『夏瑚……』
すぐそばから声がした。
『行かないで……わたしをひとりにしないで……』
「美冬……」
わたしの足をつかむ、頼りない力。赤くにじんだ、すがるような瞳。
『早く逃げろ! 爆発するぞ!』
ごめん……美冬。
わたしは必死だった。自分が助かるために必死だった。
だから瀕死の親友を置き去りにして、這いつくばってその場から……
「夏瑚」
碧人の声が聞こえた。
ぼうっと視線を合わせると、碧人がわたしの前にしゃがみこんだ。
「ごめん」
碧人が言った。真っ赤な目をして。
「おれ、逃げたんだ。おまえが入院して、つらい思いをしている間に」
碧人がわたしの腕をつかむ。その手はかわいそうなくらい震えていた。
「怖かったんだ。みんないなくなっちゃって……なのにおれだけほとんど無傷で助かって……おれひとりであの学校に戻るのが、どうしても怖かった。だから引っ越したいって、父さんに頼んだ」
わたしは黙って碧人の声を聞く。碧人はわたしの腕をつかんだまま、うずくまる。
「おれが逃げたらダメなのに……夏瑚にはもう、おれしかいないのに……」
「碧人」
わたしは碧人を見下ろして言った。
「わたしは大丈夫だよ?」
ハッと顔を上げた碧人と目が合う。碧人の目からは涙があふれている。小さかった子どものころのように。
「わたしは大丈夫。へんなメッセージ送っちゃってごめん」
碧人の前で笑顔を作り、わたしの腕をつかんでいる手を引き離す。
「碧人は新しい場所で、新しい生活はじめたのにね。もう会いたいなんて言わないから、安心して?」
「なに言ってんだよ!」
碧人を無視して立ち上がる。だけど碧人も立って、わたしの腕をもう一度つかんだ。
「なんでそんなこと言うんだよ!」
「離して。わたしのことは、ほっといて」
「ほっとけないから、来たんだろ!」
碧人がわたしの腕を引き寄せた。芝生の上に、碧人のスマホが落ちる。
「返事のこない相手にずっと話しかけたりして……毎日毎日バカみたいに……もうこんなの見てられないんだよ!」
碧人の顔が目の前に見える。碧人はやっぱり泣いている。
「おれ、来るなって言われても来るから」
ひどくかすれた、碧人の声。
「追い返されても……何度だって夏瑚に会いに来るからな」
碧人の手がそっと離れた。わたしはその場に立ちつくす。
碧人はわたしから顔をそむけると、少しかがんでスマホを拾い、「家まで送る」ってつぶやいた。
マンションのおとなりに住んでいた、同い年の幼なじみ、上條碧人。
小さいころの碧人は泣き虫で寂しがり屋で、いつもわたしのあとを追いかけてきた。
そんな碧人が、小学生になってはじめての運動会で、かけっこの一等賞をとった。
小さな体で風を切るように走るその姿は、いつもの泣き虫碧人とは違って、ちょっとカッコよく見えたんだ。
やがてわたしたちは中学生になり、部活を決めなきゃいけなくなった。
わたしは帰宅部がよかったのに、「あなたは家で勉強なんてしないんだから、せめて部活には入りなさい」ってお母さんに言われてしまい……「入りたい部活がない」って答えたら、「じゃあ陸上部に入りなさい」と勝手に決められてしまった。
理由は碧人が入部したから。「帰りが遅くなっても、碧人くんと一緒なら安心ね」だって。
まぁ、わたしも運動は苦手ではなかったし、結局お母さんの言うとおり、陸上部に入ったんだ。
『ねぇ、夏瑚ー! 知ってるー?』
陸上部の同じ学年、男女六人は仲が良くて、その日も練習のあと、いつもの公園でふざけあっていた。
『碧人がなんで、陸上部に入ったか』
スポーツドリンクをぐびぐび飲んでいたわたしに、響ちゃんがにやにやしながら聞いてくる。
「は? 知らなーい。そんなの」
『小学一年生のときにね、夏瑚にカッコいいって言われたのが忘れられなくて、走るのやめられなくなっちゃったんだってー』
響ちゃんの声に、碧人が勢いよく割り込んでくる。
『は? おれ、そんなこと言ってねーぞ!』
『嘘だぁ、いっせーから聞いたよ。碧人がそう言ってたって』
碧人が一成をにらむ。一成はへらへら笑っている。
『碧人もしかしてそのころから、夏瑚のこと好きだったんじゃないのー?』
響ちゃんにひやかされ、碧人がこっちを向いた。わたしはへらっと笑う。
「ごめーん、碧人。わたし碧人みたいなガキっぽい子、タイプじゃないんだー。わたしはもっと大人っぽいひとが好きなの。たとえば……マキ先生みたいな?」
