「知唐、そっちの本棚から取ってくれるか」
「うん、良いよ」
 姿は見えないけれども、棚の向こうから、俺に向けて頼みごとが届いた。
 何段目でタイトルは何だと問えば、相手はつらつらと、8段目の赤い背表紙のと、見てもいないのに答える。それほどまでに熟知していることに感心した。
 この屋敷には、どこかの市立図書館レベルじゃないか、と言わんばかりの量の本が置いてある。目的の一冊を探すのにも一苦労だ。
 8段目の赤い背表紙、と指を添えながら口にして目的のモノを探せば、赤い背表紙のハードカバーの本を見つける。これだろうと指先で触れて、そのまま取り出そうとするも、どうもぎゅうぎゅうに本が詰まっていて中々に取り出せない。
 眉間に皺が寄るのが分かりつつ、力を込めて引っ張ればゆるゆると此方に向かって出てくる。もう一息、というところで、ふんっ! と気合を込めた声を零しながら引っ張り出せば、周りの本もなだれ込むようにして一緒に飛び出して来てしまった。
「うわっ、やばっ!」
 ドサドサ、と音を立てながら、8段目に入っている半分くらいの本がこぼれ落ちてしまった。
 赤い本を手に取りながら、突然の事にハンズアップの体勢になり、落ちてしまった本を眺める。
 とっさに受け止められなかったことに自己嫌悪。きゅ、と目を閉じて、口も同じ様に結ばれた。
「知唐大丈夫か?」
「んー……なんとか。ごめん、本、沢山落としちゃった」
 声を掛けてくれた彼に謝りながら、床にばら撒いてしまった本を拾い上げていく。
 ごめんなさい、と本にも謝りながら。せめて拾うのだけは丁寧に優しくやろうと、一冊一冊を手に取っていく。植物図鑑に動物図鑑、星座図鑑などの数多くの図鑑シリーズも揃っていた。この家には、本当に何でもある。
 結局、本をばら撒いてしまい、埃も舞ってしまったので、ついでにと周囲の掃除をしてしまえば、俺に頼みごとをしていた彼は、にぱっと笑みを浮かべる。
「いやー掃除までしてくれてありがとな! 助かったよ!」
「いや……うん……」
 カウンター席の向こう側に腰かけ、にこにこと笑みを浮かべながら、彼は礼を述べた。
 笑みを浮かべている彼の目の前で、椅子の上で膝を抱えるような体勢で座る。普通に座れば? と言われたけれど、それに曖昧に返事をした。
 植物図鑑を元の位置に戻してから、ふと、家に生えている杏の木を思い出していた。
 杏の開花時期は3月下旬辺りから4月上旬辺りが平均だ。桜より、少しだけ早く咲く。そして杏の花は開花期間が短い。その割には、家に生えている杏の花は、ず~っと咲いている。風が吹いて花びらがハラハラと散っても、何事も無かったかのように、ずっと綺麗な薄いピンク色の花を咲かせている。
「ねえ弥生さん。家にある杏の木ってさ……」
「ああ、あれ? お前が大切にしていた木だよ」
「そう、なんだ……。いや、ずっと咲いてるから気になって」
「お前が大切にしてたから、咲いてあげているんじゃないか?」
 そういうもんなの。そういうもんだよ。
 どうやらこの屋敷は、本来の俺の家と同じ構図らしい。夢なんだから、もっと大きな殿様のような屋敷でも可能なんじゃないか、とも思ったけれど、住むとなればこんなに立派であれば十分すぎるかもしれない。というか、一人暮らしにこの家の広さも、十分すぎると言うか、手に余る。ワンルームくらいで満足しそうなんだけど。
 まだまだ知らない事実や、知らない人などが沢山あると思っていたけれど、中々に驚いた。
 彼からすれば大した話題ではないのかもしれない。まあ、この世界だし、何でも有りか。そう、自分に言い聞かせる事で、事を済まそうと考えた。
 
「それより、そろそろ出かけるんだろう?」
 笑顔を横目に、壁掛けの時計に目を向けて告げれば、彼もつられて時間を確かめる。
「うん? そうだね、そろそろ時間だ」
 この俺の夢の世界に来て早数日が立っている……だろう。正しい日数や時間は、どうも有耶無耶だ。今日が何月何日なのかも分からない。けれど、それらが全て『この世界だから』で済まされている辺り、便利でもあるなと思う。
 この世界を受け入れ、ハッキリとしてきた意識の中で、彼の体の一部が物に透けて見える事に気付いて、俺は悲鳴を上げた。ホラー系統が苦手な、ビビリな情けない三十路だ。彼曰く、案内人は肉体というものを持ち合わせていないそうだ。幽霊みたいなもんだと彼は笑う。
 だが、先程から話しているように、彼はとても優しくて、更には案内人として俺を見守りをかねて一緒に暮らしている。同居人として、うまくやっている。住み心地に関してだけなら同居人、物件、すべて満足だ。
「お前は、何かやりたいことでもないのか?」
「記憶がないんだから、何がやりたいのかも分からないんだよ」
「あー、成程なあ」
 む、と少しだけ眉間に皺を寄せ、顎に指を添えて考えるそぶりを見せる彼。
「この世界には住民もいるよ」
「俺以外にも、この世界に人が居るのか」
「そう。皆が寂しくないようにね」
 この世界を示しているのかもしれない、両手を広げながら、彼は言う。
「この世界の住民は皆良い人だからな。安心してくれよ」
 そのまま胸を張って、どこか自慢げ。確かに、俺の夢によってできた世界なのなら、自分の都合のいいように良い人ばかりで出来上がっているかもしれない。わざわざ夢の世界を作り上げられる中、己を否定する人物を作りたくはないだろう。
「知り合いは?」
「知り合い? んー……あー……居る、かも?」
 彼は腕を組んでから首を傾げ、思い出すように視線を名斜め上に動かした。
「曖昧なんだ」
「君が望めば会えるかもしれない。滅多にないけれど」
「記憶が無いから望み薄だな……」
 ふむ、と小さく声を零しながら顎に指を添えていれば、彼は満足そうに笑みを浮かべた。
「兎に角、誰かに会ってみたりしてみたらどうだ? そうしたら、ここでやりたいことも見つかるかも」

