青い風、きみと最後の夏

「水原さーん、水原夏瑚さーん。そろそろ起きてくださーい」

 鴨ちゃん先生の声が聞こえる。
 わたしは夢と現実の狭間でふわふわしていた頭を、ゆっくりと起こす。

「もう放課後だよ。おうちに帰る時間でーす」
「はぁい」

 もそもそと支度するわたしを、鴨ちゃん先生が腰に手を当てて見下ろしている。
 わたしはそんな先生を見上げて、にかっと笑う。

「水原さん」
「なぁに?」
「無理して笑わなくてもいいからね?」

 わたしは開いていたシャツのボタンを留めながら、先生を見た。
 先生はおだやかに微笑んでいる。

「わたしの前では、笑わなくても大丈夫だから」
「なにそれ?」

 先生はそれ以上なにも言わず、カーテンの向こうに行ってしまった。
 わたしは少し考えて、ベッドから降り、上履きを履く。

「鴨ちゃん先生」

 カーテンの向こう側に出ると、先生はいつものように、机の上の書類に目を通していた。
 保健室のなかは今日も、わたしと鴨ちゃん先生のふたりだけ。

「わたし、そんなふうに見える?」
「うん」

 静かに笑みを浮かべた先生が、わたしに顔を向ける。

「笑ってるのに、いつも泣いてるみたいに見える」

 わたしは頬をゆるめようとしたけど、うまくできなかった。

「荷物が重かったら、少し誰かに手伝ってもらってもいいんだよ」

 鴨ちゃん先生の声が、音のない保健室のなかに響く。

「あんまり重すぎるものを抱えて歩くと、疲れちゃうからね」

 先生はもう一度、わたしに優しく笑いかける。

「もう帰りなさい。また明日も待ってるよ」

 わたしは小さくうなずいて、なにも言わずに保健室を出た。
 教室にリュックを取りに行き、ひとりで廊下を歩いた。
 今日も放課後の校舎はいろんな音が混ざり合っている。

 吹奏楽部のちょっと調子のはずれた音色を聞きながら、わたしはスマホを開く。
 いつものグループ名をタップしたら、昨日聞いた声を思い出した。

『返事のこない相手にずっと話しかけたりして……もうこんなの見てられないんだよ』

 わたしはぎゅっと唇を噛む。自分でもよくわからないもやもやした感情が、胸の奥からあふれそうになる。
 結局わたしはなにも打てないまま、スマホをポケットに突っ込んだ。

「もう……」

 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
 いつのまにか雨が降っていた。わたしはリュックのなかから折り畳みの傘を出す。

 この前制服を濡らして帰ったから、お母さんに毎日傘を持ち歩くよう言われちゃったんだ。
 折りたたみ傘はお母さんので、ちょっとダサい花柄だった。

 わたしはその傘をさし、ゆっくりと歩く。そして校門まで来て、足を止めた。

「碧人?」

 校門の外で、透明な傘をさして立っているのは碧人だった。
「……なにしてるの?」

 碧人はわたしを見て、ぼそっとつぶやく。

「夏瑚を待ってた」

 わたしは顔をしかめた。

「なんで? ほっといてって言ったのに」
「何度だって来るって言っただろ」

 違う学校の制服を着ている碧人のことを、校門から出てきた女子生徒たちが、ちらちら見ながら通り過ぎる。

「帰るぞ」

 碧人がくるっと傘を回し、わたしの家のほうへ歩きだす。わたしは仕方なく、ローファーを履いた足を動かす。
 碧人はちらっとわたしの足を見て、歩くペースを少し落とした。

 ダサい花柄の傘に雨が落ちる。ぽつぽつ、ぽつぽつ……わたしは傘のなかでその音を聞きながら、碧人の背中につぶやく。

「西高……行ってるの?」
「ああ」

 碧人は峯崎西高校の制服を着ていた。同じ市内の高校だけど、ここからはちょっと距離がある。

「どうやって来たの?」
「走ってきた」

 碧人が背中を向けたまま答える。

 は? 雨なのに? でも碧人のズボンの裾は、かなり濡れている。
 水たまりを蹴散らしながら走る、碧人の姿を想像した。

「家もそっちのほうなの?」

 わたしは碧人の引っ越し先を知らない。

「そうだよ」
「ここから……遠いじゃん」

 碧人が黙った。わたしの足が、ぱしゃっと水たまりを踏みつける。

「部活は? やってるの?」

 その言葉を伝えながら、胸がちょっと苦しくなった。

「やってるよ。陸上部」
「そうなんだ」

 碧人は陸上を続けていた。
 なんだかすごくホッとして、そのあと急に腹が立ってきた。
「じゃ、じゃあ、こんなところにいたらダメじゃん! 部活は?」
「今日は休み。雨だから」
「あ、そっか」