碧人の顔が怒ったみたいに、かあっと赤くなる。
『はぁ? 誰がおまえなんか好きだって言った? おれだっておまえみたいなへんな女、ぜんっぜんタイプじゃねーし!』
碧人が「ぜんっぜん」ってところに、めちゃくちゃ力を込めて言う。
そんな碧人の横から、一成が口をはさんだ。
『碧人、無理してね?』
『してねーわ!』
碧人が一成を叩こうとして、するりとかわされる。ふたりは追いかけっこするように、バスケットゴールのまわりをぐるぐる走りはじめた。
「そういうところがガキっぽいって言ってんの」
ため息をつくわたしのとなりで、部長の瑛介くんも、アイスを食べながらうなずいた。
『たしかにな』
同意を得たわたしは、にかっと笑ってから、ぼうっと突っ立っている美冬にも言う。
「ねぇ、美冬もそう思わない?」
すると美冬は、ちょっと恥ずかしそうに答えた。
『う、うん。でもわたし、碧人くんの走るとこは、いまでもカッコいいって思うよ』
わたしはそのとき思った。
美冬は碧人に、恋しているんだなって。
だって、碧人の姿を目で追う美冬の頬は、ほんのり赤く色づいていて、すごく綺麗だったから。
「水原さーん、水原夏瑚さーん。そろそろ起きてくださーい」
鴨ちゃん先生の声が聞こえる。
わたしは夢と現実の狭間でふわふわしていた頭を、ゆっくりと起こす。
「もう放課後だよ。おうちに帰る時間でーす」
「はぁい」
もそもそと支度するわたしを、鴨ちゃん先生が腰に手を当てて見下ろしている。
わたしはそんな先生を見上げて、にかっと笑う。
「水原さん」
「なぁに?」
「無理して笑わなくてもいいからね?」
わたしは開いていたシャツのボタンを留めながら、先生を見た。
先生はおだやかに微笑んでいる。
「わたしの前では、笑わなくても大丈夫だから」
「なにそれ?」
先生はそれ以上なにも言わず、カーテンの向こうに行ってしまった。
わたしは少し考えて、ベッドから降り、上履きを履く。
「鴨ちゃん先生」
カーテンの向こう側に出ると、先生はいつものように、机の上の書類に目を通していた。
保健室のなかは今日も、わたしと鴨ちゃん先生のふたりだけ。
「わたし、そんなふうに見える?」
「うん」
静かに笑みを浮かべた先生が、わたしに顔を向ける。
「笑ってるのに、いつも泣いてるみたいに見える」
わたしは頬をゆるめようとしたけど、うまくできなかった。
「荷物が重かったら、少し誰かに手伝ってもらってもいいんだよ」
鴨ちゃん先生の声が、音のない保健室のなかに響く。
「あんまり重すぎるものを抱えて歩くと、疲れちゃうからね」
先生はもう一度、わたしに優しく笑いかける。
「もう帰りなさい。また明日も待ってるよ」
わたしは小さくうなずいて、なにも言わずに保健室を出た。
教室にリュックを取りに行き、ひとりで廊下を歩いた。
今日も放課後の校舎はいろんな音が混ざり合っている。
吹奏楽部のちょっと調子のはずれた音色を聞きながら、わたしはスマホを開く。
いつものグループ名をタップしたら、昨日聞いた声を思い出した。
『返事のこない相手にずっと話しかけたりして……もうこんなの見てられないんだよ』
わたしはぎゅっと唇を噛む。自分でもよくわからないもやもやした感情が、胸の奥からあふれそうになる。
結局わたしはなにも打てないまま、スマホをポケットに突っ込んだ。
「もう……」
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
いつのまにか雨が降っていた。わたしはリュックのなかから折り畳みの傘を出す。
この前制服を濡らして帰ったから、お母さんに毎日傘を持ち歩くよう言われちゃったんだ。
折りたたみ傘はお母さんので、ちょっとダサい花柄だった。
わたしはその傘をさし、ゆっくりと歩く。そして校門まで来て、足を止めた。
「碧人?」
校門の外で、透明な傘をさして立っているのは碧人だった。
「……なにしてるの?」
碧人はわたしを見て、ぼそっとつぶやく。
「夏瑚を待ってた」
わたしは顔をしかめた。
「なんで? ほっといてって言ったのに」
「何度だって来るって言っただろ」
違う学校の制服を着ている碧人のことを、校門から出てきた女子生徒たちが、ちらちら見ながら通り過ぎる。
「帰るぞ」
