岩のように硬い拳で鼻を打たれると
神経を通じて脳に伝わり、
全身に電気の刺激が走る。

皮膚の高閾値(こういきち)機械受容器が、
これを痛みとして感じる。

それだけでは済むはずもなかった。

体内を巡る液体は、
傷ついた鼻の中から
新たにできた道に逸れ、
上唇をめがけてこぼれ出た。

鼻血だ。

鼻から出た赤色の血は体を離れてしたたり、
薄黄色のリノリウムの床に落ちて行き場を失う。

血は本来の役割を喪い、あとはその場で乾くか、
拭い取られるのを待つばかり。

殴られた当事者は自らの身体に起きた
なんら不思議でもない現象を、
珍しいものとして眺めていた。

教室には似つかわしくない凄惨な光景に、
耳をつんざく悲鳴をあげる女子生徒たち。

しばらく床の血を見て呆然(ぼうぜん)として、
気を取り直して強くまばたきをした。

詰め襟を血で汚してはいけない。

尻ポケットからハンカチを出して
鼻の穴を上から抑えて塞ぐと、
逃げ場を失った血は鼻腔を通じて
口が血の味で満たされる。

小さな手が小さな鼻を抑える。
小さく薄い唇。

噛んだ唇が鼻血で(あけ)に染まる。

細いアゴと小さな顔に、
小中学生に見紛う背格好の小柄な体格。
不釣り合いな大きな黒の詰め襟の、高校の制服。

癖の強い黒髪の少年。

1年生の少年は3年生の教室に
乗り込んだものの返り討ちにあい、
自らの血で流血騒動を起こした。

不本意な事態に発展して、
少年は眉間にシワを寄せた。

夕日が反射したつぶらな黒目を
綺麗なガラス玉のように光らせて、
自分を殴った相手を鋭くにらみつける。

にらみつけたものの柔和な童顔で、
少女とも見紛いそうな生まれついての顔つきに
険しさが出ないのを少年自身も自覚していた。

どんな凶悪な顔でにらんだところで、
ひるむような相手でもなかったに違いない。

少年を殴った目の前の相手は、
小柄の少年の2倍はあろう肉厚の巨漢だった。

詰め襟の制服がはち切れんばかりに張っており、
胸元を開けた赤色のシャツには
見事に巨大な大胸筋の形が浮かんでいる。

殴った相手は息を大きく吸い込むと、
口の端から荒々しく息を吐き出す。

相手は土色の毛をアゴまでたくわえた
タテガミを持つライオンの頭をしていた。

それは決して比喩表現ではなく、
実際にライオンの頭をしている上級生だ。

自慢の肉体と獣の頭をしている彼は、
一般に〈ハイブリッド〉と呼ばれている。

興奮気味に肩を動かして呼吸をして、
金色の目が殺気立っているのがわかる。
狩りをする獣の目だ。

後で詳しい級友に語らせれば、
百獣の王とも呼ばれた肉食獣らしく、
また群れてメスを侍らせる習性があるという。

女子ばかりの教室にはお似合いの光景だが、
その風貌からは暑苦しいほどの獣臭が漂う。
今の鼻からは血の臭いと味しかしない。

燃えるような赤色の髪の少女が
尻もちをついて扉にもたれかかり
少年の小さな後ろ姿を見ていた。

すべての事件の発端は、その日の朝に遡る。

――――――――――――――――――――

アベリアという名の箱型に刈られた低木は、
初夏になると箱からはみ出て枝葉を伸ばす。

陽の光が葉に残った朝露に反射する。

少年は黒色のくせ毛の毛先を指で摘んで、
詰め襟の学生服のままアベリアに迎えられて
いつものカフェに入店した。

『カフェ名桜(めいおう)』はこじんまりとした店で、
4人がけのテーブル席がふたつと
カウンター席、それから窓際席とがある。

左手の親指に人差し指の爪先を
くっつけてから(はじ)いて90度に開けば、
個人端末(フリップ)〉の画面が表示される。

それから指の動き(ハンドサイン)に応じて、
表示された商品の注文と支払いが可能となる。

注文をしながら伸びた爪が気になった。
そろそろ爪切りを買わなくてはいけない。

店内の大きなディスプレイには、
昔のドラマの映像が流れている。

汽車に乗った幼馴染を、
走って追いかける主人公。

〈人類崩壊〉以前の文化を再現したドラマ。

木板を張り合わせてできた下駄を履き、
馴染みのない足元に何度も転び膝は血まみれで、
鼻緒で擦れた足は真っ赤になって痛々しい。

ドラマの中のふたりの少年少女を、
店内の皆が夢中で見ている。

中には涙ぐみ、鼻をすする音が響く。
相変わらず変な店だった。

静まり返る客の間を縫って、
窓際の、いつもの席にトレイを置く。

トレイには注文した分厚いトーストと無料の水。

紙でできたナイフでバターを塗る。
ナイフは使い捨て、バターは無料(サービス)

