青い風、きみと最後の夏

「というわけで、制服びしょ濡れになっちゃってね。今日はジャージで登校してきたってわけ」

 翌日は朝から良い天気だった。
 ぬかるんでいたグラウンドも、昼前には乾いていた。

「で、ジャージ着てきたついでに、たまには体育の授業も受けてみようかなぁなんて」

 グラウンドの隅でストレッチしながら、あははっと笑ったら、クラスの女の子たちもぎこちなく笑った。

「こらぁ、そこ、おしゃべりしてないで並べー!」

 体育教師が、100メートル走のスタート地点から怒鳴っている。
 筋トレ大好き、筋肉サイコーって言いだしそうな、見るからに熱血っぽい男性教師だ。

 わたしたちは急いでそこへ向かう。

「でも水原さん。今日は短距離走だけど、足は大丈夫なの?」

 ひとりの女の子が、わたしのとなりを小走りしながら聞いてくる。
 昨日の放課後、教室でしゃべったテニス部の子。走るたびにポニーテールが、ぴょこぴょこと揺れている。

「あ、うん。大丈夫だよ。全力疾走はできないけど」
「無理しないでね?」

 優しい子だなぁ。ちょっと美冬(みふゆ)に似てるかも。
「次のグループ。位置について!」

 筋肉教師にせかされて、わたしたちはスタートラインに並んだ。

 懐かしい。最後に100メートル走ったのはいつだっけ?
 中学校のグラウンド。真夏の日差し。蒸し暑い風……

「用意!」

 教師の声で我に返り、まっすぐ続く白いラインを見つめる。
 そのとき誰かがわたしを呼んだ。

『夏瑚』

 はっと足元を見下ろす。

『夏瑚……行かないで』
「美冬?」

 美冬がわたしの足首をつかんでいる。

『行かないで、夏瑚。わたしをひとりにしないで』

 体がぶるっと震えた。
 地面に這いつくばった美冬が、真っ赤な瞳で、すがるようにわたしを見上げている。

「美冬……」
『夏瑚。どうしてわたしをひとりにしたの?』

 ピッ。

 体育教師のホイッスルが響く。両どなりの子が走りだす。
 だけどわたしの足は動いてくれなくて、代わりに体がぐらりと揺れて、目の前の景色がぷつっと消えた。
 うとうととした浅い眠りのなかで、わたしは夢を見ていた。
 一年前、中学三年生のころの夢だ。

