青い風、きみと最後の夏

 歩行者信号が青に変わった。碧人の手がわたしの腰にまわる。
 その手がすごく大きくて、熱くて、心臓がびくっと跳ねた。

 ふたりの足が横断歩道の上を進む。
 碧人はやっぱり小さいころと違う。大きくなった手も、高くなった身長も、低くなった声も、おとなりに住んでいたかわいかった碧人とは違う。

『いたよ……好きなひと』

 いつかの碧人の言葉を思い出し、また鼓動が速くなる。

 おとなりに住んでいる、かわいい幼なじみと思っていたのは、わたしだけ?
 もしかして碧人はだいぶ前から、わたしのことをそういう目で見ていたの?

 美冬や篠宮さんが、碧人を見ていたときのような目で……わたしのことを……

「夏瑚? 大丈夫か?」

 気づけばマンションの前まで来ていた。

「あ、ありがとう。ここまででいいよ」
「部屋まで送るよ、痛いんだろ?」
「いい! 大丈夫! ほんとにマジで! あ、碧人が走るとこ、見に行くから。がんばってね!」

 碧人は少し目を細め、なにも言わずにうなずいた。
 わたしはなんだか恥ずかしくて、とにかくここから離れたかった。

 足を引きずりながら歩くわたしのことを、碧人がじっと見ているのがわかる。

 どうしちゃったんだろう。わたし。
 碧人に触れられた背中や腰が、しびれるように熱い。
 結局その夜、足が腫れてしまったわたしは、お父さんの車で病院に行き、全治一瞬間の捻挫と診断された。

 情けない。恥ずかしすぎて、誰にも言いたくない。

「はぁ……」
「夏瑚。学校には連絡しておいたから。しばらく、補習はお休みしますって」
「うん……」

 わたしはベランダに腰掛け、花に水をあげていた。いくつかの鉢に分けて植えたひまわりは、黄色い花を咲かせている。

 今日こそ、鴨ちゃん先生に渡したかったのにな。この鉢なんか、いまがちょうど見ごろなのに。
 鴨ちゃん先生の嬉しそうな顔を想像して、またため息が漏れる。

「はぁ……」
「お姉ちゃんどうしたの? ため息ばっかりついて」

 万緒がアイスを食べながら、わたしのとなりに座る。

「もしかして、恋の悩みとか?」
「バカ、ちがうって。そんなんじゃないよ」
「ほんとに碧人くんとつきあってないの? お姉ちゃん」

 途端にわたしの顔が熱くなる。

「つ、つきあってるわけないでしょ!」
「ほんと、素直じゃないなぁ、お姉ちゃんは。いつまでも幼なじみでいましょうとか、いられるわけないじゃん」
「はぁ?」

 顔をしかめたわたしの前で、アイスをひと口かじった万緒が、大人びた表情で言う。
「どうみてもお姉ちゃんと碧人くんって、ずっと前から両想いっぽいんですけど。なんで素直にならないの? お姉ちゃん、碧人くんが引っ越してからずっと、死んだ魚みたいな顔してたくせに」
「し、死んだ魚って……」
「でも最近は、赤くなったり青くなったり、人間らしくなってきたね?」

 万緒がわたしの顔をのぞきこみ、にこっと笑う。わたしは顔をしかめて、指をさす。

「ねぇ、そのアイス、わたしのじゃない?」

 万緒はぺろっと舌を出す。

「あんたねー! ひとのアイス、勝手に食べるなって言ってるじゃん!」
「キャー! やめてー! きゃははははー!」

 生意気な妹にはくすぐりの刑だ。

 万緒の笑い声を聞きながら、顔を上げる。
 ベランダから見えるのは、青い夏空。

 美冬――心のなかで、そっとつぶやく。

 美冬もずっと、こんな気持ちを抱えていたの?
 五日後、久しぶりにわたしは学校へ行った。足はまだ完治していなくて、歩くのはつらかったから、学校まで思いきってバスに乗った。
 ちょっとドキドキしたけど、なんとか学校前のバス停で降りることができて、ホッとする。