 でも碧人は昨日も、わたしのところに来た。授業中だったはずなのに。

 わたしは碧人の背中を見ながら、バス通りを歩く。
 このあたりまで来ると、碧人との思い出の場所が増えてくる。

 小学生のころ、ふたりで本を借りに行った図書館。
 お母さんにおつかいを頼まれて、碧人につきあってもらったスーパー。
 一緒に遊んだ公園。通った塾。小学校や中学校への通学路。

 わたしたちはいつも一緒だった。

 碧人の傘が止まる。気づけばもう、わたしの家の前まで来ていた。
 去年まで、碧人も暮らしていたマンションだ。

「碧人?」

 傘を少し揺らして、碧人の横顔を見る。
 碧人は雨に濡れるマンションを、黙って見上げていた。

 その顔はなんだか泣いているみたいに見えて……

「碧人」

 わたしが呼んだら、碧人はハッとしたように視線をおろして、わたしに言った。

「じゃあな」

 そして濡れた歩道を踏みつけるようにして、あっという間に去っていった。

「なんなの……」

 わたしは花柄の傘をさしたまま、その場に立ちつくす。
 車道を走る車の音と、傘を叩く雨の音が混じりあう。

「なんなのよ……もう……」

 なぜだか昨日聞いた、碧人の声がよみがえってきた。

『夏瑚にはもう、おれしかいないのに……』

 ローファーに雨水がじわじわと染みこんでいく。

 わたしにはもう……碧人しかいない……

 スマホを取りだし、グループトークの画面を見る。
 いくつも続くわたしのメッセージに、すべてついている既読1の文字。

 わたしはスマホの電源を切ると、曲がった足をひきずるようにして、マンションのなかに入っていった。
「……晴れた」

 保健室の窓から空を見上げる。三日間降りつづいていた雨が、放課後にはやみ、空が明るくなってきた。

「よかったねぇ、雨のなか歩くの嫌なんでしょ?」

 わたしの横に並んだ鴨ちゃん先生が、同じように空を見上げて言う。
 でもグラウンドはぐちゃぐちゃだ。これじゃきっと部活はできない。

「……だなぁ」
「へ?」

 わたしは鴨ちゃん先生の顔を見た。先生はパーマヘアを揺らして、子どもみたいにちょっと口をとがらせる。

「もう、水原さんってば。わたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「ごめーん。もう一度言って」

 甘えるように肩を押しつけすりすりすると、「まぁ、たいしたことじゃないけど」って笑ってから、先生が口を開いた。

「わたし、雨上がりの空って好きだなぁって言ったの」
「ああ……」
「薄暗い世界が少しずつ晴れ渡っていくのを見てると、元気がわくよね」

 わたしはうなずき、もう一度空を見上げる。

『わたし、雨は嫌いだけど、雨上がりの空はけっこう好き』

 そういえば、響ちゃんもそんなこと言ってたっけ。
 響ちゃんは、空の微妙な変化を感じとっては、しみじみと口にしていた。わたしは響ちゃんの豊かな感性に、憧れを抱いていたんだ。

「鴨ちゃん先生、わたしの友だちとおんなじこと言ってる」

 にかっと笑うわたしの前で、先生も目を細めた。

 雲がゆっくりと動き、わたしと鴨ちゃん先生の立つ窓辺に、金色の日差しが差し込んできた。
 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。水たまりを踏みつけながら歩き、校門を出たところで立ち止まった。
 透明なビニール傘を片手に持ち、もう片方の手でスマホを眺めていた碧人が顔を上げる。

 雨が降り続いた三日間、碧人は毎日放課後、ここに来た。
 呼んでもいないのに。高校も家も遠いのに。

 碧人はわたしの学校まで来て、一緒に家まで並んで歩き、そしてひとりで帰るんだ。
 「部活は?」って聞くと、いつも「今日は休み」って答える。

「雨……やんだよ?」

 わたしは碧人の前に立って言う。

「うん」
「部活は?」
「休み」

 碧人がつぶやいて、いつものようにゆっくりと歩きだす。わたしの家の方向へ。
 わたしは動きにくい足を無理やり速め、そんな碧人のとなりに並んだ。
「ねぇ、ほんとうに部活休みなの?」

