたしの頭をふわふわとなでる。
 不満そうに口をとがらせてみたけれど、ほんとうはすごく心地よかった。
「でも今日は、急いで帰らなくていいんだ?」

 鴨ちゃん先生の言葉が、胸にちくんっと刺さる。

「うん。まぁね。もう用事がなくなったっていうか」
「ふうん」

 碧人は真面目に部活に出るようになったらしく、ここにはやってこなくなった。

 わたしたちはもう会わない。
 碧人は『しばらく』って言ったけど、もしかしたら大会が終わっても、わたしたちはもう会わないかもしれない。

 碧人にはわたししかいなくて、わたしには碧人しかいない。
 わたしたちしか、わかりあえない想い。

 だけどそれでいいのかな。

 いつまでもそうやって寄り添いあっていても、わたしたちは変われない気がする。
 いつまでも雨がやまず、夏がやってこないみたいに。

 だからわたしたちはもう、会わないほうがいい。

 わたしはポケットからミルク味のキャンディーを取りだす。包みを開け、口のなかに放り込んでから、もう一個を先生に差しだす。

「せんせ。これ、あげる」

 先生はわたしのとなりで、ふんわりと微笑む。

「ありがと」

 キャンディーを口のなかでコロンっと転がす。
 甘いはずのキャンディーなのに、なんだか苦い味がするのはどうしてだろう。
 鴨ちゃん先生に「またね」と言って保健室を出た。

 昇降口に向かって歩いていると、渡り廊下で陸上部が練習していた。
 わたしはその様子を横目でちらっと見ながら通り過ぎる。

 昇降口で靴を履き替え、雨のなかに傘を開こうとしたら、女の子たちに声をかけられた。

「水原さん、いま帰り?」

 同じクラスのテニス部の子たちだ。最近よく教室でも話しかけてくれる。

「うん。みんなも?」
「そう。雨で部活休みだからさぁ、これから遊びに行こうかと思ってて」
「カラオケとかねー」

 女の子たちは一瞬目くばせをしあったあと、ひとりの子がわたしに言った。

「ねぇ、水原さんも一緒に行かない?」
「え」

 驚いた。だってわたしみたいなクラスで浮いている人間を、誘ってくれるなんて思ってもみなかったから。

「あっ、もちろん用事があるならいいんだけど」
「そうそう。でもみんなで話してたんだよ。水原さんも誘おうよって」

 わたしはぼうぜんと立ちつくす。

「わたしたちみんな、水原さんともっとしゃべってみたくて……え、水原さん?」

 女の子たちがあせっている。
 だってわたしはみんなの前で突っ立ったまま、ぽろぽろ涙をこぼしていたから。