物心つく前から芸能活動していたイサムは、
11歳になってひとつ年下のナノとゲルダと共に
『YNG』というユニット名で歌手活動を始める。

歌手活動を始める以前は父方の姓を名乗り
灯火(ともしび)ユージ』という芸名でデビューし、
5歳のときにハムの広告動画で一世を風靡(ふうび)

数々のドラマ・映画から出演依頼を受け、
名子役として業界のみならず大衆に広く知られた。

引く手あまたであったユージの出演料は高騰した。

依頼が減ると、母親の提案で
歌手への方針転換を図る。

新たに事務所を設立して、芸名も母方の姓から
九段(くだん)ユージ』に変更した。

役者として舞台で多少は歌う場面もあったが、
ユージはリズムに合わせて激しく踊るのが
不慣れであった為に長期間の特訓を要した。

もとより運動神経はよくなかった。

特訓の成果はあり、基本的なリズム感、
ダンス力を身につけたものの、
今度は歌いながら踊る技術力の課題が残った。

スタミナもなかった。

そこで母親が支援していた振付師の案で、
ユージは『口パク担当』をおおやけにする。

役者から歌手へと方針転換を提案したのも、
この振付師の男によるものであった。

話題の子役が(別途収録した)持ち前の歌唱力と
見事なダンスを披露し、歌手としてのデビューは
両親の想定通りに成功した。

それから2年、ユージの両脇をサポートする
ナノとゲルダと共に転府の各地を巡って公演した。

しかしある事件を境に、
ユージは舞台から姿を消した。

予定していた公演はすべて中止になり、
両親は離婚を発表した。

原因は出演料の配分で揉めた両親の
離婚に関係があると報じられたが、
情報は一切公表されなかった。

ユージは芸能界から姿を消し、
モデルの姉の保護下で『八種イサム』と
姓を変えて過ごしていた。

『YNG』の活動に終止符を打ったのは
すべてイサムが原因であり、雲隠れした事実に
ずっと強い罪の意識を抱えていた。

――――――――――――――――――――

ゲルダに二の腕を捕まれたマオは、
長椅子に腰かけて質問に沈黙で答えた。

マオにとってイサムはなにか?

その答えは彼女自身も模索している最中であった。

「わたしたちは突然ユズと引き裂かれたんです。
 いま活動している『SPYNG』の元になった
 『YNG』の産みの親で、ユズの両親は
 離婚してお姉さんが保護者ってややこしい話で。
 ユズの戻れる場所がなくならないようにって、
 それでナノとふたりでいまも『SPYNG』を
 続けてるんです。」

ある日突然、ふたりの真ん中に立っていた
『ユージ』はいなくなった。

「原因は?」

ゲルダは首を横に振る。

契約の解除となっただけで、
ナノもゲルダも原因は未だに知らない。

理不尽な結末に『ユージ』を憎んだこともあった。

いち時は感情的になって
泣いてわがままを言ったが、
2年の歳月は彼女たちを
少しだけ大人にした。

「お姉さんは、ユズは重たい病気だって。
 すごく謝ってくれてた。けど…。」

イサムを引き取ったモデルの姉が間を取り持った。
それでも取り残された本人たちは
納得がいかなかった。

彼女たちが、イサムと共にマオを動物園まで
誘い出したのには理由がある。

マオは『ユージ』ではなく、
いまの『八種イサム』を身近に知っている人物。

そしてゲルダがマオを引き止めたのは、
イサムとナノをふたりきりにする為だった。

「八種くんを取り戻しに来たの?」

マオの予想にゲルダは首を横に振った。

「ユズはもう、わたしたちを、
 忘れたがってるんだと思ってます。
 でもそんなの確認できなくて、怖くて。」

「少なくとも嫌がってはないわね。
 それは本人に直接聞いたから。
 あと八種くんって、いわゆる
 鈍感ってやつなのかしら?」

ゲルダは首を縦に振った。2度、力強く。

「うん。そうなの。ユズは鈍感。
 たぶん好きな人がいて…でもいいんです。
 わたしたちの前を去ったのはユズの意思で、
 いまのユズの生活を奪おうなんて
 思ってません。」

