「やっぱダメだぁ。碧人には勝てないや」
「夏瑚……」
「やめやめ。終わりにしよう」
「夏瑚!」
横を向くと、碧人がじっとわたしを見ていた。
「夏瑚、おれ、さっき言ったよな? 好きなひといるって……」
胸の奥がずきんっと痛む。鼓動が急に速くなる。
なんだかその続きは聞いてはいけないような気がして、わたしは咄嗟に立ち上がった。
「ごめん、碧人。トイレ借りるね」
「あ、おいっ、夏瑚!」
逃げるようにリビングを出たら、ちょうど帰ってきたおじさんとばったり会った。
「夏瑚ちゃん!」
「おじさん」
おじさんは目を細めて頬をゆるめる。
「夏瑚ちゃん……会いたかったよ」
わたしはおじさんの前で笑顔をみせた。
「いやぁ、なにも言わずに引っ越してしまって、ほんとうに悪かったね」
もう遅いから今日は早く帰ったほうがいいと言われ、わたしはすぐに帰る支度をして、おじさんと碧人と一緒に駐車場へ向かった。
車に乗り込むとき、「おれはここで……」と碧人が言ったけど、「おまえも来るんだ」とおじさんに押しこまれた。
だからわたしたちはいま、後部座席に並んで座っている。
「夏瑚ちゃんの家族に行先も言わずに消えてしまって、ほんとうに申し訳なかった。長い間、よくしてもらっていたのにね」
「いえ……」
とは言ったが、お母さんは碧人たちのことを、とても心配していた。わたしもなんでって思った。でもいまならわかる。
碧人はあの事故からも、学校からも、みんなからも、わたしからも……一刻も早く逃げたかったんだろう。
そんな碧人を想って、おじさんは引っ越しを決めた。
きっと碧人もおじさんも、わたしやわたしの家族に、二度と会わないつもりだったのかもしれない。
だけどわたしは碧人を呼んでしまった。
碧人はわたしに会いにきた。
わたしたちは再び、交わりはじめた。
「でもよかったよ。夏瑚ちゃんが元気そうで」
おじさんも、わたしのお母さんと同じことを言う。
きっと思っているんだ。みんなの分まで、がんばって生きてねって。
「だけど夏瑚ちゃんは、なにも背負わなくていいんだよ」
「え?」
「ときには逃げたってかまわない」
後部座席のわたしは、バックミラーに映るおじさんの顔をぼんやりと見た。
「まだ十五歳の夏瑚ちゃんや碧人が、亡くなったみんなの想いまで背負うのは、重すぎるでしょ? おじさんは夏瑚ちゃんや碧人に、そんな重荷は背負わせたくない」
となりに座っている碧人を見る。碧人はなにも言わずに、窓の外の灯りを見ている。
「こんなこと言ったら不謹慎だろうけど、おじさんは碧人と夏瑚ちゃんが生きていてくれて、ほんとうにうれしかった。だからこれからも、生きていてくれたら、それだけでいい」
胸がじんっと熱くなる。
おじさんに、そんなふうに言われるとは思わなかった。
「誰かのためになんか、生きなくてもいいんだよ。自分のできることを、ゆっくりやっていきなさい。夏瑚ちゃんの人生は夏瑚ちゃんのもの。碧人の人生は碧人のものだよ」
おじさんは前を見たまま笑う。
「まぁうちの碧人に、亡くなったみんなの分まで立派に生きろって言ったって、できるわけないからね。ただ後悔しないように生きろとは、いつも言ってるんだ」
おじさんの明るい声が車内に響く。
「ま、夏瑚ちゃんが嫌じゃなかったら、また遊びに来てよ」
「はい」
わたしは答えた。そしてとなりにいる碧人の手を、そっと握る。
碧人の指が、びくっと動いた。わたしはそれを包み込むように、握りしめる。
ごめんね、美冬。ごめんね。
いまだけ、こうさせて。
そしたら明日、今日より少しだけ、がんばれそうな気がするから。
ゆっくりと走る車のなかで、碧人の手がわたしの手を握り返した。
フロントガラスにはもう、わたしの住むマンションが見えていた。
翌日もわたしは教室で授業を受けた。最後の授業が終わると、いそいで荷物をまとめて、廊下へ出る。
昇降口に向かってずんずん歩いていたら、鴨ちゃん先生にばったり会った。
「あら、水原さん」
白衣姿の先生が、わたしの顔を見つめてにっこり微笑む。
だけどやっぱり、先生に白衣は似合っていない。
「昨日も今日も保健室に顔を出さないから、どうしてるかなって思ってたんだよ」
わたしは先生の前で、両手をぱんっと合わせる。
「ごめん! せんせ! ちょっと忙しくて!」
鴨ちゃん先生はぷっと噴きだして、あははっと笑った。
「なに言ってるの。保健室なんて来ないほうがいいんだから。忙しいのはいいことだよ」
先生がわたしの肩をぽんっと叩く。
「また気が向いたら、遊びにおいで」
ひらひらと手を振って歩きだす、鴨ちゃん先生に駆け寄る。
「せんせ! これ!」
ポケットから取りだしたのは、ミルク味のキャンディー。
「あげる! 食べて!」
「ありがと。水原さん」
わたしからキャンディーを受け取る先生の手は、やわらかくて、とてもあたたかかった。
靴を履き替え外へ出る。雨は降っていなかったけど、空はどんよりと曇っていた。
「あれ……いない」
いつものガードレールのところに、碧人の姿はなかった。
わたしはきょろきょろとまわりを見まわす。
「今日は……来ないのかな……」
つぶやいてから、はっと口を閉じる。
なに期待してるんだろう、わたし。
碧人は部活があるんだから、こんなところに来ちゃダメなのに。
来るなって何度も言ったのは、わたしなのに。
「バカみたい……」
ひとりでため息をつき、ガードレールに寄りかかる。
だけどもしかしたら、碧人は今日も、わたしに会いにくるんじゃないかって、ちょっとだけ思った。
手のひらを開いて見つめる。昨日の夜、おじさんの車のなかで、碧人の手をにぎったことを思い出す。
「ねぇ」
そのとき突然声をかけられた。
見ると自転車を押した女の子が、わたしのそばに立っている。
知らない子だ。誰だろう。
小柄でショートボブの、ちょっと気の強そうな顔をしたその子は、碧人と同じ西高の制服を着ていた。
「碧人くんだったら来ないよ」
「は?」
わたしはつい口を開けてしまった。
「碧人くんを待ってるんでしょ? 来ないよ。部活の先輩に呼びだされたから」
女の子が自転車を押しながら、一歩わたしに近づく。わたしは顔をしかめた。
「あなた、誰?」
「あなたこそ、誰なのよ?」
女の子が機嫌悪そうに聞いてくる。なんだか腹が立って、冷たく答えた。
「わたしは水原夏瑚。碧人の幼なじみだけど?」
「幼なじみ? 彼女じゃないの?」
「まさか! 彼女のわけないじゃん!」
首を振ったわたしの前で、女の子は納得できないような顔つきで言った。
「わたしは篠宮。篠宮千晴。碧人くんと同じクラスで、陸上部のマネージャーやってんの」
陸上部のマネージャー? マネージャーがなんでこんなところに?
