長い腕から振り下ろされた硬球は、
イサムの革製グラブを突き破りそうな勢いで、
公園には乾いた音を響かせた。
貴桜大介に呼び出されたイサムは、
彼が終始無言のままキャッチボールの
相手をさせられた。
キャッチボールと呼ぶよりも投球練習だった。
小学生時代から9年、野球ひと筋だった貴桜が
野球部のない女子ばかりの高校に入った
理由は知らない。
時折りキャッチボールに駆り出されるのは
よくあることだった。
ただ今日の貴桜は機嫌が悪い。
同じ中学出身の亜光百花がいないので、
貴桜の投球にイサムが対応するほかない。
野球のルールを知らないイサムは、
亜光と貴桜のキャッチボール風景を
見学するだけの日が多かった。
黙り続けて不機嫌な貴桜の投球相手を、
初心者のイサムが受ける。
貴桜による一方的な投球であったが、
イサムはどんなに速い球でも、
どんなに変化のある球でも受けとった。
彼の投げる球は、初心者のグラブに
吸い込まれるように収まった。
『動物園』で見たジャグリングに比べれば、
投げ放たれたひとつの球を目で追い
受け止めることは、イサムには容易だった。
厳しい貴桜の顔が、ひとつ、またひとつと
ボールを受け止める度に驚きと困惑に変わる。
右へ曲がる球、左へ曲がる球、手前で落ちる球。
事前に合図があったわけでもないが、
貴桜の投げ方から球筋まで見て取ることができた。
これがマオの指摘した『変』だった。
ボールが上手く取れたところで返球はボロボロで、
貴桜があっちこっちへ移動する羽目になった。
彼が球を拾っているわずかな間だけ、
イサムは手を休められた。
「もう無理!」
イサムは立ち上がり叫び、
グラブを外して手を振り降参した。
硬球をグラブで正しく受け止める方法を知らず、
痛みに手の感覚を失いだしていた。
手が燃えるように熱を帯びて、冷まそうと
息を吹きかけるが痛みしか感じなかった。
「やぁー楽しかったなぁ。
デブ相手だとこんなに投げられないからな。」
「僕は初心者なんだから。限度がある。
百花はどうしたのさ。また妹とデート?」
亜光は溺愛する妹を連れてよく出かけるので
今日もいないものと思っていたが、
貴桜の表情を見るに違うようだった。
「あいつはいなくなったよ。」
「いなくなった?」
「妹と一緒に帰ってこなくなったって。
あいつの両親が言ってた。」
「じゃあ…〈更生局〉?」
「知らねえって。」
仲良くなった亜光が突然いなくなり、
貴桜もどのように感情を整理して良いのか
わからずに苛立ちをあらわにする。
「課題どうしようか。」
夏期休講で出された自己学習課題は、
亜光が頼りだったのを思い出した。
学力が怪しいふたりが取り残された形となった。
「大介はなんでウチの学校入ったの?」
「なんでって。」
「僕は姉が無理やりだったけど、
大介は中学、野球部だったんだろ?」
「あぁー。」
照れくさそうに逆立てた金髪を指でつまみ上げた。
「スポーツ選手を真面目にやろうとしたら、
〈パフォーマー〉になるしか道がないからな。」
イサムの手からボールを奪い取って、
手のひらで巧みに回してみせる。
「そういうもんなんだ。」
「スポーツったって興行だからよ。
〈レトロ〉の地味な競技をいまどき、
金を払って見るやつなんていねぇよ。」
「そんなに身長があるのに、か?」
「手足が長いから有利なのは、
〈ニース〉になっても体格が
慣らしやすい最初の数ヶ月程度だ。」
公園の長椅子に腰掛けて、
貴桜は長い手足を伸ばしてみせる。
肉体と脳の不一致が起こす〈ニース〉症も、
肉体の成長と同じように時間を掛けて慣らせば
発症することはない。
「スポーツは〈パフォーマー〉でこと足りる。
生まれつき恵まれた肉体の差なんざすぐ埋まる。
〈レトロ〉は不要なんだとよ。」