 教室で補習を受ける前、ミニひまわりの鉢植えを抱えて、保健室に行った。

「鴨ちゃん先生!」
「あら、水原さん、久しぶり」

 今日も鴨ちゃん先生は、にっこり笑顔を見せてくれる。

「もう捻挫したとこ、大丈夫なの?」
「えへ、なんとか。ご心配おかけしました」

 わたしは苦笑いしてから、「ところで!」と叫ぶ。

「今日は鴨ちゃん先生にプレゼントを持ってきました!」

 わたしは「じゃじゃーん!」と効果音をつけ、後ろに隠していたひまわりの鉢植えを差しだす。

「先生にはいっぱいお世話になったからさ。お花のプレゼント!」

 先生はわたしの前で呆然としている。

「せんせ?」
「え、ああ、水原さんの育てていたお花って、ひまわりだったんだね?」
「うん、そう。これミニひまわりっていって、普通のひまわりより小さくて、かわいいでしょ?」

 先生に鉢を差しだすと、それを受け取った先生が目を伏せた。

「外で元気に伸びているひまわりも好きなんだけどさ、中学のとき、顧問の先生の机にこの花が置いてあったのを見て……それでわたし、こっちもいいなって」
「そう……」
「わたし、これからあんまり保健室に来れなくなっちゃうかもしれないけど……毎日これ見て、わたしのこと思い出してね? せんせ」

 そっと目を開けた先生が、黄色いひまわりを見つめて微笑む。

「ありがとう。水原さん」

 わたしは鴨ちゃん先生の顔を見る。
「せんせ?」
「うん?」

 ひまわりを抱きしめるようにして、先生が顔を上げる。

「どうしたの?」
「なにが?」
「先生……笑ってるのに、泣いてるみたいに見える」

 グラウンドから、野球部の金属バットの音が響いた。
 サッカー部の、掛け声も聞こえる。

 鴨ちゃん先生はしばらく黙ってから、そっとわたしの髪をなでてくれた。

「なんでもないよ。ちょっと昔のこと、思い出しちゃっただけ」
「昔のこと?」
「うん。わたしもね、つきあってた彼に、この花をプレゼントしたことがあって」
「えー、先生の彼氏? てか過去形?」
「そうそう、過去形」

 うふふっと笑う先生を見ながら、わたしはつぶやく。

「ねぇ、せんせ。恋をするって……どんな感じ?」

 先生は笑うのをやめてわたしを見てから、静かに窓の外に視線を移す。

「そうだなぁ……世界がキラキラ輝いて見えて、でもちょっと寂しくて、だけどすごく幸せな感じ、かな?」

 わたしは必死に想像する。そんなわたしを見て、先生がくすっと笑う。

「水原さんだって、もうしてるでしょ? 恋」

 かあっと顔が熱くなった。

「ま、ま、まさか!」

 だけど頭に碧人の顔が浮かんできて、離れてくれない。頭を抱えるわたしを見て、先生はくすくす笑っている。
「ねぇ、水原さん」

 何も言えなくなったわたしに先生がつぶやいた。

「わたしたちの毎日はあたりまえじゃないんだよね。いろんな奇跡が重なりあって、わたしたちはこの世界で生きてる」

 先生の涼やかな声が、静かな保健室に響く。

「あたりまえじゃない世界はとても不安定で、突然壊れることもある。それは水原さんも、もう知っているよね?」

 先生がゆっくりと、わたしに視線を移した。わたしはこくんっと、小さくうなずく。

「だからわたしは思ってるの。伝えたいことは伝えられるうちに、ちゃんと伝えようって。いつ、どんなことがあっても、後悔しないように」

 わたしは先生のおだやかな顔を見ながら思った。
 先生も大切なひとを、失ったことがあるのかなって。

 先生がひまわりを見下ろす。そしてその指先で、黄色い花びらをちょんっとつつく。

「そろそろ補習はじまるんじゃない? 教室戻ったほうがいいよ?」
「うん」

 わたしはうなずいて背中を向けた。そして引き戸に手をかけたところで振り返る。

「鴨ちゃん先生。また遊びにくるね」

 先生はなにも言わず、ちょっと寂しげに微笑んだ。
 保健室を出て、廊下を歩きながら考える。

 わたしや生徒たちの悩みを聞いてくれる、鴨ちゃん先生。

 でも先生は、誰かに苦しい想いを吐きだすことはできるのかな。
 先生だって人間だもん。つらいことも、悲しいこともあるよね?

