謹慎も明けた月曜の朝、制服に着替えて
歯を磨き出かける準備をしていると、
インターコムが鳴り響いた。

早朝の来客に心当たりはない。

イサムはいつものトースト目当てで、
『カフェ名桜(めいおう)』に行く大事な予定があった。

歯ブラシを咥えたまま
ディスプレイに表示された人物を見て、
唾液混じりの歯磨き粉を床にこぼした。

ドアスコープを覗けば
隣部屋の住人、マオが制服姿で立っている。

燃えるような赤い髪を真ん中で分けて、
額にはいつもの絆創膏を付けている。

イサムは警戒心を解かず、
ドアガードをかけたまま
恐る恐る顔を覗き見た。

「こんな朝早くになんの御用でしょうか?」

「おはよう、八種くん。」

「おはようございます。」

「先日の騒動のお詫びに、
 朝食を用意したのだけれど。」

マオは後ろを振り向いた。

メイド服の機械人形〈キュベレー〉が、
大きな包みを抱えてたたずむ。

「え? なんで、ですか?」

「どうせいつもの喫茶店で
 パンをタダ食いするんでしょ。」

「タダ食いじゃありません。
 そんなこと調べないでください。」

「親切なご友人からの情報提供。」

マオの〈個人端末(フリップ)〉にメッセージが表示される。
偽情報の提供主は亜光百花。

「偽証罪だ…。」

忌々しげに言い放ったが、
トースト1枚の為に足繁く通っているのは
事実であり惜しむ情報でもなかった。

偽情報を流して名誉を傷つけた
亜光には〈更生局〉行きを請求したい。

「せっかく朝食を用意したのに、
 このまま追い返すつもり?」

先日と同じような文句で催促をするので、
イサムも渋々マオを部屋へと上げた。

マオと共にメイド服姿の〈キュベレー〉が
部屋に上がり込み、予期せず目を見開いた。

今更この機械人形の入室を拒否することもできず、
自分の部屋にも関わらず居心地の悪さを抱く。

〈キュベレー〉の顔と目がかち合う。

真っ白な顔に大きな3つの目で見られると、
イサムはすぐに目を伏せて体を強張らせた。

「座ってていいわよ。」

マオは既に座卓に座って足をくずし、
〈キュベレー〉が食事を用意するのを待っている。

本来の住人は部屋の隅に立ったまま、
自分の置かれた状況を俯瞰(ふかん)するほかなかった。

「あの…
 〈キュベレー〉もご飯を食べるんですか?」

「え? なにそれ? 食べないわよ。
 ご飯を食べるのはヒトだけよ。」

自らの愚かな質問に後悔した。

朝早く変な事に巻き込まれ
頭が上手く回っていない。

イサムは自らの愚かさ加減に
嫌気が差して眉間にシワを寄せた。

「今日も頭痛?
 ご飯食べたら学校休んじゃえば。」

「頭痛じゃありませんが、
 いますぐベッドで横になりたいところです。」

しかしテストの追試も控えているので
休んではいられない。

白地に黒色の文字が
縦横交互に印刷されたテーブルクロス。
それが足の短い座卓に広げられた。

向かい合わせで座るイサムとマオの前に、
釉薬(ゆうやく)の使われた真っ白な磁器の皿が置かれる。

それから銀製のナイフとフォークは、
顔が映り込むほどに光沢がかかる。

今頃なら紙製のバター用ナイフを眺めていた。

皿の上には見事な弧を描く大きなクロワッサン。
湯気が立つオムレツにケチャップがかけられる。
焼き目のついた香ばしいソーセージが食欲を誘う。

次に取り出されたのは
ラップがされた透明なガラスの器。

レタスが敷かれたポテトサラダに
キュウリとハムが彩りを与える。

ソーサーにティーカップ。
ポットから透明な湯を注ぐと
褐色の紅茶ができあがる。

無限になんでも湧いて出そうな、
不思議なバスケットから
〈キュベレー〉は手際よく並べ終えた。

「さぁ、早く食べましょう。」

テーブルナプキンを膝に置き、
マオはクロワッサンを千切って食べる。

