青い風、きみと最後の夏

「だから?」

 つぶやいたわたしの声に、篠宮さんがハッと顔を上げる。

「だからわたしにどうしろって言うの? 碧人に関わるなって言ったのはあなたでしょ? それに部員のメンタル管理はマネージャーの仕事じゃないの?」

 篠宮さんがきゅっと唇を噛む。

「わたしに……どうしろって言うのよ」

 店がざわざわと混んできた。わたしのとなりの空いていた席に、若い女のひとが座りこむ。
 そんなざわめきのなか、篠宮さんのか細い声が聞こえてきた。

「わたし……知ってるの。中三の夏、碧人くんがあのバスに乗ってたって」

 その言葉を聞いた途端、胸の奥が疼きだす。

「わたしのいた陸上部は、大会に参加していなかったけど、事故のことはわたしたちもショックで……だから高校で碧人くんと同じ部活になって、誰よりも応援してあげたいって思った」

 わたしはうつむく。碧人をどうしても、競技場のグラウンドで走らせてあげたいのと言った、篠宮さんの声を思い出す。
 篠宮さんはきっと、碧人のことをかわいそうだと思っていて、それでこんなに必死なんだ。

「でも、いまの碧人くんの力になれるのは、わたしじゃない」

 篠宮さんがはっきりと言った。

「水原さん。あなたも碧人くんと同じ、三中陸上部だったんでしょ? 三中には、碧人くん以外にもうひとり、重傷を負ったけど奇跡的に助かった部員がいたって聞いたことある。それ、水原さんだよね?」

 篠宮さんの視線が、わたしの足元に移る。痛くないはずの足が、じんじんと痛みはじめる。

『おれにはもう……夏瑚しかいないから』

 苦しそうにそう言った、碧人の声が頭に響く。
「お願い、水原さん。碧人くんの力になってあげて。いまの碧人くんを救えるのは、水原さんしかいないと思うの」

 わたしはぎゅっと両手を握りしめたあと、静かに口元をゆるめた。

「なんなの、それ。関わるなって言ったり、力になれって言ったり。どうしてわたしが、あなたの言いなりにならなきゃいけないの?」
「それは……」
「いい加減にしてよ! わたしはもう、碧人とは会わないって決めたの!」

 席を立ったわたしの腕を、篠宮さんがつかんだ。

「待って! この前のことはわたしが悪かった。謝る。ごめんなさい。わたしはただ、碧人くんが気持ちよく走るところを、見たかっただけなの」

 わたしは動こうとした足を止め、篠宮さんを見下ろす。

「わたし……中一の夏の大会で、碧人くんが100メートル走ってるところを見て……その姿がイキイキとしてて、すごくカッコよくて。それからずっと、碧人くんのことが気になってた。だから碧人くんが事故に遭ったことも知ってて、高校も……碧人くんが西高目指してるって聞いて、同じ学校を受験したの」

 わたしはじっと篠宮さんを見つめた。篠宮さんは、恥ずかしそうにうつむく。頬がほんのりと赤い。

「引いた? 引いたよね? これじゃ、わたし、碧人くんのストーカーだよ」

 篠宮さんの手がわたしから離れ、しょんぼりとうなだれた。
 わたしは静かに椅子に戻り、篠宮さんに言う。

「篠宮さんって……碧人のことが好きだったんだ」

 途端に顔を真っ赤に染める篠宮さん。わかりやすい。
 でもそんな彼女のことを、わたしはなぜかかわいいって思ってしまった。
 美冬のように。
「そっか。そういうわけだったのか」
「ちょっと! わたしまだ、なにも言ってないじゃん!」

