イサムは黙って頭を抱えた。
整理が付かない。理解が追いつかない。

マオの部屋に入った途端、
見知らぬ空間で横たわっていた。

名府から数百km(キロメートル)離れた一室。

この場所、〈光条(スターリング)〉から見上げる
天体に植えられた黒い針…。
現在のヒトの姿、〈受容体(レセプター)〉を眺めている。

名府であった天体を囲む、今いるこの環は、
〈NYS〉を製造する〈光条(スターリング)〉と呼ばれる。

マオ曰く人類は絶滅し、〈NYS〉は複製品(レプリカ)

「ここで目覚める前、
 なにか思い浮かんだことはない?」

先に妙なことをマオが尋ねてきたので顔を上げた。

唇を見て、イサムはなにかを思い出そうとしたが、
(はらわた)をかき混ぜられる不快感が蘇る。

記憶の中にある忌々(いまいま)しい事件。
それから思考が妨げられる頭の違和感に、
頭痛に似た痛みを覚え、眉間にシワを寄せた。

頭の中で目の前の人物を(おそ)れる。

それは動物園の歴史通路で見た、
ヒトとイヌのような主従の感覚。

「そう。やっぱり『保護』した影響かしら。」

「どうして、僕はここにいるんですか?」

「理由はふたつ。
 ひとつは八種くんが望んだから。」

彼女はそう言ったが、
イサム自身はその言葉に納得いかなかった。

「もうひとつは貴方が、変だから。」

ふたつの理由にやはり納得がいかず、
眉間にシワを寄せた。

「僕の妄想でしかなかったけど…
 海神宮(わたつみのみや)さんは〈キュベレー〉なんですね。」

マオと〈キュベレー〉が似ている
と思ったのはイサムの直感に過ぎない。

第3の目(サーディ)は〈キュベレー〉のみが持つ。

〈ニース〉が〈3S〉で複数の目を
取り付けたところで、脳が対応しなければ
装飾にしかならないが、マオは
その額に自在に動かせる目を持っていた。

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢だから持てる、
〈ニース〉の制約を超えた機能かもしれない。
あくまでイサムの予想に過ぎない。

