「『SPYNG』はもう解散するの。」
「は?」
「ユズ、驚いた?」
ナノの告白に、イサムは驚くと同時に
罪悪感が蘇ったが、嘔吐は催さなかった。
イサムは長椅子に座って体調を戻し、
マオから渡された水筒から水を貰って休んでいる。
「ユージのせいじゃないよ。
そりゃユージいなくなって
ファンは離れちゃったけどね。」
困惑するイサムを見て、
ナノはいたずらっぽく笑ってみせた。
「空席はもう全部アタシたちのファンで
埋まったから、ユージの場所はもうないよ。」
「わたしたちは来年受験があるから。」
「それに高校入っても次は大学受験。
それじゃあちゃんと活動できないからね。」
「そういうこと。」
ナノとゲルダは顔を見合わせて笑顔を向けた。
どこかへ行っていたマオが、イサムたちが
休んでいた『歴史通路』に戻ってきた。
手には買い物袋を下げている。
「八種くん、これ着替え。」
服を吐瀉物で汚したイサムに渡されたのは、
タヌキの顔がプリントされたシャツだった。
マオもイサムの吐瀉物で汚された
桃色のカーディガンを脱ぎ、
購入した同じタヌキの絵が描かれた
大きなシャツを上に着た。
「ズルい!」
「なにが?」
「ペアルックだー。」
「ふふ。
それ言うと思ってね。ふたりにも。」
抗議を始めたナノと羨むゲルダを、
マオは見越していたので用意したシャツを渡した。
しかしシャツにプリントされた絵は、
尻尾が縞々で後ろ足で立って
歯茎をむき出しにする凶暴な動物。
目の周りの黒い模様が繋がっており、
タヌキとは見た目が微妙に異なる。
「ねえ、これ一緒の動物?」
「タヌキじゃないじゃない!」
「在庫切れみたいだったから。
類似品ならいいでしょ。」
「類似品とわかって買ってきたんですか。
海神宮さん。」
「よかれと思って?」
「なんで疑問形よ!」
不満で抗議したナノだったがすぐに諦めて、
シャツを両手で抱え、大事そうに胸に抱いた。
――――――――――――――――――――
夕方にしてはまだ明るい空のもと、
迎えの車を待つ列をナノが指さした。
「じゃあここで、さよならね。」
イサムはまたゲルダに無言で抱きつかれたが、
それを見たナノも彼女に続いて抱きついてきた。
「それじゃあ、ふたりとも。元気で。」
「酸っぱくさい。」
「ね。」
「そろってそんなこと言わなくても。」
結局イサムは着替えなかった為に、
吐瀉物と汗が染みたトレーナーのままで
一番嗅がれたくない状態だった。
「ユージ、今日は楽しかったよ。
久々にいっぱいおしゃべりできたし。」
「これから大変だと思うけど。」
「ユズがいなくなった日に比べれば。」
「そう。あの日はホントに大変だったなぁ…。」
ふたりは別れを惜しんでいたが、
やはり1年半の空白は埋まることなく
やがて会話が少しずつ減っていった。
「受かったら合格祝いしてよ。」
「わかった。」
「マオさんと4人でね。」
「そうだね。海神宮さんと。」
ナノとゲルダはイサムたちをからかう。
巻き込まれたマオに視線が集まるが、
彼女はうなずいて答えた。
「確約はできないけどね。」
――――――――――――――――――――
ナノとゲルダを乗せた車を見送って、
帰りはマオの送迎用のセダンに乗せられた。
一度は断ったが、
メイド服の〈キュベレー〉に担がれ
無理やり乗せられそうになったので、
渋々と乗ることを承諾した。
「せっかく買ったのに。
それ、着ないの?」
「やっぱり、においますか?」
マオは首を横に振った。
それからひと言だけつぶやいた。
「ほら、ペアルック。」
「そんなことを?」
思わぬ方向で変な期待をされたイサムは、
車内にも関わらず少し大きな声で驚いた。
今日は何度か服装に干渉を受けたので、
自分でちゃんとした服を買おうと決心した。
しかしイサムに服を買うお金はない。
姉だけが頼りだった。
「お姉さんは八種くんの様子見に来ないの?」
「え…どこでそれを?」
「ゲルダさんが気にしてたので。」
「あぁ、ゲルちゃんか。姉はどうかな。」
姉のことを想像して、言葉を紡ぐ。
「モデルであちこち飛んでて忙しいから、
こっちにはあまり来ませんけど。
連絡はよくしてきますよ。
ちゃんと勉強してるかって、口酸っぱく。
学費と生活費を負担して貰ってる身分で、
亜光と貴桜たちが憧れるような