 校舎のなかにチャイムが響く。
 わたしは教室を目指して、足を速める。

 いつかわたしが、鴨ちゃん先生の話を聞いてあげられるようになれたらいいな。
 そして先生の抱えている重たい荷物を、半分……いや、三分の一でも、わたしが持ってあげたい。
 それで先生が、心の底から笑ってくれたら嬉しいな。

 その日わたしは、篠宮さんにメッセージを送り、夕方会う約束をした。
 待ち合わせ場所は、この前篠宮さんと行った、駅前のコーヒーショップ。
 夕方の店は、サラリーマンや学生で賑わっている。

「水原さん」

 窓際のカウンター席に座って、アイスコーヒーをちびちび飲みながら待っていたら、篠宮さんの声が聞こえた。
 部活帰りの篠宮さんは、制服姿だ。

「え、水原さんも制服? 夏休みなのに?」
「ああ、わたしは補習に行ってて」

 苦笑いしてから、篠宮さんに言う。

「ごめん。急に呼びだしちゃって」
「べつにいいけど。話ってなに?」

 篠宮さんがとなりに座った。
 わたしはごくんと唾を飲みこむ。

 言いたいことは考えてきたのに、なかなか声にならない。
 篠宮さんが不審な目で、わたしを見ている。

「え、えっと、碧人のことなんだけどっ!」

 言った。まだ最初のひと言だけど。やっと声に出せた。
 わたしはアイスコーヒーのカップを両手で包み、言葉をつなげる。

「わたし、明日の競技前に、碧人にいまの気持ちを伝えようと思ってる」

 篠宮さんが顔をしかめてつぶやく。

「それって……告白するってこと?」
「告白っていうか……とにかくいまわたしが思ってることを、ちゃんと碧人に伝えたくて……」

 首をかしげながら、篠宮さんが言った。

「よくわかんないけど……水原さんも好きなんでしょ? 碧人くんのこと」

 心臓がまた、大きく跳ねる。

 好きなのかと言われても、実はよくわからなかった。
 でもとにかくいまの気持ちを、碧人に伝えたかったんだ。

 篠宮さんはあきれたようにわたしを見たあと、コーヒーをストローで吸いこみ、ため息交じりにつぶやく。
「碧人くんってさ、ほんとうに水原さんのこと、好きだよね?」
「へ?」
「気づいてたんだ。碧人くんが水原さんとバスケしてるとこ見たときから」

 そういえばこの子、わたしたちのあとをつけていたんだっけ。
 わたしは碧人と何度も、バスケットゴールにボールを投げた日を思い出す。

「だって碧人くん、ほんとうに楽しそうに笑ってたんだもん。学校や部活では、あんな笑顔見せないのに」
「え……」
「水原さんといるときだけ、碧人くんは心から笑ってたんだよ」

 わたしは篠宮さんの顔を見る。篠宮さんは、ちょっと寂しそうな顔で笑う。

「しかたないな。碧人くんのことは、あきらめてあげる。まぁ、告るつもりなんて、最初からなかったけどね」
「ど、どういうこと?」

 篠宮さんが、にやっとわたしに笑いかける。

「あんたたち見てると、じれじれするの。だから早くくっつけばいいのにって思って、告白するって言ってみただけ」
「はぁ?」

 ぽかんと口を開けたわたしに、篠宮さんが言う。

「わたしは碧人くんに幸せになってほしいからさ。碧人くんがほんとうに好きなひとと、くっついてほしいの」

 わたしはカップを包む手に力を込めた。篠宮さんはもう一度ストローを吸ってから、わたしに告げる。

「感謝してよね。わたしに」

 そしてコーヒーを手に持ち、にっと笑って席を立つ。

「じゃね。わたしこのあと塾だから」

 篠宮さんが手を振る。短いボブヘアがさらっと揺れる。

「ちゃんと碧人くんに伝えなよ。水原さんの気持ち」

 去っていく篠宮さんに、わたしは言った。

「ありがとう! 篠宮さん!」

 篠宮さんは笑って、もう一度手を振った。