昇降口で靴を履き替え、外へ出る。水たまりを踏みつけながら歩き、校門を出たところで立ち止まった。
透明なビニール傘を片手に持ち、もう片方の手でスマホを眺めていた碧人が顔を上げる。
雨が降り続いた三日間、碧人は毎日放課後、ここに来た。
呼んでもいないのに。高校も家も遠いのに。
碧人はわたしの学校まで来て、一緒に家まで並んで歩き、そしてひとりで帰るんだ。
「部活は?」って聞くと、いつも「今日は休み」って答える。
「雨……やんだよ?」
わたしは碧人の前に立って言う。
「うん」
「部活は?」
「休み」
碧人がつぶやいて、いつものようにゆっくりと歩きだす。わたしの家の方向へ。
わたしは動きにくい足を無理やり速め、そんな碧人のとなりに並んだ。
「ねぇ、ほんとうに部活休みなの?」
碧人の顔をのぞき込んで聞く。
「わたしちょっと調べたんだ。西高陸上部って、けっこう強いじゃん。雨降ったくらいで休んだりしないでしょ?」
碧人はなにも答えない。わたしは前を向いて続ける。
「それにどんなにダッシュで来たって、西高からはかなりかかるよ。碧人、ちゃんと授業受けてるの? まさかここに来るためにサボってるんじゃ……」
「おまえに言われたくない」
ぼそっと碧人がつぶやいた。わたしは思わず「はぁ?」と言って、再び碧人の顔をのぞき込む。
「おまえだって毎日、保健室で授業サボってるんだろ?」
たしかにメッセージにそう書いた。
「ひとのこと、言えないじゃん」
「わ、わたしはいいの! でも碧人はダメ!」
「なんだよその理屈。意味わかんねーんだけど」
ふてくされた顔の碧人がわたしに視線を合わせた。
あれ、なんか久しぶりに目が合った気がする。三日間、毎日一緒に歩いていたのに。
碧人はじっとわたしを見たあと、いきなり手をつかんできた。
「こっち来い」
「は?」
青信号の横断歩道を渡る。碧人に手を引っ張られながら。
「な、なんなの?」
「おごってやるから」
「え?」
わたしたちはいつのまにか、コンビニの前に立っていた。マンションの近くのコンビニだ。
「アイスおごってやるから……一緒に食べようぜ」
わたしの顔を見ないまま、碧人がぼそっとつぶやいた。
コンビニの脇にある駐輪場の隅っこで、碧人と並んでブロックに腰掛ける。よく塾の帰りに、碧人とこうやって寄り道した。
碧人がソーダのアイスバーを袋から出し、シャクっとかじる。わたしもそのとなりで、同じようにアイスを食べる。
アイスは碧人が選んで、おごってくれた。
雨上がりの空は美しいオレンジ色に染まっていて、「好き」って言った、響ちゃんや鴨ちゃん先生の気持ちがわかる気がした。
「久しぶりに食った。これ」
わたしのとなりで碧人がつぶやく。
「え、そうなの?」
「うん。おまえはしょっちゅう食ってたみたいだけど」
わたしはアイスを舐めて、へらっと笑う。
「うん。そうだよ。だってこれ、おいしいじゃん。最初にいっせーが買ってきてさ、『ぜったいうまいから食ってみろ』って言って。そのうちみんな、はまっちゃったんだよね」
一成の「ほらみろ」って自慢気な顔を思い出す。
「真夏の練習のあとのこれは、サイコーだった……」
そこまで言って、わたしは黙った。となりに座る、碧人の横顔が見えちゃったから。
碧人はアイスを食べながら、涙を流していた。
「……碧人」
わたしがつぶやくと、碧人はあわてて目元をこすった。
わたしはそれ以上なにも言わずに前を向く。
ちょっと蒸し暑い風が吹いた。中学のころよりずいぶん伸びたわたしの髪が、さらっと揺れる。
ずっとこのアイスを食べ続けていたわたし。
ずっとこのアイスを食べられなかった碧人。
だけどわたしたちが思い出す景色は、きっと同じだ。
ソーダ味のアイスをシャクっとかじる。一成の底抜けに明るかった笑顔が浮かぶ。