自由なひとり暮らしなんてしてませんけど。」
「あっ。」
「どうしました?」
「ふたりにお土産買うの忘れてたわ。」
マオがイサムの持っているシャツを指さす。
「あー…。あのふたりにそんな気遣いはー…。
肉みそでいいんじゃないですか?」
「それ、八種くんが欲しいだけでしょ。」
図星にイサムはうなずきながら、
今日の夕食の献立を考えていた。
「ところで、
ずっと気になっていたんだけれど。」
「…なんでしょうか。」
深妙にするマオからの質問に、
イサムは少し警戒して表情を強張らせる。
「どうして八種くんは
ナノさんをさん付けで、
ゲルダさんはちゃん付けなの?」
「今更ですね。それ。」
イサムはこれみよがしに咳払いをし、
これからいかにも大切な説明をする
かのような素振りをしてみせた。
「出会った頃からふたりはずっと
あんな感じの距離感だったんですよ。
ナノさんは自分に厳しく刺々しく見えますし、
ゲルちゃんは見た目淡白なのに人懐っこい。」
「表面上はそう見えるけれど、
中身はお互い反対にも見えたわ。」
思いがけないマオの意見にイサムは嬉しくなり、
顔を見て強くうなずいた。
ナノはプライドが高く、自省心が強いものの、
時折り強く甘えるような態度を取る。
ゲルダは人との距離が近いが、
その実は入り込み過ぎない警戒心を持つ。
「なのでナノさんは変に馴れ馴れしくせず、
ゲルちゃんも出会った頃の流れで、
ちゃん付けを強要されただけですね。」
「あぁ、そう。」
その言葉に残念そうな顔を向けたマオは、
イサムを見たまま少し黙った。
マオはゲルダとの会話を思い出した。
「ユズは鈍感。
たぶん好きな人がいて…。」
ふたりの話をする中で、ずっと避けていた
彼女たち『SPYNG』の行く末を知った。
突然いなくなった過去の罪悪感は薄れ、
自分が捕らわれていた『ユージ』の名から
少しだけ決別できた気がする。
「…うん。」
イサムはマオから貰ったシャツの、
プリントされた絵を眺めてただうなずいた。
「なんでタヌキなんですか?」
「似てるから。」
「…うん?」
自信たっぷりの彼女の言葉に、
僕はふたたびうなずきかけた。
「は?」
「ユズ、驚いた?」
ナノの告白に、イサムは驚くと同時に
罪悪感が蘇ったが、嘔吐は催さなかった。
イサムは長椅子に座って体調を戻し、
マオから渡された水筒から水を貰って休んでいる。
「ユージのせいじゃないよ。
そりゃユージいなくなって
ファンは離れちゃったけどね。」
困惑するイサムを見て、
ナノはいたずらっぽく笑ってみせた。
「空席はもう全部アタシたちのファンで
埋まったから、ユージの場所はもうないよ。」
「わたしたちは来年受験があるから。」
「それに高校入っても次は大学受験。
それじゃあちゃんと活動できないからね。」
「そういうこと。」
ナノとゲルダは顔を見合わせて笑顔を向けた。
どこかへ行っていたマオが、イサムたちが
休んでいた『歴史通路』に戻ってきた。
手には買い物袋を下げている。
「八種くん、これ着替え。」
服を吐瀉物で汚したイサムに渡されたのは、
タヌキの顔がプリントされたシャツだった。
マオもイサムの吐瀉物で汚された
桃色のカーディガンを脱ぎ、
購入した同じタヌキの絵が描かれた
大きなシャツを上に着た。
「ズルい!」
「なにが?」
「ペアルックだー。」
「ふふ。
それ言うと思ってね。ふたりにも。」
抗議を始めたナノと羨むゲルダを、
マオは見越していたので用意したシャツを渡した。
しかしシャツにプリントされた絵は、
尻尾が縞々で後ろ足で立って
歯茎をむき出しにする凶暴な動物。
目の周りの黒い模様が繋がっており、
タヌキとは見た目が微妙に異なる。
「ねえ、これ一緒の動物?」
「タヌキじゃないじゃない!」
「在庫切れみたいだったから。
類似品ならいいでしょ。」
「類似品とわかって買ってきたんですか。
海神宮さん。」
「よかれと思って?」
「なんで疑問形よ!」
不満で抗議したナノだったがすぐに諦めて、
シャツを両手で抱え、大事そうに胸に抱いた。
――――――――――――――――――――
夕方にしてはまだ明るい空のもと、
迎えの車を待つ列をナノが指さした。
「じゃあここで、さよならね。」
イサムはまたゲルダに無言で抱きつかれたが、