『夏瑚ー! また遅刻だよー』
「ごめんごめん!」

 わたしは埃っぽいグラウンドに向かって走っている。
 呼んでいるのは陸上部の仲間だ。

 親友の美冬は、小柄でかわいらしい子。おとなしくておっとりしているくせに、足が速い。

 背が高くて美人な響歌(きょうか)は、面倒見の良いお姉さんタイプ。跳んでいる姿もすっごく綺麗。

 部長の瑛介(えいすけ)くんは冷静沈着。後輩からも慕われている、努力家の長距離ランナー。

 お調子者の一成(いっせい)はムードメーカー。どんな大会でも緊張しない、鋼の心臓を持っている。

 それからもうひとり、いつも楽しそうに笑っていて、誰よりも速く100メートルを駆け抜けていた男の子……

 あれ、誰だっけ?
 ずっと一緒にいたような気がするのに、思い出せない。

『夏瑚! 早くしろ!』

 背の高い男のひとが、わたしの名前を呼んだ。

「マキ先生!」

 陸上部顧問の蒔田(まきた)先生。
 若くてカッコよくて優しいマキ先生は、みんなの人気者だった。

『先、行ってるぞ、夏瑚!』
「え、ちょっと待ってよー」

 先生と部員たちが走りだす。わたしは追いかける。だけどどうしても追いつけない。足が絡んで、うまく動いてくれないんだ。

 みんなとの距離がどんどん開いていく。わたしは必死に走る。

「待ってってば! みふゆ! きょうちゃん! ぶちょー! いっせー!」

 わたしは叫んだ。泣きながら。

「マキ先生!」

 だけどみんなの姿がどんどん遠くなって、やがて黄色い光のなかに消えていった。
「あ、起きた? 水原さん」

 目を開けたら、見慣れた保健室の天井が見えた。
 ベッドで寝ているわたしの顔を、鴨ちゃん先生が覗きこんでいる。

「あれ……わたし……今日保健室来たっけ?」

 覚えがない。

 鴨ちゃん先生は静かに微笑む。

「体育の時間、グラウンドで倒れたの、覚えてない?」

 ああ、そういえば。
 スタートラインでホイッスルの音を聞いたあと、体が揺れて……

「貧血と寝不足ね。水原さん、夜ちゃんと眠れてる?」
「あー、ついスマホゲームがやめられなくて……」

 鴨ちゃん先生がため息をつく。

「うなされてたよ? 『ごめんね、ごめんね』って」

 わたしはゆっくりと体を起こし、ぺろっと舌を出した。

「あれ、鴨ちゃん先生に、寝言聞かれちゃった? やだなぁ、もう。彼氏にも聞かれたことないのに」

 先生はふっと頬をゆるめて、わたしのぼさぼさ頭をぽんっと叩く。

「冗談言ってないで、夜はちゃんと寝なくちゃダメ」
「……はぁい」
「今日はこのまま帰りなさい。おうちのひとにお迎えきてもらう?」

 わたしはぶんぶんっと首を横に振った。

「大丈夫。ひとりで帰れるよ」

 鴨ちゃん先生はまた小さく笑って、わたしのリュックを差しだした。

「クラスの女の子たちが心配してたよ。今日は早退だねって話したら、水原さんの荷物持ってきてくれた」

 そうか。あのテニス部の子たちかもしれないな。

「明日、お礼言う」
「そうだね」

 わたしは鴨ちゃん先生から荷物を受け取って、いつもみたいに、にっと笑ってみせた。
 まだ授業中の、静まり返った校舎を出たら、眩しい日差しが頭の上から降り注いできた。

