イサムは3歳の時に劇団に入り、
灯火(ともしび)ユージ』の名で舞台デビューした。

そこは後に『YNG』の振付師になった
若き演出家の属する劇団で、女優であった母親が
逢瀬(おうせ)を重ねる場所でもあった。

イサムはよく似た顔立ちの演出家に、
自分の知る父親が本当の父親ではないのだと、
自然と受け入れ、諦めていた。

父母や兄とは仕事での関係でしかなく、
なにかをねだったり甘えたりは一切なかった。

役者として全員が家族を演じていた。

身の回りの世話は〈キュベレー〉が常に付き、
家族とは肩書きに過ぎないと幼いながら
イサムは察して、愚かにも利口者を演じた。

磐永(ばんえい)チルはイサムと同じ劇団の幼なじみだった。

同い年のチルとは同じ年に入所して、
稽古で顔を合わせることが多かったので
自然と仲良くなった。

丸い顔に太い眉毛が特徴の彼女は、
容姿端麗とは呼び難いが愛嬌にあふれ、
一部の高齢の観客には非常に好評だった。

5歳になったイサムは広告動画が
美少年と評されて人気を博すと、
ドラマや映画など多方面から出演を求められ
劇団に顔を出すことが減った。

それでもチルとは以前にも増して仲良くなり、
物陰に隠れて口づけを交わすなど
大人たちのマネごとをした。

幼かったイサムはチルのことを
自分の家族以上に好いていたが、
異性としての意識はまだ薄かった。

小学校高学年になると男女の身体の
発育の違いをお互いに意識してしまい、
顔を合わせるのが気まずくなった。

劇団にも顔を出すこともなくなった。

イサムの出演料は高騰(こうとう)を続け、
依頼は極端に減った。

11歳の頃には事務所に移り、母親の姓から
九段(くだん)ユージ』に芸名を変更した。

役者時代の『ユージ』の知名度を活かし、
振付師の元で歌唱ユニット『YNG』の
センターとなり方針を転換をする。

役者業を離れるとチルとはますます疎遠(そえん)になった。

両親は報酬の件で毎日のように喧嘩をしていたが、
イサム自身は一切口を挟むことはなく
ずっと子供として『ユージ』の役を演じた。

中学に進学してチルと同じ中学校に通い、
ふたりは再会を喜んだ。

しかし歌手業と学業の両立は困難を極め、
2年の間、ふたりが密かに会える時間もなかった。

――――――――――――――――――――

磐永(ばんえい)チル。
 八種くんの幼なじみの名前ね。
 彼女の名前も〈更正局〉の記録にある。」

今日のマオはいつもに増しておかしなことを言う。
チルは犯罪者ではない。

「え…? 〈更生局〉…?
 どうしてですか?」

「それは彼女が…、
 強姦(ごうかん)の実行犯のひとりだったから。」

「冗談…。」

思考が切れると同時に言葉が途切れた。
頭痛の(わず)わしさに眉間に深くシワを寄せた。

彼女が冗談を言うはずもなく、
そんなメリットはどこにもなかった。

マオの報告した内容に、
イサムは信じられず、反射で出た言葉に過ぎない。

マオもそれを察して、イサムを
いつものように否定はしなかった。

「八種くんを襲ったのはクラスメイトの6人。
 通報と自白をしたのが彼女、磐永(ばんえい)チルだった。
 他の5人はいずれも犯行前後に
 避妊薬を服用したけれど、
 磐永(ばんえい)チル、彼女だけは妊娠を望んだ。」

マオは赤土色の瞳でイサムをじっと見つめ、
事件の詳細を淡々と述べた。

「でも、チルは…。」

転府と名府では〈更生局〉の役割が異なり、
年月を経て出てこられる。

ついさきほどマオから説明を受けたが、
彼女にかけられた『保護』によって
イサムは声が出ない気がした。

彼女は首を横に振った。

「〈ALM〉は強姦(ごうかん)による
 ヒトの繁殖を許容しない。
 その加害者であれば更正の余地なしとして、
 接続を解除して磐永(ばんえい)チルは抹消(まっしょう)された。」

手にしていたボトルが床に落ち、
マオの足元に転がった。

「どうして…。」

信じられないイサムは、
ついにマオから目を背けて顔を伏せた。

「罪の自白をしたところで
 犯した事実は消せはしない。
 5人の共犯者を〈更生局〉に送って、
 自らの罪が軽くなると思ったんでしょ。」

「チルはそんなことしない!」

頭の中の抑制を振り切って声を張り上げた。

「信じたくなければ信じなければいい。
 私が嘘を言っていると思えばいい。
 誰だって裏切られたくはないわよね。
 利口者や道化でも演じれば楽になるわ。
 それなら事実を嘘で塗り固めて、
 妄想に浸ることもできる。
 目を閉じて耳を塞ぐことも、
 八種くんにはできるでしょ。
 その権利まで取り上げる気はない。」