 さて、それならどうしようか。
 弥生さんは、少しだけアドバイスをしてから出かけてしまった。現在、相談できる相手はいない。どうしようかと、頭を悩ませる。大きな屋敷を囲う御簾垣の前で、竹箒を支えにし、柄に顎を乗せてゆらゆらと身体を揺する。記憶の無い俺は、どうも出来る事が少ない。やりたいことも、なかなか見つからない。掃除をやらせてもらっているのだが、どうも掃除には集中できなさそうだ。
 そもそも、この世界には何があるのか。それによっては、行動範囲も広がっていく。
 人が存在しているというのなら、仲良くなれたら万々歳なのだが……折角だし。
「……あれ?」
 ふ、と聞こえた声に、びく、と俺の背が震えた。癖毛も一緒に揺れる。呆けた顔を隠すように、髪を整えながら顔を上げる。そして、そこで、相手は目を開いた。
「アンタ……」
 思わず目を開いた男性はしげしげと眺め、そのまま俺を指さす。そのタイミングと同時に、サラサラと杏の花びらが、俺達の間に入り込んできた。
 その事に驚いたのか、彼は杏の花びらが吹いてきた方に目を向ける。
 俺の前に立つ男性は、整っている容姿だった。何度か色を抜いたらしい髪の毛は金髪だが、少し垂れ気味の優しい目つきのおかげか、厳つい雰囲気には見せない。まるでどこかのアイドルグループに所属していそうな、女性だったら思わず目で追ってしまうかもしれないような、そんな見目の男性だ。
 本当に人が居た。その衝撃は大きく、続けて、まいまじと男性を眺めてしまう。
 ああ、彼が例の住民とやらなのかもしれない。
 そんな彼を眺めていると、最初は心がざわざわとしていたが、次第にゆっくりと心が落ち着いて来た。
 そんなわけがない、と名前もわからない誰かが口にしたのを聞いた気がした。
 互いにぼう、としたままだったが、男性は指していた指を戻し、その手で首の後ろを掻いた。少しだけ、むず痒そうな表情だ。

「……誰?」
 俺はそのまま首を傾げた。
 彼は、俺以上に驚いたように目を開いた。
 記憶を失う前の自分だったら、こんな失礼な態度をとったら怒られていたかもしれない。もしくは、相手は不機嫌丸出しの態度になっていたかもしれない。だってそうだろう? いきなり他人に誰だと問われるのだから。
 見るかぎり、俺と大して歳は違わないだろう。だったら世間的に考えても、彼は社会人と分類されるはずだ。それなら、対人に関するマナーも多少は嗜んでいるだろう。知識があるという事は、自分がされて嫌なことも存在することになると思う。
 不躾な態度を取りやがって! はあ? 何言ってんだコイツ、と青筋を立てていてもおかしくない。怒られてもおかしくないだろう。
「ご、ごめんなさい……。俺はこの家の者です」
 慌てて頭を下げて謝罪。男性は先程よりも驚いたように目を開いた。
 今更ながら冷や汗が沸いた。頭を上げれば視線が泳ぎ、空いている手を忙しなく動かしている。
 謝って弁解しようとした瞬間、彼はと言うと、何かを言いたげに口を少しぱくぱくとしてから、言葉を飲み込んだように、ごくんと喉を上下させた。
 そのまま落ち着かせる為か小さく呼吸を繰り返して、また視線を泳がせて。
 見目が整っていて、金髪に染めているから、堂々とした青年なのかと思えば、どうもそうでもないらしい。それどころか、少しだけ気が小さいようにも思える。それが、なんだろう。そうだ、ギャップというやつだ。可愛らしい人だな、なんて思ってしまった。
 彼の言葉がまとまるのを待っていると、どうやらまとまったようだ。
 ぎゅ、と拳を握って、真っ直ぐと此方を見やる。
「また、来ます」
 たったそれだけだ。拍子抜けした。
 ぽかん、と間の抜けた顔をしてから、小さく吹きだして、再度彼を見る。緊張して発した言葉に笑われて、ちょっと恥ずかしいと思ったらしい。少し顔が赤い。うっすら汗もかいているようだ。むくむくといたずら心が湧く。年下の男の子をからかう女はこんな気持ちなのだろうか。
「待ってます」
 俺の返事を聞いて、癖毛の頭がぶわっと上がって目線が俺を射抜いた。彼は、ほっと安堵したような表情をする。断られることが、彼の脳内分岐にはあったのかもしれない。
 それが何とも、いじらしい人だなと思ったのだ。

