「もっと綺麗なものはないの? せめて荷物はおろして」
「お前らにはこれで十分だろ。それに山には妖怪がいるかもしれないだろ。そしたらこの円匙で一発ぶん殴って退治してやる。もっと上等なのが望みなら金を払え」
 西の都へ向かうためには山を一つ越えなければならず、そこには妖の類が住み着いているという噂もあるが、あくまで迷信だ。しかしその妖をこの貧弱そうな曹倫がどうにかできるとも思えないと、孫麗は頭の中で屈強な妖に対し、赦しを乞う曹倫を想像して笑った。
「何笑ってんだよ」
「別に」
 そこへ青ざめた顔の白梅が重たい足をひきずるようにやってきた。
「どうしたの、白梅」
「……いえ、なんでもありません」
 阿蘭にまた嫌味を言われたのだろうか。阿蘭はなぜか他の官女の中でも私を目の敵にしている。
 私のせいで……。
 俯いたままの白梅の背中を叩き、笑ってみせる。
「早く行きましょう」
 私たちは荷馬車に乗り込み、門をくぐった。

 市場が見えてきた。
 水路に沿って露店が並び、馬車が通る石橋のすぐ下を籠を乗せた船が通り過ぎていくが籠の中には小さな鯉が二、三匹しか入っていない。人通りも少なく、痩せこけた犬がトボトボと歩いている。市場にかつてのような活気はなくなっている。どこか寂れた様相だ。
 そんな雰囲気に似つかわしくないはしゃいだ声で曹倫は振り返る。
「饅頭でも食わねえか」
「奢ってくれるの?」
「馬鹿いうな。俺に渡すつもりだった駄賃があるんだろ」
「卑しいやつ」
 馬車を停めて、饅頭屋に出向くと饅頭が売り切れたところで新しい饅頭がまだ蒸しあがっていないと言う。蒸しあがるまでの間、孫麗と白梅は店先の椅子に座って待った。曹倫は汚い荷台を気にすることなく寝転び、なにが嬉しいのか鼻歌を口ずさんでいる。
「孫麗お姉様」
「どうしたの、白梅妹よ」
 雪華様から本当の姉妹と言われた時から二人はふざけて互いの名前をこう呼ぶようになった。両親を早くに亡くし、兄弟もいない孫麗にとって、たとえ冗談であっても姉と呼ばれるのは胸の内がこそばゆくなるほど嬉しいものだった。
「……私、お化粧の練習がしたいです」
「まぁいいでしょう。雪華様もおっしゃっていたし」
 孫麗が手提げの荷物の中から化粧道具を取り出そうとするも、先に白梅が化粧道具を椅子の上に並べた。
 用意がいい、と孫麗は密かに感心した。
「では、白ぬいの塗り方から」
 もし私が皇女になったとして、白梅が私の化粧係になれるかはわからない。もし他の皇女の元で働くことになり、失敗でもすれば折檻され、最悪の場合宮廷から追い出されてしまうかもしれない。
 そうならないためにも、孫麗は普段より雪華様に施す化粧の術を一から白梅に教えた。
「最後に口紅を。筆に塗りすぎず、器の隅でよく落として……」
 白梅の持つ筆の先が震えていた。
「どうしたの?」
「いえ、孫麗お姉様は綺麗だなって」
「なによ。今日ちょっと変よ」
「ごめんなさい……」
 白梅がこぼした涙の雫が紅の入った器へと落ちた。水滴にじんわりと赤みが移り、やがて涙は紅の中へと消えていった。
「なにも泣くことないじゃない」
 孫麗は白梅の頬を親指で擦り取る。まだ少女の面影が消えない白梅の肌は滑らかだ。
「ほら、早く」
 孫麗は目を閉じ、唇をキュッと前へ突き出す。笑ってくれるかなと思ったが白梅は笑わなかった。
 筆の先が唇を滑り、これで化粧は終わり。
 化粧の仕上がりを確認しようと川の水面を覗くが、曇り空の上に川が濁っており、よく見えなかった。
 しかし孫麗は満足そうに笑った。
「綺麗にできてるじゃない。これなら私の化粧係も務まるわ」
「……はい」
「おい、もういくぞ」
 いつからか起き上がっていた曹倫は孫麗の顔をみてすぐに馬を繋いだ手綱を緩めた。