イサムに返す言葉はなく、
目を伏せて黙るしかなかった。

足元に水が流れている。
マオがボトルの水を床にこぼしていた。

器を失った水は床のわずかな傾斜から、
より低い排水口を探してゆっくりと移動する。

「器からこぼれた水は
 高いところから低いところへ、
 こうして逃げ道を探してさまようの。」

イサムには彼女の言動が理解できなかった。
それ以上に考えが追いつかなかった。

人類は絶滅した。

天体に植えられた黒色の針、
受容体(レセプター)〉として複製した人類、
〈NYS〉。

動物園で見たタヌキの映像が脳裏によぎる。
小さな部屋で小さな人工の水たまりを、
ストレスで歩き回る1匹のタヌキの姿を。

〈キュベレー〉であるマオにとって
複製させた人類は観察対象に過ぎず、
タヌキ同然の存在かもしれない。

虚像の顔の人たち。虚飾の世界。

「八種くんは暴行によって視力を失った。
 でもそれはグリッチの発生には関係なかった。」

彼女の声は小さな部屋に響き、
聞く気はなくともイサムの耳にまで届いた。

イサムを『変』だとみなした理由をマオは探し、
いまこうして隔絶された空間にいる。

マオがここまで大げさな嘘をつく
その理由が、イサムには見つからない。

「八種くんの過去に原因がないのであれば、
 私が投じられ、観測を始めた時点から、
 グリッチが発生したと考えられる。」

勉強して高校に入学した当時を思い返したが、
入ってみれば女子ばかりの学校だった。
そのため、緊張と恐怖で記憶はおぼろげだ。

クラスに男子が3人だけだったのは驚いた。

イサムは勉強が得意でもなければ、
運動能力も高い方ではない。

ライオン頭との暴力事件で、
マオから指摘を受けるまでは
変であることさえ自覚しなかった。

公園で亜光がボールを投げるより前に、
ボールの落下予測がついていたことがある。

イサムはマオの胸元に飛び込み、
受け止めた彼女の鼻先が頭頂に触れた。

それよりも少し前に
カフェで襲われたときは咄嗟(とっさ)に動けず、
無様にも椅子から倒れた。

散々ないち日の始まりが、
昨日のことのように記憶は鮮明だった。

マオの言葉を思い返す。

「私が投じられ、観測を始めた時点。」

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)が出現したことで
海神宮(わたつみのみや)家が存在し、クラスメイトだけでなく
名府に来た『SPYNG』のふたりや、
ハルカの認識さえも変えたことになる。

イサムがマオと出会ったは、登校直前の通学時間。
カフェを出て、〈3S〉を通る前の間。

彼女は何者かによって投じられた〈キュベレー〉。

海神宮(わたつみのみや)さんは僕を消せない。
 グリッチを隔離する君の役割は終わった。」

イサムの半ば自暴自棄な言葉に、
マオは口を閉ざした。

〈キュベレー〉の役割は、
滅んだ人類にその事実を暴くことではない。

滅んだ人類の世界を安定させるための、
欠陥(グリッチ)という存在の隔離。

目の前の〈キュベレー〉に
命乞いをすれば、グリッチが
元の場所に戻れる道理はない。

たとえ元に戻れたところで、
そこは人類が滅んだ仮想の世界
であることに変わりはない。

事実を触れ回ったところで正気を疑われる。

虚像と虚飾の世界に戻っても、
待ち受けるのは虚無でしかない。

利口者や道化を演じろと彼女は言った。
だがイサムはそれを拒んだ。

「グリッチなら、君は僕を抹消(まっしょう)すべきだった。
 こんな場所で僕を起こす必要なんて、なかった。
 『保護』したことに意味があるんじゃないか?」

マオの言動のどこに意味があるのか考えた。
メリットはどこにもない。

マオが自らの部屋へ誘った理由は別にあり、
彼女を〈キュベレー〉と暴く為に
イサムは招待を受けた訳ではない。

「察しがいいのも困りものね。」

イサムの質問に対し、マオは返事を拒絶した。

「えっ…。」

拒絶によってイサムの意志とは別に、
身体はベッドに横たわり口も開けず目を閉じた。

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)という存在に逆らえない。
マオは『保護』によってイサムを従えさせた。
主従の関係が彼女の命令を強制的に実行する。

「おやすみ、八種くん。」

イサムは最後の抵抗に、眉間に深くシワを寄せた。

――――――――――――――――――――

長かった夏期休講が終われば、新学期が始まる。

ハルカが玄関でイサムを見送った。

まだ夏の名残りのある日差しの中で、
再び学校に通う日々が続く。

イサムは普段と変わらずいつものカフェに通い、
安いトーストに無料のバターを塗って頬張る。

垣根の向こうで青色のオープンカーが停まり、
運転席からシバさんがこちらを向いて手を振る。

通学路にある〈3S〉で、
頭を元に戻す〈デザイナー〉の行列を眺める。

学校近くの公園では、亜光(あこう)貴桜(きお)
いつもと変わらずキャッチボールをしている。

クラスの女子生徒たちから視線を浴びる。
あいかわらず男子は肩身が狭い。

イサムは16歳の誕生日を迎え、
〈ニース〉になる選択肢ができた。
『ユージ』ではなくなることも可能だった。

1年はあっという間に過ぎ、
進級するとナノとゲルダが後輩になった。

高校を卒業して誰かと結婚する。
家庭を築き、子供を作る。
『イサム』として姉に誇れる利口者になれたか。
それとも誰かに笑われながら道化を演じるのか。

選択は無限に広がり、時間には限りがあった。

高いところから低いところへ水が流れるように、
日常はなにごともなく連綿(れんめん)と続く。

心のどこかで、溜め込んだ(よど)みを覚える。