薄暗い校舎を一歩出ると、真夏の日差しが頭の上から照りつけてきた。わたしは手で、伸びた前髪を分けながら、空を見上げる。
雲ひとつない、青い空。
あんまり眩しくて目をそらしたら、校舎の脇の花壇に、大きなひまわりが咲いているのに気づいた。
「こんなところに咲いてたんだぁ」
わたしは思わず駆け寄った。太い茎のひまわりは、黄色い花を咲かせて、まっすぐ空に向かって伸びている。
そしてわたしは、職員室で咲いていた、小さなひまわりを思い出す。
「どうしたの? これ」
中学二年生のころ、クラスで集めたプリントを持ってマキ先生の席に行ったら、机の上にひまわりの鉢が置いてあった。
『ああ、かわいいだろ? ひまわりってさ、真夏の太陽の下でイキイキ咲いてるのもいいけど、こういうのも癒されるよな』
マキ先生の口からお花の話題が出るなんて、ちょっと意外だった。
「そうかなぁ、たしかにかわいいけどね。わたしはでっかいひまわりのほうが、夏っぽくて好きだなぁ」
マキ先生は、あははっと声を上げて笑った。
『そうだな。夏瑚はでっかいひまわりが似合うよな。素直にまっすぐ、太陽に向かってぐんぐん伸びていくみたいな?』
「マキ先生だって、ひまわりが似合うよ」
真夏の太陽の下で、さわやかに笑っているような。
「このかわいいひまわり、先生が買ったんじゃないでしょ?」
黄色い花びらを指先でちょんっと揺らしてから、わたしがたずねた。
するとマキ先生はいたずらっぽい顔をわたしに近づけ、耳元でこっそりささやいたんだ。
『実はこれ、彼女からのプレゼントなんだ。毎日これ見て、わたしのこと思い出してねってさ』
わたしの耳が熱くなった。先生はわたしから離れると、長い指を口元に一本立てた。
『誰にも言うなよ。ナイショだからな』
先生が目の前でにこっと笑う。わたしは両手で口元を覆ったあと、ふふっと肩を震わせて言った。
「いいこと聞いちゃった。さっそくみんなに話しちゃお!」
『おいっ、ナイショだって言ってるだろ。マジで誰にも言うなよ』
「そんなの無理だよー! ごちそうさま!」
先生に背中を向けて、職員室を飛びだした。後ろから『おーい、水原ー!』なんてマキ先生が呼んでいたけど無視した。
そしてわたしは誰もいない校舎の隅で、ちょっとだけ泣いたんだ。
誰にも話したことがない、恋とも呼べないような淡い想いは、中二の夏にあっさり終わってしまった。
ポケットのなかで、スマホが振動した。わたしは過去の思い出を振り払い、画面を見る。
そこには碧人からのメッセージが届いていた。
【いま、どこにいる?】
久しぶりにきた碧人のメッセージは、あきれるほどそっけなかった。
わたしはちょっと戸惑ったあと、やっぱりそっけなく返事する。
【学校。補習が終わったとこ】
【中学校のそばの公園まで来れる?】
【行けるよ】
【じゃあそこで待ってて。いま部活終わったから、すぐに行く】
わたしは『OK!』の猫スタンプを送って、スマホをポケットに入れた。
そして真夏の空の下を、ゆっくりと歩きだす。
碧人に会うのは、あの競技場に行った日以来だった。
汗が勝手に噴きだすような暑さのなか、わたしはふうふうと息を吐きながら坂道をのぼった。
まいったなぁ、ほんとうに体力ないや。
筋トレでもしようかな。体育の筋肉先生みたいに。
坂道のてっぺんの公園に、子どもたちの姿はなかった。
真夏の炎天下、遊んでいる子どもなんていないんだろう。熱中症になってしまう。
わたしはバスケットゴールのある芝生広場に行き、木陰のベンチに腰を下ろした。
碧人はいつ来るんだろう。アイスでも買ってくればよかったかな、なんてちょっと後悔する。
ひとりでぼうっと景色をながめていたら、篠宮さんの言葉を思い出した。