 化粧したんだから、少しは褒めてくれてもいいのに。曹倫に褒められたところで嬉しくはないけど。それに。
「まだ餡饅が」
 その声が聞こえないのか、曹倫は歩みを止めない。
「勝手なやつめ」
 そこへちょうど店主が饅頭を三つ持ってやってきた。
「包んでいただけますか?」
「あいよ」
「仕方ない。道中に食べましょう」
「……はい」
 孫麗と白梅は竹の葉で包んだ饅頭を持って、曹倫の引く馬車へと走った。

 それから一刻ばかり過ぎた頃だろうか。
 孫麗は空を見ていた。
 見上げていたのではない。ただまっすぐに、目の前に広がる景色を見ながら考えていた。
 今の孫麗には考えることしかできない。なぜなら身体は動かず、声も出せず、全身から感じる痺れと痛みを紛らわせるには考えるしか方法がないからだ。
 空から土が降ってきてずしり、と腹のあたりが重くなる。
 孫麗は今、人が一人入るほどの穴の中に仰向けの状態で倒れている。
 穴の淵では泣き崩れる白梅が曹倫の足元にしがみつき、曹倫はそれを払いのけ、円匙で孫麗がいる穴の中へと土を落とす。
 孫麗の身体はいつしか土の重みを感じなくなっていた。痺れもない。痛みもない。ただ、土の冷たさに体温を奪われる感覚だけがあった。
 まだ生きているのか。
 もう死んでしまったのか。
 そんな違いもわからないままに、孫麗は思い出していた。
 人気のない山の中腹あたりで、饅頭を口にした直後、息苦しくなったこと。
 それだけじゃない。曹倫は金を払えば誰の言うことも聞くやつだが、今回は孫麗に対し、金を要求してこなかったこと。
 つまり、あらかじめ誰かが曹倫に対し金を払い、孫麗を殺すように指示していたのだ。あの饅頭屋も仲間なのだろう。饅頭に毒を仕込んだのだ。
 しかし、私は私自身で三つの饅頭の中から一つを選んだのに、残りの二つを食べた曹倫も白梅もどうもなってはいないのは何故だ。
 何かがおかしい。ただその何かを考えるほどの余力はもう孫麗に残っていなかった。
 土が全身に被さり、残すは顔のみになった。
 あぁ、せっかく白梅が化粧をしてくれたのにこれでは台無しだ。
 白梅が、化粧を。
 そこで、孫麗は気がついた。
 そして合点がいった。
 孫麗は饅頭をかじった後、真っ白な饅頭の皮に鮮やかな紅い口紅がついた。それを孫麗はかじり食べた後に苦しくなったこと。
 曹倫が私とともに宮廷を出たことは門兵が見ている。私が死んだといえば、曹倫が殺したと疑われて今度こそ処刑だ。
 だから共犯者であり、嘘の証言をするもう一人の存在が必要だったのだ。
 山賊に襲われたとか、妖にさらわれた、とか。
 思えば、白梅の言動や挙動が今日はずっとおかしかった。
 いや、正しくは阿蘭の元から帰ってきた時からだ。
 なんてことだ。私がもっと早く気がついていれば、白梅にこんなことをさせずに済んだのに。
 ごめんよ、白梅妹……。
 孫麗の思いは土の中に溶け込み、誰にも知られることはなかった。
 ピシンっと、身体の中心に一本の大きな棒が通ったように背筋が伸びると、そのまま身体は引っ張られるように起き上がる。腕も曲がらずに覆いかぶさった土を刺すようにして伸ばすと指先が外気に触れた。その瞬間、身体全体が土の中から現れ、ぽろぽろと袖から土が落ちた。

 瞳を開けた孫麗の前には黒い服を着た道士が地面に描かれた六芒星の中心に立ち、ぶつぶつと何かを唱えている。すると、カッと目を開く。
「符術、黄泉転生(よみてんりん)
 道士は手に持った札を孫麗のひたいへと貼ると孫麗の身体はかっちりと固定されたように動かない。身体はまっすぐ、腕も前へまっすぐ。
 道士は一息ついたように自身の首回りを袖で拭った。後ろで結ばれた長い髪が揺れる。
 孫麗はなにが起きたのか何もわからない。
 ここは、山の中だ。
 山の中? 
 どうして私が山に?
