「水原さん」
その声に、ハッと顔を向ける。自転車を押した篠宮さんが、眉をひそめて立っている。
「し、篠宮さんっ?」
「さっきから赤くなったりうろうろしたり、なんなの?」
「う、うるさいっ! てかなんであなたがここにいるのよ? またサボり?」
篠宮さんは怒った顔で言い返す。
「サボりじゃないって! ちゃんと先輩に『用事があってちょっと抜けます』って言ってきたの!」
「用事って……わたしに? スマホにメッセージくれればいいのに」
「直接話したかったんだよ」
篠宮さんはむすっと口をとがらせたあと、私に言った。
「碧人くん、ちゃんと走れるようになったよ」
「え……」
ぽけっと突っ立っているわたしを見て、篠宮さんはまた顔をしかめる。
「もしかしてもう、碧人くんから聞いた?」
わたしはぶんぶんっと首を横に振る。篠宮さんは小さくため息をついてから、続けて言った。
「碧人くん、最近調子戻ってきたみたい。水原さんに会った次の日からだよ」
よかった。碧人また、走れるようになったんだ。
「悔しいけど、やっぱり水原さんのおかげだね。ねぇ、どんな手を使って碧人くんをやる気にさせたの?」
「どんな手って……」
篠宮さんは、なにか言いたげな目でわたしを見つめたあと、口を開いた。
「水原さんからわたしに報告は?」
「は? 報告?」
「碧人くんとなにかあったんじゃないの? もしかしてつきあうことになった?」
篠宮さんがじりじりと迫ってくる。わたしはあの日のことを思い出し、また恥ずかしくなる。
「ああっ、赤くなった! やっぱり碧人くんとなにかあったんでしょ!」
「なにもないよ」
「嘘! ぜったいなにかあった!」
「あるわけないでしょ! 碧人はわたしの親友の好きなひとなんだから!」
言ってからハッと口をふさぐ。篠宮さんが顔をしかめる。
微妙な空気が流れたあと、篠宮さんの声が聞こえた。
「もしかして水原さん、その友だちに遠慮して、碧人くんとつきあわないつもりなの?」
わたしはぎゅっと唇を噛む。
「恋愛より友情を優先するタイプ? へぇ……」
わたしは逃げるように歩きだす。篠宮さんが自転車を押しながらついてくる。
「だったらさ」
背中に篠宮さんが声をかける。
「わたしが碧人くんに告白するのは問題ないよね?」
「えっ」
思わず立ち止まってしまったら、篠宮さんがわたしの前に回り込んできた。
「わたしその友だちのこと知らないから、遠慮する筋合いないし。碧人くんと水原さんがつきあってないなら、わたしにもまだ望みはあるもんね」
篠宮さんが意地悪く笑いかけ、自転車にまたがる。
「じゃあね」
「ちょっ、ちょっと! 待ってよ!」
けれど篠宮さんはわたしに振り返ることなく、自転車を走らせ去っていった。
わたしは小さくため息をつき、青空の下を歩きだす。
べつにいい。篠宮さんが告白して、碧人とつきあうことになっても。
それはしかたがないこと。
『ねぇ、夏瑚。ほんとうの気持ちを聞かせて?』
頭のなかに美冬の声が聞こえてきて、わたしはそれを振り払うように足を速めた。
テレビに出ている天気予報士が、梅雨明けを伝えている。
わたしは朝食のパンをかじりながら、ぼんやりとそれを眺める。
「あれぇ、お姉ちゃん。なんで制服?」
寝起きの万緒が、眠そうな顔でわたしに聞く。するとわたしが答える前に、お母さんが横から口を出した。
「夏瑚はね、夏休みも補習なの。テストの成績が悪かったからね」
万緒がにやっと笑ってわたしを見る。
「そうなんだー、かわいそー、お姉ちゃん。せっかくの夏休みなのにー」
「うるさいなぁ、今回はしょうがないの。次回からがんばるから、いいんだよっ」
「ほんとかなぁ? 昨日も夜遅くまで、誰かと電話してたみたいだけど?」
昨日はクラスの友だちから電話があって、長電話しちゃったんだ。
「もしかして、彼氏だったりして」
「え、彼氏? 夏瑚、彼氏いるの?」
「まさか、碧人くんとか? 最近仲良さそうじゃん」
万緒の言葉に、お母さんが目を丸くした。わたしはため息をついたあと、万緒のわき腹に手を突っ込む。
「そんなわけないでしょー! あんたは生意気なんだよー!」
「きゃはははー!」
笑いだした万緒が、突然黙りこむ。わたしはくすぐる手を止め、万緒の視線の先を見る。
「え、お母さん?」
涙を流していたお母さんが、あわてて手で目元をぬぐった。
「ああ、ごめん、なんでもないの。ただ、夏瑚や碧人くんが楽しく過ごしているんだったら、ほんとうによかったって思って……」
万緒がわたしのとなりで黙りこんだ。また微妙な空気が流れる。
わたしが事故に遭ってから、わたしの家族はわたしに気を使うようになった。
わたしがこの家族を、おかしな雰囲気にしてしまったんだ。
わたしはぎゅっと唇をかみしめたあと、もう一度万緒のわき腹をくすぐってやる。
「こんのー! あんたが変なこと言うから、お母さんが泣いちゃったじゃん!」
「えー! あたしのせい? キャー!」
万緒が笑い転げている。それを見て、いつのまにかお母さんも笑っている。
事故の遭ったバスから脱出したあと、意識を失ったわたしは、生死の境をさまよっていたらしい。ぜんぜん覚えてないんだけど。
病室で目を覚ましたとき、お母さんもお父さんも万緒も泣いていた。
よかった。よかったって言って、泣いていた。
わたしは走れなくなって、友だちや先生を失って、となりの家から碧人がいなくなったけど、それでもわたしの家族にとっては、わたしが生きていたことがなにより嬉しかったそうだ。
お母さん、ごめんね。いっぱい心配かけてごめんなさい。
でも大丈夫。わたしも碧人も、少しずつ前に進んでいるから。
だからこれからも、わたしや碧人のことを、見守っていてね?