「碧人……」
にこっと笑って、碧人を見る。
「おいしいね?」
碧人は洟をすすって、小さくうなずいた。
わたしたちはそのまま、なにもしゃべらなかった。
アイスを食べ終わっても。夕陽が沈んでも。
そしてあたりが薄暗くなり、街の灯りが灯りはじめたころ、わたしたちはやっと腰を上げた。
「じゃあ」
マンションの前まで来ると、碧人が言った。碧人とはいつもここで別れる。
わたしはポケットからミルク味のキャンディーを取りだし、碧人に差しだした。
「碧人。これあげる」
碧人はじっとキャンディーを見つめている。
「アイスおごってもらったお礼だよ」
碧人の手がゆっくりと動き、わたしの手からキャンディーを受け取った。
ほんの少し触れた碧人の指先は、かすかに震えていた。
「もらっとく」
「うん」
碧人が背中を向けて去っていく。わたしはその姿が見えなくなるまで見送る。
それから今日もひとりでマンションのなかへ入った。
「ただいま」
「おかえり、夏瑚」
お母さんの声を聞きながら、灯りの灯ったリビングに入る。宿題をやっている万緒の横を通りすぎ、ベランダの窓をカラリと開いた。
リビングの灯りがほんのりと差し込むなか、わたしの鉢植えが並んでいる。
「ただいま」
緑の葉は昨日よりもまた少し、成長しているようだった。
『夏瑚、これあげる』
あの夏の日、貸し切りバスのなかはにぎやかだった。
公式な大会も終わり、もう三年生は部活引退。だけどその前に、ちょっとしたお楽しみがあった。
わたしたちの住む県では、希望するいくつかの学校の三年生が集まって、毎年陸上競技会が行われていたのだ。
うちの部もその会に参加することになり、同じ市内の他の中学校の部員と一緒に、バスで大きな競技場へ向かっていた。
「あ、ミルクキャンディー! 美冬、いつもこれ持ってるね」
わたしのとなりの席には美冬が座っていた。キャンディーを差しだした美冬は、にっこり微笑む。
『だってこれ、甘くておいしいでしょ?』
わたしも笑ってうなずく。
「うん! わたしもこれ好き!」
美冬の手からキャンディーを受け取った。すると美冬が、ちょっと恥ずかしそうにつぶやいた。
『碧人くんも……好きだって』
「え?」
『こ、この前あげたら、「おれもこれ好き」って……』
美冬の顔がみるみる赤くなっていく。
「へぇ、そうなんだ。知らなかった」
わたしはえへっと笑って、キャンディーを口に放り込む。
バスのなかでは他にもお菓子交換が行われていて、おしゃべりや笑い声も絶えなかった。
今日の競技会は順位を競うものではない。みんなで最後の思い出作りをしようって趣旨の集まりだから、誰もが遠足気分だったんだ。
バスは高速道路に入り、順調に進んでいた。
通路を挟んだとなりの席で、一成が芸人さんのモノマネをして騒いでいる。その横では、碧人がげらげら笑っている。
後ろからマキ先生が、『いっせー、静かに! 似てないモノマネはやめなさい』と注意して、わたしも一緒に笑ってしまった。
そのとき美冬が、突然こんなことをささやいたんだ。
『夏瑚、わたしね。今日の帰りに、言おうと思ってるの』
「へ?」
わたしはまだ、笑いが止まらないまま美冬を見た。
美冬は窓の外の流れる景色を見つめながらつぶやく。
『碧人くんに……好きだって』
背中に一成の、ふざけた声が聞こえてきた。今度は部長の瑛介くんが注意している。響ちゃんの笑い声も、後ろの席から聞こえてくる。
わたしは黙って美冬の横顔を見ていた。
ほんのりと赤く染まった美冬の頬が、すごく綺麗だなって思った。
美冬はゆっくりと首を動かし、わたしを見つめて静かに微笑んだ。
口のなかでミルク味のキャンディーを、ガリっとかじる。粉々に砕けたキャンディーが、舌の上でざらつく。