〈レトロ〉は〈ニース〉ではない人間、
〈レガシー〉の蔑称だ。
貴桜も〈レガシー〉なので自嘲した。
「〈パフォーマー〉になってまで、
規格化された選手になりてぇわけじゃねえし。
なんならこうしてキャッチボールしてる
だけだって構わないぐらいだぜ、オレは。」
〈レガシー〉のみで構成された芸能界は
人気役者、色男、道化などの持ち前の容貌や
演技力に合わせた役割が存在する。
モデルなど天然素材を好む現在では、
〈ニース〉が同じ〈ニース〉である
〈デザイナー〉や〈パフォーマー〉などを
ありがたがることはない。
〈3S〉を使えば誰でもマネできることだ。
けれども貴桜の語るスポーツの世界では、
〈レガシー〉と〈ニース〉の価値は真逆となる。
〈パフォーマー〉は〈パフォーマー〉であるが故に
その役割に合わせた行動を常に求められる。
ともすれば肉体の損壊を恐れない
資質こそが重要とされる。
貴桜が〈レトロ〉と蔑称を用いる理由が、
役者という真逆の環境にあったイサムでも
少しだけ理解できた。
「だからオレはスポーツよりも青春に生きる。」
「は?」
虚を突かれたイサムの
間の抜けた顔を見て貴桜は盛大に笑った。
公園に彼の大きな声が響き渡る。
「いや、わるい。
からかってるわけじゃないぜ。
まぁ、そうなるだろうなって思ったけど、
想像以上の反応してくれるんだからよ。」
「頭おかしくなったのかと思った。
もともとおかしいやつだけど。」
「なんだとぉ? このぉ。」
「やめろぉ。」
貴桜の大きな手で頭を掴まれて、
髪をもみくちゃにされた。
いつもどおりの貴桜に戻って
イサムは少し安心した。
「一般的な家族ってのに憧れんだよ。
結婚して子供を作る。
そうやって自分の遺伝子を後世に残す。
ウチは家族多いからそういうのに憧れんだ。
弟たちの面倒とかあんま見たくねぇけどな。」
「花嫁探し?」
「中学で進路どうすっかなぁってときに、
百花が妹と同じ高校通うために、
女子ばっかのとこ行くってなったから。」
「不純な動機だ。」
「すっげー反面教師だろ?」
「大介もだよ。」
貴桜は言われて腹から笑う。
「勉強が追いつかず、進級できず、
そんで留年や退学なんてしたところで、
百花に責任負わせるもんでもないしな。
あいつが責任負うべきは、
オレたちの課題ぐらいなもんだ、ぜっ。」
立ち上がって、真上にボールを高く投げた。
「少しは勉強しようよ。」
落ちてくるボールを素手で綺麗に受け取ると、
貴桜は白い歯を見せ、屈託のない笑顔を見せた。
未だに昔の傷を抱えたまま、
いびつな状態で毎日を過ごすのに
精一杯のイサムには、貴桜の生き方は
とても羨ましく思えた。
貴桜の将来への展望に、昨日の夜に聞いた
ザクロの言葉が重なった。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
彼女の言葉は矛盾している。
――――――――――――――――――――
イサムはキャッチボールを終え、
鬱憤を晴らした貴桜とは公園で別れた。
亜光と会えなくなったことを思い、同時に
課題のことを考えなくてはいけなくなった。
日は沈みかけ、
マンションの廊下にも明かりが灯る。
イサムの手はまだビリビリと痺れて痛む手を
眺めて歩くと、廊下に人影があった。
「お帰り。八種くん。」
「あ…海神宮さん。
これからお出かけですか?」
丁度いいタイミングで隣人のマオが
扉を開けて現れた。
今日はオレンジ色のスポーツウェアで
服の上下を揃えている。
彼女を見て、イサムはわずかに違和感を覚えた。
「八種くんに聞きたいことがあって。
ハルカさんにこの前の御礼を
用意しようと思うのだけれど。」
風のごとく現れた姉は、
観覧車の後で次の仕事があると言って、
風のごとく去っていった。
「そんなことを…?