「それ本当に、八種くんの意思かしら。
 貴女の想像の中の八種くんよ。」

「それもそうですね。
 ユズはわたしたちを迎え入れてくれた。
 でも…変ですね、ずっと一緒だったのに、
 もう遠い人みたいなんです。」

「遠い? それは住所が?」

マオの疑問にゲルダは耐え切れず
お腹が痙攣するほど笑う。

「ふ。なんですか、それ。
 そういうのじゃなくて、
 わたしたちとの心の距離です。」

「ココロ…。」

ぼかした言い方をされて意味を少し考えた。

2年を共にした人物が忽然(こつぜん)と姿をくらまし、
1年以上も連絡を取らなかった。

イサム(ユージ)がいなくなってもなお、
歌手として活動を続けるふたり。

彼女たちはいまも戻ってくることを、
心のどこかで願い信じていた。

――――――――――――――――――――

タヌキに似た動物が、
後ろ足で立って歩きながらカメラに向かい
歯茎をむき出しにして鋭い牙を剥く。

イサムはナノの質問を予想して
ずっと考えていた。

それは既にマオから同じ質問を受けていたからだ。

ナノに請われ『SPYNG』に合流し
再び歌手活動をするのか。

突然辞めた自分が、気軽に戻って
いい場所ではないように思えた。

「ナノさんは、困るでしょ。」

「…困らないよ。」

「でも期待には応えられない。」

「ユージがいなくなって、
 ユージの為の『YNG』だったのに。
 アタシたちが背負い続けたんだよ。」

「そうだね。
 ふたりには謝りきれないと思ってる。」

「だったら。また一緒にやろう。」

「でも、
 ふたりの真ん中にまた立ちたいとは
 思わないんだ。」

いまはふたりの活動にさえ目を背けている。
ただそれは、イサムの口からは出なかった。

「どうして?
 ユージはアタシたちがずっと憧れてて、
 一緒になって頑張って来たのに。」

「もう期待には応えられないんだ…。」

ステージの上に立つ光景は、
いまでも鮮明に思い出せた。

舞台にあがり羨望の眼差しを受ける。
芸能の世界はそれほど蠱惑(こわく)的なものだった。

するとイサムは手が震え、声が震えた。

「あの、人の目が、怖いんだ。」

目を閉じると浮かぶ、
全身を照明の強い光に照らされる。

反響する歓声と、
いくつかの女子たちの目線。

視界が媚びるような目と口に囲まれる。
手足を捕まれ、腹を強く押し付けられる。

わき出た汗が背筋を()う。

頭からサッと血の気が引き、
まともに立っていられなくなり
近くの手すりにすがってひざまずいた。

息が浅く、乱れ、苦しい。
イサムは恐怖に駆られる。

込み上げる吐き気と締め付けられる頭痛に、
まばゆい照明は消えて暗闇の中で
意識を朦朧(もうろう)とさせた。

「ユージ!」

ナノの金切り声に、近くの長椅子に
腰かけていたマオとゲルダも駆けつけた。

「ユズ!」

「大丈夫よ。落ち着いて。」

マオは慌てふためくふたりに言い聞かせ、
背中をさすって逆流した胃の内容物が
気管に詰まらぬように吐き出させる。

厚く折りたたんだハンカチを噛ませて
舌を抑え、気管に指を突っ込んだ。

異物に対する反射で吐き出させたら
身体を左向きに寝かせて、
足を曲げさせ筋肉の緊張をほぐす。

額の絆創膏を剥がして第3の目(サーディ)
鼻や喉の奥、気管を覗き見る。

気を失ったが正常に呼吸をしている。
過剰なストレスによる失神。

それからマオはイサムを仰向けにすると、
ベルトに手をかけてズボンを緩め始めた。

「ちょっ!」

「ナノ。」

目の前でイサムが倒れたことで
一番気が動転しているナノに対し、
ゲルダは抱きついて彼女を抑える。

マオはズボンのボタンを外し、
イサムの両足を開いて
足を腰の高さまで持ち上げた。

イサムの両足をかかえる。

血が脳へとじゅうぶん巡るようになり、
イサムは意識を取り戻しはじめた。

目の焦点が徐々に合うと、足先にある
朧気(おぼろげ)だったマオの顔が判然としてくる。

しばらく見つめ合って意識が鮮明になり、
イサムは自分の足を持つ彼女に目を見開いた。

口元にはだらしなく胃液混じりの唾液(だえき)が垂れ出て、
マオのカーディガンの胸元を汚していた。

「わっ! ちょっと、離してください。」

言われた通りにイサムの足を下ろすと、
彼はゆっくりと立ち上がった。

だがベルトとボタンを緩めたズボンはずり落ちた。

「あわっ!」

「大丈夫? よね。」

「はい。ちょっとだけそっとしてください。
 すみません。服、汚しました。」

「拭けば気にならないわよ、こんなの。」

鞄から真新しいタオルを取り出してぬぐう。
折り返してイサムの口元にも差し出した。

「体調悪いヒトもいるし、もう帰りましょうか。」

「すみません。なんか。」

口元をタオルで拭いながら、
自分の情けなさにイサムは少しだけ涙ぐんだ。

ナノもゲルダも、
こんなイサムの姿を見るのは初めてだった。