万緒の笑い声が響くリビングに、お母さんの声が聞こえた。
「夏瑚、時間大丈夫なの? 遅刻するよ」
「あ、やばっ」
わたしは急いでパンにジャムを塗って、口に放り込む。
「いってきまふ!」
「あっ、このお花、先生にあげるんでしょ」
「あ、そうだった!」
お母さんが差しだした、小さな植木鉢を受け取る。今日の朝、ミニひまわりが咲いたんだ。
「あのひまわり、お姉ちゃんがベランダで育ててたやつ?」
「そうよ」
「お姉ちゃん、ガーデニングになんか興味あったっけ?」
万緒の不思議そうな声を聞きながら、わたしは鉢を抱えて靴を履く。
「じゃあ、いってきまーす!」
「いってらっしゃい。気をつけるのよ」
「勉強がんばってねー、お姉ちゃん!」
ふたりの声を背中に、わたしはあわただしく外へ出た。
マンションの外廊下に出ると、となりの部屋の前で女の子が遊んでいた。
今日もクマのぬいぐるみを抱えて、小声でなにか話しかけながら、うろうろ歩いている。どうやらお友だちのクマさんと、お買い物に行くという設定らしい。
かわいいな。今日は挨拶してくれるかな?
わたしは鉢植えを抱えたまま、そっと近寄る。
「おはよう」
声をかけたら、女の子はびくっと肩を震わせて顔を上げた。でもすぐにその顔がぱあっと明るくなる。
もしかして、このひまわりを見てる?
わたしは女の子の前にしゃがみこむ。そして鉢に植えられた小さなひまわりを女の子に見せた。
「ひまわり、好き?」
女の子がこくんっとうなずく。よく見ると今日も前髪に、ひまわりのピンがついていた。
わたしは少し考えてから、女の子の腕に鉢植えを持たせる。
「じゃあこれあげる」
「えっ」
「大丈夫、うちのベランダに、まだまだいっぱいあるの。お姉ちゃん、お花屋さんみたいでしょ?」
わたしはにこっと笑顔をみせる。
「このお花ね、お姉ちゃんの大事なひとが好きだった花なんだ」
女の子はじっとわたしの声を聞いている。
「毎日お水をあげて、かわいがってくれる?」
「うん」
恥ずかしそうにうなずいた女の子の上から、声が降ってきた。
「どうしたの? そのお花」
女の子のお母さんだ。赤ちゃんのいるお腹は、ますます大きくなっている。
女の子は立ち上がって、お母さんに言う。
「お姉ちゃんにもらったの」
「まぁ、ダメよ。悪いじゃない。お姉ちゃんにお返しして」
お母さんの手が伸び、鉢植えを奪おうとした。けれど女の子は、ひまわりを守るように小さな胸に抱きしめた。
「いやっ。このお花、芽衣がお姉ちゃんにもらったの! ちゃんとお水をあげるって約束したの!」
「芽衣……」
お母さんが困った顔をしている。
ヤバい。また余計なこと、しちゃったかな……
「あの……」
わたしが声をかけようとしたら、鉢を抱きしめる芽衣ちゃんの後ろから、お母さんが言った。
「それじゃあ、いただいてもいいですか?」
芽衣ちゃんの顔が、ぱあっと明るくなった。わたしもなんだか嬉しくなる。
「はいっ! どうかかわいがってあげてください! よろしくお願いします!」
ぺこっと頭を下げたら、お母さんがお腹をさすりながら「ありがとう」と少し笑った。
わたしはにこにこ笑っている芽衣ちゃんに、「じゃあね」と手を振る。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
エレベーターに向かいながら、わたしの気持ちはほんわかと満たされていた。
「ていうわけでね、鴨ちゃん先生にはまた明日持ってくるから」
補習のあと、保健室で鴨ちゃん先生に会った。先生はにこにこしながら、わたしを迎えてくれた。
「水原さんが育てたお花ってどんな花なんだろう。なんか想像つかないな」
「えー、それどういう意味? ちゃんと綺麗に咲かせたんだからね!」
わたしの声に、先生がくすくす笑っている。
「明日も補習なんだ?」
「そうなんだよ。毎日だよ、毎日! この暑いなか毎日学校に来るなんて、地獄だよ」
「わたしは毎日来てますけど? 部活やってる子たちもね」
窓の外では運動部の生徒たちが、眩しい太陽の下で練習をしていた。
わたしは思わず声をもらす。
「懐かしいなぁ……」
こんなふうに素直に言えたのは、はじめてだ。
「水原さんは……また走りたいと思う?」
鴨ちゃん先生が、碧人と同じことを聞いた。
先生はわたしが陸上をやっていたことも、事故にあったことも、怪我をしてもう走れないことも、ぜんぶ知っている。
わたしはくすっと笑って、首を横に振った。そして窓の外を眺める。
ひとりの陸上部員が、100メートルを駆け抜けるのが見えた。
風を切って走るその姿が、碧人の姿と重なる。
「でも走ってる姿を見たいとは思う。もう一度、あの子たちの……」
美冬の、響ちゃんの、瑛介くんの、一成の、それから碧人の。
先生は静かに微笑んで、わたしの肩をぽんぽんっと叩いた。
「明日、水原さんの育てたお花、楽しみにしてるね?」
わたしは先生の顔を見て、嬉しくて笑った。