 気の強いところは、美冬と違うけど。

「いや、もうわかったから。篠宮さんが碧人のこと好きだってことは」
「だからまだ言ってない!」

 さらに顔を真っ赤にする篠宮さん。おもしろい。
 あははっと笑ってやったら、篠宮さんは口をとがらせて言った。

「水原さんはどうなのよ」
「は?」
「幼なじみとか言ってるけど……ほんとにそれだけなの?」

 わたしは笑うのをやめて篠宮さんを見た。そして静かに口を開く。

「ほんとにそれだけだよ」

 碧人はわたしの親友の好きなひとだから。
 あのころも、これからも。

 篠宮さんが、顔をしかめた。わたしはそれを無視して、ストローに口をつける。

「ねぇ」

 そんなわたしに篠宮さんが言う。

「碧人くんに会ってくれるの?」

 わたしは冷たいコーヒーを、胃の中に押し込んでから答える。

「……気が向いたらね」
「はぁ? 水原さん、碧人くんがこのまま走れなくてもいいの? 夏の大会はもうすぐなんだよ! なんとかしてよ!」

 なんとかって……ほんとにこの子、人使いが荒いなぁ。
 わたしだって、碧人のことは気になるけど……

『夏瑚にはしばらく会わない。そうする』

 最後に見た、碧人の泣きそうな笑顔を思い出しながら、またストローを吸う。

 碧人のことを考えると、甘い飲み物もほろ苦くなるのは、どうしてなんだろう。
 ベランダに出て、鉢植えに水を与える。じょうろから流れた水が、乾いた土にじわじわと染みこんでいく。

 水をやり終えると、窓辺に腰をおろし、スマホの画面を開いた。
 碧人とのトーク画面。さっきからわたしはずっと、その画面を開いたり閉じたりしている。

『走れないの』

 ベランダから空を眺め、篠宮さんの声を思い出す。

『碧人くんを、助けてあげて』

 わたしはスマホを持ったまま、小さく息を吐く。

 昨日、篠宮さんとはうやむやなまま別れてしまったけど……それからずっと考えている。
 ずっと、ずっと、碧人のことを。

 そのときスマホが音を立てた。メッセージの通知音だ。あわてて画面を見ると、昨日連絡先を交換し合った、篠宮さんからメッセージが届いていた。
【碧人くんに連絡してくれた?】

 わたしは小さくため息をつき、返事を送る。

【まだ】
【もー、ちゃんと連絡して、声をかけてあげてよね! 碧人くんのこと、心配じゃないの!?】

 関わるなと言ったり、連絡しろと言ったり、ほんとうに腹が立つ。

【うるさい】

 激おこのスタンプを送ってやる。
 すると向こうも、プンプン怒っているウサギのスタンプを送り返してきて、そのあとに文字が続いた。

【明日の土曜日は午前練で部活終わりだから、碧人くんに会ってあげて】
【はぁ? なにそのウエメセ】
【いいから頼んだよ!】

 わたしは猫が「あっかんべー」と舌を出しているスタンプを送りつけ、スマホをポケットに突っ込んだ。

 もうっ、なんでわたしがあの子に命令されなきゃならないの?
 わたしだって、これでもちゃんと考えてるよ。

 むすっとしながら、鉢植えを見下ろす。緑の葉には、いつのまにか蕾がついていた。

『夏瑚にはしばらく会わない。そうする』

 最後に聞いた碧人の声。

 碧人も、わたしも、それが正解だと思った。
 碧人は夏の大会を目指して、わたしもわたしなりに、前に進んでいこうって思っていた。

 でも……

『走ることができるのはおれだけなんだから……やるよ』

 学校ではいつも明るく笑っていた碧人だけど、ほんとうはすごく寂しがり屋で、真面目で繊細なやつだから……もしかしてまわりからのプレシャーが重荷になっているのかも。
 そしてわたしも、碧人にプレッシャーばかりかけていた。

「碧人……」

 蕾のついた葉に、手のひらでそっと触れる。

 わたしだって、碧人が思いっきり走っている姿を、もう一度見たい。
 翌日、学校が休みの土曜日。わたしは西高校の前に来ていた。

「結局、来ちゃった……」

 どんより曇った空の下に建つ、見知らぬ校舎を眺めながらつぶやく。

 何度も開いた碧人のアカウントには、結局メッセージを送れなかった。
 だってなんて言ったらいいのかわからない。でも胸のもやもやはおさまらなくて、気づけばここに向かっていたんだ。