 碧人の顔をのぞき込んで聞く。

「わたしちょっと調べたんだ。西高陸上部って、けっこう強いじゃん。雨降ったくらいで休んだりしないでしょ?」

 碧人はなにも答えない。わたしは前を向いて続ける。

「それにどんなにダッシュで来たって、西高からはかなりかかるよ。碧人、ちゃんと授業受けてるの? まさかここに来るためにサボってるんじゃ……」
「おまえに言われたくない」

 ぼそっと碧人がつぶやいた。わたしは思わず「はぁ?」と言って、再び碧人の顔をのぞき込む。

「おまえだって毎日、保健室で授業サボってるんだろ?」

 たしかにメッセージにそう書いた。

「ひとのこと、言えないじゃん」
「わ、わたしはいいの! でも碧人はダメ!」
「なんだよその理屈。意味わかんねーんだけど」

 ふてくされた顔の碧人がわたしに視線を合わせた。
 あれ、なんか久しぶりに目が合った気がする。三日間、毎日一緒に歩いていたのに。

 碧人はじっとわたしを見たあと、いきなり手をつかんできた。

「こっち来い」
「は?」

 青信号の横断歩道を渡る。碧人に手を引っ張られながら。

「な、なんなの?」
「おごってやるから」
「え?」

 わたしたちはいつのまにか、コンビニの前に立っていた。マンションの近くのコンビニだ。

「アイスおごってやるから……一緒に食べようぜ」

 わたしの顔を見ないまま、碧人がぼそっとつぶやいた。
 コンビニの脇にある駐輪場の隅っこで、碧人と並んでブロックに腰掛ける。よく塾の帰りに、碧人とこうやって寄り道した。

 碧人がソーダのアイスバーを袋から出し、シャクっとかじる。わたしもそのとなりで、同じようにアイスを食べる。
 アイスは碧人が選んで、おごってくれた。

 雨上がりの空は美しいオレンジ色に染まっていて、「好き」って言った、響ちゃんや鴨ちゃん先生の気持ちがわかる気がした。

「久しぶりに食った。これ」

 わたしのとなりで碧人がつぶやく。

「え、そうなの?」
「うん。おまえはしょっちゅう食ってたみたいだけど」

 わたしはアイスを舐めて、へらっと笑う。

「うん。そうだよ。だってこれ、おいしいじゃん。最初にいっせーが買ってきてさ、『ぜったいうまいから食ってみろ』って言って。そのうちみんな、はまっちゃったんだよね」

 一成の「ほらみろ」って自慢気な顔を思い出す。

「真夏の練習のあとのこれは、サイコーだった……」

 そこまで言って、わたしは黙った。となりに座る、碧人の横顔が見えちゃったから。
 碧人はアイスを食べながら、涙を流していた。

「……碧人」

 わたしがつぶやくと、碧人はあわてて目元をこすった。
 わたしはそれ以上なにも言わずに前を向く。

 ちょっと蒸し暑い風が吹いた。中学のころよりずいぶん伸びたわたしの髪が、さらっと揺れる。

 ずっとこのアイスを食べ続けていたわたし。
 ずっとこのアイスを食べられなかった碧人。
 だけどわたしたちが思い出す景色は、きっと同じだ。

 ソーダ味のアイスをシャクっとかじる。一成の底抜けに明るかった笑顔が浮かぶ。

「碧人……」

 にこっと笑って、碧人を見る。

「おいしいね?」

 碧人は洟をすすって、小さくうなずいた。
 わたしたちはそのまま、なにもしゃべらなかった。
 アイスを食べ終わっても。夕陽が沈んでも。

 そしてあたりが薄暗くなり、街の灯りが灯りはじめたころ、わたしたちはやっと腰を上げた。

「じゃあ」

 マンションの前まで来ると、碧人が言った。碧人とはいつもここで別れる。
 わたしはポケットからミルク味のキャンディーを取りだし、碧人に差しだした。

「碧人。これあげる」

 碧人はじっとキャンディーを見つめている。

「アイスおごってもらったお礼だよ」

 碧人の手がゆっくりと動き、わたしの手からキャンディーを受け取った。
 ほんの少し触れた碧人の指先は、かすかに震えていた。

「もらっとく」
「うん」

 碧人が背中を向けて去っていく。わたしはその姿が見えなくなるまで見送る。
 それから今日もひとりでマンションのなかへ入った。

「ただいま」
「おかえり、夏瑚」

 お母さんの声を聞きながら、灯りの灯ったリビングに入る。宿題をやっている万緒の横を通りすぎ、ベランダの窓をカラリと開いた。
 リビングの灯りがほんのりと差し込むなか、わたしの鉢植えが並んでいる。

「ただいま」

 緑の葉は昨日よりもまた少し、成長しているようだった。