個人端末(フリップ)〉に表示された
『八種勇』のわずかな口座残高に、
口座の名義人であるイサムは頭を悩ませる。

このカフェは月曜の朝に限って
注文できるトーストはとても安い。

トースト単品では当然利益が見込めない。

メインメニューのコーヒーや紅茶、
サラダやデザートなどのサイドメニューで
トーストでの赤字を補填しつつ、
常連客を増やすことがカフェの狙いだ。

トースト1枚の為に通うイサムは、
カフェの狙いとは裏腹の常連客になりつつある。

食パン1枚の原価は大したことはない。
店としてもそれほど懐は痛まない。

イサムは善意の抜け道を堂々歩いている気がして、
店員や客からの被害妄想的な視線に胸を痛ませた。

口座残高という現実や店内の視線から逃げるべく
窓際席から外に目をやって、バターを丹念に塗った
分厚いトーストをひとくちかじる。

咀嚼をしても落ち着かないので、
無料の水ですぐ胃に流し込む。

イサムは常に誰かに見られている感覚があった。

級友に相談すればそれこそ被害妄想、
自意識過剰と一笑に付す与太話。

不慣れな土地に越してきたばかりで、
多少の違和感は当然かもしれない。

アベリアの垣根の向こうの交差点で、
1台の真っ青なオープンカーが信号で停まった。

黒色のスーツ姿と大きなサングラスをした
女性の運転手がこちらを見て微笑んだ。

彼女は奇抜な青色の髪をしている。

またあの〈ニース〉だ。

冷たく凍ったような色の髪を見て、
イサムは胸中でつぶやいた。

〈ニース〉はこの街の住人の特徴と呼べる。

猫の鳴き声のような名前の街、
名府、名桜(めいおう)市には〈ニース〉が多い。

イサムは他所の転府(てんふ)聖礼(せいれい)市から越して来たので、
〈ニース〉という異文化に戸惑うことが多かった。

しかしひと月もすると次第に慣れて、
驚くこともなくなった。

髪色以外にも容姿を変える人は
この街にあふれているからだ。

筋肉隆々の男性的な体格の
〈ニース〉もいれば、小股の切れ上がった
女性的な体格の〈ニース〉も多い。

〈ニース〉の中には〈パフォーマー〉と呼ばれ、
変更した肉体を有効に活用した職業に就く。

野球やサッカーなど転府で知られる競技でも、
名府では〈パフォーマー〉が極限まで力を
引き出して、人間離れした記録を打ち出す。

自らの肉体を酷使すると同時に、
故障や破壊や欠損さえも頻繁に起きるので、
イサムは理解に苦しんだ。

容易に治療ができるので心配の必要はない
というが、見ていても慣れず心臓に悪かった。

だが就労を目的に〈ニース〉を用いる人は少数だ。

〈ニース〉による容姿の変更は、
筋肉や骨格のみにとどまらない。

転府の聖礼(せいれい)市から文化が多く取り入れられ、
名府では昨今『聖礼(せいれい)ブーム』と呼ばれるほど
転府の芸能人やモデルの容姿を取り入れた
〈ニース〉が多い。

肉体ではなく容姿のみを変更した〈ニース〉は、
〈デザイナー〉と呼ばれている。

さらに肌の色を赤や青、緑などに
変色させた人の中には、頭髪や眉毛もなくし
ツノを生やしている。

思わずギョッとさせられる姿の人。

店内にはそのいかめしい容姿に似合わず、
転府で作られた古い『聖礼(せいれい)ドラマ』を見ながら
涙している最中だった。

頭の上にネコの耳を生やした人は、
よく見ると人間の耳は頭髪で隠して
瞳さえも猫と同じにしている。

既存の動物をモチーフにした〈ニース〉は多い。

ウシやシカ、ヒツジのように
枝や巻き貝の形をしたツノを生やした人がいれば、
イッカクのように(ひたい)の真ん中から
一本の長いツノを生やすオシャレもある。

買い物袋や上着をツノにかけていて、
馴染みのない光景を目の当たりにする。

カフェにある扉の枠には
そんなツノがよくぶつけられ、
ウレタン材が貼り付けられている。

他にもイヌのような頭部で並んで歩く男女。
落ち着いた服装は夫婦のように見える。

結婚をして、子供ができても
ふたりはあの姿のままなのだろうか。

イサムに抱いた疑問は泡沫の如く消える。

カフェの窓から見かける、
街の人の容姿は様々だった。

〈ニース〉はイサムと同じ人間だが、
背景には大きな理由がある。

人類は一度滅んだ。

厳密には滅びかけたとされる。

世界恐慌、暴動、略奪、侵略、火山の噴火、
温暖化と氷河期、冷害、降り注ぐ隕石群、
さらには太陽フレア、酸素の減少、核兵器、
ウイルス、細菌…。

人類の過ちと天災による様々な要因が絡み、
絶滅の危機に至ったと小学生なら誰もが習う。

ひとまとめに〈人類崩壊〉と呼ばれた。

そんな壊滅的な状況でも、
わずか数百年程度で
人口は当時の水準まで回復した。

人類を救ったのは〈NYS〉と呼ばれる
技術が生み出した人工的な人体の進化だった。

新青年構想(New Youth Scheme)