 わたしはちょっと顔をしかめて、空を仰ぐ。
 めまいがするほどの青い空に、真っ白な雲が浮かんでいる。
 こんな空を見ると、やっぱりみんなを思い出してしまう。

 昇降口の前に立ち、スマホのトーク画面を開く。

【今日は早退しまーす】

 じっと自分の文字を見つめてから、続きを打つ。

【久しぶりに体育出たら、ぶっ倒れちゃったんだぁ。ぜんぜん体力ないしー。ダメだね、みんなみたいに部活やってないと】

 『えへへ』って苦笑いしている猫のスタンプ。
 それから少し考えて、また続ける。

【うちの学校の体育教師、めっちゃ熱血でゴリラみたいなの。全身筋肉ってかんじー。マキ先生とは大違いだよぉ】

 泣いている猫のイラストを見て、ちょっと笑う。

 音楽室から、どこかのクラスの歌声が流れてきた。
 わたしはゆっくりと足を踏みだす。

 返事はこない。だってみんな授業中だもん。

 ポケットにスマホを押し込んだ。なんとなく家には帰りたくなかった。
 バス通りから横道に入り、いつもと違う道を歩いた。

 静かな住宅街をしばらく進むと、わたしが通っていた峯崎第三中学校が見えてくる。
 すごく近いのに、ここを通るのは卒業式以来だ。

 グラウンドでは中学生が体育の授業をしていた。
 一年生なのか、ちょっと大きめの体操服を着て走っている姿が初々しい。

 わたしはしばらくフェンス越しにその様子を眺めて、また足を動かす。
 ついでにあそこにも行ってみよう。

 中学校の横の坂道をのぼる。ここは坂道ダッシュをよくやっていた場所だ。
 だけど……

「こんなにきつかったっけ?」

 普通に歩いているだけなのに、なぜか息が切れる。
 やっぱりわたし、とんでもなく体力ない。

 ひいひい息を吐きながらてっぺんまでのぼると、小さな公園が見えた。
 入口のそばには滑り台やブランコなど、少しの遊具があって、親子連れが何人か遊んでいる。

 わたしは砂場で遊ぶ子どもの横を通りすぎ、奥の芝生広場へ進んだ。

 誰も使っていないバスケットゴールと、いくつかの古びたベンチ。
 あのころと変わっていない。

 そしてその向こうには、わたしたちの住む街が見下ろせるのだ。

「なつかしー」

 わたしは植え込みのそばに駆け寄り、景色を見下ろした。
 部活が終わったあと、よくここに集まって、バスケをして遊んだり、アイスを食べたりしたんだ。

 目を細めたわたしの前髪を、おだやかな風がすくい上げる。

「変わってないなぁ……」

 ここはぜんぜん変わっていない。芝生もベンチもバスケットゴールも景色も。

 わたしは街の風景をスマホのカメラで撮って、メッセージと一緒に送信した。
【いまここにいまーす。懐かしいでしょ?】

 きっとみんななら、わかってくれるよね。だって毎日一緒にいたんだもん。

【よくここでバスケやったよね。ぶちょーといっせーがフリースロー対決したりね】

 あのころのことを思い出し、くすっと声がもれる。

【真夏の練習のあと、ここで食べるソーダアイスはサイコーだったよね】

 しゅわっとさわやかな味が、口のなかによみがえる。

【またみんなとここで会いたいな】

 指が勝手にそう動いた。

【ねぇ、会いたいよ】

 だけど返事はこない。くるわけはない。
 わたしは膝を折り、その場にしゃがみこむ。

【会いたい】

 それだけ打って、うずくまる。

 会いたい。会いたい。会いたい。みんなに会いたい。
 またみんなとしゃべって、バカやって、笑いあって……真夏のグラウンドを思いっきり駆け抜けたい。

「どうして……」

 わたしの望みはそれだけなのに……

 ピコンッ。

 胸に抱きしめていたスマホから音が鳴った。
 ハッと画面を見下ろす。

【いまから行く】

 わたしの送った文字のあとに、返事がきている。

「え……」

 震えながら画面を見下ろしていたら、また通知音が響いた。

【いまからおれが会いに行く】
 遊具で遊ぶ子どもたちのはしゃぎ声が、遠くから聞こえてくる。
 わたしはバスケットゴールのそばのベンチに座って、ぼうっと風を受けていた。

【いまからおれが会いに行く】

 スマホの画面に浮かんだ文字。
 胸が苦しくて、いますぐ逃げだしたかったのに……わたしはどうしてここにいるんだろう。

「……夏瑚」

 ものすごく長かったような、ほんの一瞬だったような、感覚のつかめない時間のあと、誰かがわたしの名前を呼んだ。

「夏瑚」

 ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。
 目の前で息を切らしている、わたしとは違う制服を着た男の子。

 生まれつきの茶色っぽい髪。ぱっちりした二重の目。男子にしては小柄な体。
 わたしは彼のことを、よく知っていた。

「……碧人(あおと)

 乾いた唇でつぶやく。
 男の子の表情が歪み、わたしから顔をそむけ、自分の髪をくしゃっとつかむ。

 ああ、そうだ。碧人だ。

 ずっととなりの家に住んでいて、保育園も小学校も中学校も一緒だったのに、わたしの知らないうちに引っ越してしまった子。
「碧人……久しぶり」

 わたしは碧人の前でにっこり笑った。髪をつかんだままの碧人が、ちらっとこっちを見る。

「ほんと久しぶりだよね、碧人に会うの。なんにも言わないで、いなくなっちゃうんだもん。ひどくない?」

 碧人は手をおろし、じっとわたしを見つめた。わたしは笑顔のまま、碧人に言う。

「碧人もサボり? まだ授業中でしょ? どこの学校行ってるの?」

 少し強い風が吹いた。わたしの長く伸びた髪が揺れる。
 すると碧人が、苦しそうに声を出した。

「もう……やめろよ」

 碧人がポケットからスマホを取りだす。

「もうこういうのやめろ」

 わたしの目の前に、碧人がグループトークの画面を見せた。
 ずっとずっとわたしだけの言葉が、むなしく並んでいる。

「こんなことしても……誰も戻ってこない」

 わたしはまっすぐ碧人の顔を見上げたまま、その声を聞く。
 碧人はぎゅっと唇をかみしめてから、叫ぶように言った。

「わかってるだろ! もう誰もいないんだ! おれたち以外、みんな死んじゃったんだから!」

 おれたち以外、みんな死んじゃった――

 頭のなかで何かがぶつかり、真っ赤な色がはじけ散った。

 ぐちゃぐちゃになったバス。いままで感じたことのない痛み。あちこちから聞こえてくる、叫び声やうめき声。
 なにが起こったの? 痛い。苦しい。逃げなきゃ。助けて。