保健室の机に頬杖をつき、窓の外を眺めた。
今日は朝からよく晴れている。梅雨の晴れ間ってやつだ。
わたしは机の上のスマホの画面に、視線を移す。
『みねさき三中陸上部!』
なにげなくタップしたトーク画面。
わたしはあの日から、みんなにメッセージを送っていない。
『返事のこない相手にずっと話しかけたりして……毎日毎日バカみたいに……』
碧人の言葉を思い出す。
「どうせわたしはバカだもん……」
ごとんっと机に頭を落とした。そのままもう一度、窓の外を見る。
真っ青な空は、もう夏の色みたい。
保健室にチャイムの音が響いた。わたしはスマホをポケットに入れ、ゆらりと立ち上がる。
上履きを引きずりながら廊下へ出ようとしたら、ちょうど戻ってきた鴨ちゃん先生とばったり会った。
「あら、もうお帰り?」
「う、うん」
「今日はやけに早いんだね? いつもわたしが声をかけるまで、帰らないくせに」
鴨ちゃん先生がくすっと笑う。わたしはちょっと頬を膨らます。
「今日はちょっと急いでるの!」
「ふーん、そうなんだ。気をつけて帰りなよ」
鴨ちゃん先生が小さく手を振る。わたしは「また明日も来る」と言って、廊下を速足で歩いた。
靴を履き替え、校門から外へ出る。いつもの歩道に、碧人はいた。
「碧人!」
わたしが呼んだら、ガードレールに腰掛けていた碧人がスマホから顔を上げた。
「今日はいい天気だよ」
「見ればわかる」
ぐるっと空を見まわす碧人。わたしはむすっと口をとがらせる。
「部活、あるんじゃないの?」
碧人がゆっくりと視線を下ろし、茶色い髪をかいた。
「うるせぇなぁ……」
「は? あんたやっぱりサボってるんでしょ!」
わたしの声が大きかったみたいで、下校中の生徒に不審な目で見られてしまった。
だけどかまわず、言ってやる。今日ははっきり言うって決めてきたんだ。
「もうわたしのところなんか来なくていいから! 早く戻りなよ、学校に!」
碧人はふてくされた顔をしている。
「ほらっ、戻りなって!」
制服を着た、碧人の体を押す。わたしの家とは反対方向に。
だけどその手を、碧人がぎゅっとつかんだ。
「帰るぞ」
碧人がわたしの家のほうに向かって歩きだす。わたしは足をふんばった。
「ヤダ! 碧人は学校に戻らなきゃダメだよ! こんなところにいたらダメなの!」
足を止めた碧人がわたしを見る。わたしは碧人の顔をにらみつける。
『今日の帰りに、言おうと思ってるの』
ああ、まただ。また美冬の声が聞こえてくる。
『碧人くんに……好きだって』
わたしはぎゅっと目を閉じる。
「じゃあ……」
頭の上のほうから、碧人の声がした。
「遊びに行こう」
わたしは目を開き、思いっきり顔をしかめる。
「はぁ?」
「遊びに行こうぜ」
意味がわからない。
わたしはなにも言えずに、碧人を見上げる。
碧人は強引にわたしの手を引っ張って、やっぱりわたしの家の方向へ歩きだした。
バス通りにあるホームセンターで、碧人はゴムのボールを買うと、中学校のほうへ向かって歩いた。
去年まで碧人と一緒によく歩いた通学路だ。
「もう……なに考えてるのよ」
碧人の後ろを歩きながら不満を漏らす。碧人は学校の横の坂道をのぼっていく。
この道は……あの公園に続く道。
坂道のてっぺんにつくと、碧人は小さな公園に入っていった。そして遊具の間を通り抜け、奥の芝生広場に向かう。
数日前、ここでわたしは碧人と再会した。わたしの胸が、なんだか熱くなる。
広場は今日も人けがなく、ぽつんとあるバスケットゴールの向こうに、見慣れた街の景色が広がっていた。
「夏瑚。そこで数えてて」
「え?」
碧人がブレザーを脱いでネクタイをはずし、シャツを腕まくりした。
そしてさっき買ったばかりのボールを弾ませながら、バスケットゴールのそばへ行く。
あ……これは……