 頭の中がぼやけて不明瞭だ。しかし何か大事なことを忘れているような感覚だけはあった。
 そんな孫麗に御構い無しといった様子で道士はふむふむ、と直立した孫麗の周りを歩きながら開いているのかわからないほどの細目で見回す。
「なるほど、木を隠すなら森の中、死体を隠すなら死体の中というわけか。さしずめ、どこかの皇女が暗殺され、ここに埋められたというところか」
 孫麗はあたりを見ると長く生えた雑草に隠れてあちこちに石碑が転がっている。
 ここらは昔、身寄りのない戦没者を埋めた墓地だったらしいが世話をするものもいなくなりすっかり荒れてしまっている様子だ。
「強い眷属を作ろうと思ったのに、可愛らしい召使ができてしまったな」
 ひたいに貼られた札をめくり、頬を撫でてくる道士の手を払い、孫麗は道士を平手打ちした。
「なにすんのよ!」
「えぇ!?」
 そこで孫麗は自分の身体が自由に動くことに気がついた。ひたいに貼られた札が孫麗の鼻の先に擦れる。
「これなに?」
「それは俺の術式を流す札で……」
「邪魔なんだけど」
 札を剥がすと道士は細い目をかっ開く。
「剥がしたぁ?!」
「人の顔に勝手に貼らないでよ。失礼でしょ」
 道士の耳には孫麗の文句が聞こえていなかった。頭の中は目の前で起きた不可解な現象についてでいっぱいだ。
「どうして動けるんだ? 殭屍《キョンシー》は道士の術式により生前の肉体を取り戻し、その対価として魂を失くし、道士の命令に付き従う存在なはずのに」
「知らないけど、失敗したんじゃないの?」
「馬鹿言うな。俺はここらでは一番優秀な道士だ。ありえない」
「でも私、生前の肉体も魂もあるけど」
 孫麗は自分の発した言葉に耳を疑った。
「……生前?」
 瞬間、頭の中の霧が晴れ、全てを思い出した。
 毒にもがいた苦しみを。
 土を被される感触を。
 白梅の涙を。
「私、死んだんだった……」
 実感のない死に戸惑うよりも、身体が先に動き出す。
「私、帰らなきゃ」
「宮廷にか? どうして? お前殺されたんだろ?」
 その問いに孫麗は答えることができない。
 確かに私は白梅に殺された。
 親愛なる妹に。
 道士は不謹慎にもそこらの石碑に腰掛ける。
「それよりも俺と一緒に他の国へおさらばしようぜ」
「あんた道士なんでしょ? 道士ってお寺で日々修行に励み、占卜によって国の未来を暗示したりするんじゃないの?」
 いやいや、と道士は手を振る。
「俺は修行も、働くのもぜーんぶ嫌だ。お気楽自由主義なんだ。それに王が死んで、国全体が悪い気に包まれている。もうこの国もおしまいだし、だから早いとこよそに……」
 待って、と孫麗は道士の言葉を遮る。
 王が死んだ? 私が死んで何日経ったんだ?
「今って何月?」
「七月だけど」
 孫麗は言葉を失った。孫麗が白梅らと一緒に宮廷をでて殺されてからすでに一ヶ月も過ぎている。
 王様が崩御された。
 ならば雪華様はすでに後宮にはいない……。
 孫麗の身体を衝動が突き動かす。
 背中に聞こえる道士の声を無視して孫麗は山道を下る。
 とにかく宮廷に戻らなければなにもわからない。
 やはり帰らなければ……。
 少し前に雨が降ったのだろうか。土はぬかるみ、孫麗の足を重くさせる。
 突然、草むらが不気味に揺れ出した。その隙間から赤い目が孫麗の姿を睨んでいる。その視線に気づいた瞬間、黒い塊が孫麗に向かって飛びついた。驚いた拍子に泥で転んだ孫麗はギリギリのところでそれを交わしたが、まだ身体がうまく動かせず、立ち上がることができない。
 座り込む孫麗を取り囲むように草むらから数匹の野犬が姿を現した。しかしそれは野犬というにはあまりにも獰猛な牙をしており、鋭い爪は人など軽く引き裂いてしまいそうだ。
 それらが一斉に孫麗に向かって飛びつく。
 あぁ、また死ぬのか。
 すると孫麗の頭上を数枚の札が飛んでいく。
「符術、劔舞葬《つるぎのまいそう》」
 宙に浮かぶ呪符から現れた無数の劔が次々と野犬たちを突き刺していく。しかし野犬たちは未だにじたばたと動き、孫麗に襲いかかろうとしている。