その頭文字から〈NYS〉と呼ばれ、
その技術は生命に革新をもたらした。

〈NYS〉は人体に環境耐性を編み出し、
100億もの人口と数千年もの歴史を
短期間で取り戻した。

イサムが移り住んだ名桜(めいおう)市のある名府は、
〈ニース〉の特別区画として有名だった。

この街の住人は〈NYS〉の技術の応用で、
外見の変更がある程度自由に許され、
自分自身を変えることに抵抗がない。

計画の名称に過ぎなかった〈NYS〉が
人を区分する〈ニース〉と変化したのも、
この街の住人らによる。

名府に住む16歳以上なら、
誰でも容姿・肉体の変更が受けられる。

〈ニース〉が制限されるのは
肉体が成長を迎える15歳までで、
以降は自己の責任を持って選択が可能だ。

容姿の優劣を明確に自覚し、
違法性を意識するも年齢に達する。

〈ニース〉に馴染みのない余所者のイサムは、
年齢制限によって周囲が不満をあらわにする
理由が最初はわからなかった。

実際個人が容姿の劣等感に苛まれることもなく、
他人が容姿で優劣を区別することもなくなった。

そして誰もが他人の姿に変われる。

好きな役者、モデルや有名人…。
その人になりきり一生を過ごすこともできれば、
1日だけ体験することも可能だ。

トーストを食べ終え、
イサムはこの地で学んだことを反芻する。

窓の外を眺めて席を立とうしたところで、
アベリアの生垣を越えて目の前に誰かが立った。

灰色のスウェット服を上下に着た、
ボサボサと乱れた長い黒髪の女性だった。

彼女はイサムの前で窓ガラスを
割れんばかりに叩いて、店内に激しい音を立てた。

予測不可能な彼女の動きに驚き
反射的に飛び避けようとしたが、
イサムは無様にも椅子ごと背中から倒れた。

「ユージくん! ユージくん!」

イサムにとって見覚えのある女優の顔に、
個人端末(フリップ)〉を開いて叫ぶ相手を走査したが、
表示された名前は記憶とは一致せず眉をひそめた。

彼女もまた〈ニース〉の〈デザイナー〉で、
他人が女優に成り代わっている。

店の外で半狂乱のまま騒ぎ続ける女性に、
店内の客は騒然となった。

誰かが通報して、〈キュベレー〉と呼ばれる
額に第3の目(サーディ)をもつ機械人形が
連れ去って行った。

彼女は〈更正局〉に隔離される。

こうして騒ぎはすぐに収まったものの、
この騒動によって注目を浴びるのは
残されたイサムだった。

つましい食事を済ませ、
余計に肩身の狭くなったカフェを出る。

設けられたセンサによって扉が光り開かれ、
センサは瞬時に〈個体の走査(スキャン)〉をした。

退店した個人を識別し、
個体番号を取得する。

個人端末(フリップ)〉と同じ仕組みが、
この街のいたるところに存在している。

個人の個体番号は常に誰でも閲覧可能で、
〈ニース〉による外見の変更や類似、
模倣(コピー)などは|些末〈さまつ〉な問題でしかない。

いまそこに誰がいるのか、
建物への出入りや移動などは
すべて記録されている。

先程のようにジェスチャーで相手に
個人端末(フリップ)〉を向ければ、誰でも
名前と個体番号は簡単に閲覧できる。

〈ニース〉使用者となると、
過去の容姿履歴など公開される。

カフェを逃げ出し学校へと向かう道すがら、
幾人(いくたり)かの〈ニース〉が〈3S〉の前で
列をなしている。

黒い円筒状の大きな設備が3本横に並ぶ。

特殊標本空間(Special Specimen Space)

その頭文字を取って〈3S〉と呼ばれる。
ちなみにこれはテストに出る。

店の前にて順番を待つ客に混じり、
異形の頭を持っている〈デザイナー〉もいる。

オーソドックスなイヌやネコから、
猛禽類や爬虫類なども人間サイズの頭になって
店の前で列をなしている。

入り口は光を通さないほど真っ暗で、
ひとりずつ順に入り、数秒経てば出てくる。

〈3S〉から出てくる〈ニース〉は一様に
普通の〈NYS〉、つまり人間らしい頭になる。

休日明けの月曜になると、
はしゃいでいた〈ニース〉たちは
朝になって慌てて〈3S〉で元に戻すのが
この街の日常風景となっていた。

この名府は〈個人端末(フリップ)〉や〈3S〉の普及など
〈ニース〉の生活環境が整備されたおかげで、
〈更生局〉の出番も減り、生活の質も上がった。

〈デザイナー〉も〈パフォーマー〉も
容姿・肉体を変更したあらゆる〈ニース〉も
そうではない普通の〈NYS〉でも、
個人端末(フリップ)〉や〈個体の走査(スキャン)〉をされたところで
生活に支障が出ることはない。

転府から越してきた少年、イサムにとって
名府は〈ニース〉の為の変わった街だった。

人は誰かになれ、
なんにでもなれる時代となった。

僕はなにになるんだろうか。