あの人にそんなことしても、
逆に倍で返されると思うので、
キリがなくなりますよ。
それにあー…、メリットありません。」
「そう。」
残念がるマオに、
イサムは違和感の正体に気づいた。
「…海神宮さんって、
ご実家に帰ったりしないんですか?」
「実家…?」
意外な質問だったのか、マオは目を点にした。
夏期休講でもひとり暮らしであれば、
寮生は寮の休みにともない帰省している。
両親の離婚で帰る家のない
イサムのような例外でなければ、
ひとり暮らしを続ける理由もない。
マオがひとり暮らしを始めた建前は、
寮と学校を往復する生活ではなく、
自分の行動範囲を広げ、見聞を広めること。
それと入寮申請に遅れたことが原因のはずだ。
「あっ…。」
もしくは、帰れない理由があったのかもしれない。
野暮な質問をしたと、口をつぐんだ。
「そうね…、帰ることもできたのね。」
「え? そりゃ…
私的な話にまで干渉はしませんが。」
そんな気はなかったものの、
クラスメイトであり隣人でもある
海神宮家という存在には、
イサムにも少なからず興味があった。
「でも帰るのならその前に、
ひとつ試してみましょうか。」
マオは自室の扉を大きく開いた。
「八種くん、ウチに上がってみる?」
「は?」
突然の提案に驚き、声を廊下に響かせた。
イサムの革製グラブを突き破りそうな勢いで、
公園には乾いた音を響かせた。
貴桜大介に呼び出されたイサムは、
彼が終始無言のままキャッチボールの
相手をさせられた。
キャッチボールと呼ぶよりも投球練習だった。
小学生時代から9年、野球ひと筋だった貴桜が
野球部のない女子ばかりの高校に入った
理由は知らない。
時折りキャッチボールに駆り出されるのは
よくあることだった。
ただ今日の貴桜は機嫌が悪い。
同じ中学出身の亜光百花がいないので、
貴桜の投球にイサムが対応するほかない。
野球のルールを知らないイサムは、
亜光と貴桜のキャッチボール風景を
見学するだけの日が多かった。
黙り続けて不機嫌な貴桜の投球相手を、
初心者のイサムが受ける。
貴桜による一方的な投球であったが、
イサムはどんなに速い球でも、
どんなに変化のある球でも受けとった。
彼の投げる球は、初心者のグラブに
吸い込まれるように収まった。
『動物園』で見たジャグリングに比べれば、
投げ放たれたひとつの球を目で追い
受け止めることは、イサムには容易だった。
厳しい貴桜の顔が、ひとつ、またひとつと
ボールを受け止める度に驚きと困惑に変わる。
右へ曲がる球、左へ曲がる球、手前で落ちる球。
事前に合図があったわけでもないが、
貴桜の投げ方から球筋まで見て取ることができた。
これがマオの指摘した『変』だった。
ボールが上手く取れたところで返球はボロボロで、
貴桜があっちこっちへ移動する羽目になった。
彼が球を拾っているわずかな間だけ、
イサムは手を休められた。
「もう無理!」
イサムは立ち上がり叫び、
グラブを外して手を振り降参した。
硬球をグラブで正しく受け止める方法を知らず、
痛みに手の感覚を失いだしていた。
手が燃えるように熱を帯びて、冷まそうと
息を吹きかけるが痛みしか感じなかった。
「やぁー楽しかったなぁ。
デブ相手だとこんなに投げられないからな。」
「僕は初心者なんだから。限度がある。
百花はどうしたのさ。また妹とデート?」
亜光は溺愛する妹を連れてよく出かけるので
今日もいないものと思っていたが、
貴桜の表情を見るに違うようだった。
「あいつはいなくなったよ。」
「いなくなった?」
「妹と一緒に帰ってこなくなったって。
あいつの両親が言ってた。」
「じゃあ…〈更生局〉?」
「知らねえって。」
仲良くなった亜光が突然いなくなり、
貴桜もどのように感情を整理して良いのか
わからずに苛立ちをあらわにする。
「課題どうしようか。」
夏期休講で出された自己学習課題は、
亜光が頼りだったのを思い出した。
学力が怪しいふたりが取り残された形となった。
「大介はなんでウチの学校入ったの?」
「なんでって。」
「僕は姉が無理やりだったけど、
大介は中学、野球部だったんだろ?」
「あぁー。」
照れくさそうに逆立てた金髪を指でつまみ上げた。
「スポーツ選手を真面目にやろうとしたら、
〈パフォーマー〉になるしか道がないからな。」
イサムの手からボールを奪い取って、
手のひらで巧みに回してみせる。
「そういうもんなんだ。」
「スポーツったって興行だからよ。
〈レトロ〉の地味な競技をいまどき、
金を払って見るやつなんていねぇよ。」
「そんなに身長があるのに、か?」
「手足が長いから有利なのは、
〈ニース〉になっても体格が
慣らしやすい最初の数ヶ月程度だ。」
公園の長椅子に腰掛けて、
貴桜は長い手足を伸ばしてみせる。
肉体と脳の不一致が起こす〈ニース〉症も、
肉体の成長と同じように時間を掛けて慣らせば
発症することはない。
「スポーツは〈パフォーマー〉でこと足りる。
生まれつき恵まれた肉体の差なんざすぐ埋まる。
〈レトロ〉は不要なんだとよ。」
〈レトロ〉は〈ニース〉ではない人間、