 木の上から道士が飛び降り、孫麗の横へと着地する。
「こいつらは妖犬だ。妖は人の悲しみ、不満、怒り、そして畏れ。それらの陰の気によって生まれる。この山は妖が出ると畏れられているだろ。その畏れがこいつらを生んだんだ」
 畏れがあって妖が生まれたのか。
 妖があって畏れが生まれたのか。
 それは誰にもわからないってな、と道士は嘯いた。
 とどめだ、と袖からもう一枚の呪符を取り出した道士は空に向かって放つ。
「符術、雷天葬《らいてんのそう》」
 瞬間、雲が光り、一筋の雷が妖犬たちへと落ちた。丸焦げになった妖犬たちは塵となって風に消えた。
「な、俺すごいだろ」
「……どうも」
 差し出された手を握りかえすと道士の手の温もりを感じた。それと同時に自分の肌の冷たさも感じ、自分が本当に死んでしまったのか、と孫麗はやっと自覚した。
 鼻の奥が痛み、涙が溢れた。
 本当はもう痛みなど感じないのに。
 先ほど転んだ時も痛みは感じなかった。心臓の音も聞こえない。私の生物としての機能は完全に止まっている。
 なら、この涙はなんだろう。
 道士は孫麗の頬へそっと手を伸ばす。
 涙を拭ってくれるのか、と孫麗は目を閉じ少しだけ顔を上げたが道士はその手でぱしん、と孫麗の頬を叩いた。
 驚き目を見開くと、道士の頬が少しだけ赤らんでいた
「さ、さっきのお返しだ」
 そう言い捨てると道士はそそくさと歩き出す。しかしその方角は他国へ続く登りではなく、宮廷へ続く下り道だ。
「俺も宮廷に行く。皇女を助けたって言えば、褒美もらえるかもしれないしな」
 道士の気の抜けた言葉に孫麗は唖然としてしまった。
 しかし、いつしか涙は引いていた。
 孫麗は待って、と道士のあとを追った。
 宮廷にたどり着く頃にはすっかり日も暮れ、あたりは闇に包まれていた。長い道のりの果て。揺らめく松明の明かりが見え、宮廷の門まで向かうと見張りの門兵が二人立っていた。門兵の一人が孫麗の前へと立ちふさがる。
「誰だ貴様」
「私は陽孫麗。後宮に使える官女で雪華様の使用人をしておりました」
「官女? お前皇女じゃないの?」
 孫麗は道士の問いを無視。
 皇女じゃないと知れば守ってもらえないと思い、道士の勘違いを否定せずにここまでやってきた。しかし孫麗は自ら皇女とは名乗っていないので嘘はついていない。
「こいつは?」
「道士です」
 もう一人の門兵が門を開けるが孫麗の前に立つ門兵は動かない。
「道士には用があるがお前はダメだ」
 門兵は道士の首根っこを掴みズルズルと引きずって敷地内へと消えていく。
「えぇ、俺、褒美貰いにきたんだけど? てかお前皇女じゃねえのかよ! ちょっと?!」
 道士に心の中で手を合わせ、孫麗は門兵を見上げる。
「どうしてですか?」
「陽孫麗は死んだと聞いている。お前は何者だ?」
「だから、私が陽孫麗ですって」
 すると門兵の後ろで通りすがりの宦官がこちらを覗くのが見えた。遠目からでもわかる見窄らしい宦官は驚いた様子で指先をわなわなと震わせ、孫麗を指差した。
「孫麗?! お前なんで生きている?」
「曹倫! お前と言う奴は!」
 孫麗は怒り、門兵を突き飛ばして曹倫に向かって歩み寄る。曹倫は「成仏しろ!」や「死に損ないが!」など喚くが孫麗の耳には聞こえていない。
 どうにも一発殴ってやらねば腹の虫が収まらない。
 拳に力を込め、振り上げる。
「なんですか騒々しい」
 宮殿の廊下からこちらを見下ろすその人は大后様だった。
 その場にいる全員が一斉に大后様に対し跪づく。
「大后様」
「お前、名は」
「陽孫麗と申します。私は……」
「あぁ知っているぞ。あの女の使用人か。確か死んだと聞いていたが?」
 ギロリと大后様の鋭い眼光が曹倫を指す。
「は、はい……実は」
 孫麗は視界の端の東側、朝日殿の廊下に立つ皇女の姿に目が止まる。きらびやかな服を着た阿蘭、そしてその後ろに立つ数人の侍女の中に白梅の姿が見えた。
 孫麗は大后様を見上げる。
「道中、山賊に襲われ、崖から落ちてしまいました。ここにいる曹倫が証人です」
「そうなのか?」
 孫麗は曹倫へ話を合わせろと目線で訴える。