 *

 約束通り、彼はまたやってきた。
 それも一回だけではない。毎日彼はやってきた。
 毎度毎度また来ますと宣言し、今日と同じ時間に、と時間まで言われてしまえば、俺も無下にするには良心が痛む。毎回外で立って待っていれば、約束通りにやってきたのだった。
 彼の名は杏哉(きょうや)くん。俺より一歳年下の青年だ。
 杏哉くんは決して家には上がらずに、俺と立ち話をして帰っていく。その時間も毎回短くて、ただ挨拶をかわすだけであったり、他愛もない世間話を数分だけする程度。
 彼がやって来るのは毎回午前9時頃。どうしてこの時間なのかと問えば、夜勤明けだからと答えた。
 夜勤明けにわざわざやって来る。それじゃあ近所に住んでいるのかと、また質問をすれば、田舎感覚で言えば近所。都会感覚だとそこまで近所でもないところに住んでいる、らしい。わざわざここまでやって来るのかと思うと、行動力の高さに聊か驚いた。
「毎日夜勤なんです?」
「まあ。その方が給料も良いし」
 その気持ちは分かる。大人というものはお金がかかるものだ。生きるためには金が要る。深夜手当が出て、給料が割り増しされるのなら、多量の無理をしてでも稼ごうという彼の気持ちは、記憶が無いながらも分かるような気がした。
 だが、いくら彼が若いと言っても、連日夜勤は体調を崩さないのだろうか。それに、夜勤明けで毎日わざわざここまでやってくる。
「ここまで来るの、大変じゃないですか?」
「え? ああ、まあ……けど気にならないんで」
 少しだけ居心地が悪そうに口を尖らせて呟く。野暮なことを聞いたかもしれない。
 小さく笑いながら謝れば、彼はさらにいじけたような表情になった。
 何とも不思議な感覚だった。案内人である弥生さんとはまた違う、心地の良さ。話していると、自然と落ち着くような、そんな気分がした。
 わざわざ数分の為だけにやってくる不思議な青年。会うたびに、もう少し話したいだとか、もう少し一緒に居たいなと思う。そんな不思議な青年。
 彼は何をしたいのだろう。俺はどうしたらいいのだろう。いくつかの予想を思いつくが、どうにもその中から選べない。見間違いでなければ青年の目には熱がこもっていた。
 どうしたもんかな。一時的な気持ちかもしれないが、驚いてしまった。
 彼の必死さに困惑はしたものの、ちょっと可愛いなというのが本心だった。

「……その、この間はすみませんでした。突然、誰? とか、失礼な事を言って」
「え? ああ、いや、別に。そりゃあ知らない人に声かけられたらそうなるでしょ」
「本当に申し訳ない。……あの、頭がおかしいとか言うかもしれないんですけど、俺、記憶が無くて……」
 夢の世界だし、記憶が無いことくらい、許してもらえるだろう。そういう安直な思考の中謝ってみれば、彼は「あぁ、通りで」と首を掻いた。
「別に良いよ。アンタ、忘れっぽいし」
「ええ、ごめんなさい」
「はは、良いよ。そっちこそ、俺と会うのは嫌じゃない?」
 少しだけ眉を下げて、寂しそうな、申し訳なさそうな顔をして問う。それは当然のことだ。忘れられた、なんて、寂しいに決まっている。
 ぐ、と拳を握って、彼の目を真っ直ぐと見て。
「嫌じゃないです。君さえ良ければ、会いたいし」
「……分かった。それじゃあ、もう一つ聞いても良いか?」
「ん?」
「アンタは、記憶、思い出したい?」
 おどけた表情は消え、覚悟を決めたよう、顔には、固唾を飲んでいるような真剣な色が表れていた。
「……俺は、」
「前に、聞いたことがある。人間は自己防衛のために忘れることがあるって。だから、もしかしたらアンタもそうなのかもしれない。それでも、思い出したい?」
 この世界に現れる人々は、皆親切なのかもしれない。そして、彼は知り合い、なのかもしれない。都合が良いようにされているのかもしれないけれど、それでも、俺が望むことを、彼は許してくれるような気がした。
「……思い出したいです」
「分かった。それじゃあ、俺が協力してあげる」
 少しだけ彼の緊張の糸が解けたように、固まっていた表情が緩んだ。
 あ、花びら。
 青年はそう呟いて、俺の肩に乗っていた花びらを摘まんで取ってくれた。
 彼の反応から、俺の返答は間違っていなかったのだと、安堵した。知らずのうちに自身も緊張していたらしい。張りつめていた緊張のなかに、ちょうど風穴のように不意にゆるみが入った。