それを見たナノも彼女に続いて抱きついてきた。
「それじゃあ、ふたりとも。元気で。」
「酸っぱくさい。」
「ね。」
「そろってそんなこと言わなくても。」
結局イサムは着替えなかった為に、
吐瀉物と汗が染みたトレーナーのままで
一番嗅がれたくない状態だった。
「ユージ、今日は楽しかったよ。
久々にいっぱいおしゃべりできたし。」
「これから大変だと思うけど。」
「ユズがいなくなった日に比べれば。」
「そう。あの日はホントに大変だったなぁ…。」
ふたりは別れを惜しんでいたが、
やはり1年半の空白は埋まることなく
やがて会話が少しずつ減っていった。
「受かったら合格祝いしてよ。」
「わかった。」
「マオさんと4人でね。」
「そうだね。海神宮さんと。」
ナノとゲルダはイサムたちをからかう。
巻き込まれたマオに視線が集まるが、
彼女はうなずいて答えた。
「確約はできないけどね。」
――――――――――――――――――――
ナノとゲルダを乗せた車を見送って、
帰りはマオの送迎用のセダンに乗せられた。
一度は断ったが、
メイド服の〈キュベレー〉に担がれ
無理やり乗せられそうになったので、
渋々と乗ることを承諾した。
「せっかく買ったのに。
それ、着ないの?」
「やっぱり、においますか?」
マオは首を横に振った。
それからひと言だけつぶやいた。
「ほら、ペアルック。」
「そんなことを?」
思わぬ方向で変な期待をされたイサムは、
車内にも関わらず少し大きな声で驚いた。
今日は何度か服装に干渉を受けたので、
自分でちゃんとした服を買おうと決心した。
しかしイサムに服を買うお金はない。
姉だけが頼りだった。
「お姉さんは八種くんの様子見に来ないの?」
「え…どこでそれを?」
「ゲルダさんが気にしてたので。」
「あぁ、ゲルちゃんか。姉はどうかな。」
姉のことを想像して、言葉を紡ぐ。
「モデルであちこち飛んでて忙しいから、
こっちにはあまり来ませんけど。
連絡はよくしてきますよ。
ちゃんと勉強してるかって、口酸っぱく。
学費と生活費を負担して貰ってる身分で、
亜光と貴桜たちが憧れるような
自由なひとり暮らしなんてしてませんけど。」
「あっ。」
「どうしました?」
「ふたりにお土産買うの忘れてたわ。」
マオがイサムの持っているシャツを指さす。
「あー…。あのふたりにそんな気遣いはー…。
肉みそでいいんじゃないですか?」
「それ、八種くんが欲しいだけでしょ。」
図星にイサムはうなずきながら、
今日の夕食の献立を考えていた。
「ところで、
ずっと気になっていたんだけれど。」
「…なんでしょうか。」
深妙にするマオからの質問に、
イサムは少し警戒して表情を強張らせる。
「どうして八種くんは
ナノさんをさん付けで、
ゲルダさんはちゃん付けなの?」
「今更ですね。それ。」
イサムはこれみよがしに咳払いをし、
これからいかにも大切な説明をする
かのような素振りをしてみせた。
「出会った頃からふたりはずっと
あんな感じの距離感だったんですよ。
ナノさんは自分に厳しく刺々しく見えますし、
ゲルちゃんは見た目淡白なのに人懐っこい。」
「表面上はそう見えるけれど、
中身はお互い反対にも見えたわ。」
思いがけないマオの意見にイサムは嬉しくなり、
顔を見て強くうなずいた。
ナノはプライドが高く、自省心が強いものの、
時折り強く甘えるような態度を取る。
ゲルダは人との距離が近いが、
その実は入り込み過ぎない警戒心を持つ。
「なのでナノさんは変に馴れ馴れしくせず、
ゲルちゃんも出会った頃の流れで、
ちゃん付けを強要されただけですね。」
「あぁ、そう。」
その言葉に残念そうな顔を向けたマオは、
イサムを見たまま少し黙った。
マオはゲルダとの会話を思い出した。
「ユズは鈍感。
たぶん好きな人がいて…。」
ふたりの話をする中で、ずっと避けていた
彼女たち『SPYNG』の行く末を知った。
突然いなくなった過去の罪悪感は薄れ、
自分が捕らわれていた『ユージ』の名から
少しだけ決別できた気がする。
「…うん。」
イサムはマオから貰ったシャツの、
プリントされた絵を眺めてただうなずいた。
「なんでタヌキなんですか?」
「似てるから。」
「…うん?」
自信たっぷりの彼女の言葉に、
僕はふたたびうなずきかけた。