 フェンス越しに、グラウンドをのぞき見した。篠宮さんの言ったとおり、陸上部が練習をしている。さすが強豪校だけあって、うちの学校より部員が多い。

 わたしは目を凝らし、グラウンドを見つめた。後ろを通りすぎる西高生が、不思議そうにわたしを見ているけど、気にしてなんかいられない。

「あ、いた……」

 スタートラインに向かう陸上部員のなかに、碧人の姿を見つけた。
 少し茶色い髪、あいかわらず男子にしては小柄だけど、中学のころより体が引き締まったように感じる。

「碧人……」

 碧人が走る姿を見るのは、いつぶりだろう。

 わたしはフェンスに手をかける。
 スタートラインに立った碧人が、100メートル先のゴールをまっすぐ見つめる。

 なんだかわたしまでドキドキしてきた。
 緊張と同時に沸き上がってくる、高揚感を思い出す。
 部員たちが位置につく。わたしはフェンスを握りしめる。
 ピッとホイッスルが鳴って、部員たちが一斉に走り出した。
 わたしはフェンスに張りつき、目を凝らす。

「あっ……」

 スタートしてすぐに、碧人が立ち止まってしまった。
 他の部員たちが100メートルを駆け抜け、ゴールする。

 残された碧人はひとりうつむき、両手を膝にのせる。そして深く息を吐いたあと、静かに空を見上げた。

 鈍くくすんだ空の色。碧人はあの空を見ながら、なにを考えているんだろう。

 コースから離れた碧人に、篠宮さんが駆け寄ってきた。なにか話しかけられた碧人は、小さくうなずくと、グラウンドからいなくなった。

 わたしはフェンスから手を離し、速足で校門のほうへ回った。
 しばらく待っていると、制服に着替えた碧人が校門からひとりで出てきた。
 碧人は青白い顔をしてうつむいている。もちろんわたしには気づいていない。

「碧人」

 声をかけたら、びくっと肩を震わせて、碧人が立ち止まった。わたしを見て、目を見開く。

「夏瑚?」

 わたしはゆっくりと碧人に近づいた。

「もう帰るの?」

 碧人は戸惑うように何度かまばたきを繰り返したあと、わたしから目をそらす。
 だってわたしたちは『もう会わない』はずだったから。

 やがて碧人が、消えそうな声でつぶやいた。

「やる気のないやつは帰れって、顧問に言われちゃって……」

 わたしは黙って碧人を見つめたあと、その手をつかんだ。

「碧人。つきあって」
「え?」
「もう一度つきあって」

 意味がわからないといった顔をしている碧人を、無理やり引っ張って歩く。

「ど、どこ行くつもりだよ?」

 わたしは振り返り、碧人に向かって笑顔をみせる。

「陸上競技場。今度こそ、行ける気がするんだ」

 碧人はあきれたように、眉をひそめた。
 西高校前のバス停からバスに乗る。この前と同じように碧人と並んで座る。
 ゆっくりと走りだしたバスのなか、わたしは大きく息を吐いた。

 落ち着いて、落ち着いて。大丈夫、ぜったい大丈夫。
 するととなりから、碧人のか細い声が聞こえてきた。

「……見にきたんだろ?」

 わたしはそっと碧人の横顔を見る。

「おれが走れないところ……見にきたんだろ?」
「うん」

 碧人が深いため息をつく。

「くそっ、篠宮のやつ……なんでも夏瑚にしゃべるんだから」

 わたしはそんな碧人に笑いかける。

「そうだね、ほんとあの子はおせっかいだよ」

 バスが大きくカーブを曲がる。わたしと碧人の肩が、かすかに触れる。

「でも篠宮さんは……すごく碧人のことを心配してる」

 碧人は黙ってうつむいた。いまだってきっと、碧人がどうなったか心配しているはず。

 車内にアナウンスが流れた。誰かが押した降車ブザーの音が響く。

「碧人、ごめんね」

 わたしは前を向いてつぶやいた。

「ぜんぶ碧人に押しつけちゃって」

 碧人はなにも言わない。わたしは続ける。

「だからさ、これ以上碧人の重荷にはなりたくなくて、もう会わないつもりだったけど……それってわたしだけ逃げるような気がして……」

 碧人がゆっくりとわたしのほうを向いた。

「碧人がつらいなら、わたしが手伝うよ。あんまり頼りにならないけど……碧人の持ってる重たい荷物、わたしにも半分分けてよ」

 わたしは碧人を見て、いつもみたいに笑った。