『わたしが碧人くんに告白するのは問題ないよね?』
篠宮さん、ほんとうに告白するつもりなのかな。
もしかして、もう告白してたりして。
胸の奥がざわざわしてきた。美冬じゃなくて、篠宮さんとつきあう碧人の姿を想像する。
ふたりは同じ高校だし、同じクラスだし、同じ部活だし、共通の話題もたくさんあるだろう。
教室のなかでも、放課後も、いつも一緒。西高校の制服を着たふたりが、並んで歩く姿を想像するのは、美冬のときより簡単だった。
いままではわたしが、碧人の一番そばにいたのにな……
胸がちくんっと痛んで、なんだか寂しくなったとき――
「夏瑚!」
聞きなれた声が、わたしを呼ぶ。
ゆっくりと顔を上げると、制服姿の碧人が、小さく手を振り駆け寄ってきた。
「はー、あっちぃ」
碧人は息を切らしながら、わたしのとなりに腰掛けた。肩が大きく上下している。
「大丈夫? 学校からダッシュで来たの?」
「うん。夏瑚が待ってると思って」
「わたしなんかどんだけ待たせたっていいのに。どうせ暇なんだからさ」
碧人がわたしのとなりで、あははっと笑った。額の汗が、きらっと夏の日差しに光る。
その横顔がわたしには眩しすぎて、碧人からさりげなく視線をそむけた。
「なにかあったの?」
わたしの声に、碧人が答える。
「おれ、来週100メートル走るから」
「えっ」
思わず振り返ってしまう。碧人はわたしのとなりでにこにこ笑っている。
「もしかして、選手に選ばれたの?」
「うん」
「大会に出れるの?」
「そう」
「よ、よかったぁ……」
わたしはベンチの背に体をあずけ、胸をなでおろした。
碧人が部活をサボってしまったり、走れなくなったりしたことを知っていたから、内心ひやひやしていたんだ。
「夏瑚のおかげだよ」
「まさか! 碧人ががんばったからだよ」
体を戻し、碧人のほうを向く。碧人はやっぱりにこにこしている。
あれ、今日の碧人、すごく楽しそう。
やっぱり選手になれたの、嬉しいんだ。
「なぁ、夏瑚」
「うん?」
「走る前にさ、ちょっとお願いがあるんだ」
「お願い?」
わたしは首を傾げる。碧人は自分の髪を、くしゃっとつかんだ。
「聞いてくれたら、たぶんおれ、すごくがんばれそうな気がする」
なんだろう。碧人のお願いって。
いまからコンビニまで走って、アイス買ってこいとかじゃないよね?
「わたしにできることなの?」
「もちろん」
わたしは少し考えてから答える。
「いいよ」
わたしだって碧人に、気持ちよく走ってほしいから。
すると碧人は、ベンチに座ったまま姿勢を正した。
「じゃ、じゃあさ、ちょっと目、つむっててくれない?」
「え、へんなことするんじゃないでしょうね? デコピンとか」
「するわけねーだろ。そんなん。小学生かよ」
わたしはちょっと口をとがらせながら、碧人の言うとおり目を閉じる。
するとわたしの背中に、ふわっと碧人の手が触れた。そしてそのまま、わたしの体が抱き寄せられる。
「え……」
碧人に強く抱きしめられた。胸の鼓動が高まって、息をするのが苦しい。
頭の上から降ってくるセミの声と、少しの汗の匂い。
背中に触れた碧人の手が、震えているのがわかる。
「碧人……」
わたしの手が、ゆっくりと動く。その手が碧人の背中に触れる寸前、熱い体がわたしから離れた。
「ありがとな」
そっと目を開くと、わたしの前で笑っている碧人の顔が見えた。その頬が、真っ赤になっている。だけどたぶん、わたしの顔も赤いだろう。
「これできっと、がんばれる」
「あ、碧人……あの……」
「帰ろうか。ここ暑いし」
碧人がすっと立ち上がり、わたしに言った。
「お礼にアイスおごるよ。シュワシュワのやつ」