イサムも彼女に習い、ナイフとフォークを手にして
ウインナーをひと口サイズに切って食べる。

「食べながらでいいのだけれど。」

紅茶の香りを嗅ぎながら、
マオはイサムの顔を見た。

「やっぱり八種くんは変ね。」

先週、手洗い場で言ったことをマオは繰り返した。

この話はイサムにしか関わりがなく
亜光や貴桜がいてはややこしくなる為に、
マオはこうして日を改めたのであった。

マオの指摘にイサムは黙ってうなずいた。

もちろん肯定しているつもりはないが、
元芸能人の自分が他の一般人と同じと
錯覚しているつもりもなかった。

「八種くんはなにか、
 ヒトには見えないものを見えている。」

「見えないものって?」

「ボールの運動を予測するだけなら
 誰でも可能だけど、投げる前に
 ボールの落ちる位置はわからない。
 普通はそうよね?」

「そうです…よね。」

指摘を受けたイサムだが、自覚はないので、
曖昧に答えるしかなかった。

「あの日、どうして殴られたの?
 八種くんには(かわ)すことができた。
 そうでしょ。」

3年生の荒涼(こうりょう)(じゅん)を怒らせたときの話だ。

「まぐれですよ。やっぱり。
 平手打ち(ビンタ)が来ると思ってましたし。
 結果、鼻血で制服を汚しました。」

「でもそのおかげで、
 ライオン頭の魔人を気絶させられた。
 正当防衛ってカタチで。怪我の功名ね。」

「功名?
 それで謹慎1週間ですよ。
 それに僕には天井裏は見えませんし、
 〈記録媒体(メモリー)〉だって落としますよ。」

「えぇ、そう。
 そこは私も疑問なのよね。
 あのとき、なぜか私には見えたの。
 どうしてだと思う?」

「〈サーディ〉、だからですか?」

絆創膏に隠された額の目を見たが、
彼女は首を横に振る。

「だって八種くんの後ろにいたのよ、私。」

「あ…たしかに。
 絆創膏もしてましたね。」

ザクロもそのことを指摘していた。

「その〈キュベレー〉からは…?
 あ、夜来(やらい)さんの後ろに立ってたね。」

「そこが私のいま抱えている疑問。
 わからないことを考えても仕方がないわ。
 で、八種くんはどうして変になったの?
 いつから? 生まれつき?」

「どうして変って言われても…。」

「私はその原因に興味があるの。
 たとえば〈3S〉の経験は?」

「まだ15ですよ。夏まで無理です。」

「転府の違法な〈ニース〉?
 過去に名府で〈3S〉をおこなったとか。
 事故にでもあってケガをしたことは?
 誰かに頭を殴られたりしたのかしら。」

クロワッサンを口に含んでそれらを否定する。
〈3S〉を使うには16歳になる必要がある。

住んでいた転府には〈3S〉がなければ、
高校入学までは名府に来たこともない。

仕事で名府に来た記憶も記録もない。
事故の経験も今まで一度もない。

商売道具ではなくなった顔を
殴られたのは先日が初めてだ。

マオの指摘する『変』の自覚はない。

「それなら仕方がないわね。」

マオはまた紅茶の香りを嗅いで、
残りをひと口で飲み干した。

〈キュベレー〉の用意した朝食を食べ終える頃、
部屋にインターコムの鐘が鳴り響いた。

本日2度の訪問者に、
イサムはディスプレイの前で硬直した。

「おーい、ユージーィ。」

よく通る声で、イサムの以前の芸名を呼びかける
同い年ほどの少女。

帽子と不似合いな色眼鏡にマスク。
隣に立っていたもうひとりが肩を叩くと、
すぐに色眼鏡とマスクを取り外す。

茶褐色と碧色目をしたふたりが、
カメラレンズを覗き込んだ。

「ユズー。」

「ナノさん、ゲルちゃん?」

イサムが役者業を辞めて、
歌手として2年間を共に過ごした
仕事仲間の少女たちの顔が、
ディスプレイに表示された。

よく知ったふたりの、突然の訪問だった。