「最近碧人くんが授業抜けだして、部活にもこないから、先輩たちが騒ぎはじめて……おとといわたし、碧人くんのあとを自転車でこっそりつけてきたの。そうしたらあなたに会って、公園でバスケなんかして遊んでるじゃない?」
「ちょっと待って! 公園までつけてきたの?」
サイアクだ。この子、碧人のストーカー?
篠宮さんが、さらにむすっとした表情で答える。
「心配だったんだもん。碧人くんになにかあったのかと思って……なのにこんなところまで来て、女の子と遊んでるなんて……もう信じられなかった!」
わたしはぎゅっと自分の手を握りしめる。
「昨日、先輩たちにぜんぶ話したの。だから碧人くん、いまごろ注意受けてるはず……でも……」
篠宮さんがわたしをにらむ。
「悪いのはあなたなんじゃない?」
校門から生徒たちがぞろぞろと出てきた。そして険悪ムードたっぷりのわたしたちを、横目で見ながら通り過ぎていく。
こっち見ないでよ。見世物じゃないっての。
けれど篠宮さんは、まわりなど気にせず続ける。
「だって入学してからいままで、碧人くんが授業や部活をサボることなんて、一度もなかったもの。先輩たちからも、かわいがられてたし……あなたがこんなところまで、碧人くんを呼びつけてたんでしょ!」
わたしはなにも言い返せなかった。
あの日、「会いたい」ってメッセージを送ってしまったのは、わたしだ。
そしたら碧人が、わたしに会いにきてくれた。
だからこの子の言うとおり、碧人を呼びつけたのはわたし。
だけど……わたしと碧人の間には、最近知り合ったばかりのこの子にはわからない、もっともっと大切なことがあって……
『おれにはもう……夏瑚しかいないから』
碧人の言葉を思い出し、胸がつまる。
気づけばわたしは、篠宮さんに向かって言っていた。
「あなたなんかに……わたしと碧人のことがわかるはずなんてない」
「はぁ? どういう意味よ、それ。彼女でもないんでしょ?」
わたしはまた黙りこむ。篠宮さんが小さくため息をついて、口を開く。
「碧人くん、一年生のなかでは期待されてて、夏の大会の選手にも抜擢されそうだったの。でもこれ以上部活サボってたら、それも取り消されちゃうよ」
わたしの頭に真夏のグラウンドを駆け抜ける、碧人の姿が浮かぶ。
「だからもう、碧人くんを誘ったりするのはやめて。練習に集中させてあげて。大会までもう、あんまり時間がないの。わたし碧人くんを、どうしても競技場のグラウンドで走らせてあげたいの」
篠宮さんは、必死な顔で訴えていた。碧人のことを、ちゃんと考えているんだってことはわかる。
わたしだって気持ちは同じだ。碧人には思いっきり、好きなことをしてほしい。
「わかったよ」
わたしはぼそっとつぶやいた。
「碧人には会わない。これでいいんでしょ?」
篠宮さんが、ホッとしたように息を吐く。
「碧人に伝えといて。ぜったい一位でゴールしろって」
篠宮さんはなにも言わなかった。わたしは重い足を動かして、彼女の前を通りすぎる。
「じゃあね。こんなところまで、ごくろうさま。あなたも部活サボってないで、早く戻ったほうがいいんじゃない?」
碧人にはもう会わない。
べつに大丈夫。碧人が引っ越してしまってから、ずっと会ってなかったんだもん。いままでの生活に戻るだけ。
「ねぇ」
篠宮さんがわたしを呼んだ。わたしは足を止めて振り返る。
「まだなにか用?」
「その足……」
少し言いにくそうに、篠宮さんがつぶやいた。
わたしは篠宮さんの聞きたいことを、答えてあげる。
「ああ……よくわかったね。中学のときにケガしちゃって……ちょっと曲がっちゃったんだよね」
いつものように、へらっと笑う。たいしたことないよ、って伝えるために。
でも篠宮さんは、顔をしかめたままだった。
「じゃあね」
わたしはそんな篠宮さんを残して、ひとりで家までの道を歩いた。