それから、イサムは〈キュベレー〉に育てられた。

〈キュベレー〉は両親が指示する上で動いた。
幼かったイサムは〈キュベレー〉に連れられて、
家、学校、劇団と、どこへ行くにも一緒だった。

しかしマオの〈キュベレー〉は
指示を必要としない。

通学路で迷惑な後続車両を排除したとき、
公園にいたザクロを連れてきたときも、
彼女は一切の指示を出していない。

言葉を介さずとも意味を理解し行動する。

〈3S〉で出会ったときに、
公園まで後をついてきたマオ。

そのときはイサムも無理だとわかっていたが、
マオを先に学校へ向かわせるように
遠くに立つ〈キュベレー〉に指示した。

〈キュベレー〉への指示は、
登録者の言葉でなければ意味は通じないが、
不思議なことに理解したようにうなずいた。

海神宮(わたつみのみや)家の〈キュベレー〉は他とは違った。

予想が確信に近づいたのは、
マオが〈キュベレー〉を連れて
イサムの家に来たときだ。

玄関で天井を見上げた〈キュベレー〉と
同期するように上を見上げたマオ。

なにも言わずとも朝食を用意する〈キュベレー〉。
指示した寝室に隠れる〈キュベレー〉。

マオと〈キュベレー〉の行動の類似で、
イサムのよく知る従来の〈キュベレー〉との
違和感は多くあったが確証はなかった。

マオが〈キュベレー〉という信じがたい事実から、
目を背けたかっただけかもしれない。

「そう。察しがいいわね。
 第3の目(サーディ)は本来〈キュベレー〉が持つもの。
 八種くんの言う通り、私は〈キュベレー〉、
 …かもしれない。」

〈キュベレー〉は〈更生局〉の
機械人形であり〈ALM〉が管理している。

警備等の治安維持、学習施設での教育用、
育児、医療、または愛玩用など広範に扱われる
〈人類崩壊〉以降の人類のパートナー。

しかしマオはそのどこにも該当しない。

「でもちょっとだけ違うわね。
 それは私が海神宮(わたつみのみや)真央(まお)だから。」

名府にのみ存在する〈3S〉や〈個人端末(フリップ)〉など、
社会システムを統括する海神宮(わたつみのみや)家に彼女は関わる。

「〈ALM〉の〈キュベレー〉は、
 誤り(エラー)を探すのが役目。
 エラーがあれば〈更生局〉が対応する。」

「エラー…僕が『変』だから、
 〈更生局〉に引っかかったってこと?」

マオはイサムを『変』だと指摘した。
しかし彼女は自分の言葉を自ら否定した。

「残念ながら八種くんはエラーじゃない。
 エラーとはヒトが罪を犯すこと。
 名府の〈更生局〉はエラーの個体を抹消(まっしょう)する。」

「…抹消(まっしょう)?」

マオの言葉に疑問を発した。

〈更生局〉は罪を犯した人を収容するための施設。

月曜のカフェに現れて窓を叩いた女や、
イサムを殴りつけた3年生のライオン頭、
上の階から屋根裏に潜んでいたストーカー。

収容された人はその罪状によって、
何年も〈更生局〉から出られなくなる。

「あっちの…転府(てんふ)の〈更生局〉では、
 収容したヒトに年月をかけ更正を促している。
 けれども過ちを犯したヒトが、
 真に更生した事例がなかった。
 〈ALM〉がどのように手引きし、
 整備しても無意味だったの。
 結果はエラーを繰り返すばかり。
 こぼれ落ちた水。負の螺旋(スパイラル)。」

人の社会は善意で成り立っている。

食べ物を買う、物品や知識や技術、
または労働力の対価を支払う。

包丁は食べ物を切るための道具。
車は移動手段であり、交通規則を守る前提。

そんなことは誰でも習い、誰でもわかる。
人を脅し、他者を威圧する道具ではない。

暴力と恐怖で相手を支配し、屈服させる。
あるいは言葉巧みに相手を(あざむ)けば、
簡単に相手から奪えてしまう。

社会のルールを捻じ曲げる行為。
犯罪こそがマオの言うエラー。

「一度でも過ちを犯したのなら、それは獣と同じ。
 ヒトの定義を外れる。
 だから名府はエラーを抹消(まっしょう)した。」

「それじゃあ百花も?」

「亜光くんは転府に移動したわ。」

〈更生局〉に連行されたと思われた
亜光の行方がわかり、安堵(あんど)の息が漏れる。

「妹さんも一緒なら逃避行ってやつかしら。
 そんな程度で転府や名府の〈更生局〉は
 出しゃばらないわよ。ふふ。」

海神宮(わたつみのみや)さんもそのために…?
 人を抹消(まっしょう)するために…?」

彼女は人を殺すための存在であるのか。
思考に言葉が追いつかない。

頭にかかった妙な束縛がさらに思考を鈍らせる。

それは今までの常識がくつがえったせいか。
マオの言葉を疑うことさえ(はばか)られた。

「そう、ちゃんと『保護』が効いてるのね。」

困惑するイサムに、
マオは自らの(あご)に手をやり見つめる。

イサムの思考や発言がどこかで制限されるのは、
マオによる『保護』なるものが原因だった。

目に見えるもの全てが信じがたくなり天を仰ぐ。

天体の表面に植えられた針、〈受容体(レセプター)〉。
それが〈キュベレー〉に抜き取られる。

抜き取られた〈受容体《レセプター》〉は天体の極点に運ばれ、
天体の重力を離脱し〈光条(スターリング)〉に回収される。

これが名府の姿であり、〈更生局〉の行う抹消(まっしょう)

「私の役割は八種くん、
 貴方の欠陥(グリッチ)の隔離なの。」

「グリッチ…。」

彼女がイサムを常々『変』だと指摘していた。
それがグリッチに当たる。

〈キュベレー〉としての彼女の役割。

マオの額に第3の目(サーディ)はもうない。
絆創膏で隠してもいなかった。

「名府と異なる〈光条(スターリング)〉の重力下でも、
 私が投げたボトルを受け取り、確認が取れた。
 法則を理解し、予測する能力。
 その発生原因を私が調べていたの。
 八種くんがいつ、どうして、
 グリッチとなったか。」

彼女がイサムの身近によくいたのは、
決して偶然ではなかった。

亜光の暴投したボールも、
ライオン頭をした3年生の拳も、
貴桜とのキャッチボールも。
それと部屋に散らかしたポテトチップスも。

全てはグリッチが原因だとマオは言う。

「…それで、原因がわかったんですか?」

「残念ながら、わからなかったわ。
 どこかに頭を強くぶつけたのか、
 ヒトが絶対食べない野草でも食べたのか、
 八種くんに原因がないのなら。」

「そんな貧しい生活を
 送ってるように見えましたか?」

彼女の口元に笑みがこぼれる。

「私は貴方の過去に起因すると仮定し、調査した。
 ナノさん、ゲルダさん、お姉さんのハルカさん。
 そして磐永(ばんえい)チル。」

懐かしい名前に、イサムは目を見開いた。

それはハルカがマオに伝えた、
イサムの幼なじみの名前だった。