碧人がくるっと傘を回し、わたしの家のほうへ歩きだす。わたしは仕方なく、ローファーを履いた足を動かす。
碧人はちらっとわたしの足を見て、歩くペースを少し落とした。
ダサい花柄の傘に雨が落ちる。ぽつぽつ、ぽつぽつ……わたしは傘のなかでその音を聞きながら、碧人の背中につぶやく。
「西高……行ってるの?」
「ああ」
碧人は峯崎西高校の制服を着ていた。同じ市内の高校だけど、ここからはちょっと距離がある。
「どうやって来たの?」
「走ってきた」
碧人が背中を向けたまま答える。
は? 雨なのに? でも碧人のズボンの裾は、かなり濡れている。
水たまりを蹴散らしながら走る、碧人の姿を想像した。
「家もそっちのほうなの?」
わたしは碧人の引っ越し先を知らない。
「そうだよ」
「ここから……遠いじゃん」
碧人が黙った。わたしの足が、ぱしゃっと水たまりを踏みつける。
「部活は? やってるの?」
その言葉を伝えながら、胸がちょっと苦しくなった。
「やってるよ。陸上部」
「そうなんだ」
碧人は陸上を続けていた。
なんだかすごくホッとして、そのあと急に腹が立ってきた。
「じゃ、じゃあ、こんなところにいたらダメじゃん! 部活は?」
「今日は休み。雨だから」
「あ、そっか」
でも碧人は昨日も、わたしのところに来た。授業中だったはずなのに。
わたしは碧人の背中を見ながら、バス通りを歩く。
このあたりまで来ると、碧人との思い出の場所が増えてくる。
小学生のころ、ふたりで本を借りに行った図書館。
お母さんにおつかいを頼まれて、碧人につきあってもらったスーパー。
一緒に遊んだ公園。通った塾。小学校や中学校への通学路。
わたしたちはいつも一緒だった。
碧人の傘が止まる。気づけばもう、わたしの家の前まで来ていた。
去年まで、碧人も暮らしていたマンションだ。
「碧人?」
傘を少し揺らして、碧人の横顔を見る。
碧人は雨に濡れるマンションを、黙って見上げていた。
その顔はなんだか泣いているみたいに見えて……
「碧人」
わたしが呼んだら、碧人はハッとしたように視線をおろして、わたしに言った。
「じゃあな」
そして濡れた歩道を踏みつけるようにして、あっという間に去っていった。
「なんなの……」
わたしは花柄の傘をさしたまま、その場に立ちつくす。
車道を走る車の音と、傘を叩く雨の音が混じりあう。
「なんなのよ……もう……」
なぜだか昨日聞いた、碧人の声がよみがえってきた。
『夏瑚にはもう、おれしかいないのに……』
ローファーに雨水がじわじわと染みこんでいく。
わたしにはもう……碧人しかいない……
スマホを取りだし、グループトークの画面を見る。
いくつも続くわたしのメッセージに、すべてついている既読1の文字。
わたしはスマホの電源を切ると、曲がった足をひきずるようにして、マンションのなかに入っていった。
「……晴れた」
保健室の窓から空を見上げる。三日間降りつづいていた雨が、放課後にはやみ、空が明るくなってきた。
「よかったねぇ、雨のなか歩くの嫌なんでしょ?」
わたしの横に並んだ鴨ちゃん先生が、同じように空を見上げて言う。
でもグラウンドはぐちゃぐちゃだ。これじゃきっと部活はできない。
「……だなぁ」
「へ?」
わたしは鴨ちゃん先生の顔を見た。先生はパーマヘアを揺らして、子どもみたいにちょっと口をとがらせる。
「もう、水原さんってば。わたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「ごめーん。もう一度言って」
甘えるように肩を押しつけすりすりすると、「まぁ、たいしたことじゃないけど」って笑ってから、先生が口を開いた。
「わたし、雨上がりの空って好きだなぁって言ったの」
「ああ……」
「薄暗い世界が少しずつ晴れ渡っていくのを見てると、元気がわくよね」
わたしはうなずき、もう一度空を見上げる。
『わたし、雨は嫌いだけど、雨上がりの空はけっこう好き』
そういえば、響ちゃんもそんなこと言ってたっけ。
響ちゃんは、空の微妙な変化を感じとっては、しみじみと口にしていた。わたしは響ちゃんの豊かな感性に、憧れを抱いていたんだ。
「鴨ちゃん先生、わたしの友だちとおんなじこと言ってる」
にかっと笑うわたしの前で、先生も目を細めた。
雲がゆっくりと動き、わたしと鴨ちゃん先生の立つ窓辺に、金色の日差しが差し込んできた。