〈レガシー〉の蔑称だ。
貴桜も〈レガシー〉なので自嘲した。
「〈パフォーマー〉になってまで、
規格化された選手になりてぇわけじゃねえし。
なんならこうしてキャッチボールしてる
だけだって構わないぐらいだぜ、オレは。」
〈レガシー〉のみで構成された芸能界は
人気役者、色男、道化などの持ち前の容貌や
演技力に合わせた役割が存在する。
モデルなど天然素材を好む現在では、
〈ニース〉が同じ〈ニース〉である
〈デザイナー〉や〈パフォーマー〉などを
ありがたがることはない。
〈3S〉を使えば誰でもマネできることだ。
けれども貴桜の語るスポーツの世界では、
〈レガシー〉と〈ニース〉の価値は真逆となる。
〈パフォーマー〉は〈パフォーマー〉であるが故に
その役割に合わせた行動を常に求められる。
ともすれば肉体の損壊を恐れない
資質こそが重要とされる。
貴桜が〈レトロ〉と蔑称を用いる理由が、
役者という真逆の環境にあったイサムでも
少しだけ理解できた。
「だからオレはスポーツよりも青春に生きる。」
「は?」
虚を突かれたイサムの
間の抜けた顔を見て貴桜は盛大に笑った。
公園に彼の大きな声が響き渡る。
「いや、わるい。
からかってるわけじゃないぜ。
まぁ、そうなるだろうなって思ったけど、
想像以上の反応してくれるんだからよ。」
「頭おかしくなったのかと思った。
もともとおかしいやつだけど。」
「なんだとぉ? このぉ。」
「やめろぉ。」
貴桜の大きな手で頭を掴まれて、
髪をもみくちゃにされた。
いつもどおりの貴桜に戻って
イサムは少し安心した。
「一般的な家族ってのに憧れんだよ。
結婚して子供を作る。
そうやって自分の遺伝子を後世に残す。
ウチは家族多いからそういうのに憧れんだ。
弟たちの面倒とかあんま見たくねぇけどな。」
「花嫁探し?」
「中学で進路どうすっかなぁってときに、
百花が妹と同じ高校通うために、
女子ばっかのとこ行くってなったから。」
「不純な動機だ。」
「すっげー反面教師だろ?」
「大介もだよ。」
貴桜は言われて腹から笑う。
「勉強が追いつかず、進級できず、
そんで留年や退学なんてしたところで、
百花に責任負わせるもんでもないしな。
あいつが責任負うべきは、
オレたちの課題ぐらいなもんだ、ぜっ。」
立ち上がって、真上にボールを高く投げた。
「少しは勉強しようよ。」
落ちてくるボールを素手で綺麗に受け取ると、
貴桜は白い歯を見せ、屈託のない笑顔を見せた。
未だに昔の傷を抱えたまま、
いびつな状態で毎日を過ごすのに
精一杯のイサムには、貴桜の生き方は
とても羨ましく思えた。
貴桜の将来への展望に、昨日の夜に聞いた
ザクロの言葉が重なった。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
彼女の言葉は矛盾している。
――――――――――――――――――――
イサムはキャッチボールを終え、
鬱憤を晴らした貴桜とは公園で別れた。
亜光と会えなくなったことを思い、同時に
課題のことを考えなくてはいけなくなった。
日は沈みかけ、
マンションの廊下にも明かりが灯る。
イサムの手はまだビリビリと痺れて痛む手を
眺めて歩くと、廊下に人影があった。
「お帰り。八種くん。」
「あ…海神宮さん。
これからお出かけですか?」
丁度いいタイミングで隣人のマオが
扉を開けて現れた。
今日はオレンジ色のスポーツウェアで
服の上下を揃えている。
彼女を見て、イサムはわずかに違和感を覚えた。
「八種くんに聞きたいことがあって。
ハルカさんにこの前の御礼を
用意しようと思うのだけれど。」
風のごとく現れた姉は、
観覧車の後で次の仕事があると言って、
風のごとく去っていった。
「そんなことを…?
あの人にそんなことしても、
逆に倍で返されると思うので、
キリがなくなりますよ。
それにあー…、メリットありません。」
「そう。」
残念がるマオに、
イサムは違和感の正体に気づいた。
「…海神宮さんって、
ご実家に帰ったりしないんですか?」
「実家…?」
意外な質問だったのか、マオは目を点にした。
夏期休講でもひとり暮らしであれば、
寮生は寮の休みにともない帰省している。
両親の離婚で帰る家のない
イサムのような例外でなければ、
ひとり暮らしを続ける理由もない。
マオがひとり暮らしを始めた建前は、
寮と学校を往復する生活ではなく、
自分の行動範囲を広げ、見聞を広めること。
それと入寮申請に遅れたことが原因のはずだ。
「あっ…。」
もしくは、帰れない理由があったのかもしれない。
野暮な質問をしたと、口をつぐんだ。
「そうね…、帰ることもできたのね。」
「え? そりゃ…
私的な話にまで干渉はしませんが。」
そんな気はなかったものの、
クラスメイトであり隣人でもある
海神宮家という存在には、
イサムにも少なからず興味があった。
「でも帰るのならその前に、
ひとつ試してみましょうか。」
マオは自室の扉を大きく開いた。
「八種くん、ウチに上がってみる?」
「は?」
突然の提案に驚き、声を廊下に響かせた。