青い風、きみと最後の夏

『八月二十三日午前、高速道路を走行中のバスに、対向車線から飛び出したトラックが衝突、その反動でバスは道路脇の壁にぶつかり大破するという事故がありました。このバスには陸上競技会に参加する予定だった峯崎市内の中学三年生や引率の教師など四十五名が乗っており、九名が死亡、三名が重体、三十三名が重軽傷を負う惨事となり……』


 あたりまえの毎日が、あたりまえじゃなかったって気づくとき、ひとはどれだけたくさんのものを失うんだろう。
 どれだけ大切なものを失うんだろう。

 とても暑かったあの夏。
 中学三年生だったわたしは、とても大切なものをたくさん失くしてしまった。
 ***

水原(みずはら)さーん、水原夏瑚(かこ)さーん。もう六時間目終わりましたよー。そろそろ起きてくださいねー?」

 夏の夕暮れの風鈴みたいな、涼やかな声が聞こえる。
 ほんとうは眠ってなんかいなかったけど、「うーん……」なんてうなり声をあげながら寝返りをして、保健室の先生を困らせる。

「水原さーん?」

 カーテンの陰から顔を出したのは、白衣のあんまり似合わない、鴨川(かもがわ)絵里(えり)先生。
 二十代後半にしては童顔な彼女のことを、この高校の生徒たちは親しみを込めて、「鴨ちゃん先生」って呼んでいる。

「ほら、水原さん! もう起きなさい!」

 鴨ちゃん先生の声が、1ランク音量アップしたところで、わたしは「はぁい」と返事をした。

 先生は白衣の上から腰に手を当て、わたしを見下ろす。そしてちょっと口元をゆるめてから、カーテンの向こうに行ってしまった。

 わたしはゆっくりと起き上がる。乱れた制服と伸ばしっぱなしの髪をもそもそと直し、上履きのかかとを踏んだまま、カーテンの外へ出た。
「水原さんさぁ、生理痛あんまりひどかったら病院行ったほうがいいよ」

 机に向かって書類を書きながら、鴨ちゃん先生が言う。

「んー、そうだね」

 わたしはポケットからキャンディーを取りだし、包みを開けて口のなかに放り込む。あまーいミルク味のキャンディーだ。

 顔を上げると、保健室の開いた窓から青い空が見えた。わたしには眩しすぎる青。
 ちょっと生ぬるい風が吹き込んで、クリーム色のカーテンと先生のやわらかそうなパーマヘアがふわっと揺れた。

「せんせ、食べる?」

 ミルク味のキャンディーを差しだすと、鴨ちゃん先生は子どもっぽい笑みを浮かべて「ありがと」って受け取った。

「そろそろ帰るね」
「はいはい。お大事に」

 先生がペンを持っていない左手を、ひらひらと振る。
 わたしは机の脇のゴミ箱にキャンディーの包みを捨て、上履きを引きずりながら進む。そして引き戸に手をかけたところで、くるっと振り向いた。

「ねぇ、明日もまた来ていい?」

 書類に向けようとしていた顔を上げ、鴨ちゃん先生がわたしを見る。

「理由は?」
「んー……明日は頭が痛くなる予定」

 先生がくすっと笑う。

「痛くなったらおいで」
「たぶんすぐ来る」

 わたしもにかっと笑って、先生に手を振った。

「じゃ、また明日ねー」
「はいはい。気をつけて帰りなよ」

 廊下に出た途端、放課後のざわめきが襲いかかってくる。
 わたしは口のなかのキャンディーをがりっとかみ砕いてから、少し曲がってしまった足を、ぎこちなく動かしはじめた。
 放課後の校舎はいろんな声や音がする。

 サッカー部の掛け声。野球部の金属バットの音。
 吹奏楽部の楽器の音色。合唱部の歌声。

 どれもすごく青春っぽい。

 そんななか、自分だけが場違いな気がして、どうしようもなく落ち着かない。

 笑い声をあげた女子生徒たちが、パタパタと走って、わたしを追い越していく。
 「廊下を走ったらあかん!」なんて、心のなかで生活指導の先生のモノマネをして、ぷっと小さく噴きだす。

 A棟とB棟を結ぶ渡り廊下から、グラウンドを駆ける陸上部の姿が見えた。
 わたしは教室へ戻る足を止め、少しの間それを眺める。
 グラウンドの上の空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。

「いい天気……」

 ひとりつぶやいたあと、ポケットのスマートフォンを取りだし、トークアプリの画面を開く。

『みねさき三中陸上部!』

 グループ名をタップしてから、スタンプを送る。
 『元気!?』ってしゃべっている猫のイラスト。いつもわたしが最初に送るやつだ。
【今日暑くない? まだ五月なのにさー】

 素早く指を動かし、メッセージを送信。

 渡り廊下を風が通り抜ける。わたしの肩にかかる髪とチェックのスカートが、さらっと揺れる。

【みんなはこの暑いなか、外を走っているのかな?】

 ポケットからもう一個キャンディーを取りだし、口に放り込む。甘いミルクの味が、口のなかにふわんと広がる。

【わたしはこれから帰るよー。うちに帰ったら昨日買ったソーダアイス食べるんだ。いっせーの好きなやつだよ。うらやましいだろー?】

 猫の『いししっ』って歯を見せて笑っているスタンプ。

【ちなみにいまは、みふゆオススメのミルクキャンディー舐めてまーす。やっぱこれ、おいしいね】

 『うまい!』のスタンプをタップ。
 わたしはじっと画面を見下ろしてから、続きを打つ。

【じゃ、みんな、今日もがんばってねー】

 『バイバイ』って手を振るスタンプを送って、わたしはスマホの電源を切った。

 また風が吹く。目を細め、もう一度グラウンドを眺める。
 陸上部の知らない男子が、100メートルを駆け抜けるのが見えた。

 胸の奥からなにかがこみ上げてきそうになって、わたしは顔をそむける。

「帰ろっ」

 短いスカートをひるがえし、荷物を取りに教室へ向かう。

 早く家に帰って、アイスを食べよう。
 こんな暑い日は、あの水色のソーダアイスがサイコーなんだ。

 アイスバーをシャクっとかじると、さわやかな甘酸っぱさが口のなかに広がって、体がひんやりと冷えていく。
 その感じを思い出し、笑いをこらえながら足を速めた。

 ほんとうはこの廊下を駆け抜けて、階段を一気に駆け上がりたい気分だったけど。
 わたしの足は、もうわたしの言うことを、あんまりきいてくれない。
「ええー! ここに入れてあったアイスは?」

 冷凍庫をのぞきこみ、わたしは叫んだ。マンション五階にある、この3LDKの部屋全体に響くくらいの大声で。

「え、あのアイス、お姉ちゃんのだったの?」

 リビングで漫画を読んでいた中二の妹、万緒(まお)が、ソファーに座ったまま首だけ向ける。

「わたしのに決まってるじゃん!」
「ごめーん。お母さんが買ってきてくれたのかと思って、食べちゃった」

 わたしは冷凍庫を閉めると、ぺろっと舌をだした万緒の両脇に手を差しこんだ。

「こんのー! 帰ったら食べるの楽しみにしてたのにー! くすぐりの刑にしてやるからなー!」
「キャー! やめてー! おねえちゃーん! ひゃはははは!」

 わき腹が弱点の万緒が、体をよじって笑いだす。リビングが一気に騒がしくなる。
 でもわたしは、万緒の笑い声が好きだ。だからこんなふうにいつも笑っていてほしい。