わたしは口を結んで、碧人の顔を見上げる。
わたしを見下ろす碧人の向こうに、青い青い空の色が見えた。
コンビニでアイスを買って、駐輪場の端っこに座って食べた。
建物の陰で日陰になっているとはいえ、ここも暑い。水色のアイスが、あっという間に溶けはじめる。
碧人はわたしのとなりで、なにも話そうとはしなかった。
今度の大会のことも、さっきわたしにしたことも、篠宮さんのことも。
碧人がアイスをかじる音が聞こえる。それだけでわたしの胸がドキドキする。
なんなの、これ。心臓の動きがへん。碧人が突然、あんなことするから。
わたしはちらっと碧人の横顔を見る。日に焼けた肌に、うっすらと汗がにじんでいる。
碧人とはいままでだって、手をつないだり、背中をさすってもらったりした。
小さいころは、いつもくっついてゲームをやったし、ふざけて取っ組み合いだってしたし……なのにさっき、碧人に抱きしめられてから、わたしの体はどこかおかしい。
心臓はずっとドキドキしっぱなしだし、熱が出たみたいに額も頬も熱いんだ。
「そろそろ帰るか。送るよ」
碧人が立ち上がった。
「う、うん」
わたしも立って、歩きはじめた碧人のあとを追いかけ……ようと思った瞬間、コンクリートの上にびたんっと倒れてしまった。
「か、夏瑚?」
碧人があわてて駆け寄ってくる。
なにやってんだ、わたし。平坦なところで転ぶってアホ?
「あ、はは、ごめん、コケちゃった。カッコわる……」
とっさに手で触れた足が、ズキッと痛んだ。
「……っ」
思わず歯を食いしばり、顔をしかめる。
「大丈夫か?」
碧人がしゃがみこみ、わたしの足を見た。
「だ、だいじょうぶ……だけどちょっとひねっちゃったみたい」
顔を上げてへらっと笑ってみたけど、碧人は心配そうに眉をひそめていた。
「病院行こうか? それともスーパーの横の接骨院?」
「いやいやいや! ほんとに大丈夫だからっ」
「夏瑚の大丈夫は信用できない」
「なにそれ」
あははっと笑って立ち上がろうとしたけど、また足が痛んでよろけてしまう。
そんなわたしの体を、碧人が支えてくれた。
「あの、さ……」
「え?」
「おんぶしてやろうか?」
おんぶ? わたしはあわてて首を横に振る。
「だ、大丈夫だって! 家すぐそこだし! ちょっと手を貸してもらえればっ!」
わたしは碧人につかまりながら、ゆっくりと足を動かす。
捻挫したかもしれない。なにもないところで転んで怪我するなんて、バカみたい。
碧人はわたしの体を支えて、となりを歩いてくれる。
「昔さ」
コンビニの駐車場を出て、歩道を歩きながら碧人がつぶやいた。
今日もバス通りは、車が多く行き交っている。
「おれ、夏瑚に、おんぶしてもらったことあるよな?」
「え? そんなことあったっけ?」
「あったよ。公園で遊んでて、おれがコケて。もう歩けないって泣いたら、夏瑚がおんぶしてうちまで帰ってくれたんだ」
「ああ……なんとなく思い出した」
小学校低学年だったかもしれない。あのころ碧人は、わたしより体が小さくて。泣き虫で甘ったれで。碧人はわたしがいなくちゃダメなんだ、なんて、使命感にかられていた。
「あのころの碧人、かわいかったなぁ。わたしより小さくて」
といっても、同い年の子をおんぶして歩くのは大変だった。でもわたしがなんとかしなくちゃって必死で……歯を食いしばって、家までたどり着いたんだ。
横断歩道で立ち止まる。歩行者信号は赤だ。
「いつだっけ。おれが夏瑚の背を追い越したの」
「中学になってからじゃない? 急にぐんぐん伸びちゃってさ、かわいくないっての」
碧人がわたしのとなりであははっと笑った。こんなふうに笑っていると、昔の碧人と変わらない。