 ここで真実を言えば曹倫とともに白梅も罰を受ける。それに私が?屍であると知られれば、宮廷から追い出され、最悪退治されてしまうだろう。
「は、はい。私はてっきり死んだとばかり思いまして……」
「崖の下は川が流れており、私はある村に流れ着いたのですが記憶を失い、近頃自身が宮廷に仕える官女の身であったことを思い出し、こちらへ戻ってきた次第でございます」
 とっさに考えついた嘘だったが辻褄はあっていた。
 孫麗はもう一度深々と頭をさげる。
「ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」
 大后様はふんと、鼻を鳴らす。
「迷惑などかけられた覚えはない。お前一人がいなくてもなにも問題はないからな」
 大后様の仰ることはごもっともだ。一介の官女が一人いなくなったところで何も影響はないだろう。
「早くここから……」
 そこへ宮殿の奥から浩宇皇子が姿を表した。
「大后、なにをされておられるのですか」
「皇子こそなにを」
「もう私は王です」
 浩宇皇子は廊下から地面へ降り、孫麗の元へと歩み寄る。
「お前、よく戻ってきたな。早く中で休みなさい」
 浩宇皇子、改め、浩宇王が差し出し手を孫麗は握りかえすことなく、自らの足で立ち上がる。
「申し訳ございません。汚らしい身体で王様の手を汚してはいけません」
 孫麗は浩宇王へ一礼し、朝日殿の廊下へ赴く。
 高床の廊下から阿蘭が眉間にしわを寄せ見下ろす。
「ご無事で何よりだわ」
 阿蘭に対しても腹は立つがいまは相手にしていられない。
「白梅妹よ」
「……孫麗、お姉様」
「着替えます。手伝いなさい」
「……はい」
 すると、横から阿蘭が白梅の前へと立ちふさがる。
「ちょっと、この侍女は私に支えているんだけど」
 孫麗はそれを無視して、踵を返す。
「私は皇女よ!」
 阿蘭の甲高い声に、孫麗は振り返る。
「あなたは阿蘭よ」
 何も言わない阿蘭の横を白梅は通り、孫麗の元へと走った。

 雫が垂れ、水面に波紋が広がる。
 一ヶ月ぶりの湯浴みは生き返る心地だ。心地というだけで、実際は死んだままなのだけど。
 湯船の外で白梅はただじっと座っている。
「雪華様は?」
「王が崩御されて、遠くの寺へ出家されました」
「そうですか」
 沈黙が浴槽に沈んでいき、湯気が天上へと昇っていく。
「孫麗様……」
「お姉様とは呼んでくれないの?」
「私……、私……」
「いいのよ」
 白梅が鼻をすする音が浴場に響く。
「でも本当に、生きててよかった。雪華様もお喜びになります」
「あー、そのことなんだけど」
 孫麗は湯の中から手を差し出す。
「ちょっと触って」
 白梅が首を傾げながらその手を取ると、驚き手を引っ込める。
「冷たっ!」
「私、死んでるの」
 驚いている白梅にどれほど理解できるかわからなかったが孫麗は自身が殭屍になったこと、そして道士から聞いた殭屍の特徴を伝えた。
 殭屍は本来、人間の生き血を好む凶暴な人食いの妖怪だが、ひたいに貼った封印の札の効果によって術師の傀儡となり、神通力を持つようになるという。
 しかしどういうわけか孫麗はどの特徴にも当てはまらない。ただ殭屍の、生前同様の肉体を取り戻し、長い髪が生えるという性質だけが残った。
 確かに一ヶ月埋まっていれば肉は腐り、一部は土に還るだろうが肉体はどこも欠損していない。また宮廷への道中、整えようと何度か髪の毛を切ったがすぐに生えてきた。
「だから聞いて、白梅。あなたに私の髪を結って欲しいの。周りに?屍であることを隠すために」
 私たちの心の母、雪華様もおっしゃっていた。
 白梅は髪を結う才があると。
「このことは誰にも話していけない。わかった?」
 白梅はもう一度孫麗の手を握り、今度は離さなかった。
「約束します」
 孫麗はニヤッと笑う。
「これでおあいこよ」
「うわぁ!」
 そのまま白梅を湯船の中へと引き摺り込んだ。湯船から大量の湯が溢れ、桶が端まで流れていった。
 湯から顔を出した二人は、互いの顔を見つめ、どちらからともなく噴き出した。
 二人の笑い声が浴場に響いた。